美忘録

羅列です

喪失ヶ浜の午後

 車窓に覗く景色を意味のある形象として捉えられるようになりつつある。私はドコモタワーだとか都庁だとかスクランブルスクエアだとかいった高層建築がいつの間にか平べったい公営住宅にすり替わっていることに気がついた。


 茫漠とした旅情が俺は今からどこどこに行くんだ、という確信へと凝固する一方で、ビルやネオンの織り成す猥雑な摩天楼はその影を遠くひそめていく。私はふとテーブルゲームのチェスを連想した。局面が進展するごとに私の精神は徐々に研ぎ澄まされていくのに、それと反比例するように盤上の駒は減少する。緻密なストラテジーとタクティクスが私の頭の中に組み上がる頃には、ゲームは既にチェックメイトの断崖をふらついている。私にとってチェスとはそういうゲームであり、それは今私が直面している現状に似ている気がした。なんだかとてもむず痒い。必死で捕まえた蝶々が握り拳の中で死んでいるような。

 そういえばスクランブルスクエアはどこにあるどんな建物だっただろうか。窓外に果てしなく広がる田園を見やりながら、私は北に遠く隔たった都区部の風景についてあてもない思索を広げた。しかしそれが具体的な像を結ぶことは終ぞなかった。


 藤沢駅江ノ電に乗り換えるとスニーカーがガサガサという摩擦音を立てた。サーフボードや水着に付着したまま乾燥した由比ヶ浜やら七里ヶ浜やらの砂粒が車内の床に堆積しているらしい。そのうちこの電車も何らかの浜になってしまうのかもしれない。江ノ島電鉄ヶ浜。少し語呂は悪いが新しいアピールポイントの一つにはなるだろう。私は身体にこびりついた架空の砂をポンポンと払いのけ、湘南海岸公園駅で電車を降りた。昼下がりの直射日光が明色に統一された家屋によってのびのびと反射されている。街全体が世界平和を象徴しているようだ。しかしそれは同時に、現実からかけ離れた場所にある間抜けな異界のようでもあった。視線を下げると急坂の先から懐かしいシルエットがこちらへ向かってくるのが見えた。私は小さく手を振った。


「今何してるの?」

 私は彼女にそう尋ねた。彼女の視線は窓外の太平洋にぽつんと浮かぶ江の島に向けられているようだった。

「コンビニ」

「コンビニ?」

「そう」

「それはコンビニで働いているっていうこと?」

 彼女は冷めたエスプレッソを啜ってソーサーに戻すと、溜息をついて小さく頷いた。木製の低いテーブルの上に空白が舞い降りた。彼女の視線を追うように、私も外の景色を眺めてみた。それ以外にできることもなかった。高校生くらいの集団がサッカーボールを抱えながら海の方へ駆けていく。サラリーマンが公園のベンチで昼寝をしている。サザンオールスターズだかビーチボーイズだかアジアンカンフージェネレーションだかを爆音でかけながら134をオープンカーが走っている。

 その後もとりとめもない会話が無数に湧き上がっては蒸気のように消えていった。

「……だったの?」

「まあ」

「……じゃない?」

「確かに」

「……だよね?」

「あるいは」

 私は簡易な受付ロボットみたいな受け答えばかりの彼女にいくぶん苛立ちを覚えていたのかもしれない(あるいは彼女の住むこの街そのものに)。感情は思慮のフィルターを介さぬまま剥き出しの言葉となって飛び出した。

「本題に入るけどさ、どうして君みたいに素晴らしい物書きがこんな街で、しかもコンビニなんかで働く必要がある?」


 彼女は才気溢れる小説家だった。少なくとも私と生活を共にしていた頃までは。いくつかの名誉ある文学賞を受賞していたし、自称ファンだの自称マスコミだの自称編集者だのから送られるぶ厚いラブコールが毎日のようにポストを圧迫する輝かしい時代すらあった。しかしある時を境に彼女はパタリと小説を書かなくなってしまった。そしてそれに踵を接するように我々の関係も終焉を迎えた。いや、「踵を接する」という表現は適当ではないかもしれない。どちらが先でどちらが後なのか、私にはその因果関係がわからない。彼女はある日突然、私の前から消えた。「私は海が見たい」。机の上には粗末な書き置きだけが残っていた。


 私は小説家が働くコンビニについて想像してみた。そこでは美しい言葉や思想が次々と高温の油で揚げられ、けばけばしいポップと共に什器の中で陳列させられていた。彼女にとってそれは明らかに正しくないことのように思えた。彼女は小説を書くべきだ。こんなところでコンビニの店員なんかやっている場合じゃない。

 

 しばしの沈黙を破り彼女が返答した。
「あのね、鎌倉や湘南はディズニーランドじゃないの」

 私は彼女が何を言いたいのか理解できなかった。それは先の私の質問に対する応答にはなっていないように思えた。それを察したように彼女は付け足した。

「ここには生活がある。有機的な人間が有機的な生活を送っている。何もかも表面しかないレジャーランドとは違う」

「そんなことなら知ってるよ。鎌倉も湘南も神奈川が誇る立派な大都市圏だ、間違いなく」

「何にもわかってない」

「わかってるとも」私は窓外を指差した。「あれ見て、あの島。江の島だ」

「それが何?」

「今日もあそこは観光客で溢れかえっているに違いない。それを横目に地元の元気な金髪の兄ちゃんたちが『あの都会野郎ども、牡蠣の食べ方すらなっちゃねえ』『レンタカーなんかで来やがってよ』なんてゲラゲラ談笑する。日焼けした近所の子供が自転車でやってきて芝生の上で寝てる。サッカーボールを枕にしてさ。それをタンクトップのオッサンが『早く帰れよ』なんて追い払う。カモメが鳴く。ヨットが呑気に浮かぶ。シーキャンドルが夕焼けを照り返す。それがこの街の生活だ」

 しばしの沈黙があった。行き場を失った熱を排気するように彼女が大きく溜息をついた。私はいったい何度溜息をつかれればいいのだろう。

「私ね、この前死んじまえって言われたの」

「誰に?」

「知らない。コンビニにやってくる人間がみんな胸にネームプレートでも貼っといてくれるっていうんなら話は別だけど」

「どうして君がそんなことを言われなきゃならない?」

「誰が何を考えてるかなんて私にいちいちわかるわけないでしょ。それともあなたにはこの世界がフキダシだらけのマンガにでも見えてるわけ?」

 私は何か彼女に反論することができたと思う。しかし実際にはできなかった。


 日が傾いてきた。木々の黒々とした影が剥き出しの崖に突き刺さり、オレンジ色の血が辺り一面を浸している。早く帰れ、街はそう言っているようだった。そして彼女もまた街の一部だった。私はすっと立ち上がり、バーバリーのチェスターコートを羽織った。彼女が私の方を見た。あくまで動く物体に対する動物的反射として。私は迷いに迷ってからおずおずと口を開いた。

「ここへ来るとき、チェスのことを考えていた」

「チェス?」

「電車でどこか遠くに向かうとき、俺は建造物を見るようにしている。建造物の増減っていうのは変化の指標としてきわめて有用だから」

 彼女はじっと私のほうを見ていた。壁でも眺めるみたいに。私は続けた。

「だけどなんていうのかな、そういう風景の見方っていうのは出発してからしばらく経たないとできないものなんだ。そしてできるようになった頃には旅が終わっている。チェスも同じだ。盤面が見えてくる頃にはゲームが終わっている」

 彼女はいつの間にか俯いており、私が喋り終えてもしばらくの間黙っていた。

 私は彼女の動作についていくぶん博学になっていた。思うに、そろそろ溜息でもつかれるような気がする。

「はあ」

 ほらやっぱり。

「それはあなたにとってのチェスでしょ?」彼女は暮れなずむビーチを見下ろしながら言った。

「どういうこと?」

「本物のチェスプレイヤーは常に盤面が見えているものなの。始まりから終わりまですべて。そして見えなければ容赦なく失う。当たり前のことじゃない」


 私は彼女の言葉を心の中で反芻しながら湘南新宿ラインで東京に戻った。深く考え詰めすぎたのか、気が付いた頃には新宿の摩天楼が窓外を満たしていた。私は総武線に乗り換え、東中野駅で電車を降りた。すこぶる疲弊していた。そういえば一日を通してコーヒーしか口にしていない。料理を作る気さえ起きない。私は駅前のコンビニに立ち寄って夕飯を買うことにした。

 カップ麺とサラダチキンとほうじ茶をレジへ持っていくと、禿げかけた中年の店員が心底面倒臭そうにそれらをバーコードリーダーにかけた。

「ポイントカードありますか」

 中年の店員は呪文でも唱えるように私にそう尋ねた。私は「あります」と言って財布の中を物色した。しかし、カードはどこにも見当たらなかった。私の財布のカードポケットはひょっとして四次元にでも繋がってしまったのだろうか?

「すみません、やっぱいいです」

 結局私は40秒近くもレジの前であたふたしてしまった。とっくにすべてのバーコードを読み込み終えていた中年の店員は、腐りきった生ゴミでも扱うような手つきでレジ袋を突き出した。私はしずしずとそれを受け取ると、少しばかりの罪悪感を抱えながら彼に踵を返した。

「死んじまえ」

 そのとき背後から聞こえたそれは、決して幻聴などではなかったと思う。仮にそうであったとして、聞こえたと思えたことは私にとって否定しがたい事実だった。私は自分の中で何かが崩れ去るような心境を抱えたままコンビニを後にした。

 それから私は自分が既に失ってしまったもののことを想った。それらは二度と私のもとには戻ってはこないだろう。失ったことに気がついた頃にはすべてが終わっている。思えばいつもそうだった。

「見えなければ容赦なく失う」

 誰かがそう言った。

 夕焼けの赤は既に稜線ぎりぎりまで追い詰められていた。

私をタイに連れてって

~はじめに:悲しい夏休み~

 

大学生活にも順調に斜陽が差しかかって久しかったが、そんな俺にもついに一世一代の健康大学生チャンスが舞い込んできた。

 

海外旅行

 

思えば夏休みの半分は座敷牢で日がな一日インターネットにうつつを抜かす無精の日々。

 

1日の食費を限界まで切り詰めることだけを生の目的と措定し、ただただ機械的有機物を貪り食らった。

 

来る日も来る日もSEIYUの半額弁当

 

時には半額シールが貼られるまで店内で1時間耐えたこともあった。目の前で浮浪者に弁当を強奪されたこともあった。SEIYUでの飽くなき争いの日々だけが夏休みの全てだった。

 

同大の皆さんがパリだの台湾だのを楽しんでいる一方、俺が訪れたのはせいぜい足立区や川崎市である。悲惨さを画像で比較しよう。

 

パリ。

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足立区。

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台湾。

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川崎。

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あんまりにもあんまりだ

 

後輩「じゃあタイ行きましょうよ」

俺「え、いいけど…」

 

というわけでタイに行くことになりました。

 

~0章:はやく出発したい~

 

発達異常しぐさが多分に発揮されてしまい、パスポートを取るためだけに5日連続で都庁にログインする羽目になった

 

おかげで一切の日光を浴びることなく新宿駅から東京都庁まで辿り着けるメソッドが完全に確立されてしまった。

 

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でもそんな都庁が大好き😘でかいから。

 

核戦争前日みたいなテンションだったのでフライトの12時間前から成田駅で待機。酷い。

 

これは職員専用駐車場。

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日々こんな仕打ちを受けながらも客の前では決して笑顔を絶やさないのが成田空港スタッフなのだ。

 

どこで寝ていいのか全く分からないのでとりあえずウェイティングルームでふてぶてしく仮眠。

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しかし案の定警備員に見つかってしまった。

 

空港初めてなんで」の一点張りでやり過ごそうとしたが「ダメです」と論破され汚い旅行者の吹き溜まりみたいなところに連行されてしまった。

 

その後も追い討ちのように同行する後輩たちに小馬鹿にされたりしたが、グッと涙をこらえなんとか朝を迎えることができた。

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心がないのか?

 

悲しみを乗り越えていよいよ出発だ。

 

~1章:サイケデリックランド・タイ~

 

搭乗したのはタイライオンエアーと書かれた見るからに怪しげな旅客機。墜落しても悔いが残らないように母親にLINEで遺書を残しました

 

テイクオフ。

 

機内では「そういうルールだから仕方なく」とでも言わんばかりの粗雑な機内食が振る舞われた。ハムパンとやや臭い水。無い方がマシだろ。

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いつも通りその場にいない人間の悪口で盛り上がっていると飛行機はいつの間にかタイに到着した。こんな業の深い人間たちの入国を許可してくれるタイの懐の広さに感動だ。

 

ついに異国の大地を踏みしめる瞬間である。搭乗タラップを一段降りるたびにさまざまな思い出や感慨が去来した。

 

取れないパスポート、SEIYUの半額弁当、成田空港の夜…

 

そういえば初海外だな

 

タイでよかったのかな

 

後輩1「因果さんにはタイくらいがお似合いですよ」

後輩2「タイ以外あり得ない」

 

だまれよ

 

万感の思いを胸に、タイ王国の大地に鮮やかな一歩を踏み出すーーー

 

……

 

………

 

なんか黄ばんでね…?

 

昼過ぎのドンムアン空港はなんか全体的に黄ばんでいた。

 

あとくさい

 

さて、無事に入国手続きも終わったのでまずはタクシーでホテルに向かう。

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タイはご多聞に漏れずボッタクリ文化が盛んな国であるから、搭乗するタクシーもしっかり選ばないといけないらしい。大変。

 

後輩「メーター付けてない奴とかいますからね」

 

こう見ると分かるがバンコクの街並みというのはどこかローファイなサイバーパンクを想起させる。

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攻殻機動隊パトレイバーserial experiments lainが目指したサイバーパンクはひょっとしたら東京ではなくバンコクだったのかもしれない。まぁバンコク発展の方が最近の出来事なんですけどね。

 

ガバガバ建築基準法の許した魅惑の摩天楼がそこかしこに乱立するのがバンコクという街なのである

 

途中で先輩が財布を紛失する悲しいハプニングを挟んだものの、タクシーは無事Nana駅付近のホテルに到着。無事じゃねんだよな・・・

 

しょぼくれる先輩を更なる悲劇が襲う…!

 

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先輩「何だこの景色は…

 

カーテン開けたらこれである。我々は早くもタイ王国繁栄の暗部を目の当たりにすることになってしまった。ちなみに先輩の財布は見つかりませんでした

 

悲しみを抱えながらも我々はバンコク名物の夜市に繰り出した。

 

交通手段はもちろんトゥクトゥク。タイやカンボジアでは有名な移動手段として認知されている。これもまたガバガバ道路交通法が許した魅惑の移動手段である。

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揺れるわシートベルトはないわで散々な乗り心地だが「常に死と隣接したジェットコースター」と思えばかなり楽しめる。正直一番テンション上がった。

 

しかもトゥクトゥクの中にはごく稀に爆音でEDMを撒き散らしながら走る「EDMトゥクトゥク」なるものが存在。

 

我々は計3日間の間に2回もこれに乗ることができた。正直旅行の面白さの4割くらいがこれに集約される。

 

見よこの悪趣味な見た目を…

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後輩「え…死後の世界?」

 

あまりの非現実感に思わず写真を撮ることさえ忘れてしまう。すげえ光るしすげえうるさかった。

 

ちなみに流れるEDMは全て運転手のiPhoneに入っていた違法音源。こんなところで発展途上感を出してこないでほしい。

 

とはいえなんか憎めないツラだ。頑張って生きろよ!

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夜市到着。

 

タイの夜市はとにかくデカい。

 

ここはInstagramなどでよく見る『ロット・ファイ・マーケット・シーナカリン』です。なげーな。『糞溜め』とかでいいだろこんなの。

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沖縄の国際通りにシャブを吸わせたような雰囲気がする。バンコクでも屈指に大きい市場として有名だ。

 

とはいえ腐ってもここはタイ王国。どの店も基本的に販促意欲に欠けている。通話しながら接客なんかバンコクじゃ朝飯レベルの常識らしい。

 

こういうイカニモなバラック建築が多いので構造物オタクにとっては天国この上ない。

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2階の露店なんか絶対雨とか風とかいったものの存在を一切考慮してないだろ…

 

かくのごとく次々と襲い来るカオスの波濤エキゾチシズムの洗礼…それらに対抗すべく我々も偏差値を極限まで下げることでタイ的メンタリティーに追随した。

 

カビール!!

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バカ果実酒!!

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たのし〜〜〜〜!!!!

 

タイに気取ったスノビズムは不要である。郷に入っては郷に従え、バカの国ではバカが作法なのだ

 

この日は以降も怒涛のごとく酒を飲み食らいベロンベロンのままトゥクトゥクで帰宅。酔ったついでに風俗街も探索。

 

タイは物価が安く、したがって(本当に失礼な言い方だが)女も安い。先進諸国の中年紳士はこれを狙ってわざわざ週末旅行にタイを選ぶ。

 

陰茎の脈動に誘われるまま海をも越える哀れな性欲奴隷にはこの後めくるめく性病の応酬が待ち受けているというのに…性欲は人から正常な判断力を奪うのである。

 

笑顔の汚い欧米人の横をスルスルと通り抜けるとそこはまさにパラノイアの具象。

 

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出来の悪い悪夢みたいな色彩してんな…

 

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これなんかあまりにも酷い。

 

後輩「写真撮りましょうよ!ここで撮らなきゃ一生後悔すると思います!」

 

しろよ

 

ちなみにこの晩俺がサイケデリックな悪夢にうなされたことは想像に難くない。起床とともに猛烈な吐き気に襲われた。

 

~2章:ながされて地獄寺~

 

さぁ元気出して2日目!

 

この日は「地獄寺」と呼ばれる仏教建築群のうちで最も有名な「ワット・パイローンウア」を見学。約74キロを市民バスで移動することに。

 

え…?コレ走んの?

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え…?コレ走んの?
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やめろ…もう十分だ…

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後輩「走る廃墟じゃん」

先輩「失礼が過ぎる」

 

着きました。

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どうでもいいけど農道のくせに車線が多すぎる。

 

遠路はるばる古刹(言うほど古くない)を訪れた我々を出迎えてくれたのは…

 

野犬

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野犬
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野犬しかいない…

 

もしこんな辺境でウイルスまみれの野犬に噛まれでもしたら我々はその場でお陀仏である。まさに死と隣り合わせの地獄巡り。体験型アトラクションというわけだ。

 

さて、当たり前のように固有名詞で紹介してしまったが果たして「地獄寺」とはいかなるものなのか?

 

百聞は一見にしかずということでまずは境内の写真を何枚か…

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キン肉マン消しゴムか?

 

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タイは国民の約9割が仏教徒の国。電車の優先席では高齢者・妊婦・怪我人に並んで僧侶が優先されるといった具合に仏教が日常生活に深く根ざした社会なのだ。街の至る所でオレンジ色の袈裟を羽織ったハゲを見かける。

 

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こういった社会の中においてはたとえ教典のチープな寓話だろうと重く受け止められる。その最たる例こそが地獄寺なのだ。

 

タイの教典では、徳の不足した人間は死後速やかに地獄に落とされるという。その懲罰も人それぞれで、例えば生前に姦通を犯した者は地獄で獄卒に尻を突かれながら荊の木を登り続けなければならないし、動物を虐待した者は顔が醜い動物に変化しマトモに喋ることさえできなくなってしまう

 

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こんな具合である。容赦のよの字もない。

 

日本にも地獄の寓話は多々あるが、タイの地獄思想は日本のそれを遥かに凌ぐ具体性がある。「ここまで仔細に懲罰が規定されていれば、ある程度敬虔な仏教徒は悪行を為す気さえ起こらないだろう」というのがタイ教典の本懐だと推察できる。

 

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しかし教典というのは文字が読めなければただの紙束に過ぎない。そこでタイ人は地獄思想を広く知らしめるために教典に描かれた地獄の世界を具現化させることにしたのである

 

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そしてその結晶こそが現在タイの至る所に残っている「地獄寺」なのだ。

 

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これらは単なる悪趣味の祭典ではない。民衆への警鐘あるいは訓戒としての確固たるレゾンデートルを持つのである。

 

以下印象的だった塑像の写真。

 

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10メートルはある巨大塑像。このポーズは教典における許しを乞うポーズらしいが表情に苦悶さが決定的に足りないためふざけているようにしか見えない


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昔こういうグロいクレイアニメ流行ったね


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花沢健吾作品に出てくる化け物


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ラフだね


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顔色悪い


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逆カタワ


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こいつはマジで怖い


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マクドナルド地獄寺店


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入り口で佇む獄卒

 

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地獄建築とは一切関係ない仏陀

 

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キタキタおやじ

 

あーおもろかった。終わり。

 

~3章:悪趣味!シリラート死体博物館~

 

最終日は本物のホルマリン漬け死体が大量に展示されるバンコク屈指の悪趣味博物館ことシリラート死体博物館を来訪した。

 

シャム双生児無頭症水頭症などブラックジャックでしか見たことのない難病奇病に侵された遺体の数々が展示されていたが残念ながら撮影は禁止だった。

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ちなみに解説は全てタイ語。そこはちょっと残念だった。

 

館内を巡回していると、既にここを訪れたことのある後輩が途中である異変に気付く。

 

後輩「え…性犯罪者のミイラが消えてる…

 

かつてここには見せしめのように凶悪犯のミイラが展示されていた。それこそがこの博物館随一の見どころであったと彼女は嘆いた。

 

後輩「因果さんごめんなさい…因果さん絶対喜ぶと思って楽しみにしてたんですけど…」

 

俺をなんだと思ってるんだ

 

さて性犯罪者のミイラはどこへ消えたのか。その謎を探るべく我々は学芸員らしきタイ人に真相を訪ねた。

 

我々「なんでなくなっちゃったんですかミイラ」

タイ人「Sorry, because of human right...

 

え……??

 

ひ…HUMAN RIGHT???????????

 

散々死体展示しといて????

 

今更すぎるだろ………

 

lol生える。

 

死者の魂にささやかな憐憫を捧げた後は初日と同じマーケットで初日と同じバカアルコールを大量に浴び初日と同じトゥクトゥクでホテルに戻り荷物をまとめてドンムアン空港へ。

 

後輩「だんだん偏差値下がってきたな…」

俺「元からだろ」

 

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初日こそタイのダイナミズムに圧倒され物も言えなかった俺たちだったが、最終日のタクシー車内はさながらマーケットの様相を呈していた。あまりにも運転手が不憫だ…

 

後輩「何言っても大丈夫ですよ!日本語通じないんで!」

俺「だとしてもセックスはダメだろ…」

 

空港到着。

 

しかし俺たちのタイ旅行はそう簡単に終わらなかった…!

 

~ボーナスステージ:帰らせてください~

 

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台風直撃で帰国不可(^。^)

 

仕方なくドンムアン空港で5時間待ちぼうけ。

 

後輩「これが天罰か…」

俺「信賞必罰じゃん…」

先輩「やっぱ財布ない…」

 

朝6時になりやっと飛行機が離陸。さぁ早く俺たちを日本に帰らせて

 

しかしそこはまだ地獄の一丁目に過ぎなかった

 

成田空港に到着するや否や何らかの不安を予期する我々。

 

後輩1「人が多すぎる…」

後輩2「え、電車動いてない…」

先輩「あ、そうですか…財布ありませんか…」

俺「まぁでもなんとかなるでしょ」

 

〜5時間後〜

 

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我々は完全に成田空港に閉じ込められてしまった

 

繋がらない回線、直らないインフラ、そこかしこから聞こえてくる嘆息と怒号…くぐもった絶望が孤立した要塞の中で無意味に反響していた。

 

後輩1「えーすごい!天罰ってほんとにあるんだ!

後輩2「初めて救援物資貰った〜!嬉しい!みんなで食べよ!

先輩「財布はないけど記事の依頼来たから書くわ!

 

本当に絶望すべき人間たちが一切絶望してないんですが…

 

しかもなんとこの直後に後輩の父親がマイカーを走らせ遠路はるばる成田まで迎えに来てくださった。地獄に仏。

 

後輩1「他の人たちは明日まで帰れないのかな?かわいそ〜〜

後輩2「みんなバイバ〜イ

 

正直者が馬鹿を見るとはまさにこのことである。はやく死んだ方がいい

 

車が環七通りにさしかかってくるといよいよ東京に戻ってきたなという実感とともにタイ旅行が終了したのだなという感慨がやってきた。

 

俺「なんとか無事に帰れそうだな…」

後輩「既に無事じゃないですけどね…」

 

〜おわりに:またタイ行きたい〜

 

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色々あったけど近いうちにまたタイに行きたいと思った。アジア特有の粘性の高い魅力に溢れたエキゾチックな国だ

 

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建造物はキッチュでせせこましい一方、国民性は豪放磊落。そのうえあらゆる無駄が無駄としてそのまま存在することが許される寛容さも兼ね備える。

 

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こんな光景や、

 

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こんな光景も日常茶飯事である。

 

しかし我々はまだタイの1/10000だって知らない。だからこそもっとタイを知る必要がある。というか知りたい。タイだし

 

同じアジア圏でありながらなぜここまであらゆる面で差異が生じるのか?彼らを突き動かす原資は何なのか?

 

そういう思索を向けるにはあまりにも潤沢な土壌を持つ国だ。

 

トリップサイトでタイが「中毒性の高い国!」と雑に分析されていた理由も今ならなんとなく分かる気がする。

 

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あんまり長くなりすぎても興醒めだろうから今回はこのあたりで筆を置こうと思う。

 

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ありがとうタイ王国

 

ありがとうタイ人

 

そして台風15号…お前は何?

 

※ちなみに今回の旅行でかかった総費用はホテル代や食費も全て合わせて5万円程度です。貧乏旅行部の皆さんは是非行ってください。

必然性なきVOCALOIDはVOCALOIDたりえない

映画、文学、音楽。それがどのような形態をとるにせよ、作品にはすべからく必然性が込められるべきだと私は考えています。というのも、そもそも作品という概念の定立根拠として、必然性は不可避的に存在するからです。必然性がなければ作品でないといっても過言ではないでしょう。

 

藪から棒に「必然性」なんて言われても・・・という指摘もごもっともなのではじめに例え話。ここにとある私立探偵がとある怪奇事件に挑み、順当に解決の糸口を見つけていくサスペンス小説があるとします。現場に残されたわずかな情報を頼りに、私立探偵は持ち前の智慧と正義感を用いて少しずつ犯人に近づいていく、みたいなよくある小説です。

 

しかし、もしその合間に無意味な(=必然性のない)シークエンスが挟まれていたら皆さんはどうしますか?(それはたとえば、私立探偵の好きなAV女優について何千文字ぶんもの紙幅が割かれているとか、本筋とは何のかかわりもない中年男性の生き様が仔細に考察されているとか、そういうものです)

 

たぶん多くの方がそこに何らかの意義を見出そうとするでしょう。そしてどう思索を練っても意義が見出されないことがわかればひどく当惑することでしょう。

 

レトリカルな言い方にはなりますが、投げられたボールは必ずどこかでグローブに収まらなければなりません。あるいは物語というグラウンドの内側においてはどこにも着地しないにしても、その外側に存在する誰か/何かにいつか必ず直撃しなければなりません。そうしなければ作品というゲームは成立しないからです。私立探偵の性的嗜好は事件解決の方法論に結びつかなければならないし、中年男性は何らかの形で事件に介入しなければならないのです。

 

つまり我々受け手は作品という構造物に対して、(それがアプリオリであるかアポステリオリであるかは本題から外れるため今回は言及しませんが、)無意識のうちに意義、つまり必然性を要求しているのです。(もし必然性がなければ受け手の方でそれを生み出そうとさえします。)これはあらゆる作品にパラフレーズが可能な定式でしょう。この定式の外にあり、なおかつある程度広範なコンセンサスをもって立派に作品と名指されるものなどたぶん存在しないと思います。それは意味の欠落した無意味の集積でしかありません。

 

さて、以上を踏まえたうえで、今回はVOCALOIDに対して私が抱いているある危惧についてお話ししたいと思います。

 

それはつまり上述したような必然性にかかわる問題です。「VOCALOIDである必然性」という問題です。

 

VOCALOIDというコンテンツは依然として劇的な変化を続けています。コンテンツが興隆する場としての地位を占めていたニコニコ動画は今では諸動画サイトの中のワンオブゼムに落ち着き、単なる傍流であったはずのYouTubeやビリビリ動画が日に日にドミナンスを強めています。ニコニコ動画では数万再生にとどまっている楽曲がYouTubeやビリビリ動画では何百万回も再生されるというようないわゆる露骨な逆転現象も起きています。

 

これと並行して、技巧的な面においてもVOCALOIDはめざましい進化を遂げ続けているといえます。2019年現在も定期的なライブラリアップデートが続いていることがそれを端的に示していますし、また、VOICEROID実況、「無限にホメてくれる桜乃そら」や「アカリがやってきたぞっ!」といったGYARIによるポエトリーリーディング的楽曲、あるいは傘村トータの流行なども調声技術の向上によってリリックが聞き取りやすくなったことによるところが大きいでしょう。

 

また、ポストVOCALOIDアーティストの出現も無視できない側面です。14年ごろ以降、米津玄師(彼自身はそこまで「ポストVOCALOID的」ではないと思いますが)を嚆矢に、VOCALOID的文脈をもったさまざまなアーティストがポップシーンに出現しました。ヨルシカ、ずっと真夜中でいいのに、神様、僕は気づいてしまったなんかがその好例でしょう。ハイテンポでキッチュサウンド、過度にアブストラクトあるいは過度にエモーショナルなリリックはもともとVOCALOIDに特有だった要素です。ニコニコ動画という箱庭の中で完結していたガラパゴス的コンテンツが今やメジャーシーンとインタラクティブに関わりあうまでに巨大化したのです。彼らポストVOCALOIDアーティストはいわばそのメルクマールというわけです。

 

さて、上述の通りさまざまな形態でさまざまな局面へと開かれつつあるVOCALOIDですが、果たしてこの前進が行き着く先はどこなのでしょうか。

 

活動領域が拡大し、声がクリアになり、ポップ音楽との境界が消えていく……確かにこれは不断なる変化、つまり前進です。

 

しかしよくよく考えてみてください。いつかVOCALOIDと人間の聞き分けがつかない臨界に達したとき、つまりVOCALOIDと人間の間に完全な互換性が確立されたとき、そこには果たして「VOCALOIDである意味」は存在するのでしょうか。もしそれがないのなら、それはもうVOCALOIDであるとさえいえないのではないでしょうか。必然性なきVOCALOIDVOCALOIDたりえないのではないでしょうか。そんなことを考えます。

 

VOCALOIDが好きではない知人にこう聞かれたことがあります。「それ、人間が歌うんじゃダメなの?」。

 

これは単純明快でありながら問題の中核を抉る非常に鋭い指摘だと思います。我々はこれに対して明確な理論武装をしなければいけません。そうでなければVOCALOIDが歩んできたこの10余年の軌跡は無意味の荒野で惨めに朽ち果てるのみです。VOCALOIDはいま、死という彼岸に向かって必死にオールを漕ぎ続けているのかもしれません。

 

少しだけ歴史を回顧してみましょう。

 

07年ごろの黎明期においてはVOCALOIDは萌えでパッケージされた物珍しいギークアイテムに過ぎませんでした。しかしまさにこの珍品性こそが、必然性の問題を先送りにしつつVOCALOIDというカルチャーを周知させるという芸当を可能にせしめたのです。

 

(しかし、今になって振り返ってみれば、この頃に流行した「恋するVOC@LOID」や「えれくとりっく・えんじぇぅ」といったキャラソン的楽曲は初音ミクという存在そのものに言及していたという点において後の主流的楽曲よりもむしろ「VOCALOIDである必然性」に肉薄していたかもしれません。)

 

その後、萌えキャラクター「初音ミク」を主題としない「メルト」や「celluloid」といった楽曲を通じて萌えによって糊塗された偽りの仮面が剥がされ、いよいよVOCALOIDである必然性についての問題が取り沙汰されるようになるかと思いきや、今度はVOCALOIDがインターネットを取り巻く一大ムーブメントにまで膨張し、VOCALOIDである必然性などという入り組んだ存在論に向き合わずとも、言うなれば「VOCALOIDを起用していることそのものがVOCALOIDである意義である」という詭弁的/刹那的トートロジーさえあれば十分になってしまったのです。事実、この時期はEXIT TUNESをはじめとした各種レーベルがVOCALOIDの楽曲だけを収録したアルバムを次から次へと世に送り出していました。07年発表のくちばしP「私の時間」において初音ミクが自己言及的に歌い上げた「オリコン1位も遠くないかもね」が実際にリアライズしたほどです。こういう言説が手放しに受け入れられるくらいに当時のVOCALOIDには勢いがあったわけです。

 

しかし往々にしてバブルは弾けるもの。不動産価値が急落するように、14年ごろを境にVOCALOIDの勢いはぱたりと止んでしまいました。この時期において、VOCALOIDの起用がVOCALOIDである必然性とそのままイコールで結びつくという構図が幻想であったことが白日の下に晒されてしまったという感じがあります。

 

それを如実に示すのが上述したようなポストVOCALOID的アーティストのメジャー進出でしょう。ハチ、ナブナ、バルーンetc...

 

彼らは、そう明言はしなくとも、自身が音楽という営為を続けるにあたって、VOCALOID以外の選択肢を見つけたのだと言えます。(和田たけあきや平田義久はこれを「踏み台」と呼んでいます。以下リンク)

togetter.com

natalie.mu

 

この現象はつまり、「VOCALOIDは代替可能なものである」という言明であり、VOCALOIDが当初より本源的に抱えていた「VOCALOIDである必然性」に対するひとつのアンサーなのではないかと私は考えます。彼らにとっては、VOCALOIDとは、言い方は悪いですが、数あるものの中のひとつなのです。簡単に言えば、「VOCALOIDである必然性などそもそも不要なのだ」ということです。

 

私はこの趨勢を、VOCALOIDが不断の変貌を遂げている証拠として誇らしく思う反面、「VOCALOID”を”聴くリスナー」としては何としても反駁していかなければならないと考えます。具体的に言えば、我々はVOCALOIDに対してVOCALOIDである意味をもっと付与していかなければなりません。「作り手は往々にしてVOCALOIDである必然性が必要不可欠であると考えている」と思い込むことをやめ、我々受け手の方がその必然性を創出していなければなりません。そうでなければ、日々人間の音楽との互換性を強めていく、つまり同化しつつあるVOCALOIDという音楽カルチャーを、ゆくゆくは人間の音楽と峻別できなくなります。その地平において発せられる「僕/私はVOCALOIDが好きです」という言葉は、果たして誰かを強く引きつけるだけの訴求力があるでしょうか。

 

私はこれからも胸を張って「VOCALOIDが好き」と言い続けたいです。そのためにはVOCALOIDである必然性が振り出されなければならないのです。

 

それをやるのは、他の誰でもない、そうであってほしいと願う我々一人ひとりなのではないでしょうか。

摩天楼とセックス、漕がれるべきペダル

 夜とはつまり予感である。それは不吉な重力を持った雲霧となって街全体をすっぽり覆っている。東口に出れば馬鹿騒ぎが、路地を曲がれば暴力が、グラスを傾ければセックスが自明的に存在していると誰もが思い込んでいる。しかし予感はあくまで予感であり結果ではない。馬鹿騒ぎも暴力もセックスもすべては霧の中に映し出されたホログラムに過ぎない。彼らは永久にどこにも辿り着くことができないのだ。

 

 夜霧の中を自転車であてもなく突き進むぼくもまた彼らと何も変わらない。予感の蠕動を肌で感じていても、ぼくにできるのは平坦な軌道を描きながら環状線の始点と終点を結ぶことだけなのだ。干上がった運河のような幹線道路や、獣の遠吠えのように膨らみのあるハイウェイの走行音や、街路灯の均質な明かりによって個物性を剥奪された雑居ビルは、ぼくが噛み付くことのできるだけの余地を思わせぶりにひらつかせるが、それに噛み付いたところで、あとに残るのは「噛み付いた」という主語のない間抜けな結果だけである。

 

 環状六号線の車道から望むスカイスクレイパーは、頭部に赤い暗視スコープをはめ込まれた巨兵の群れのように見え、ある種の緊迫した荘厳性を湛えている。彼らが突如として立ち上がり、東京の街を焼き尽くしたとしても、ぼくはそれほど驚かないだろう。TOHOシネマズのゴジラ像は歌舞伎町の若者をゴキブリでも殺すみたいに放射線で焼き尽くし、ドコモタワーは文字盤付近からミサイルを連射して新宿御苑を火の海に変え、コクーンタワーから羽化した斑模様のぶ厚い翅をもった蛾は毒性の鱗粉を西新宿じゅうにまき散らすのだ。ぼくは巨大機動に変形した新宿都庁に自転車ごと踏み潰されて餃子の皮みたいな死を迎える。その次の日には練馬や小岩あたりまでロードローラーで転がしたみたいに起伏のない焦土が広がっていることだろうーーー

 

 はるか向こうのその街は、ボールペンの先でつつけばそのまますべてが崩壊してしまいそうな不安定さを抱えていた。途方もないカタストロフィーを仮託するにはじゅうぶんすぎる街だったのだ。

 

 ぼくは真夜中に自転車を漕ぎながら、街やそれを取り巻くオブジェクトについて、こうやってあれこれ思索を巡らせる。しかしそれは言うなればオーガズムを迎えないセックスのようなものである。行為開始から絶頂寸前までのシークエンスがフィルムのように切り取られ、夜というまな板の上で無限に切り刻まれ続ける。切断面が増えるごとにシークエンスのディテールは少しずつ鮮明性を増すが、だからといって何か特別なことが起きるわけではない。たとえセックスの間にカーティス・フラーの『ファイブ・スポット・アフター・ダーク』が流れていたことや、彼女の左わき腹に3つの連なった小さなホクロがあったことを思い出したとして、それらの事実がぼくをどこかへ連れ出してくれるわけではない。あの摩天楼が街を焼こうが踏み潰そうがぼくにできることは何ひとつないし、だいいちそれは予感が見せる幻影に過ぎないのだ。

 

 ぼくはきっと何事もなく落合を越え、池袋を越え、そのまま中山道に合流する。本郷あたりで脚の血液が全て鉛に変化したような鈍痛がやってきて、松屋かどこかで軽く腹を満たしたあと、大久保通り伝いに中野の自宅へ戻る。それ以外は何も起きないのだ。火の海の中を死に物狂いで逃げ惑う必要も、もう来ない明日を涙ながらに憂う必要もない。しかしそれでもぼくはひたすらにペダルを漕ぎ続ける。さまざまな街を回転軸に、無意味な円を描き続ける。

 

 ぼくは予感が予感であることを知っていてもなお、予感が予感であることをうまく自分の中に落とし込むことができないままでいるような気がする。理論としては理解していても、そこに感情が付随しないのだ。思うに、輪郭的な自覚に中身を注いでくれるものは、時間か、あるいは圧倒的な実感覚だけなのだろう。ぼくはまだ夜を知らなすぎるのだ。時間的にも空間的にも。だからぼくはペダルに足をかける。そこに漕がれるべきペダルがある限り、ぼくはそれを漕がなければならないのだ。

 

 両足がバターになるまでペダルを漕ぎ、あらゆる予感を予感として殺し尽くしたとき、ぼくは誰かとセックスをするだろう。カーティス・フラーの『ファイブ・スポット・アフター・ダーク』が流れる暗い密室で、ホクロの数を数えながら、互いの汗をぬぐうのだ。

 

 もちろんそこにはオーガズムが存在している。

都心で撮れたヘンな写真まとめ

「金はないが活力だけはある」。そんな都内在住の貧乏大学生御用達の趣味といえばやはり「散歩」だろう。この日本国において散歩は全国民に付与された平等の権利だ。いくら歩こうが区境を跨ごうが一銭たりとも徴収されることはない。

 

ゆりかもめは高い」?「北総線はボッタクリ」?

 

だまれ。歩け。チャリを漕げ。

 

そんなわけで花より団子より無料という言葉に目がない私はすっかり徒歩とチャリによる「散歩」の魔性に取り憑かれてしまった。暇さえあれば東奔西走、都内のあらゆる場所に特に用もなく足を運んだ。最近では主要道路の交差点に対してセンシュアルな興奮を覚えはじめ、いよいよキモオタク的本性が現前しつつある。はやく殺してくれ。

 

さて、あらゆる多様性が「東京だから」という大義名分のもとで容認されているこの街においては、散歩を幾度となく続けていると時折不可思議な現象・物体に遭遇することがある。また、幾度となくシャッターを切っているといい感じにシュールな写真が撮れたりする。

 

今回のブログでは、そんなイイ感じにヘンな写真を手元にあるだけ紹介していこうと思う。まとめブログとか「#SHIBUYAMELTDOWN」を見るようなメンタリティで読んで欲しい。

 

 

 

1.東京メトロ銀座線浅草駅の地下にある猥雑空間

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さすが下町(笑)といったところか。自分が観光名所であるという自負など微塵も感じない嫌悪施設が立ち並ぶ(写真上)。中でも中華系露店の目の前にアダルトビデオコーナーが堂々と構える様子は都内屈指と言っても過言ではない治安の悪さだ(写真下)。

 

ちなみにこの色の狂った中華そばは300円程度で食べられる。隅田川みたいな味がするのでチャキチャキの江戸っ子の皆様は是非ご賞味あれ、と言いたいところだが、先日同所を訪れてみたら、この露店は跡形もなく消えてしまっていた。栄枯盛衰という感じでよろしいですね。

 

2.燃えるセンター街

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2017年。年末くらいクラブにでも行って鬱屈とした日常を忘れようと渋谷を訪れたときのことである。衆目の先にごうごうと燃えていたのはセンター街雑居ビルの2階に入っていた鉄板焼き店だった。

 

この店は生来より肉を客の前でダイナミックに焼き上げるパフォーマンスを行っていたというが、だったら内装を木造にするなよと思う。渋谷らしくていいが。

 

3.足立区の本当に気持ち悪い公園

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こんなところで遊びたいか?と正気を疑いたくなる公園。正式名称は「下河原公園」らしい。写真左の気持ち悪い緑色の生き物は夏場になると口から水をゲロゲロと吐瀉するらしい。勘弁してくれよ。

 

こういうSAN値ガリガリ削ってくるモニュメントが平然と存在できるのが足立区クオリティである。ちなみに最寄駅は「女子高生コンクリ事件」の舞台となった綾瀬駅。くわばらくわばら。

 

4.オタクの軽犯罪in秋葉原

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コミケの時期になるたびに渋谷ハロウィンとコミケの治安を比較しては溜飲を下げているオタクだが、秋葉原のカードショップを散策しているとこういう写真が頻繁に撮れる。「オタクはマナーがいい」というのは幻想だったわけである。

 

どうでもいいがカードショップ以外のフロアが軒並みいかがわしいリフレ店なのが面白い。「私たちはたとえどんなに汚い汗まみれの肉団子でも分け隔てなく受け入れて差し上げますわ」というリフレ店の涙ぐましい平等精神を感じる。

 

5.西新宿に現れたバンクシーの作品

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都庁に描かれたバンクシーの作品と思わしき落書きが、東京を統べるタヌキおばさんの手によって保護された事件が記憶に新しいが、私が思うに本当のバンクシー作品は西新宿一丁目の新都心歩道橋に描かれたこの「ちんちん」なのではないかと思う。

 

ちんちん」という言葉の力強さ、アナーキズム、反骨精神、皮肉性はまさに往年のバンクシー作品にも通底する。小池百合子はあんな小汚いネズミの絵より早くこっちを保護しろ

 

6.スミダリバー・ファイアーワークス核戦争

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私の絶望的な撮影センスが生み出した2017年夏の東京大空襲の様子。粋とか風情といった感情がここまで喚起されない写真も少ないのではないか。

 

普段は「下町」とか「傾奇者」などといって文京区のボケ老人の嘲笑の的となっている墨田区民もこの日ばかりは鼻が高い。軒先でバーベキューしたりベランダでワイングラスを傾けたりと、花火目当てにやってきた余所者に対し墨田区民アピールを欠かさない。

 

7.市ヶ谷の謎空間

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市ヶ谷の住宅街を歩いていると突如現れる虚無空間。こういうのを見ているとワンルームごときに月々何万も払っているのがバカらしくなってよくない。しかもご丁寧に鉄柵を巡らせてホームレス対策までバッチリである。有事の際は汎用人型決戦兵器とか出てくるんだろうか。

 

8.三ノ輪橋商店街の虚しい看板

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なぜこういう全く意味のない看板を置くのか理解に苦しむが、南千住という場所が場所なだけ仕方がない気もする。色々苦慮してるんでしょうね、住民も。

 

余談だがこの商店街は都内屈指の臭さを誇る。「くっさ(笑)」みたいな比喩ではなく本当に臭い。この商店街では日常的に馬糞を投擲する祭りでも開催されているのかと疑いたくなる臭さだ。原因が特定できないのがさらに恐ろしい。

 

9.正しいストリートカルチャー

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サブカル大学生タウンこと下北沢にほど近い大原に位置する電柱とそれに張り付けられたSupremeのステッカー。メルカリにでも出せば1000円近く稼げるシロモノをわざわざこんな微妙なところに貼ってしまうストリートキッズの心意気に脱帽。

 

電柱付近のログハウス風の店舗で髭をたたえた中年男性数人が酒盛りしていたが、十中八九奴らの犯行だろう。街を汚すんじゃない

 

10.西新井駅アシンメトリー金玉像f:id:nikoniko390831:20190502061425j:plain

またもや足立区による凶行である。どう見ても奇形の金玉にしか見えない銅像を駅前に堂々と展示してしまうあたりに足立区民のモラルの低さが如実に表れている。こんなものを見て育ったらロクな大人にならない。

 

極めつけは金玉の境目にうち捨てられたマクドナルドのゴミ。きっとこの辺の若者がポイっと捨てていったんでしょうね。こんな街に育てられてしまった若者のささやかな反逆なのかもしれない。

 

11.大森駅前の標語看板

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俺は嫌いだから壊すねという気持ちしかない。それが嫌なら抵抗しな。拳で。

 

12.谷中霊園前の人権剥奪トイレ

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いや、花壇置く前にやることあるだろ

 

谷中霊園と言えば都内でもそこそこ大きめの霊園。日中はそこそこ人通りもあるというのに何だこの淫乱仕様は。「人間いつかは墓の下なんだから少しばかりの恥は気にしなくてもいいんだぜ」というポジティブなメッセージ性すら感じる。

 

12.川崎駅前でいともたやすく行われるえげつない行為

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衝撃の価格破壊が断行されているらしいが具体的に何が価格破壊されているのかは判然としない。3つ並んだ「自転車の押し歩きにご協力ください」という看板が何とも言えないアトモスフィアを現前させている。で結局ここは何屋なんだよ

 

やはり川崎という土地には破壊の2文字がよく似合う。特に京急線沿いなんかは一触即発のデンジャラスな緊張感が常に張りつめている。そういう危険を未然に回避するためにも自転車は押し歩くべきなんだろう。

 

13.欺瞞だらけの南新宿駅

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え・・・廃駅・・・?

 

新宿と名の付く駅はたくさんある。新宿駅西新宿駅西武新宿駅新宿三丁目駅・・・どれも新宿の名を背負うにふさわしい巨大駅ばかりだが、そんな中に一人だけ落ちこぼれがいる。それこそがこの南新宿駅だ。

 

小田急の各駅停車しか停車しないうえに数分歩けば新宿駅や代々木駅があるためわざわざこの駅を利用する者はいない。都外のマイナー駅を抑え小田急線の乗降者数ワーストランキングで常に首位をキープし続ける最弱駅である

 

さらに恐ろしいのが「南新宿」という名前を関していながら住所が渋谷区である点だ。新宿と渋谷という巨大都市に対し同時に汚名を着せるアクロバティックさには感服せざるを得ない。

 

14.八王子螺旋階段

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螺旋階段があること自体は全然構わない。ないよりはあった方が便利だから。

 

しかしこの階段の行き着く先はどう見てもただの草むらである。何のエンジョイメントもない、マジの草むらである。八王子の子供はこういう剥き出しの自然の中でも何らかの享楽を見出すのだろうか。人間、前世でどんな悪行を重ねても八王子にだけは転生したくないものだ。

 

15.クソ警官

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日暮里付近で執拗に追いかけ回してきた悪徳警官。はやく天罰が下りますように

 

16.白鳥公園に興奮する後輩の白鳥くん

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自分と同じ名前を持つ公園を発見し思わず笑みをこぼす白鳥くん。石神井公園の高級住宅地に住んでいながら葛飾区の公園に親近感を覚えるとは何事だ。上級国民の風上にも置けない。辰巳団地を見て「俺はこんなとこに住んでる貧乏人とは違う」と豪語していた頃に戻ってくれ。

 

17.つげ義春っぽい安宿

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一泊1200円という値段に一瞬ひっくり返るも外装を見て納得。これが俺たちの荒川区だ!

 

写真左の鳥居は一体何なのか。全部くぐったら冥界に連れて行かれるのだろうか。冥界はいいとしても生前最後に訪れた場所が三ノ輪というのはあまりにも成仏できない。

 

この写真を撮影した数分後、冬場にもかかわらずサンダルを履いた臭いオッサンに「だァオラ殺すぞ!」とすごまれた。彼が一刻も早く成仏できますように

 

18.衛生管理のヤバい薬局

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あーらどなたのワンちゃんかしら?と思ったらこの店の番犬らしい。山谷はこういうローカルな温かさのある素敵な街ですね。衛生管理?そんなもん山谷の辞書にゃ載ってねぇっぺ!何より一番ヤバいのはここが「薬局」だということなんですよね。

 

店主曰く月一でトリマーを呼んでいるとのことだがそれにしてはあまりにも小汚くないか。そういう毛色か、アハハ。

 

19.港区の肩書きが欲しい貧乏人の皆様へ

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国道246号線青山通り外苑前駅から徒歩5分。港区最後のフロンティアはそこにあった。こんなボロっちい団地が依然として港区のど真ん中に構えている時代錯誤。内部は完全にアノニマス化されておりその全貌を窺い知ることはできない。そして向こうからは六本木の高層マンション群がこちらを嫌味っぽく睥睨している。

 

こんな極まった光景が見られるの場所は都内でもここを置いて他にない。私が撮影に向かった際は住人と思しき老爺が庭先で作物の違法栽培に勤しんでいた。上京してよかった。心からそう思えた瞬間であった。

 

20.#EBISUMELTDOWN

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夜が深まるにつれこういう全てがどうでもよくなっちゃったオジサマが増えていくわけだが、驚くべきは撮影時刻が20時だったということだ。20時でもデキあがっちゃう街、それがエビスビールのお膝元こと恵比寿なのだ。「足もと注意」という床の表示が何とも虚しい。

 

よほど楽しいことがあったのか、はたまた真逆か。そんな杞憂をわだかまらせたまま、山手線は品川を目指す。

 

21.中央区のキモいホテル

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正方形が歪に連なったようなレトロフューチャーも甚だしい中央区随一のメルクマールこと中銀カプセルタワービル。竣工は1972年。現在では老朽化やらアスベストやらの問題で取り壊すか否かの瀬戸際に立たされている。

 

正方形一つ一つがカプセルホテルになっているらしいが、正直出っ張っている区画にはあんまり泊まりたくない

 

22.誰も笑ってないニコニコ商店街

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やはり足立区というのは何かおぞましいものを自然と引き寄せる力みたいなものを有しているんじゃないか。

 

「ニコニコ」という擬態語の意味を疑いたくなるような寂寞とした商店街。夜中は散歩している人間すらいないため「ニコニコ」という動作の主体が消失し、圧倒的な虚無だけがそこに残るというかそもそも自販機くらいしかロクな購買施設がない状態で商店街を名乗ること自体狂っている

 

23.即落ち2コマ

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よし原安全安心な街」から「ひったくりに注意!!」への流れはもはや芸術の域。風俗街が安全安心を標榜することの難しさが端的に表れたいい写真だ。そもそも本当に安全安心な街は自分から声高に安全安心であることを主張する必要がない。悲しい逆説だ。

 

ちなみに奥の方に見える店は言わずもがな全て風俗店。ハイヒールにファーコートのイカニモなお姉さんと5回くらいすれ違った。お勤めご苦労様です。

 

24.大岡山カルト自販機

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家の壁や電柱が電波な落書きをされるパターンは見慣れても、自販機が同様の被害に遭っているところはそうそうお目にかかれないだろう。そんな可哀想な自販機が環七通りの大岡山交差点付近にあった。

 

しかし「いろはす90円」とか「大幅値下げ」とか、どの落書きもギリギリあり得そうな内容のため、どこまでがフェイクニュースなのか判別しがたい。

 

自身の胸中を吐露するでも、メチャクチャに破壊するでもなく、ただ単に利用者を疑心暗鬼に陥れるだけの悪質極まりないいたずらである。ちなみにコカコーラピーチ味を買いました。

 

 

 

散歩の醍醐味とはやはりこういった地図で確認できない面白さの発見にあると思う。これからももっとしょうもない写真を死ぬほど収めていきたい所存だ。それではまたどこかで。

10選+αで語る2018年ボカロシーン

あけましておめでとうございます、因果です。2019年は洗剤を切らさないよう頑張っていくことを目標にしました。あとはちゃんと単位を取る。

 

さて、2018年のボカロシーンも語るに尽きぬ激動の一年だったと言って過言ではないでしょう。そこで私の10選や話題曲を挙げながら2018年という一年を私の解釈の下で振り返ってみることにします。

 

あらゆる方面から色んなものを引用してくるスタイルは私が敬愛してやまないしろばなさん(@banaxie)氏リスペクトです。氏のブログを貼っておきますので当記事とも併せて是非読んで頂きたい。


shirobanasankaku.hatenablog.com

 

それ単体として存在しているように見える楽曲たちが体系的な知識というフィルターを通すことによって実は裏でつながっていたことが判明する、そういうカタルシスを心ゆくまで享受できる「気持ちイイ」ブログです。

 

さてそろそろ本題に入りましょう。

 

 

 

①頑張るしかないらしい/ぷにまる

ぷにまるの破壊的応援歌。はじめは軽快でポップな曲調だが、それがノイズやビープ音などによって徐々に歪められていき、終いには「だからファイト私!頑張るしかないらしい」という呪文めいた鼓舞をただ延々と繰り返す狂気空間が現前する一曲。

 

「行き過ぎた鼓舞がかえって自分を苦しめる」というのはアイロニーの手法としてはかなり使い古されたものであるが、ぷにまるはその先に潜む更なる社会の暗部を突く。

 

平成ももう終わるが、依然として息の詰まるような社会問題が日々取り沙汰されている。2020年東京オリンピックにおける人材の買い叩きや、先日発表された「ブラック企業大賞」で三菱電機が見事大賞を受賞したニュースなどは読者諸君の記憶にも新しいだろう。

 

このような大規模構造の中においては個人、つまり「私」はあまりにも無力である。独力では悪徳企業を崩壊に追い込むことも、男女平等を達成することもできないのだ。労働組合や#MeToo運動の存在こそがまさにそれを決定的に裏付けている。

 

だからこそこの無力で矮小な「私」は今日も社会の要請に従って仕方なく頑張らざるを得ない。そこに決して本心からの自発性はないのだ。「頑張りたくはないけど、でも頑張らないといけないから頑張っている」のである。そしてこの重層的にねじれた心理を、面従腹背の反骨精神を、うまく一言で言い表したものこそが「頑張るしかないらしい」というフレーズなのだ。

 

変わるべきは社会なのか、それとも「私」たちなのか。『頑張るしかないらしい』はそんなフェータルな問いかけをリスナーに迫る。

 

②堂島交差点/夜行梅

ボカロ界隈にも徐々にヒップホップカルチャーが根付いてきたことは動画投稿数の推移やしま(@shima_10shi)氏主催「Stripeless」発の『MIKUHOP』のシリーズ化等からも分かるだろう。

 

ヒップホップを体系的なカルチャーとして成立させるものとして「サンプリング」という文化が挙げられるが、ボカロにおいてはその参照点が外部、つまり「非ボカロ曲」にある場合が多く、「ミックホップ(ボカロにおけるヒップホップ楽曲の総称)」をシリアルに語ることはきわめて困難だった。

 

しかし遂に出た。参照点がボカロ曲に存在するボカロ曲が。それこそがこの『堂島交差点』。

 

参照曲はDixie Flatline黎明期の名曲『東雲スクランブル』。選曲が渋すぎる。

 

ちなみにDixieの投稿者コメント曰く「モデルは渋谷スクランブル交差点」、つまり東雲スクランブル=渋谷スクランブル交差点とのこと。次に『堂島交差点』について調べてみると、これはどうも大阪梅田にある同名の交差点のことらしい。東京渋谷と大阪梅田。オタクはこういうさりげない対比に弱いのである。

かなり大胆な大ネタで、初音ミクが「uhh baby」と思いきり歌唱しているサビ冒頭部分がほぼそのまま使用されている。聴けば分かるがマジでそのまんまである。

 

今年7月には4年ぶりのアップデートとなる「VOCALOID5」が発売されDTM界隈が大いに沸き上がったが、これによって初音ミク発売当初より幾度となく議論の俎上に上げられ続けてきた「初音ミクは楽器か?歌姫か?」論争も再興した。

mitchie-m.com

『堂島交差点』におけるこの大胆なサンプリングは、後者(初音ミクは歌姫である)を否定することなく、なおかつ前者(初音ミクは楽器である)の可能性を押し広げる宥和的アンサーであったと私は考える。

 

私は常々、音声合成技術の飛躍的な進歩がいつかボカロと人間の境界を完全に破壊し、その結果ボカロはかえって衰退するのではないか、という一抹の危惧を抱いている。そもそもこのサンプリングを面白いと感覚できるのも私がボカロの不完全性に魅せられているゆえのことだろうし。

 

ボカロはこれから果たしてどこへ向かっていくのか。これからもあくまでボカロとして振る舞い続けるのか、あるいは境界線を越えて人間になるのか、はたまたそれ以外か。この曲を聴きながらその行く末を見届けたい。

 

③ANIMAる/梅とら

音圧とセンシュアルなリリックに定評がある梅とらだが、今回はアレンジ、調声、MIXにギガPを迎えている。特に調声の面ではボカロの電子音的な特徴は残しつつも人間のようなブレス音を再現するなど、ギガPの「ボカロならでは」を追求する姿勢が多分に窺える。そしてそれは2か月後に投稿される『劣等上等』として結実する。

また、梅とらのリリックセンスも年々上昇の一途を見せており、はじめは露悪的だったエロスが豊穣な語彙と言い回しの中に沈潜するようになったため幾分耳触りのよいものとなった。内包するエロスの量そのものに変化はないが、これならお母さんの前で流してもギリギリ気まずくならずに済みそうだ。

 

思想家の九鬼周造は主著『「いき」の構造』において「媚態」とはゼノンの「アキレスと亀のパラドクス」にみられるような、「達せそうで達せない状態が開示する価値」のことであると述べているが、昨今の梅とらのリリックメイキングはまさに媚態的と称賛するに相応しいものなのではないか。

「いき」の構造 他二篇 (岩波文庫)

「いき」の構造 他二篇 (岩波文庫)

 

 昨今、世間ではあいみょん、ボカロ界隈に限ってはカンザキイオリなどの、シンガーソングライター的側面の強いアーティストが衆目を集めている。これらのアーティストに共通するのは、彼らが剥き出しの感情をそのまま歌に込めている、ということである。

 

剥き出しの感情というのは往々にして剥き出しの言葉、つまり「強い言葉」によって表現されるものだが、この「強い言葉」というのは、それ以外の「弱い言葉(便宜上こう表現する)」の存在との相対上にのみその価値が表れる(逆もまた然りだ)。つまり、「強い言葉」、あるいは「弱い言葉」というのは、それに対応する言葉の存在によって規定されている。

 

これは、例えば少年漫画で主人公が毎回最終奥義を使って敵を倒していたら次第にそれを最終奥義と感じなくなってくるのと同じだ。緩急がなさすぎると我々はどこにパンチラインがあるのか分からなくなってしまうのである。あいみょんでは『貴方解剖純愛歌』、カンザキイオリでは『命に嫌われている』がその好例だろう。

 

しかしあいみょんやカンザキイオリの人気ぶりからも窺えるように、こういった「剥き出しであること」を礼賛する層はむしろマジョリティーである。だからこそ私は、そういった流れに逆らい、ただ媚態の境地を目指し己を研鑽する梅とらの姿勢を全面的に支持していきたい。

 

④りんご/目赤くなる

ふつう、「夢」というと何か輪郭が欠如したアブストラクトな情景が連想されがちである。事実、「夢」でシソーラス検索をかけると案の定「幻覚」あるいは「まやかし」といった語句がヒットする。このことからも「夢」というものの漠然性はある程度人口に膾炙しているといえるだろう。

 

しかしこの等式は意外にも絶対ではない。というのも、「夢」というものは実際には部分的に薄気味の悪いほどのディテールを持つことがあるからである。精神科医カール・ユングは自著『宗教学辞典』において、「夢には意識的洞察よりも優れた知慧がある」のだと述べた。つまり、我々が普段はたらかせている意識の方が、意識が捉えた情景よりもむしろアブストラクトだというのだ。

 

確かに「その支離滅裂さから夢と判断することはできても細部にリアリティーがありすぎて現実と見紛ってしまいそうになった」、などという経験はいくらでもある。この前など夢の中で用を足したのを現実と勘違いし危うく人間としての尊厳を失うところだった。一見すると途方もなく思えるユングの主張だが、実経験に照らし合わせてみればそれなりの妥当性を持つのではないか。

 

氏の『りんご』もまさにユング的「夢」のような世界観を持つ不思議な一曲だ。音像は終始ぼやけ、初音ミクの声もふにゃふにゃとしているが、時折その微睡みを破壊するように歪んだ不協和音が差し込まれる。しかもそこに何の法則性・連続性もない。夢という現象の本義をここまでリアルに追体験できる音楽というのはそうそうお目にかかれるものではないだろう。

 

⑤キャンディーポイズン/RUBY-CATMAN

今年度で一番「騙された!」と舌を巻いた一曲。

 

イントロからBメロまではいわゆる「ボカロっぽい」と形容(あるいは揶揄!)されるようなハイテンポかつキッチュな歌詞のノせ方が続く。そのコテコテさといったらサビでも同様の流れが続くことを予期させるに十分なほどである。

 

しかし意外なことに、サビはそれに反し一切小手先のテクニックがない王道の4つ打ちテクノポップが展開される。予期を完全に裏切られ、ここでリスナーは初めて「やられた!」と気づくわけだ。「こういう曲は往々にしてこういう展開を辿る」といった具合に、VOCALOID楽曲の文脈をよく理解し、自身の中でそれを体系化している者であればあるほど、この「外し」はフェータルに刺さる。いわば「メタ・ヘヴィーリスナー」な一曲なのである。

 

さらに驚くべきはRUBY-CATMANがこれらを意図的にやっているかもしれないということである。それを裏付けるのがアウトロのスキャットパート。百聞は一聴にしかずということで実際に聴いて頂ければ理解いただけると思うが、メッッッチャクチャ『ネトゲ廃人シュプレヒコール』の間奏に似ている。

ネトゲ廃人シュプレヒコール』といえばボカロ黎明期〜全盛期(千本桜期)の時代の中で熱狂的な支持を受けた伝説入り(100万再生超え)楽曲のひとつであり、古参ファンにとってはこの曲が思い出深い者も多い。

 

それを半ばサンプリング的に2018年の自曲の中に組み込むというのは「私は過去の蓄積の上に自身を花開かせている」という氏の意思表明に他ならないのではないか。「メタ・ヘヴィーリスナー」などという芸当が可能なのも、過去の文脈への精密なリサーチがあってこそのものなのだと推測できる。ボカロ慣れしているからこそ聴きたい一曲だ。

 

⑥鬼/Jille.Starz

 例えば、有名な資産家が「世の中金じゃない」と言っていたら、高卒の労働者が「学歴なんか何の役にも立たない」と言っていたら、あなたはどう思うだろうか。私なら「お前が言うな」とでも罵言を飛ばすだろうが、こればかりは本当に人それぞれである。私のように立腹する者もあれば「あなたこそそれを言うことのできる立場だ!」と逆に感激する者もあるだろう。しかしどちらにせよ通底するのは「行為者のバックグラウンドが考慮される」という点である。そして受け手が「行為」と「行為者のバックグラウンド」があまりにも食い違うと認識した場合、その「行為」は受け手の生活の中において「耳障りなノイズ」でしかなくなってしまうのだ。当時中学生という若さで残忍な連続殺傷事件を起こした、通称「少年A」が出所後に自伝を出版した際に「犯罪者が偉そうに高説を垂れるな」という苛烈な世論に晒されたことなどが良い例だろう。

 

この無意識的なバイアスを自分の中から排除することは非常に困難であるが、これを軽減してくれる濾過装置はある程度存在する。音楽におけるそれが「ボーカロイド」だ。ボカロにはオタクが作り上げたかりそめの設定(例えば初音ミクならネギが好きとか一人称が「僕」とか)は点在するが、正史と呼ぶべき普遍的なバックグラウンドは存在しない。この無機質さこそがボカロを濾過装置たらしめる最大の要因である。バックグラウンドがないということは、上記したような「~~のくせに」という対人間的な感情が喚起されないということであり、つまり、人間が歌っていたらなんかムカつくリリックも、ボカロが歌えば何とも思わずに済む可能性があるということである。

 

『鬼』はボカロのこういった可能性がこの上なく有効活用されたヒップホップナンバーだ。「上を見るよりもまず鏡/それより大事なのは中身/真似じゃねえんだよ Not WANNABE/Jille.’s Wonder RAP 既に新たなる SCENE」などという歌詞は人間が歌おうものなら暑っ苦しくてかなわないが、バックグラウンドを持たないGUMIならその暑苦しさが幾分軽減される。Jille本人もそのシステムを理解しているからこそ、やや踏み込んだ過激な表現を敢えて曲中に取り入れているのではないか。

 

また、『鬼』はGUMIの輪郭あるハキハキとした発音も相まって、ライムが本当に気持ち良い。「LもRもギターギター/そんなサウンド飽きた飽きたー」あたりは殊に「i」の発音が際立つGUMIだからこそ映えるフレーズだろう。Taskの『キドアイラク』でもそうだったが、ラップ楽曲におけるGUMIの可能性は計り知れないと思う。2019年はJille.Starzを旗振り役にGUMI×ラップがもっと流行ってほしい。マジで。ガチで。

 

⑦サイコ/松傘

『エイリアン・エイリアン・エイリアン』や『ミックホップのはらわた』などで知られるボカロヒップホップシーンの雄こと松傘のTrapナンバー。曲名の元ネタはもちろん鬼才アルフレッド・ヒッチコックの代表作『サイコ(1960)』。

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作中ではシャワーを浴びていたヒロインが突然何者かの襲撃に遭遇し命を落とすが、リリックはその際の彼女の心情を代弁するものだろう。「誰か来て」「殺さないで」というあまりにもなフレーズが事の切迫さを物語っている。

 

しかしリリックの緊迫性に反してトラックはトロピカルかつピースフル。よもやこの中で一人の女性の命が奪われていようとは微塵も想像もできない。「どれほど悪辣な事件が起きようとそんなことは差し置いて世界は回り続ける」という世の中の無情がアイロニカルに、かつセンス良く叙述された珠玉の一曲だ。

 

⑧Behind The Moon/イナバの楽団

Future Bassっぽいシンセサイザーの使い方がそこはかとない宇宙感・未来感を想起させる2STEP。とりあえずカッコだけつけて「2STEP」とはカテゴライズしたもののそれの仔細な理由が説明できないのでまだまだ勉強不足だなという気持ち。AviciiやZeddの楽曲に代表されるようなド派手な展開からは一歩引いたチルさがありながらも聴く者を自身のグルーヴの中に飲み込んでいくダイナミズムを持っており、気付いたらブログを執筆しながら首を縦に振っている始末である。クラブで舞ったらすごい楽しいんじゃないだろうか。

 

彼や春野や有機酸もそうだが、ここ数年で、いわゆる、メジャーシーンからは少し外れた傍流的な音楽を作るクリエイターを受け入れる素地が出来上がり、それが実際にニコニコ動画という土俵において再生数という形で表れているという事実に、私は驚愕しながらも満悦している。

 

いち動画サイトというクローズドな空間にもかかわらずこうも多様な価値観が支持されるということは、クリエイターやユーザーが多少なり外部に自身の価値基準の参照点を持っているということであると私は考える。つまりそういった無数の参照点が集うニコニコ動画のボカロカテゴリーというのは、言うなればカルチャーが持つ重厚な歴史を一挙に学ぶことができる最高の教材なのではないかということだ。

 

ボーカロイドというミクロを覗くだけで、同時に音楽全般というマクロをも獲得できうるのである。実際に私はボーカロイドを足掛かりに様々の音楽に触れるようになったし、ボーカロイドによってあらゆる音楽に対する許容力を高めた。もしかすると今現在ボカロネイティブと揶揄交じりに呼ばれている層の方がバイアスなく色々な音楽に向き合えるポテンシャルを秘めているかもしれない。

 

ただし「ボカロのみに安住する」という一見尊大な意思表明に見える怠慢を続けている限り、これはどこまでいっても「可能性」でしかない。何かを語るリスナーであろうとするならば、参照点そのものに肉薄するくらいの最低限の努力はしたいものである。自戒も込めて。

 

⑨00/Puhyuneco

正直Puhyunecoについては去年散々語ったのでもうこれ以上何も言いたくないんですが、それでも今年もやってくれやがったので取り上げざるを得なくなってしまった。

 

nikoniko390831.hatenablog.com

 言うなればPuhyunecoはボーカロイドにおける存在的危うさそのものである。「ボーカロイドとは何か」という根源的な命題に対して、誰しもが口ごもり、遠回りし、終いには何も言い得ずに飲み込んできたという無力感の歴史の集積が彼なのだ。しかしこれはむしろ僥倖でさえある。なぜなら、この無力感がなければこの才能は生まれてこなかっただろうから。これほどまでに皮肉な逆説が他にあるだろうか。ただ無味恬淡と、しかしそれは「感情がない」と形容するよりかは「何かに覆われていて感情が見えない」とするほうがしっくりくるような危うい様子でリリックをなぞるPuhyunecoの初音ミクは、他のどんなに調教された初音ミクよりもアクチュアルだ。宗教における根本体験のように、私はこの時はじめて、初音ミクに出会ったのである。

 

”死んだ後で きみが好きなんて

伝えても遅い だから

わたしは透明な 翼になろうか

翼になろうか”

 

⑩日暮らし/キツヅエ

2018年の個人的最優秀賞である。ボカロフォークはまだまだカルティベイトされていないジャンルだと思うのでこの曲を機に流行ってほしい。マジで。

 

夏場、窓の桟に座り込んで夕間暮れを眺めていると感傷のひとつやふたつ思い浮かんでしまうのが人間というものである。それは本当に瑣末なことなのだけれど、じわじわと西の空を焼くオレンジと、そこにぽつんと響くひぐらしの独唱に絆されて気付けば涙が頬を伝っている…。

 

キツヅエが秀逸なのはその言語感覚である。はっぴいえんど吉田拓郎台風クラブがそうだったように、キツヅエは日常のことばのみで情景を巧みに表現している。そこには回りくどいレトリックも晦渋難解な語句も一切ない。日常のことばによる暖かな原風景のみがある。

 

"笑えない言葉が ちいさな日々の隙間で

ずっと消えないでいて わざと埃を払ったよ

誰もいない街角に もういいよ がこだまして

かくれ場所は知っているような気がして"

 

また、実写のMVもこの曲の叙情性をさらに高めるものとして格別の価値を発揮している。場所は京都?らしい。行ってみたいな。

 

そういえば去年は実写MVもアツかった気がする。平田義久、cat nap、アメリカ民謡研究会、青屋夏生、Guiano、*Lunaといった名だたるボカロPの実写MVをランキングで幾度となく見かけた。2007年末ごろからボカロの萌えキャラクターという属性が薄れ、アイドルポップ以外の楽曲が流行るようになったのと同様に、2018年は「ボーカロイド」という記号さえ消すことで、「ボーカロイド」というある種のスティグマが閉ざしていた扉を開けようという試みがなされていたように感じる。

 

 

 

さて、これでやっと私の2018年は晴れて幕を閉じることができるわけです。とはいえもう既に2019年の幕が上がってしまっているので私も急いでその壇上へと駆け上がることにしましょう。

 

それでは皆様、今年度もよきボカロライフを!

ブログ書いてないブログ/ゲロ吐きました

全然ブログ書いてない。


恐ろしいくらい書いてない。


「nikoniko390831さん、そろそろ○○(記事名)を書いてから一年が経ちます」という通知がたくさん来て怖くなっちゃった。去年はいっぱい書いてたんだなと思った。


年末は今年度のボカロ10選についての記事とか書くので暇な人は読んでください。


今日は本当に書くことがないので一昨日すごいいっぱいゲロを吐いたことについていやらしいくらい詳しく書きます。


22時ごろ。バイトとサークルの作業を終え空腹に耐えかねた私はラーメン二郎新宿小滝橋通り店に行って小ラーメンのニンニクアブラを食べた。久しぶりに食べたがやはりここはブタがホロホロしており胃や舌への殺意が少ない。口が臭いと思ったのでミンティアの一番辛いやつを食べて帰宅。


23時ごろ。ラインで通話しながら溜まった作業を片付ける。このくらいから胃に違和感を覚えはじめる。通話相手に「大丈夫?」と心配されたので元気いっぱい「ちんぽ」と答える。


0時ごろ。寮の友人と一緒に共同風呂に向かう。廊下に揚げ物の匂いが充満しており入寮以来一番強い殺意を覚える。胃の重さに足をよろつかせながらもなんとか湯船に浸かる。熱湯に使っている間だけは痛みが和らいだ。しかし湯船を出ると途端に体調が悪くなったため友人に「金は払うから吐き気止めを買って来てほしい」とだけ伝言を残し即座に自室に戻る。


1時ごろ。死を覚悟。走馬灯が回り小学生の時にトイレを破壊した記憶や川べりの意思を全部川に落とした思い出が去来する。記憶の濁流をアレゴリーするかのように胃の最奥から汚物のストリームがノックアップしてくるのを感じ、トイレに走る。しかし走り過ぎると途中で吐きそうだったため数回立ち止まりながらトイレに駆け込む。


便器に顔を突っ込むと案の定喉のあたりで待機していた胃の内容物が一挙に溢れ出した。すげえ、これがゲロか。俺の好きな漫画は大体可愛い女の子がゲロを吐くが、ゲロってこんなに苦しいんだなと申し訳ない気持ちになった。吐き終わったゲロを見るとそこには数時間前私が注文したラーメンがその形のままで広がっており、この瞬間、3階トイレ2号室はラーメン二郎新宿小滝橋通り店になった。食べ物はもっとよく噛んで食べよう。


1時半ごろ。お使いを頼んでいた友人が吐き気止めを買ってくる。もうおせーよとは言えないので「ありがとう」とだけ返事をし、一応服用した。粉薬は苦いからやだね。


2時ごろ。苦しみながらも就寝。


3時ごろ。突然目が覚める。と同時に猛烈な吐き気。これだから粉薬はッ!即トイレ、&ゲロ。1日に2回も吐くのはすごい珍しい。思わず吐いたゲロを1分間くらい凝視しました。


4時ごろ。寝る。


翌朝。頭が痛い。


昼。無為に耐えきれずデヴィッドリンチのDUNE砂の惑星を見る。つまらなすぎるし体もだるいので寝る。


夜。ゼリーとバナナを食べた後でバファリンを飲む。全部治る。


〜おわり〜


みんなもゲロや食べ過ぎには気をつけよう。