美忘録

羅列です

今年印象に残った映画10本

押井守は最も映画に心酔していたころ、年間で1000本もの映画を見ていたらしい。とにかく本数をこなすことでレヴィ=ストロースよろしくそこに遍在する「構造」を看取し、それを自身の作劇にも生かしていたという。中でも氏は吸血鬼やフランケンシュタインが霧の中を怪しげに徘徊するような古き良きホラー映画が大のお気に入りで、そういえば『ぶらどらぶ』では『マタンゴ』とか『吸血鬼ゴケミドロ』みたいなカルトホラーを礼節も節操もなくパロディしまくっていた覚えがある。

 

さて、俺も氏の顰に倣って今年見た映画の本数を数えてみたわけだが、結果は約450本。・・・やっぱ押井守って異常じゃないすか?確かに俺はテレンス・フィッシャーの『吸血鬼ドラキュラ』なんかを見てもちっとも面白いと思えなかったし、それはつまりまだまだ俺は映画を見る素養が出来上がっとらんということなのかもしれない。とはいえ俺は何の因果か通算で1400本ほどの映画を見てきてしまったわけだし、語りへの欲望は日に日に蓄積していくばかりなので、今年見たオモシロ映画を発表するくらいの越権は許されるんじゃないか、許してほしい、許してください、という気持ちでこの1年で見た映画の中から印象に残った作品を10本ほどを感想付きで発表します。年末年始が暇で暇でたまらないという方は参考にしてみてください。たぶんだいたいU-NEXTにあります。なかったら渋谷のTSUTAYAにGO!

 

 

①阪元裕吾『ベイビーわるきゅーれ』

脱力系バイオレンスというジャンルはコーエン兄弟『ファーゴ』やタランティーノパルプ・フィクション』という偉大な先達が多く意外にも難関なのだが、それらに引けを取らない傑作だった。「殺し屋の女子高生」などといういかにもタランティーノ的な2人組(ちさと、まひろ)がこの映画の主人公なのだが、「女子高生」という表象が持つお決まりのイメージを押し返すパワーがあった。

 

彼女たちの標的はおしなべて屈強な男たちだが、彼女たちはまるでタイムカードを切るように易々と引き金を引く。男たちの必死の命乞いもガン無視。その横で他愛もない雑談に花を咲かせる。彼女たちにとって人を殺すことはその程度の意味しか持たない。後半になると本物のヤクザや喧嘩のプロといった錚々たるメンツがこぞって彼女たちの前に立ちはだかるのだが、昭和から連綿と続く仁義の魂も平成の内閉的なストイシズムがもたらす生々しい暴力性も、彼女たちの前では等しく価値がない。お前らの時代は終わったんだよ!とでも言わんばかりに二つの銃口が景気よく火を噴く。

 

幕間に挟まる雑談もまた素晴らしい。「野原ひろしの格言で説教してくる奴ウザい」「ジョジョ知らないのにいちいちジョジョのセリフで返事すんな」「バイト落ちた」「香水つけすぎ」等々。この他愛のなさ、まさにファミレスで耳に入ってくる女子高生の会話そのものだ。『デス・プルーフ』の前半部の会話劇みたいな。しかし彼女たちが死ぬか生きるかの危険な稼業に身を置いていることを踏まえれば、これらの雑談が彼女たちにとっていかに痛切でかけがえのないものであるかが伺える。

 

それにつけても巧いのは彼女たちの言葉遣いの塩梅だ。シニシズムアレゴリーを基調とした冷めた物言いはまさにZ世代そのものといった感じだが、それが単なる形態模写に留まっていない。たとえばちょっとでも時代遅れな言い回しを誰かがすれば「それまだ使う人いるんだ笑」という彼女たちの容赦ないツッコミが入る。要するに彼女たちは自分が時代の最先端なのだという堂々たる自信を持ったうえで発話をしている。現代/現在の言葉遣いを取り入れようとしておかしな空転が生じている作品が山ほどある中で、最先端の心づもりをかなり精密に汲んでいる作品だなと感心した。

 

二人の服装に関しても文句ナシだ。外交性の高いちさとはショート丈の英字スウェット、オーバーサイズカーディガン、ベロアワイドパンツ、キルティングジャケット、converseといったTHE・現代JKといったスタイルで、一方内向的なまひろは「忘れらんねえよ」のスウェット、ゴシックなバンドT、暗色系デニム、絵文字の総柄ロンT、ジップアップパーカー、スポーツ系ナイロンジャケット、VANSといった所謂ボーイッシュオタクスタイル。両者ともにTikTokからそのまま飛び出してきたかのような出立ちだ。何がいいって出てくる服がみんなQoo10やらSHEINやらで揃いそうなところだ。一式予算5000円。

 

中盤にはメイド喫茶でバイトを始めたちさとが、奨学金で大学に通うメイドの先輩をしきりに「貧乏」と形容するシーンがある。しかし2人の関係は悪化するどころかむしろ親密なものとなる。Z世代にとってもはや貧困は隠すべきスティグマなどではなく、一定の確率で付与されるバッドステータス程度の認識になってしまっていることの証左だろう。序盤のちさととまひろの雑談シーンでも「増税が悪い」「社会が悪い」というやりとりがあったが、実のところここはけっこう本質的なシーンなのではないかと思う。「失われた30年」を全身に浴び続けてきたZ世代にとって、社会とは基本的に憎むべき敵なのだ。敵、という表現は大袈裟かもしれないが、少なくとも味方ではない、とはいえる。

 

事実、ちさともまひろも近縁の人間関係については深く頭を悩ませることはあるものの、それ以外のものに関してはほとんど関心さえ寄せない。内輪には徹底的に優しく、外部には徹底的に冷たく、という極端な情緒配分。

 

そもそもちさととまひろはどうして殺し屋などという危険な仕事をしているのだろうか。まひろは自分のことを「社会不適合者」と嘲ったが、裏を返せばそれは、彼女のような人間を受け入れる素地が日本に存在しないということなのではないか。落伍者たちの最後のセーフティネットとしての「殺し屋」。もし「殺し屋」という設定が何かのアレゴリーだとすれば、それはキャバクラやソープといった風俗業のことを指すのかもしれない。風俗業もまた、高給と自由の代わりに自身の身体的安全を差し出すという点では殺し屋と大差がない。

 

最終決戦前、ちさととまひろは食べようとしていたショートケーキを冷蔵庫の中にしまう。「この戦いが終わったら…」というお決まりの約束を交わして決戦に繰り出すのだ。生きるか死ぬかの戦いを乗り越えるための願掛けアイテムがたかだか数百円のショートケーキというのはあまりにも物悲しい。思えばちさととまひろは殺し屋稼業で潤沢な資金を得ているはずなのに、彼女たちの食べるものは軒並み貧相だ。具の少ないおでん、硬そうなフランスパン、300円の団子、何かの煮物など…バブル以降少しずつ日本を蝕み続けている貧困は、今や精神の領域にまで入り込んでいるのかもしれない。したがって二人はたかだか数百円のショートケーキに自分のたちの命運を賭けてしまえるのだ。

 

そうして彼女たちは欺瞞と不条理に満ちた戦地に向かう。まあなんとかなるだろ、という持ち前の軽いメンタルをママチャリのカゴに搭載して。そこにはオプティミズムというよりはむしろ諦観のようなものを感じる。そうでも思い込んでいなければやっていられないような不安が彼女たちの目の前にあるかのようだ。

 

殺し屋稼業は確かに割がいい。しかしそれがいつまで続くかはわからない。任務途中で死ぬかもしれないし、会社が倒産するかもしれない。そうなったらいよいよおしまいだ。だから彼女たちは笑う、軽視する、冗談を飛ばす。正気でい続けるために。

 

現代社会の下層に生じた歪みを、怒りと悲しみによって直接抉り出すのではなく、あくまでシニカルな笑いによって逆説的に提示しているという点では中島哲也嫌われ松子の一生』を彷彿とさせる。私はこういう作品がとても好きだ。ひとしきり笑ったあとでじわじわと滲み出してくるシリアスはすごい効く。

 

木下惠介『破れ太鼓』

家族の不条理を戯画的に描いた映画といえば川島雄三『しとやかな獣』や森田芳光家族ゲーム』などが挙げられるが、本作はそれらの先駆け的な作品だ。…などと目算を立てながら見ていたのだが、それにしてはどうにも話が軽い。家父長制主義的な成金オヤジとそれに隷属する家族と、西洋的な男女平等のもとで誰もが自由を謳歌する清貧家族の鮮やかすぎる対比。モノクロじゃなければ胸焼け必至なくらいわかりやすい二項対立に一時は失笑が浮かびかけもした。しかし終盤数十分の展開は凄まじかった。

 

家族みんなに愛想を尽かされたオヤジが唯一家に残った息子に向かって愚痴をこぼす。すると息子は「人間はどこまでも孤独なものです」と言う。それじゃあ家族に意味はないのかとオヤジが問うと、息子は「だけどやっぱり家族は家族。だからこそ一番自由な関係じゃなきゃ」とオヤジを諭す。

 

血縁は単に医学的なものであり、家族などという単位はしょせん共同幻想に過ぎない(思えば小津安二郎も自作で近代日本の家族形態に内在する温かみと限界性を同時に指摘していた)。言ってしまえば誰も彼もが等しく他人なのだ。けれどそういうニヒリズムの行き着き先は断絶だ。

 

このニヒリズムは実のところ家族神話への盲目的執着とも紙一重だ。オヤジは北海道の未開拓地で誰の力も借りることなく一財を成したという過去を持つがゆえに、つまり人間が本来的に孤独であることを誰よりも強く知っているがゆえに、妻子が自分のもとを去っていくことを過度に恐れる。そこで家父長制主義や暴力を振りかざすことで家族の結合を維持しようと躍起になってしまう。

 

しかし息子はオヤジのそうした極端な生き方に疑義を唱える。彼は全き孤独とも暴力的結合とも異なる中間域が、曖昧で両義的な領域があるのだと言う。そしてそこにこそ家族のありうべき姿があるのではないのかと。

 

面白いのはここでオヤジが「ハッ」と反省するにもかかわらず、行動は以前のままなところ。彼は出奔を謝罪する女中に対して「そうだ。悪いことをしたらすぐ改めなさい」と諭すのだけど、いや、それお前完全にブーメランじゃん!!!

 

でもそこにはある種の不器用な愛おしさ、憎めなさがある。今はダメでもいつかこの人は立ち直れるだろうという予感がある。「反省」を描くことにおいて重要なのは、その場でドラスティックに思想を転換させることではない。再生の可能性を予示することだ。

 

ラストのオルゴールのシーンはとりわけ印象深い。妻子との和解が成立し、長男坊の興したオルゴール製造所には、福音のように数多のオルゴールの音が鳴り響く。それは家族が再び一つになったことを示すようだ。しかしその音色は美しいというよりはむしろ不協和音に近い。

 

家族離散→家族再生という戯画にも程がある戯画は、オルゴールの不気味な音色によってほんのりと憂いを帯びる。オヤジの親子愛は本物なのか?はたまたしょせんその場限りの気まぐれに過ぎないのか?一抹の疑念を孕んだオルゴールの旋律は「完」の一文字によってあえなく封印される。

 

木下惠介作品はやっぱり終盤で一挙に畳みかけてくるから油断ならない。たとえば戦意高揚映画として製作された『陸軍』では、ラストシーンで出征する息子を「バンザイ」も唱和しないで一心不乱に追いかける母親の姿が描かれる。また『二十四の瞳』では、平和から戦争への激動の18年間を過ごした女教師を、18年前と同じスタート地点に再配置することで疑似的ループを演出することで、平和への希望を謳い上げると同時に、再び戦争の惨禍が訪れるかもしれないという懸念をも同時に暗示した。

 

黒澤や小津や溝口の海外評価が高い一方で木下がその名前さえ知られていないというのは嘆くべきことだと思う。山中貞雄清水宏川島雄三あたりと一緒にぜひとも再評価の波が来てほしい。

 

テオ・アンゲロプロスこうのとり、たちずさんで

大きな川が映し出され、カメラが静止する。永遠のような間があり、向こう岸の土手の稜線から無数の黒点が湧いてくる。黒装束に身を包んだ村人と花婿だ。すると此岸からも人々が。こちらには白装束の花嫁がいる。彼らは川越しに結婚式を執り行う。川=国境を隔てた危険な儀式。花婿と花嫁は今にも越境の禁忌に手を触れそうになる。しかし一発の銃声が鳴り響き、それまで結婚を祝賀していた人々は蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていく。カメラはまだじっと川を捉えている。しばらくして花婿と花嫁が恐る恐る現れ、土手から川べりへと降りていく。それから川を隔てて向かい合い、互いの愛を確かめ合うように同じ動きをする。すると花嫁はふと踵を返し、泣き暮れながら走り去る。

 

何かを誰かが撮るという行為には多かれ少なかれ恣意性が伴う。撮るべき対象ははじめからそこにあったのではなく、誰かがそこに意図的に配置したものである。それゆえ映像には作り手個人の好悪やイデオロギーが否応なしに反映される。そしてその出力が一定のラインを超過したとき、作品はプロパガンダに堕する。しかし、かといって偶然を無作為に羅列してみたところで、そこに現代アート的な批評性はあるかもしれないが、結局のところ不意打ちにしかなりえない。

 

アンゲロプロスもまた何かをカメラに収める映像作家である以上、恣意性の呪いから完全に脱却することはできない(というか世界中のどこを見渡してもそんな作家はいない)。しかし彼の場合、限界まで判断を留保する。カメラを固定したまま、あるいは動いているのかいないのかわからない速度で微動させながら、沈黙を貫き、貫き、なお貫く。そして終いには映し出された人物や風景のほうにその歴史の蓄積や矛盾を吐き出させてしまう。

 

土手の向こうから黒い群衆が現れるシーンはその好例だ。彼は旧ユーゴ圏とギリシャに跨がる移民の問題について、自分(本作でいえば彼の分身たるギリシャ人のテレビディレクター、次作『ユリシーズの瞳』でいえば映画監督のA)の口から何事かを語ろうとはしない。彼らはひたすら待ち続ける。待ち続けることによって映像に語らせる。そういう撮り方・見せ方が非常に上手い。語るのではなく、語らせる。寓話的で超自然的な演出が多いにもかかわらず、そこにプロパガンダじみた政治性を感じないのは、彼の徹底して他動的な撮影スタイルゆえだろう。

 

本作が製作された1991年といえば、セルビアクロアチアの民族対立を主旋律としたユーゴスラビア紛争が幕を開けた年だ。「民族自決」を錦の御旗に血で血を洗う凄惨な戦闘が連邦各地で巻き起こっていた。本作の舞台となるギリシャの小さな町(通称「待合室」)はユーゴスラビアの諸共和国とも北端を接しており、イラン人やクルド人といった中東人のみならず、ユーゴ圏からの難民も多く暮らしていた。それゆえ「待合室」にはただならぬ民族的緊張が漂っている。それだけではない。東欧諸国の不安定な情勢は国境線を侵犯不可の壁に変え、それによって人々は分断を余儀なくされることさえままある。あの花嫁と花婿のように。

 

ここに立ち現れてくるのは「一歩踏み出せば異国か死」しかない「国境」の不条理だ。すぐ近くに戦争や死の恐怖が迫ってきているというのに、あるいは川を挟んだ向こう側に最愛の人が待っているというのに、なぜ彼らはそこで立ち止まっていなければならないのか。思えば前作『シテール島への船出』においても、国籍を持たぬがゆえに上陸を許されず、ロシア行きの船が来るまでの間を川に浮かんだ橋の上で過ごす老人の姿が描かれていた。

 

さて、国境とは何であるのか。ナショナリズムの輪郭線である、とひとまずは言っておく。殊に互いの民族主義が激しくぶつかり合っていた東欧周辺においては、国境の持つ意味はなおさら大きい。それは「我々」と「敵」を分かつ絶対的審級なのだ。他国とじかに領土を接していない日本のそれとは比較にならない。またこの強固な「我々」と「敵」の意識は、国家のみならず、共同体、友人、パートナーといった具合に下層へ下層へと浸透していき、終いには自分自身が「敵」であるという倒錯に辿り着いてしまう。本作の元大物政治家がその好例だ。しかしアンゲロプロスは「国境」がもたらすそうした悲劇を乗り超える術を懸命に模索し続ける。

 

ラストの電柱工事シーンはその一つの実践だ。電柱とそれに登る工事夫を捉えたカメラは徐々にズームアウトしていくが、電線はどこまでも果てしなく伸びている。おそらくそれは画面を越え、視界を越え、国境を越え、どこまでも伸びていって世界を一つに接続するのだろう…

 

本作に込めた意図をそのように語りながら「まあ、一人のロマンチストの戯言だよ」とはにかむアンゲロプロスを見て、マジでいい監督だな、と改めて思った。

 

東欧から遠く離れた島国において彼の作品が見られるというのは僥倖というほかない。蓮實重彦も「まさか入ってくるとは・・・」ってビビってたし。マジでありがとう、池澤夏樹池澤夏樹=個人編集シリーズいっぱい買います!!

 

④ディミアン・チャゼル『ラ・ラ・ランド

冒頭6分にもわたる息継ぎなしのロングショット、茶目っ気あるアイリスアウト、『カサブランカ』、『理由なき反抗』、しつこいくらいデカい"THE END"の文字、そして陳腐なサクセスストーリー。すべてはハリウッドという空間に蓄積した栄華の遺骸だ。

 

かつて『雨に唄えば』はサイレントとトーキーの相剋をテクニカラーのギラギラした色彩の中で高らかに歌い上げた。そこへは無声から有声へ、さらに無色から有色へと飛躍的に進歩を遂げる映画芸術と、それらを次から次へと世に送り出す「夢の工場」ハリウッドへの絶大な信頼と期待があった。それは赤狩り事件やベトナム戦争を経ていくぶんか色褪せかけたこともあったが、90年代を迎える頃には元のように夢と希望の溢れるハリウッド映画が復権し、全世界の映画館を笑いと興奮と感動で満たした。

 

しかしそんなものは所詮くだらないまやかしにすぎない、と正面切ってハリウッドに唾を吐きつけたのがアメリカ映画の異端児ロバート・アルトマンだ。彼の『ザ・プレイヤー』にはハリウッドという空間そのものへの辛辣な呪詛が込められていた。オーソン・ウェルズ黒い罠』やヒッチコック『ロープ』を明らかな参照項とした冒頭の長回しシーンは、そうした無害で再利用可能な撮影技法や物語に終始することで目先のカネや名声を得ようとするハリウッドの浅ましさに対する自己言及的な非難だ。ハリウッドなどというものはもうとっくに死んでいて、今じゃ資本主義に汚染された巨大なガラクタをコピー&ペーストで増産する虚無空間に成り果てているのだとアルトマンは苦笑する。

 

さて、ようやく『ラ・ラ・ランド』。本作もまた『ザ・プレイヤー』同様、6分にもわたる冗長な長回しで幕を開ける。この時点で本作は自分自身がハリウッド映画であると、すなわち既に息絶えた文芸であるという自覚を備えている。そもそもミュージカルという語りの手法からして懐古趣味もいいところだし、セブのジャズ趣味や数々の名作古典映画のくだりも、本作が既に亡きハリウッドへの郷愁と憧憬に彩られていることを示している。思えばマジックアワーの空と海を背景にセブとミアがタップダンスを舞う一連のシーンもやけに背景とのCG合成が杜撰だったが、あれもひょっとするとCG黎明期(それこそヒッチコックの時代)の映画に捧げたささやかなオマージュだったのかもしれない。

 

こうして懐古モードに浸りながら、物語もまた古き良きハリウッド映画の顰に倣って陳腐なサクセスストーリーへと突き進んでいく。セブもミアも、長きにわたる苦節を経て(しかし具体的な経緯は描かれない)、最終的には自分たちの夢を叶える。セブはジャズバーの経営者に、ミアはハリウッドスターに。

 

しかしロバート・アルトマンが20年も前に指摘したように、また今では誰もが気づいているように、そういう「アメリカン・ドリーム」なハリウッドのモードは完全に死んでしまった。フランク・キャプラのバカみたいな喜劇映画みたいに、キス一つですべてが清算され、誰もがハッピーエンドを迎えることはもうできない。何かを手に入れるなら、その代わりに何かを手放す必要がある。それがポスト・ハリウッド時代の映画的定石だ。ゆえに本作は愛を捨てざるを得なかった。陳腐なサクセスストーリーの代償として、セブとミアの愛は必然的に失われた。

 

ジャズバーで偶然再会したセブとミアが空想するifの世界線は、そのままハリウッドへの追悼と見做すことができる。美しかったハリウッド。かつてハンフリー・ボガート紫煙をくゆらせ、ジェームズ・ディーンが感傷的な涙を浮かべたあのハリウッド。それらはハリボテめいた幻燈の中に浮かび上がるものの、やがて儚く消えていく。全てが消え去ったあとで画面上に現れる"THE END"の文字はことさら悲痛さを帯びている。こんなふうにしてどれだけ忠実にあの日のハリウッドをなぞったところで、あの頃のような興奮と感動は既に失われてしまっている。いや、あるいはそんなものははじめからなかったのかもしれない。何にせよ今更どうしようもない。

 

しかし、果たしてハリウッドはいったい何度殺されれば本当に死ぬのだろう。アメリカン・ニューシネマが殺し、ロバート・アルトマンが殺し、ディミアン・チャゼルが殺したハリウッドは、その内実を決定的に失いながらも、今なおゾンビのように映画市場の上辺を彷徨い続けている。ただ最近ではアメリカ国内でもA24とかブラムハウスあたりの独立系スタジオが頑張っているので、彼らには是非とも「最後の一押し」を頑張ってもらいたい。さよなら、さよならハリウッド

 

宇田鋼之介ONE PIECE THE MOVIE デッドエンドの冒険』

ワンピース映画というと『STRONG WORLD』から連なる本編補完的な大作シリーズばかりが持て囃されがちではあるけれど、個人的には本作が一番面白いと思う。大冒険の裏でいくつもの人間関係やサスペンスが胎動し、それらがルフィと怨敵の最後の大一番において一挙にカタルシスを迎えるという原作のダイナミズムを余すことなく映像に落とし込めていた。しかもこれでオリジナル脚本なのだから驚く。

 

オリジナルキャラクターであるシュライヤの服装が『死亡遊戯』のブルース・リーそのものすぎて笑う。戦闘スタイルは言うまでもなくジャッキー・チェンの軽快なカンフーアクションが範型だし。イスを使ったりチェーンをよじ登ったりと、とにかくものすごい作画コストがかかっていた。ただ、そういったスタイルが彼のパーソナリティのどこに生かされているのかは最後までよくわからなかったが。

 

さて、本作もそれまでのワンピース映画と同じように仲間の重要さや命のかけがえのなさなどが説かれるのだが、本作以前(『ONE PIECE』『ねじまき島の冒険』『珍獣島のチョッパー王国』)までのような子供騙しの単純な勧善懲悪劇とは一味違う。

 

ルフィは上述のような「仲間・命を大切にしろ!」というヒューマニズムをしばしば開陳するものの、そこには常に適度な余地がある。言い換えれば教条性がない。ルフィは仲間や命の大切さを説く一方で人を殴るし暴言を吐く。要するに自分のやりたいようにやっているだけ。しかしだからこそルフィの説くヒューマニズムには妙な真正さがある。こいつはルールとか法律とかいった厳密で厳格な審級に基づいてそういうことを言ってるんじゃなくて、マジでそう思ってるから言ってるんだな、という納得。

 

しかしルフィの「やりたいようにやる」という奔放さは、時として悪しき方向に舵を切ることもある。本作のラスボスであるガスパーデは邪悪なやり方で「やりたいようにやる」を実践し続けてきた、ある意味でルフィの鏡像的な人物だ。ルフィの「自由主義」を手放しに全肯定しない本作の脚本のバランス感覚は見事なものだ。しかもガスパーデはそれまでの歴代ラスボスの負の側面を煮詰めたような男でもある。クロコダイルのような能力(アメアメの実)、アーロンのような狡猾さ(か弱い老爺に労働を強いる)、そして首領クリークのような卑劣さ。それらがガスパーデという単一の悪意と化してルフィを襲撃する。麦わら帽子を破くところなんかはバギーそのものだったし。

 

本作ではルフィ以外の船員にさしたる戦闘シーンがない。しかしルフィとガスパーデの一騎打ちをつぶさに見ていくと、そこには船員たちの手助けの痕跡がちらほらと窺える。ガスパーデを倒すことができたのも、どう考えたってサンジの料理人知識とアシストのおかげだ。

 

ルフィはアーロンパーク編で「おれは(仲間に)助けてもらわないと生きていけない自信がある」と言ったが、まさにこの「仲間がいることに対する意識の有無」こそが同じ「自由主義」者のルフィとガスパーデを大きく分かつ。ルフィは基本的に自分のやりたいようにやるけれど、その根底には少しだけ他者への考慮がある。そのあたりの曖昧さがルフィのいいところですよねやっぱり。

 

北野武TAKESHIS’

北野武という監督は、監督である前にビートたけしというお笑い芸人である。お笑い芸人は社会や大衆の固定観念を基点にズレや反転といった差異を生み出す。そしてそれが笑いという現象に結実する。要するにお笑い芸人は常に社会や大衆を裏切り続けなければいけない。社会や大衆を常に裏切り続けたいという熱意が人をお笑い芸人という職種へと向かわせる、と言い換えてもいいかもしれない。

 

だからたとえそいつが何かの弾みで映画を撮ることになったとしても、さらに金獅子賞を受賞することになったとしても、はたまた興行収入30億を叩き出すことになったとしても、そうした地位や評価に安住することは許されないし当の本人が許さない。安住は笑いから最も遠い概念だから。

 

北野は演芸場やテレビの雛壇のみならず、映画というフィールドにおいても常に観客を裏切り続けることに腐心した。『その男、凶暴につき。』では深作欣二が血気盛んな雰囲気で撮り上げるはずだった脚本を内面の欠落した人間同士が無意味な殺戮を繰り広げるサイコホラーに仕立て上げた。『みんな〜やってるか!』ではそれまで築き上げてきたアート志向を一切合切かなぐり捨て、露悪と下ネタにまみれたナンセンスコメディを好き勝手展開した。そして本作の直前に撮られた『座頭市』では、「座頭市勝新太郎」あるいは「映画監督・北野武=金獅子賞を獲った芸術映画家」という定式を破壊すべく、北野本人が金髪の盲目剣士となって派手なアクション活劇を演じた。

 

この『座頭市』は思いのほか大衆に受け、北野作品で最も興行収入の高い作品となった。北野がかつて批評家筋に向かって「ちったぁ興行収入に影響するようなこと言えねーのか!」と苦言を呈していたことからもわかるように、本作のヒットは本来であれば喜ばしいことである…はずなのだが、ヘソ曲がりの北野はこんなわかりやすいアクション活劇がわかりやすく流行ってしまう日本の映画シーンに辟易する。

 

そこから3作にわたって北野の作家的自意識をめぐる難解で奇矯な芸術3部作が幕を開けるわけだが、本作はその第1作目にあたる。

 

物語らしい物語はなく、売れない役者志望の北野(以後金髪たけし)が現実と虚妄の境界線を幾度となく切り裂きながら自意識の無限回廊をあてどなく突き進んでいく。本作では各登場人物がそれぞれもう一人別の役を演じており、しっかり見ていないと誰が誰なのかわからなくなる。

 

ゆえに当然、本作を見た多くの人間が困惑したし、それまでは一貫して北野作品を称賛してきたヨーロッパの映画シーンもこれには閉口せざるを得なかった。いちいちエビデンスを挙げるまでもなく、このサイトでの本作の評価の低さが端的にそれを示している。カンヌでこれが上映され終えた瞬間なんか面白おかしくてたまらなかったに違いない。

 

とはいえ北野がたったそれだけのためにわざわざこんな妙ちくりんな構造の映画を撮ったとは思えない。じゃあ結局この映画は何なんだ?というと、それは北野武のきわめて個人的な戦いの軌跡なのではないかと思う。

 

北野武は東京の薄汚い下町に生まれ、父親はしがないペンキ職人だったという。しかし高校〜大学時代に新宿界隈に出入りしていたところ、ひょんなことからお笑い芸人になり、あれよあれよという間にお茶の間の顔、あるいは日本を代表する大富豪へとのし上がっていった。さながらアメリカン・ドリーム。

 

しかし北野はそこに実力以外の要素が多分に混入していたことを虚心に認める。もしあのとき新宿界隈にいなかったら、もしあのときお笑い芸人にならなかったら、そうした無数の偶然が重ならなかったなら、もともとが貧乏暮らしの自分に光明が差し込んでくることは未来永劫なかったかもしれない、という。当時既に売れっ子だったにもかかわらず「夢は捨てたと言わないで 他にあてなき二人なのに」などと売れない芸人の哀愁と感傷をアクチュアルに歌い上げる「浅草キッド」を作詞したことからもそのことは窺える。

 

ゆえに本作の金髪たけしは、ありうべき世界線の北野本人であるといえる。金髪たけしとは、もしかしたら50や60になっても小汚い和室のワンルームで孤独に生活を送る社会的弱者に落ちぶれていたかもしれない、という北野のオブセッション受肉体なのだ。

 

天運によってたまたま成功できただけかもしれない、という北野の疑念は、金髪たけしのような反-自分的な存在を生み出すのみならず、現在の自分自身をも侵犯する。本作には金髪たけしとは別に、現実世界の北野本人として劇中に売れっ子タレントの黒髪たけしが登場するのだが、彼の存在は映画の進行とともに次第に希薄になっていき、最後には金髪たけしと見分けがつかなくなる。

 

ここへきて「天運によってたまたま成功できただけかもしれない」という疑念は、より実存的な深みに落ち込んでいる。要するに、金持ちとか貧乏とか運が良いとか悪いとか、そんなのは結局のところ周縁的なものでしかなく、本当に重要なのは、それらを全て捨象したときに析出する「自分」がいかなるものであるのか?あるいはそもそも「自分」などというものが本当に自分の中にあるのか?という素朴だが実存的な不安だ。

 

そして北野は先述の通り、現在の自分(黒髪たけし)と可能世界の自分(金髪たけし)を対消滅させることによって何らかの化学反応をカメラの前に現出させようと試みた。思えば過去作への自己言及の多さも、過去の栄光を等しく無価値なものとして放り出す作業だったのかもしれない。序盤の米兵との睨み合いは初主演作『戦場のメリークリスマス』に酷似しているし、金髪たけしの部屋に貼ってある架空の映画ポスター『灼熱』は、もともと北野監督が『その男、凶暴につき。』につけるはずだったタイトルだし、どこかのスタジオに造られた沖縄式家屋は『ソナチネ』を彷彿とさせる(しかし主人公の男は『ソナチネ』の村川のように潔く引き金を引けない)し、冗長なタップダンスシーンは『菊次郎の夏』の後半部や『座頭市』の再演だ。

 

とはいえ結局のところ彼の戦いに明確な決着がついたとは思えない。序盤シーンとラストシーンを円環化させることで実存の問題を無理やり脇へどけたといった感じだ。北野自身も本作を失敗作であると明言してしまっている。しかし私としては、自身のあらゆるキャリアを放り捨ててでも実存の問題へ切り込もうとする北野の狂気を評価したい。また「キャリアの放り捨て」という社会や大衆に対するある種の裏切りに彼のお笑い芸人としての欲望が重なったことで、演出や編集に今まで以上の熱気と外連味がこもっていたようにも感じた。意味不明でも普通に映像として、あるいは運動として面白いから最後まで見れてしまうのが北野映画の素晴らしいところだ。

 

さて、彼のこの実存への問いは以降『監督、ばんざい!』『アキレスの亀』にわたって吟味されていくことになるわけだが、その辺の詳細はちょっと見直してみないとわかんないっすね…(燃え尽き)

 

⑦ジャファール・パナヒ『ある女優の不在』

曲がりくねった一本道を歩いていく大女優ジャファリ。そしてそれを追いかけていく少女マルズィエ。あるいは森の中で絵を描く元女優のシャールザード。パナヒはそれぞれ世代の異なる3人の女性に眼差しを向けるが、そこにはひび割れたフロントガラスや背の高い鉄網といった物理的な障壁がある。これらはそのまま男性と女性を分かつ断絶のアレゴリーといって差し支えない。

 

イスラム圏農村部に今なお巣食う強烈な男尊女卑思想は、大都市テヘランの心地よい匿名性によっておそらく忘れかけていたであろう性差問題への意識をパナヒに再認させる。パナヒは言葉や物理や暴力によって女性を家庭に押し込めようとする村人たちを目の当たりにし、自らの「男性」という属性に対する疑問を募らせていく。ゆえにジャファリがシャールザードの家に泊まったとき、彼は一人だけ車中泊という選択を取る。あるいはマルズィエを自宅に送り届ける際も、自分ではなくジャファリを同行させた。彼は男と女の懸隔におののき、そこから意図的に距離を取る。

 

しかし彼のこうした「何もしない」というのは結局のところ傍観を決め込んでいるという点において村の性差別主義者たちと大差ないんじゃないの、という批判はごもっともだ。それにパナヒ自身がそのことを一番よく自覚している。シャールザードがかつて映画監督に酷い仕打ちを受けたという話をジャファリから聞かされたとき、パナヒは少しも弁明せず、イランの映画業界にそういう暗部があったことを素直に認める。彼の苦々しい表情には、自身もまたそのような業界に属する人間の一人であることへの苦悩と罪悪感が滲んでいる。映画の中でさえ3世代にわたって続いてきた男尊女卑の罪禍が、一人の男の反省によって贖えるはずがない。だからこそパナヒは物語に、あるいは自分自身に安易な解答を提示しない。「さあ男も女も手を取り合ってみんなで踊りましょう!」みたいな欺瞞に決して陥らない。夜中、シャールザードの家で3人の女たちが楽しそうに舞踊する様子を、車中泊のパナヒが遠巻きに眺めるシーンは印象的だ。しかし、パナヒは本当に何もしていないわけではない。現に自らの作家生命も顧みることなくかくもControversialな映画を発表してみせたのだから。それが彼なりの「戦法」なのだ。

 

ジャファリとマルズィエが街へ出るための一本道を二人でずんずんと歩いていくラストシーンはやはり素晴らしい。二人が向かう先が希望であるのか絶望であるのか、それはまだわからない。しかし進んでいるということに意味がある。一方でパナヒはそれを停まった車の中から呆然と眺めている。フロントガラスには大きなヒビが入っている。マルズィエの奔放に怒り狂った彼女の弟が腹いせでそれをやったのだ。暴力によって女性を常に抑圧し続けてきた男たち。彼らは彼女たちがいなくなったとき、ようやく自分たちが全き停滞の中にあることを知る。暴力による支配をすり抜け未来へと向かっていく彼女らの背中を、彼らはフェンスやフロントガラスの手前からただ呆然と見送るほかない。

 

パナヒの作家的キャリアからして、本作における農村の差別的因習がイランの国家的不寛容に重ね合わせられていることは自明である。しかしそれだけのために知もなく財力もない農村を悪として描くこと(=都会の文化人である自分たちを正義として描くこと)はある種のエリート主義といえるのではないか?という疑問は当然ながらある。ではここで各位相におけるパナヒ自身の立ち位置を確認したい。まずは芸術家-イラン政府という対立位相。ここにおいてパナヒの立ち位置は芸術家である。両者の関係において圧倒的な権力を保持しているのはイラン政府であり、芸術家は常にその抑圧に喘いでいる。次に男性-女性という位相。ここではパナヒは男性であり、女性を抑圧する側に回っている。したがって二つの位相が重なり合う本作において、パナヒは一方では被抑圧者、一方では抑圧者というアンビバレントな存在として立ち現れる。「芸術家-イラン政府」というレイヤーに「男性-女性」という別レイヤーを並行させることで社会批判を行いつつも芸術を過度に高潔化しないという離れ業を実現してみせたパナヒ監督の手腕に脱帽する。

 

とにかく今年度はイラン映画に心酔した一年だった。アッバス・キアロスタミ桜桃の味』に始まり、アスガー・ファルハーディー、モフセン・マフマルバフ、マジッド・マジディといった名監督に巡り合うことができた。厳格なイスラム教国家のイランにおいては文芸作品への検閲もことのほか厳しい。しかしイランの作家たちはその網目を欺くような語りや演出を錬磨することで、真摯な受け手のみが感知することのできる表現空間を映像の向こう側に立ち上げる。抑圧があればあるほど文芸の芸術的価値も研ぎ澄まされていく、などと言うつもりはないが、そうした状況の中で独特な洗練を遂げていった彼らの語りや演出にはやはり瞠目すべきものがある。思えば先に上げた木下惠介テオ・アンゲロプロスも、彼らのような抑圧状況の中から自身の制作スタイルを確立していった作家だ。木下惠介は日本軍の監視下で数々の迂遠な反戦映画を撮り続けたし、戦後ギリシャの軍事政権下で近代ギリシャ史の批判的総括たる『旅芸人の記録』を撮ってみせた。俺もそういう真剣なニヒリストに早くなりてえ、と心から思う。

 

ジャン=リュック・ゴダール『はなればなれに』

もし物語的カタルシスだけが価値のある映画の条件なら、映画はとうの昔に文学によって駆逐されているに違いない。エクリチュールの饒舌に比してパロールはあまりにもたどたどしく拙い。しかし映画は言葉とは別に運動を有している。人間や動物や乗り物やあるいはカメラによる、言葉を超越した動きのダイナミズムがある。それこそが映画だ、と言い切ってしまってもいいかもしれない。一瞬で生成消滅する「運動」を逃すことなくカメラに収め、それを一流料理人のように流麗かつ大胆な手捌きでカッティングできる自信があるというのなら。

 

ゴダール映画の中では言葉が嵐のごとく乱れ舞う。それらは時に詩のように受け手の心に突き刺さり、時に無意味で難解なレトリックとして思考の稜線を滑り落ちていく。おそらく多くの受け手にとって、こうした言葉の、つまり物語のどっちつかずで不安定な手応えが「ゴダールはとっつきにくい」という苦手意識を生み出している。

 

だってわけわかんねーだろ、ふとした日常の話の中にランボーだのパウル・クレーだの毛沢東主義だのが唐突に混入して、しかも特に何も説明ないし、そういう物語的脱臼が延々と続いて、そんでこれがヌーヴェル・ヴァーグだとか開き直られたらハイそうですか死ねボケインテリがよ俺がバカやったわ殺してくださいと回れ右せざるを得ない。

 

しかし実のところ(いや、こんなことは蓮實重彦センセが何万何億回と繰り返し述べていることだろうけど)ゴダールは運動の人なのだ。彼の映画において言葉は、物語は、言ってしまえば添え物に過ぎない。小説でいえば、それまで一言一句を丹念に追っていた目線がスーッと滑っていくような、そういう他愛のない箇所。それゆえ彼の映画を見る際、はじめに着目すべきは言葉ではなく運動なのだ。目を見開き、スクリーンの上で何が起きているかを見る。

 

犯罪小説に憧れて強盗を企む3人組。彼らは唐突に夜のカフェで踊り出す。BGMに合わせ、軽妙なステップで延々と踊り続ける3人。しかし周囲の客はそれを歯牙にもかけない。すると突然音楽が止まる。カフェの環境音が戻り、3人の靴音がカンカンと鳴り響く。するとまた音楽が始まる。3人は踊り続ける。また音楽が止まる。始まる。延々と続く。

 

あるいはルーブル美術館での疾走。3人は9分40秒ほどでルーブルを一周したアメリカ人の記録を打ち破るべく、全速力で美術館を駆ける。おそらく撮影の許可などは取っていないのだろう、他の客は何事かと彼らを瞠目し、警備員は全力で彼らを止めにかかる。

 

あるいは隘路をグルグルと回る小さな車。庭先をあちこち野放図に駆け回る子犬のように。

 

あるいはオディールを柱越しにやんわりと抱くフランツ。

 

あるいは「キスの仕方がわかるか?」と問われてベッと舌を出すオディール。

 

それらの鮮烈な運動のフラグメントは、物語からも演出からも隔絶したところで営まれる断続的なモンタージュによってより一層輝きを増す。石井聰亙『爆裂都市』が「暴動の映画ではなく映画の暴動」であるとするならば、本作はさしずめ「映画のフリージャズ」といったところか。そこでは言葉や物語といった旧弊なコードは後退し、運動の身体的な享楽と解放感がいきいきと現前する。

 

思えばヌーヴェル・ヴァーグとは、メロドラマ的な物語と壮大な音響によって受け手を催眠術的に陶酔状態へと陥れるような旧来の映画作品に対する反感をその推進力としていた。そして本作は、それまでのクラシックな「映画」の要件を抜きにしても映画が成立することを、男や女や車や街やカメラやカッティングの荒唐無稽で自由闊達な運動によって示した。

 

要するに、ゴダール映画の物語に馴染めずに途中で寝落ちても、それをシネフィル的怠慢と気負って落ち込む必要などはそもそもなかったということだ。うつらうつらとわけのわからぬまま見終わって、それでもあそこのショットはよかったな、と一つでも心に刻まれる一瞬の運動があれば、それでもう十分なのかもしれない。てか映画って本来そういうモンですよね。リュミエール兄弟もそう思ってると思うよたぶん。

 

というわけでここへきてようやくゴダール映画の見方がわかった気がする。ちょっとだけ。マジでちょっとだけ。でも『イメージの本』とか何だったんですかね。愚かな俺に教えてくれ、ゴダール、おい、安楽死なんかしとる場合ちゃうぞ、さっさと蘇ってゾンビ映画撮れ。

 

ルイ・グエッラエレンディラ

マジックリアリズム」という用語が示す通り、ラテンアメリカの文芸では現実と夢想が厳格に区別されない。言ってしまえばナラティブが紡ぎ出すリアリティにこそ至上の価値が置かれている。ラテンアメリカ文学はある時期に世界的なムーブメントをみせたが、その中でもガルシア=マルケスほど存在感のある作家はいないだろう。マルケスの小説はとにかく長い。『百年の孤独』も『コレラの時代の愛』も読むのにかなり苦戦した覚えがある。にもかかわらず最後まで読ませてしまう求心力がある。言うなれば親戚のオッサンが酒の席で語る四方山話という感じ。ハイハイそうだったんですね、と話半分に聞いていたはずがいつの間にかのめり込んでいる。そこには誇張がある。ウソか本当かわからない話が混じっている。魔法を使うジプシーとか、50年もの間一人の女に貞操を捧げ続けた男とか。しかしそれらのエピソードが形作るナラティブには事実を超越した真実性がある。

 

マジックリアリズムは単なる一つの文学的方法論とみなされることも多いが、その根底には文学的な問題意識というよりは、もっと素朴で普遍的な、「語る」という行為に対する欲求があるように思う。何かを語りたい、そしてそれを誰かに聞いてもらいたい、という欲求。ラテンアメリカ文学において現実と夢想が混同されるのも、現実のみ(あるいは夢想のみ)を語るのでは立ち現れ得ないリアリティを描き出すためなのかもしれない。

 

さて、本作はマルケスの中編『無垢なエレンディラと無情な祖母の信じがたい悲惨な物語』を原作としている。ガルシア=マルケスの、ひいてはラテンアメリカ文学の心づもりをきわめて精緻に汲み取った素晴らしい映像化作品だったと感じた。蝶が壁のシミになったり、恋に落ちた青年がガラスの色を変える力を会得したり、ミカンを割るとダイヤモンドが現れたり、毒を盛っても爆破しても死なない老婆が出てきたり、マジックリアリズム的な摩訶不思議世界がとめどもなく展開されていく。しかし美麗な画面構成・演出ゆえ、それらが不毛なシュールレアリスムに陥っている感じがまったくない。これはかなり重要なことだ。

 

確かに、現実と夢想をごちゃ混ぜにすればそこには道理を外れた何らかの差異が生じる。普通であればそれは自然にシュールな笑いへと転化するのだけれど、ラテンアメリカカルチャーにおける「語り」はそういう小手先の笑いであってはならない。現実だろうが夢想だろうが語られるできごとはすべてがシリアスな真実なのだから。

 

さて、本作の物語の主題は何か。かなりシンプルではあるものの、それは「親子という呪い」だろう。不注意から火事を起こした孫娘エレンディラと、彼女に売春による贖罪を強要する祖母、という構図はまさしく不健康な毒親家庭と呼ぶに相応しい。エレンディラははじめ、愛によってこの呪いを逃れ出ようとする。彼女は自分を連れ出しにきた青年(彼もまた毒親に悩んでいる)と共に家を飛び出すが、その途中で芸術家の男に「あんたは死と愛を取り違えてるよ」と忠告される。男の忠告通り、逃避行は失敗に終わる。おそらく彼女はもはや自分がどうなろうと構わないと考えていたのだろう。逃避は彼女の緩やかな自殺行為だった。しかし祖母の呪いは希死念慮をも貫通して彼女を引き戻してしまう。

 

やがて祖母の過去が明かされる。彼女は愛した男にこっぴどく裏切られたことがあったのだという。それ以来心を閉ざし、自分を無底的に肯定してくれるエレンディラに依存するようになったのだ。おそらく冒頭でエレンディラが引き起こしてしまった火事もまた、マジックリアリズム的に解釈すれば、祖母の激烈な依存心の物理的現出なのではないかと思う。

 

いよいよ祖母の重圧に耐えきれなくなったエレンディラは青年と結託して祖母を殺そうとする(殺す、という選択肢を採択できるあたりがラテンアメリカ圏の倫理観だなあ…と思う)。しかし祖母は毒を盛ろうが爆破しようがなかなか死なない。このとき祖母は「親の呪い」そのものの象徴であったといっていい。したがってエレンディラも青年も彼女を殺せない限り、永遠に家族の呪いから抜け出せない。最後は青年の執拗な刺突によってようやく祖母は事切れるのだが、その血液はおぞましいほどに真っ青だった。愛こそが人間の条件であり、それを失ったものは化物に成り果てる他ない。

 

喜びも束の間、エレンディラはうろたえる青年を突き飛ばすとそのまま砂漠の彼方へと走り去っていく。かつては己の「死」によって呪いの円環から脱しようとしていた彼女だったが、今やその正反対である「生」に向かって一心不乱に駆けていくのだった。なぜ彼女が青年を見捨てる必要があったかといえば、愛を実現するためにはまずは自分が生きなければいけないからだ。森羅万象の根源に「生」が規定されているさまは正しくラテンアメリカという感じがする。亜熱帯の重密な空気に育まれるパッショネイトな生命神秘。そういうものが息づいている。ドイツの名匠ヴェルナー・ヘルツォークが『アギーレ/神の怒り』『フィツカラルド』を通じて南米の密林に執心していた理由が、その一方で高度経済成長に湧く日本の摩天楼を無価値としていた理由がなんとな~くわかった気がした。半分くらいはオリエンタリズムなんだろうけど。

 

現実と夢想の織り成すカオス、そして生の躍動。フィルムを通してラテンアメリカカルチャーの熱気をじかに感じることができる一本だった。

 

⑩スチュアート・ローゼンバーグ『暴力脱獄』

ハリウッド黄金期のアメリカ映画には「世界の正義を牽引する民主主義国家」というアメリカの国家的自意識が反映されており、それゆえに力強くわかりやすい物語を湛えた作品が数えきれないほど生み出された。しかしベトナム戦争アメリカの自意識が根底から揺らいだとき、それと軌を一するようにアメリカの文芸にも大きな揺らぎが生じた。映画の場合、それはアメリカン・ニューシネマというムーブメントとして表出した。そこではもっぱら「苦悩する若者」という表象においてアメリカが掲げる「正義」なるものの暴力性や空虚さが暴き立てられた。

 

ただその中には、名作と呼ばれているものの、実のところ国家や権力に対する異議申し立て以上の射程を持たない作品が少なからず存在していた。しかしそれだけでは当時のアメリカを覆い尽くしていた不安の本髄に触れたことにはならないのではないかと私は思う。ではこの不安の正体とはつまるところ何であるのか?その疑問に真っ向から対峙したのが本作だ。

 

主人公のルークはパーキングメーターを破壊した罪でフロリダの刑務所に収監される。ルークはその超然とした佇まいで囚人たちに気に入られ、看守たちともそこそこ円滑な関係を構築していく。しかし刑期満了目前のある日、彼は突如として刑務所を脱走してしまう。彼は刑務所に連れ戻され、それなりの処罰を受けるが、性懲りもなく二度目の脱走に及ぶ。彼がなぜ脱走するのか、その理由はまったくといっていいほど語られない。ただ一つわかることは、ルークが「自由」の求道者であるということだけだ。

 

ルークが去ってからしばらく後、獄中の囚人たちにルークから便りが届く。同封されていた写真には両腕に美女を抱いた彼の姿があった。囚人たちは彼の「自由」な生き様に惜しみない称賛を送る。直後、ルークが再び刑務所に連れ戻されてくる。彼は看守から度重なる拷問を受け続け、ついに心が折れてしまう。情けなく看守の足に縋りつき「改心します」と泣き喚く彼を見て、つまり「自由」を手放してしまった彼を見て、囚人たちは深く失望する。しかし彼は作業用トラックで三度目の脱走を果たす。囚人仲間であるドラグラインも一緒だった。意表を突かれた看守たちは総出になって彼らを追い詰める。逃走ルートを発見したドラグラインはルークに一緒に来るよう持ち掛けるが、ルークは悟りきったような表情で首を横に振る。このとき彼は「内側も外側も同じなんだ」というようなことを言う。

 

どれだけ「自由」を求め彷徨っても、そんなものはどこにもない。刑務所とシャバという二項対立を仮想し、それぞれを「内側」「外側」と区切ってみたところで意味がない。それは言うなれば「どこへ行っても同じである」という虚無的真実を隠蔽するための言葉遊びに過ぎない。彼は「反権力」「反国家」といったお題目のさらに先にある、絶対無の地平を見てしまったのだ。「諦めんなよ!」としつこく食い下がるドラグラインに「俺だって頑張ってみたさ」と弁明するルークの笑顔はまるで能面のように生気が抜けている。

 

いよいよ追い詰められたルークが最後に辿り着いたのは田舎の古びた教会の中だった。無神論者であるはずの彼は、最後の望みを賭けるように、そこにいるはずの神に語りかける。この世界が内側も外側も存在しない地続きの虚無であることを知ってしまった彼にとって、宗教は最終最後の拠り所だった。しかし神は何も答えない。そして一発の銃弾が彼の心臓を貫いた。

 

エピローグで刑務所に送還されたドラグラインがルークの武勇伝を他の囚人に語って聞かせるシーンはことさら印象深い。彼らはルークを権力に対する勝利者であると称えるが、これは冒頭で述べたような、作品の射程が「反国家」「反権力」の表明で止まっている一部のアメリカン・ニューシネマと同等の位相にある。

 

しかしルークは、あるいは本作はそこが最終地点ではないことを知っている。彼の諦観めいた双眸の先には、国家も権力も戦争も自由も宗教も何もかもが等しく効力を持ちえない絶対無の地平が、ただただ広漠と広がっているばかりだ。思えばあれだけ隆盛を極めたアメリカン・ニューシネマが、10年もしないうちにスティーブン・スピルバーグジョーズ』のような大作主義に呑み込まれ、消えてしまったというのは、本作以降のアメリカン・ニューシネマがポスト国家・ポスト権力時代の具体的な地図を描き出せなかったことに原因があるのではないかと私は思っている。

 

~おわり~

 

来年もいっぱい映画を見るぞ!オー。

映画レビュー〜ちくちく編〜

これはひどい!と思った映画のレビューをいくつか紹介します。

こんなに悪口を言うことは、稀です。

 

1.『アタック・オブ・ザ・キラートマト』

クソ映画にも流儀というものがある。クソであることに自覚がないまま徹底的に本気でやるか、確かな自覚を持ったうえで徹底的にクソを演じ切るか。前者はやろうと思ってもできるものではなく、それこそエド・ウッドのようなごく一部の天才クソ映画監督のみが成しうる所業だ。一方で後者もまた至難の業。クソ映画を作ろうと意気込んだところで、途中で怖気付いて少しでもブレーキを踏んでしまうと途端にただの駄作へと落ちぶれてしまう。S・キングの『地獄のデビル・トラック』や石井輝男の『恐怖奇形人間』なんかは最初から最後まで少したりとも速度を緩めなかったがゆえにクソ映画として大勝利を収めていたように思う。

 

で、本作だが、クソ映画としてはすこぶる出来が悪い部類に入ると思う。自身がクソであることに強く自覚があるくせに、そこに徹底性が込められていない。クソ映画を貫徹することに対して中途半端に恥じらいがあるのか、言い訳がましい冷笑が作品のほとんど全体を覆い尽くしている。みなさんこれはクソですよ〜真に受けないでくださいね〜とでも言わんばかりの生温い目配せシーンが延々と続く。

 

これは他の立派なクソ映画に対して失礼きわまりない。クソ映画など小手先の技巧だけでじゅうぶん再現可能だろうという監督の傲慢さと浅薄さが滲み出ている。そんな熱量も勢いも欠いたおためごかしの擬似クソ映画に愛すべき点など一つもない。

 

本当にクソ映画がやりたいのならくだらない自尊心は捨ててひたすらクソ映画作りだけに集中してほしい。そういう徹底性があってこそ歴史に名を残す偉大なクソ映画が生まれる。

 

2.『電光空手打ち』

知る人ぞ知る高倉健のデビュー作(&主演作)。不殺・受け身を題目とする沖縄空手の名人に惚れ込んだ高倉健が一所懸命修行に励む。

 

大作の付け合わせ&新人俳優のお披露目映画ということもあり作りが雑なのは仕方がないと思うが、それにしたって高倉健が短気すぎる。不殺・受け身の題目はどこへやら、師匠の叱責もいざ知らず迫り来る悪漢たちを次から次へとめった打ち。そらまあ破門もむべなるかなと得心せざるを得ない。元同門生のライバルとサシで戦うラストシーンも消化不良のまま呆気なく終幕してしまった。不殺・受け身とはなんだったのか、この不自然きわまる終わり方はなんなのか、そして電光空手打ちとはなんだったのか。あまりの不可解に雷に打たれたかのごとく唖然と口を開けるほかない我々観客こそがその秘儀のターゲットに他ならなかったのではないかと今になって思う。

 

それにしても高倉健はこの頃から紛うことなく「高倉健」だったんだな、というか本当にこういう演技しかできないんだな、と改めて知ることができるいい機会ではあった。あまりにも朴訥であまりにも飾り気のない演技は確かに「フレッシュな新人俳優」とはお世辞にも言い難い。そもそも本作については本人も全く乗り気じゃなかったらしいし。だから彼が極道映画という活路を見出すことができて本当によかった。でなきゃド三流の大根役者として映画史の闇に葬り去られていても不思議ではなかったと思う。

 

3.『生きものの記録』

見事なショットやセリフに溢れた作品ではあるのだが、全体を俯瞰してみると物語が反核という強いテーマ性を抱えきれていない、というのが正直な感想。

 

反核というテーマを、『ゴジラ』のような明らかに非現実的な暗喩世界ではなく、我々の実生活の延長線上に存在する現実世界に定立させることで、確かに反核のリアリティや切迫性は増すだろう。しかしまさにそのことによって、喜一の「ブラジル移住」という途方もない計画の滑稽さばかりがいやに強調されてしまっていたように感じた。

 

作品のアイレベルが現実世界に準拠している以上、受け手としては、水爆を恐れる喜一の気持ちもある程度理解できる一方で、喜一の奇行に煩わされる家族たちの気持ちも同じくらい理解できてしまう。

 

結果、喜一の主張と家族の主張は同等の説得力を有したものとして対消滅してしまい、その焼け跡には反核というテーマだけが実体のない漠とした概念のまま漂っていた…そんな感じ。

 

そう考えると、徹底的な虚構世界を作り上げ、そこに恐怖の絶対的対象としてのーーまた同時に核戦争の暗喩としてのーー「ゴジラ」を配置することで受け手の感情の方向をある程度一定化させ、そこを土台に反核論を打ち出していた『ゴジラ』はやっぱりすごかったんだな、と。

 

4.『プール』

自分のやりたいことをやった結果、娘を捨てることになった母親。当然娘はそれについて疑義を呈するが、母親は「あなたを信じていたから」ときっぱり言い放つ。それで娘も得心がいったようだ。

 

しかしいち視聴者として意見するならば、やはりどうしても娘の心境のほうに同情が傾斜してしまうし、母親の言葉に重みを感じにくい。そしてそれになんだかんだ説き伏せられている娘にも疑問符が浮かぶ。

 

もちろん、このような再生のしかたがあるのはわかる。互いの心にわだかまる不平不満を一切合切解消することだけが素晴らしい人間関係ではない。ときおり表面に波が立つことはあっても概して穏やかな、言うなればプールのような人間関係のほうがむしろリアリティという点では優れている。

 

とはいえ娘を捨ててまで異国に旅立った理由が描画されないせいで、母親の言葉のすべてが軽薄な自己弁護の様相を呈してしまっている。

 

全編を通して説明的な会話シーンが山ほどあるというのに、ここだけは「視聴者の良心的想像力にお任せします」という曖昧主義に逃げるのはどうかと思う。一番重要なシーンなのに。

 

そうそう、ゆったりとした長回しによって安穏な時空間を生成しているにもかかわらず、それによって生じた時間的遅延を埋め合わせるように性急かつ説明的な会話シーンが逐一挿入されるのも嫌だった。これらの積み重ねによって母親の言葉がエクスキューズの傾向をさらに強めてしまっているともいえる。

 

邦画の悪いとこだけを純粋培養するとこうなるという良い範型。

 

5.『ウィーアーリトルゾンビーズ

さまざまな映画技法を次から次へと繰り出すエネルギッシュさに一瞬気圧されそうになるものの、それらが文脈的必然性を持たないコケオドシであることがわかってしまうと途端に冷めてしまう。それと、矢崎仁司『三月のライオン』でも思ったことだが、こういう冷笑的な作風の映画で赤ん坊の泣き声を問題解消のメタファーに用いるやり方はかなり強引だし安直だと思う。ジャンプスケアで観客を無理やりビビらせる粗悪なホラー映画と大差がない。

 

もはやオリジナルというものが成立しない現代にあっては、使い古された主題をどう切り出し、どう編集するのかが創作における最重要項目だと思う。しかし本作は「己の無感情に苦悩する若者」という使い古しもいいところな主題をさも新規で奇特なもののように捉えている節があった。そんなことをいくら饒舌に語られたところで「だから何?」という素朴な疑問符しか浮かんでこない。

 

6.『セシルB ザ・シネマ・ウォーズ』

皮肉というのは怒りを笑いによって完全制圧するからこそ成り立つのであって、怒りが前面化しすぎていては政治的ステートメントと変わりがない。迸る激情をスクリーンサイズに凝縮させることによって異様に緊張感のある露悪コメディを立ち上げていたあのジョン・ウォーターズが、こんな野放図で直情的な映画を撮ってしまったというのが悲しい。いまさら60〜70年代の古びた手つきでハリウッド批判論を開陳されたところで何も響いてこない。というか演者に対して過度に非人道的だったり制作体制があまりにも杜撰だったりするアンダーグラウンド映画のほうがハリウッド映画よりよっぽど酷いんじゃないか…?とすら思えてしまう。

 

これを見たうえでアンダーグラウンド映画を作りたい!ハリウッド映画を打破したい!と思える人間はおそらくいないだろう。そういう観客のシラケすらも勘案のうえだというのなら天晴れジョン・ウォーターズと万雷の拍手を送りたいところだが、残念ながら本作にそこまでの知的作為性を感じることはできなかった。黒人女の腕に「尊敬する映画監督」として「スパイク・リー」の名前が彫られてるくらい余裕のない映画なのだから。かつてのジョン・ウォーターズならここで容赦なく「D・W・グリフィス」の名を刻み込んでいたはずだと思うとただただ無念でならない。

 

いくらアンダーグラウンド映画の旗振り役といえども寄る年波にはかなわなかったということなのかもしれない😢

 

7.『さらば夏の光』

ポーランドの美しい風景がさまざまな画角から切り取られている。しかしそれは絵はがきのようなものでしかない。綺麗な夕陽です、煉瓦の街を走る電車です、憂愁を湛えた砂浜です、終わり。しかもそのほとんどがうんざりするような長回しで撮られているのだから退屈で仕方ない。そしてその緩慢な映像の上を、登場人物たちのモノローグが冷たい風のように通り過ぎていく。映像と言葉はほとんど干渉し合わない。まるでカラオケの背景映像と歌詞のようだ。物語それ自体もあんまりパッとしない浮気話だったし、そういやATGってこういうハズレ枠もいっぱいあるよな…と再認させられた。

 

8.『アイアンマン』

これだけ言いたい。

 

死ね

 

9.『SR サイタマノラッパー

ラスト7分の魂のぶつけ合いと唐突な終幕はかなりグッときた。あと市民会館で曲を披露してる時のカメラワーク。カメラはIKKUたちのやぶれかぶれの勇姿を遠巻きに映し出すが、そこには市のお偉方の後頭部も映り込む。しかし顔は見えない。俺たちの声は届くんだろうか、というIKKUたちの不安がカメラワークを通じてうまく表現されていたと思う。

 

しかしこんなことを言うのもアレなんだけど、埼玉県深谷市をまるで文明社会の末端かのように描くのはどうなんだと思う。私自身が『楢山節考』のごとき山中の寒村生まれなので、登場人物たちがしきりに開陳する「でも埼玉だし…」的なシニシズムにいまいち寄り添えなかった。いや、言うて駅あんじゃん、河川敷あんじゃん、みたいな。

 

と、このように「(物理的であれ精神的であれ)俺は世界で一番不幸だ!」という地点に登場人物を追い込むことで物語に緩急をつけようとすると、画面の外側にいるそれより「ひどい」人々がワーワーと文句をつけてくる。私だってできればつけたくないけど。だからやるやらもっと徹底的にやる(あるいは登場人物の自我そのものに強力な磁力を纏わせる)必要がある。「埼玉県深谷市」という土地はやっぱりちょっと徹底性に欠けるんじゃないかなというのが正直なところ。

 

10.『ゾンビデオ』

乾坤一擲のワンアイデアで2時間弱を乗り切ろう的な、よくある低予算映画ではあるのだけど、何がタチ悪いかってアイデアそのものが割と面白いところ。ゾンビ映画が積み上げてきた膨大なアーカイブそれ自体を武器にゾンビを撃破していく、というのは私の浅薄なゾンビ映画からしてみれば斬新なものだった。そのうえ、いかようにも面白く調理できそうだ。

 

にもかかわらず本作は過去作の固有名詞を無意味に羅列するばかりで、肝心の「ゾンビ学入門」ビデオにはそれらへの参照点などはほとんど見当たらない。こっちとしては本作が露悪的なパロディ映画ということは百も承知なのだから、もっとこう、歴史の深みでブン殴る、的な蘊蓄パワーが欲しかった。ただ、ゾンビ映画から脈絡なくカルトSFへとシフトチェンジする終盤の展開はルチオ・フルチっぽくてよかったと思う。

 

撮影が絶望的に地味というのも残念ポイントの一つかもしれない。深夜ドラマ的なコンパクトで基本的にバストアップしか映さないような画角が多すぎて、ゾンビ映画にあるべき臨場感がまったくない。いくら恐怖要素抑えめのゾンビ・コメディといえど緩急の振れ幅が小さすぎると見るのが苦痛になってくる。『ロンドンゾンビ紀行』とかを見習ってほしい。

 

何にせよ、面白そうなアイデアが他のさまざまな要素によって無残にも窒息させられていることに悲しみを通り越して怒りさえ覚える。頼むから同じアイデアでもう一度撮り直してくれ、と切に願う。

好きな映画の中から50本くらい紹介する

色んなサブスクに加入しているものの見たい映画を探すのが一番面倒臭い、という話をよく聞くので、備忘録も兼ねて好きな映画の中から50本くらい適当に紹介しようと思います。

 

 

1.ソナチネ北野武、1993)

ヤクザ映画の終着駅といえる映画。孤独をその本懐とするヤクザ的ヒロイズムと、他者なくして人は生きられないという人間の根本性質。このアンビバレンスは死によってのみ解決されうる。70年代東映実録路線あたりから既に垣間見えていたヤクザ映画の矛盾を、北野武は容赦なく真っ向から描き切ってしまった。遠巻きに映し出される真っ白な沖縄の砂浜はこの世ならざる異界そのものであり、そこでは児戯も殺戮も等しく虚無へと還元されてゆく。自分の額に銃口を向ける村川の笑顔は、たぶん本物の安堵だったんだろうな。北野は本作以降も幾本かのヤクザ映画を撮っているが、どれも趣味的なオマージュか、あるいは自作のセルフパロディばかりだ。おそらく北野は本作にてヤクザ映画というジャンルそのものを殺してしまったんだと思う。それはそうと『BROTHER』で黒人の泣き顔をアップの長回しで捉えたラストカットとか、『アウトレイジ』の気持ちいいくらい深作欣二リスペクトな作風とかもホントに素晴らしいんですよね・・・

 

2.老人Z(北久保弘之、1991)

暴走した老人介護マシーンが街をメチャクチャにしながら鎌倉に向かう話。あっけらかんとしたSFコメディの狭間にちらほらと少子化社会の憂鬱が顔を覗かせるのだが、その塩梅が絶妙。ボソボソ何言ってるかわからない『攻殻機動隊』より個人的にはこっちのほうが近未来社会派活劇として好感が持てる。沖浦啓之松本憲生黄瀬和哉今敏鶴巻和哉など作画オタクにとっては神にも等しい名アニメーターが揃い踏みしており、ただ画面を眺めているだけでも楽しい。江口寿史のキャラクターデザインはいつ見ても古めかしいのにいつまでもダサくならないから不思議だ。主人公の女が履いてる靴もNIKEのCortezだし。大友克洋が関わった『AKIRA』以外のアニメ映画といえば『MEMORIES』や『迷宮物語』もなかなかの出来だ。りんたろうと組んだ『メトロポリス』もいいよね。

 

3.オンリー・ゴッドニコラス・ウィンディング・レフン、2013)

アレハンドロ・ホドロフスキーに捧ぐ」という物騒な献辞から始まるニコラス・ウィンディング・レフンのバイオレンスドラマ。アジアという空間は長いこと西洋諸国によるサイバーパンクオリエンタリズムの消費対象とされてきたわけだが、本作にはそれに一矢報いる批評性がある。ただまあ結局本作もまた「西洋人」が「タイ王国」で撮っているという点では数多のサイバーパンク映画と大差がないわけで、リドリー・スコットの『ブラック・レイン』と何が違うんだよと言われたらちょっと困る。それはそうと赤子の手を捻るように西洋人を惨殺していくタイ武術のジジイは本当にカッコいい。こういう映画がタイ本土から出てくるようになると嬉しい。香港ニューウェーブ、台湾ニューシネマのような運動がタイでも起こりますように。

 

4.父、帰るアンドレイ・ズビャギンツェフ、2003)

平和な母子家庭のもとに突如帰ってきた「父」。しかしこの「父」は人間的な、血縁的な意味での父とはえらく懸隔がある。幼い兄弟はオイディプス悲劇のような神話的緊張感のなかで「父」との距離感を縮めていくのだが・・・。『裁かれるは善人のみ』もそうだが、アンドレイ・ズビャギンツェフ監督は、ロシアの厳しい宗教意識に基づいた節制性をうまいことサスペンスに活かしている。ともすれば退屈なアート映画に落ちぶれてしまいかねないところを、常にギリギリの高度を維持し続けているのがまたすごい。そういう点ではグザヴィエ・ドランっぽいかも。とにかく疲れるからあんまり連続で見ないほうがいい。

 

5.恐怖の報酬(ウィリアム・フリードキン、1977)

エクソシスト』のウィリアム・フリードキンが撮り上げた大作クライムアクション・・・のふりをしたサイコホラー。報酬に目が眩んだ4人の男たちが爆薬を満載したトラックでジャングルの獣道を進んでいく。『フレンチ・コネクション』でも思ったことだけど、この人はマジでホラーしか撮れない。というか何を撮ってもホラーになる。暴風雨に見舞われたボロ橋を渡るシーンは何度見ても恐ろしい。サイケデリックなトリップシーンといい悲惨なラストといい、意外にも王道のアメリカンニューシネマといえるような気がするのだが、そういう評価をあまり見かけないのは作風がホラーに寄りすぎていたからだろうか。

 

6.バニシング・ポイント(リチャード・C・サラフィアン、1971)

個人的には『理由なき反抗』や『イージー・ライダー』よりこっちのほうが好きかも。ブルドーザーに激突してそのままカットも切り替わらないままエンドロールに突入するのがマジでいい。ジョン・カサヴェテス『フェイシズ』やマイク・ニコルズ『卒業』に並ぶくらい最高のラストシーン。「アメリカンニューシネマ」という大義名分をいいことにヒッピーカルチャーのろくでもない活動記録みたいな作品が横溢していた中、映画としての最低限の文法だけはしっかり遵守していた本作はかなり偉い。デニス・ホッパーなんかは既存の映画文法の破壊では飽き足らず映画そのものの破壊を目論見ていた節があり、その結実が『ラストムービー』なんだけど、あれはものすごく退屈だったな。

 

7.武器人間(リチャード・ラーフォースト、2013)

モキュメンタリーとホラーの融和性については『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』『REC』シリーズ等が示す通りだが、本作はそこに怪獣映画性を取り入れている。地面から、あるいは画面の外側からぼんやりと眺めていた巨獣たちが、自分と同じくらいのサイズで、自分の目の前に現れるというのは案外恐ろしいものだ。そういうものに対峙することで、フィクションというフィルターによって麻痺していた恐怖中枢が再び呼び覚まされる。まあ、ナチスロストテクノロジーを題材にしている時点でおふざけ映画であることは自明なのだが、そうであるにもかかわらずモキュメンタリーで撮影されていることにちゃんと必然性があるのが面白い。

 

8.レッド・ブロンクススタンリー・トン、1995)

物語のしょうもなさはあらゆるジャッキー映画に通底する基本構造なので無視するとして、本作はハリウッド的なダイナミズムにジャッキーのせせこましいカンフーアクションが決して見劣りしないことを高らかに証明してくれた。公園での乱闘、ビルからビルへの跳躍、ボード無しウェイクボードなど誰もが一度は見たことのあるアクションシーンが次から次へと乱れ舞う。もちろんスポーツカーに大剣を括りつけてホバーボードをぶった斬るラストシーンも最高。全米が生活習慣病に陥るくらいのハイカロリー映画だ。『香港国際警察』の村落破壊シーンが最後まで持続している感じ。本当によく死なないな、と思う。というか『サンダーアーム/龍虎兄弟』のときに死んでないのがおかしい。

 

9.波止場(エリア・カザン、1954)

エリア・カザンは今まで見た中ならこれが一番。『紳士協定』や「ハリウッド赤狩り」を経て、おそらく彼はあらゆる悪を真っ向から否定・漂白するような素朴な勧善懲悪的作風に行き詰まりを感じるようになったんじゃないかと思う。そうではなく、矛盾を矛盾のまま描画すること。なおかつそれを許容せず、ほのかに怒りと悲しみを込めたメッセージボトルとして画面の外に放流すること。『欲望という名の電車』と本作はきわめてそのあたりの調整がうまい。暴力を何よりも憎んだ男が最終的に暴力に手を染めねばならないというあまりにも悲痛な物語。

 

10.ほえる犬は噛まないポン・ジュノ、2000)

『パラサイト』のポン・ジュノの長編初監督作品。さまざまな問題意識が盲腸線のように四方八方に広がっていくスタイルがこの頃から既に確立されていたのだと思うと恐ろしい。そりゃサスペンスだろうがコメディだろうがモンスターパニックだろうが何でも撮れるよな。スリップストリーム文学ならぬスリップストリーム映画というものがあるとするならば、その旗手はポン・ジュノをおいて他にない。『殺人の追憶』なんかもすごくいい。全然関係ないけどフィクションとはいえ小型犬をちゃんと酷い目に遭わせることができるのがすごい。そのへんの容赦のなさが作品の完成度に結実している。

 

11.カイロの紫のバラウディ・アレン、1985)

主人公が映画から飛び出てきた憧れの登場人物と恋に落ちる映画。それだけなら『カラー・オブ・ハート』や『今夜、ロマンス劇場で』のようなメロドラマ映画と大差がないのだが、本作がすごいのは、映画から飛び出してきた登場人物とは別に、それを演じた俳優が同次元に存在しているということ。主人公は夢見がちな登場人物にだんだん辟易して実在の俳優のほうに鞍替えしようとするが、それによって彼女はこっぴどい仕打ちを受ける。にもかかわらず彼女はまた映画館にやってくる。何度傷付こうが裏切られようが笑顔で劇場の椅子に座って憧れの登場人物に陶酔する。ああ、これはたぶん俺たちの話なんだろうな・・・。ウディ・アレンらしい毒気のある恋愛譚だ。

 

12.LEON(リュック・ベッソン、1994)

『TAXi』とか『フィフス・エレメント』とか見た後ならわかることだが、リュック・ベッソンはマジでこの映画だけが突出している。オッサンと小娘の恋愛譚なんか加害性しかないよといえばそれまでなんだけど、こうやって丁寧に繊細に根気よくエクスキューズを重ねられると嫌悪が同情に傾斜していってしまう。マチルダがレオンの形見である植木鉢を児童養護施設の庭に埋めるシーンは本当に美しい。愛の成就と消滅の二重性を引き受けたマチルダの後姿からは、もはや子供じみた媚態は少しも感じられない。そういえば「私が欲しいのは愛か死よ」のシーンのキャプチャをアイコンやヘッダーに設定している女を最近見かけない気がする。愛か死を得られたんだろうか。

 

13.お早よう(小津安二郎、1959)

小津作品の中でも指折りにコメディチックな一本。テレビを買ってほしい兄弟の無垢な視線を通して大人社会の矛盾が滑稽に描画される。とはいえそれは「子供」という道具のピュアネスに漬け込んだ小賢しい社会的ステートメントなどでは決してない。子供たちの無垢さはちゃんと彼らの愚かさと表裏一体を成している。大人たちが無意味な会話に現を抜かす一方で、子供たちもまた他愛のない会話ボイコット運動に熱を上げるのだ。どちらにも加担せず、定位置からただ淡々と風景をスケッチする、という態度は他の小津映画と何ら変わらない。ガキ映画の世界的名匠として名高いアッバス・キアロスタミが小津に心酔する気持ちがよくわかった。『トラベラー』『友だちのうちはどこ?』『柳と風』あたりに出てくるガキたちがそのまま本作に出てきてもおかしくない。

 

14.ゆきゆきて、神軍原一男、1987)

昭和天皇パチンコ狙撃事件、天皇ポルノビラ事件等の前科を持つアナーキスト奥崎謙三に密着したドキュメンタリー映画。これほど現実離れした現実の人間をドキュメンタリーという限定性の中になんとかして押し込めてやろうという気概がまずすごいし、いっこうに押し込まれてくれる気配のない奥崎もすごい。しかし笑っていいんだか泣いていいんだか判断のつかないもどかしい温度感を保たせ続けることで受け手に否が応でも奥崎の存在を刻み付けた原一男の技量には素朴に感心してしまう。正誤の向こう側にある問題圏にリーチすることこそがドキュメンタリーの本懐だが、その点において本作は頭一つ抜けている。鬼気迫る、とはこういうことなのだなと。

 

15.プレイタイム(ジャック・タチ、1967)

ジャック・タチの作品は「超技術で蘇った無声映画」と呼ぶのが一番しっくりくる。音や会話ではなく、動きによってコメディをもたらす。ユロ氏を取り巻くナンセンスな諸運動はバスター・キートンチャールズ・チャップリンの作品にみられたそれらと同様だ。しかし画面的情報量という点では先駆者たちのそれをはるかに凌いでいる。特に夜のレストランで繰り広げられるドタバタ群像劇には一見の価値がある。食事をこぼすウェイトレス、ステージで踊るシンガー、消えかかる電光掲示板。すべてが同じ時空を共有しながら時に混じり合い、すれ違う。言語の利便性を極力節制し、視覚情報だけで人間愛を描出しようとしたジャック・タチの覚悟に胸を打たれる。

 

16.フルメタル・ジャケットスタンリー・キューブリック、1987)

ハートマン軍曹と微笑みデブと「戦争は地獄だぜ!」でたいそう有名なキューブリック製戦争映画。幻のデビュー作『恐怖と欲望』において山積していた諸問題が本作でようやく消化されたんじゃないかと思う。戦争があらゆる人間を残酷に変えてしまう、というエモーショナルな反戦映画に堕すのではなく、戦争によって炙り出された人間の恐怖と欲望の行く末をあくまで第三者として見届ける。戦争は引き金の一つに過ぎず、本当に恐ろしいのは人間なのだ、とキューブリックは言ってみせるわけだ。こういう言い方は手垢に塗れすぎていて若干気が引けるんだが、まあ、思えば『博士の異常な愛情』も『シャイニング』も『時計じかけのオレンジ』そういう話だったし。怖いのは人間。

 

17.無法松の一生稲垣浩、1958)

豪放磊落だが女にはめっぽう弱い松五郎という男が人妻への恋慕を人知れず募らせていく話。しかし彼の純粋無垢な懊悩は終ぞどこにも出口を見出せず、その肉体もろとも無窮の雪原にて絶命する。これは言うなれば葛飾=家族というセーフティネットを得られなかった車寅次郎の物語だ。おそらく山田洋次も本作を踏まえたうえで『男はつらいよ』シリーズを制作していたに違いない。それはそうと三船敏郎の演技が冴えに冴えている。三船というと『七人の侍』『椿三十郎』『用心棒』あたりの豪胆な武士としてのイメージが強いが、こういう益荒男と童貞が同居したような屈折的人物を好演できる繊細さも併せ持っているんだなあ。

 

18.ファーゴ(ジョエル・コーエン、1996)

バートン・フィンク』『オー・ブラザー!』みたいなレトリカルな作風もいいけど、コーエン兄弟の真価は小気味のいいブラックコメディにおいて最大限発揮される。軽犯罪で一儲けしようとした男たちが小さな失敗を隠蔽しようとして失敗、その失敗を隠蔽しようとしてまたまた失敗・・・といった具合に失敗が雪だるま式に膨らんで収拾がつかなくなる、というなんとも間の抜けた話。まるでギャグ漫画のような物語展開だが、男たちが犯す失敗にはどれも現実的な手触りがあるものだから笑い飛ばそうにも笑い飛ばしきれない。こうした現実との不気味な接地感をコメディ抜きで突き詰めていくと『ノーカントリー』が生まれるわけですね。

 

19.来る(中島哲也、2018)

中島哲也によるホラー映画の異色作。ホラーの不文律を最大限遵守する前半部と最大限破壊する後半部とでもはやまったく別の映画と言って差し支えないはずなのだが、「愛の不在」という裏テーマが両者をかろうじて接合している。中島哲也特有の悪ノリが実相寺昭雄の『帝都物語』的な映像演出で炸裂した後半部の異能バトルシーンは抱腹絶倒ものだ。どうでもいいけど前作『渇き』では「清純な出で立ちに不純な性格の女子高生」を演じていた小松奈々に、本作では「不純な出で立ちに清純な性格のフリーター」を演じさせているあたりに中島哲也の歪んだ性欲を感じなくもない。わかるよ、小松奈々を酷い目に遭わせたいもんな。『ディストラクション・ベイビーズ』は本当によかったな。菅田将暉さん、小松奈々さん、ご結婚おめでとうございます。

 

20.不思議惑星キン・ザ・ザゲオルギー・ダネリヤ、1986)

体制批判的なSF映画は山のように存在するが、ここまでコメディとしての態勢を崩さない作品は珍しい。マッチ棒が無類の価値を誇る異星の砂漠で、二人の地球人がどうにかして地球に帰還しようとするのだが、最初から最後まで一切の緊張感がない。敵も味方もすべてがピースフルに弛緩しきっている。しかし水面下では賄賂や盗難が横行していたり、ごく少数の権力者が市井の人々から不当な搾取を行ったりしている。現実と同じだ。異星人や小物のデザインもきわめてシュールレアリスティックで、一度見たら忘れられない。ホドロフスキーの『エル・トポ』や『ホーリー・マウンテン』を見ているときのような視覚的陶酔に浸ることができる。

 

21.しとやかな獣(川島雄三、1962)

東雲の新興住宅地に住む性根の腐った家族が織り成すブラックコメディ。カメラの移動範囲は部屋の内部だけに局限されており、家の外側を映すことはほとんどない。会話だけでも映画はじゅうぶん成立するのだという川島雄三の自信がひしひしと感じられる。当時の東雲といえば高級住宅地であり、そこに住むことは都市生活者としての大きなステータスだったという。そうした表層的な栄華に執着する家族には内面というものがなく、彼らの交わす会話は脂ぎった世俗性にまみれている。高度経済成長という強迫観念が生み出した哀しき獣たちの生態を、監視カメラのようなアングルで撮られた映像が淡々と語っていく。森田芳光家族ゲーム』等へと繋がっていく家族系ブラックコメディの金字塔だ。

 

22.てなもんやコネクション(山本政志、1990)

破天荒なスラップスティック・コメディの中に香港の危機的現況に対する真摯な眼差しが込められた山本政志の傑作。ただしのっけから香港に直接コミットするのではなく、西成・山谷といった国内の経済的暗部を経由し、同じ被虐区域としての連帯を強めたうえでようやく香港に向かう、という慎重さ。何も考えられていないようでちゃんと計算されている。日本の文芸が暗い子供部屋の隅でカスみたいなセカイ系文化に自閉していた中、グローバルな多民族国家としての日本から片時も目を逸らすことなく、自作を通じて常に融和や共生の道筋を模索していた山本政志はやっぱりすごく冷静な人なんだろうなと思う。横浜を舞台とした『ジャンクフード』や『アトランタ・ブギ』も最高なんですよね。視聴手段が限られていることだけが悲しい。

 

23.フェイシズ(ジョン・カサヴェテス、1968)

以外にもカサヴェテス作品は不慣れで、それこそ濱口竜介が『ドライブ・マイ・カー』で喝采を浴びてからようやく食指が動き始めたくらい。物語的な面白みで言えば『グロリア』とかのほうが何倍も秀でているし、即興劇という観点からも『アメリカの影』に今一歩及ばずといった感じなんだけど、ラストカットのあまりの美しさがそれら全てを補っている。もはや修復不可能なほどに関係の悪化した男女。男は階段に腰掛けながら女を足で邪魔するのだが、女はその足をヒョイと避けて去っていく。このほんの数秒足らずの小さな所作が、曖昧で捉えどころのなかった物語にこの上なく克明なピリオドを打刻している。それによって作品全体が輪郭線を帯びていく。これはもう『シックス・センス』のナイト・シャマランも驚愕の大どんでん返し映画といっていいだろう。

 

24.ロスト・イン・トランスレーションソフィア・コッポラ、2003)

仕事の関係で不本意ながら日本にやってきた若妻が、同じく無理やり日本に連れて来られた老境の映画俳優とひとときの恋に落ちるという話。日本が舞台ではあるのだが、そこにオリエンタリズムな消費の欲望は一切なく、単に居心地の悪い「異国」としての側面が強調されている。そのせいか本作はよく「日本に対するリスペクトに欠けている」といった非難に晒されているが、じゃあ逆にお前ちっとも興味が湧かない国に突然飛ばされて、ああここは○○ビルディングですね、あれは○○ストリートですね、なんて心の余裕持てるのかよ、と思う。我々にとっては見慣れた新宿西口の摩天楼も、彼女らにとってはこのうえなく不気味な巨大怪獣に他ならない。いくら生来の文化的エリートとはいえ、「フランシス・フォード・コッポラの娘」という重荷を背負いながらこれほど自由闊達に映画を撮ることのできるソフィア・コッポラはマジで精神がタフなんだなと思う。『SOMEWHERE』もよかったな。

 

25.用心棒(黒澤明、1961)

黒澤作品の中でもとりわけエンタメ色の強い作品。宿場町を分断する二つの反社会勢力の前にフラリと現れた最強の用心棒が、弁舌巧みに両陣営の間を行き来するサスペンスアクション。三船敏郎扮する用心棒は、この抗争によって最も被害を受けるのが宿場町の民衆であることを知っており、どうにかして彼らが助かる道を模索する。ハイテンポな活劇エンタメにあっても黒澤の素朴なヒューマニズムは決して後退することがない。大島渚三島由紀夫が黒澤映画を「イデオロギーがない」と嘲笑したのは有名な話だが、あらゆるイデオロギー、社会運動というものは、その根源を辿れば人民の素朴で個人的な倫理的違和感に端を発するものであるはずだ。黒澤はそのミクロな生起の瞬間に焦点を絞り続けたのだと思う。とはいえ『生きものの記録』のようなシロモノまで擁護できるかといえば、それはまあ、うん・・・

 

26.イレブン・ミニッツ(イエジー・スコリモフスキ、2015)

ビデオカメラ、監視カメラ、果ては散歩中のイヌの「目線」まで、これでもかというほど多彩な撮影媒体で記述された群像劇。カメラは世界全体に遍在し、何もかもを理解の範疇へと接収しようとする。事実、同じ11分間を生きた人々の主観を渡り歩くことによって、物語に敷設された「謎」の正体が少しずつ露わになっていく。しかしその結末はあまりにも唐突で、道理に欠けている。多種多様なカメラを通じて獲得してきたはずの真実は、実のところまったく無用のフェイクだったというわけだ。そんな空転ぶりをあざ笑うかのように、街の上空に正体不明の「黒点」が浮かび上がる。カメラの権能に疑義を呈した作品といえばミケランジェロ・アントニオーニの『欲望』(原作はコルタサル『悪魔の涎』)、マイケル・パウエル『血を吸うカメラ』などが有名だが、そういう不信感を21世紀的な映像技術を踏まえたうえで再奏したのが本作。ちなみに監督はイエジー・スコリモフスキなんだけど、代表作である『出発』や『早春(DEEP END)』とのギャップがすごい。どっちも半世紀前の作品だし。

 

27.ラスト・アクション・ヒーロージョン・マクティアナン、1993)

アーノルド・シュワルツェネッガー主演作品なら『ターミネーター2』か本作しかないだろという気持ちがある。あ、やっぱ『プレデター』も捨てがたい。本作は映画好きの少年が、シュワルツェネッガーの主演する『ジャック・スレイター4』という作品の中に入り込んでしまうという所謂メタ映画なのだが、ポストモダン文芸のような小難しい問題意識に足を取られることなく、あくまで大作娯楽アクションを貫徹しているのが素晴らしい。それでいて「フィクションとは何か」という命題にもしっかりコミットしているのだから恐れ入る。またオマージュ映画としての側面もあり、トレンチコートに身を包んだモノクロのハンフリー・ボガートベルイマン『第七の封印』に登場する悪魔など、古今東西の映画的遺構が画面上に乱れ舞う。本作のシュワルツェネッガーが、数十年の時を経て同じくオマージュ映画であるスピルバーグレディ・プレイヤー1』に登場しているのを発見したときは、ようやく歴史が受け継がれたのだな・・・と思わず感動してしまった。

 

28.生きてるものはいないのか(石井岳龍、2012)

身体が痒くなるくらいズレにズレたディスコミュニケーションが炸裂するシュールコメディ。とある大学で突然パンデミックが発生し、キャンパス内にいる者たちが次から次へと死んでいくのだが、そこにパニックホラー的な緊張感はまったくない。人々はただ困惑し、何が起きているかもわからないまま死んでいく。美しい言葉を飾り立てたり、不条理に怒号を上げたりする猶予などない。しかしだからこそ、彼らの死に様には彼ら自身の人間的性質が剥き出しのまま彫琢されている。とはいえ切ないのは、彼らが命を代価に紡ぎ出した最後の輝きを、生きている者たちがまったく受け取れていないということだ。あまりにも絶望的なすれ違いに思わず笑ってしまうんだけれど、いやまあ、コミュニケーションというのは本当に難しいですね。

 

29.フィツカラルド(ヴェルナー・ヘルツォーク、1982)

ヴェルナー・ヘルツォークヴィム・ヴェンダース『東京画』の中で、東京という街について「ここには私の撮りたいものは何もない」と言い切った。それだけならただの無害な自然回帰主義者なんだけど、この人の場合ちょっと度を超えている。アマゾンの奥地に制作スタッフを呼びつけるのもヤバいし、「蒸気船で山を越える」という途方もない脚本を本当に実行しているのもヤバい。撮影中にスタッフが次から次へと降板しまくったというのは有名な話だ。「アマゾンの奥地にオペラハウスを建てたい」という主人公の奇矯な構想は、そこに住まう人々と自然の調和の上を虚しく空転し、遂には藻屑と散り果てる。それでも過去作『アギーレ/神の怒り』のような陰惨な結末を辿らなかっただけまだ救いがある。

 

30.グッドモーニング、ベトナム(バリー・レヴィンソン、1987)

とにかくロビン・ウィリアムズ扮するDJクロンナウアーのマシンガンのような弁舌が冴えわたる戦争映画の傑作。ベトナム戦争真っただ中のサイゴンに従軍慰安DJとして呼びつけられたクロンナウアーは、近所に暮らすベトナム人の兄妹と親交を深めていく。とはいえ一見すると対等そうな両者の友好関係の背後には、侵略国アメリカと非侵略国ベトナムという巨大な不平等が横たわっている。クロンナウアーはそういった暗部からは巧みに目を背け、ベトナムの人々との交流を続けるが、戦争という巨獣のもたらす災禍を彼一人のヒューマニズムで帳消しにできるはずもなく・・・クロンナウアーが現地の人々と楽しげに野球をするラストシーンは心温まる一方で政治的な緊張感がある。

 

31.楢山節考今村昌平、1983)

山間集落のおぞましくも可笑しい因習を豪快な筆致で描き出した今村昌平の代表作。出来の悪いモンド映画のように未開文化圏の非倫理性を面白おかしく誇張するのではなく、対象と一定の距離感を保ったままリアリズム的空間を淡々と編み上げていく。ともすればふとした拍子に「そちら側」の倫理に足を取られてしまいそうにさえなる。前半はいかにも人工的で技巧に走ったようなショットが多くてヒヤヒヤするんだけど、そういう気配が物語の深化とともに次第に薄れていき、最後には神の思し召しとしか考えられないような奇跡的なショットへと結実する。演出ではカバーしきれない「偶然」をいかにモノにできるか、というのはロケ映画において最も重要な関心事の一つだが、その点において本作は白眉の出来だ。

 

32.劇場版クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ!オトナ帝国の逆襲(原恵一、2001)

どこを取っても完璧な映画は存在するかと訊かれたら内心ではこれが思い浮かんでるんだけど悔しいからあんまり言わない。物語もろとも心地良いノスタルジーの中へと沈潜していき、それから「子供」の反ノスタルジー性を原動力に一気呵成の再浮上を遂げる。そのあまりにも輪郭の整ったダイナミズムに思わず舌を巻く。原恵一は本作の次に『アッパレ!戦国大合戦』を撮ったのを最後にクレしん映画から撤退するんだけど、その翌年度の作品が『栄光のヤキニクロード』なのが最高なんですよね。吹っ切れ方に相当の覚悟がある。『時をかける少女』と並んで長回しが本来的な効果を発揮している数少ないアニメーション作品。バスでの逃走シーンが黄金期のジャッキー映画みたいで興奮する。というかクレしん映画は武術・剣術全般に対してありえないくらい解像度が高い。『暗黒タマタマ大追跡』中盤の珠由良七人衆(もちろん元ネタは『七人の侍』)の地味だが威厳のある戦闘シーンといい『カンフーボーイズ 拉麺大乱』のあからさまな『酔拳』リスペクトな修行シーンといいとにかくオマージュの質が高い。

 

33.裏窓(アルフレッド・ヒッチコック、1954)

ワンアイデア系の映画はたいていアイデアの奇特性ばかりが先走って物語や演出が窒息死しているパターンが多い。『TIME』『リベリオン』なんかがいい例だ。これらは本当につまらない。一方で本作は「部屋から一歩も出ずに事件を解決する」という素朴なワンアイデアを、豊潤なサスペンスとスリリングな演出で巧みに映像化している。自己で足の骨を折ってしまった主人公は、暇潰しに窓外の景色に目を遣る。するとどうも向かいにあるマンションの一室の様子がおかしい。そこで主人公は電話と会話だけを駆使してどうにか窓外の難事件の真相を突き止めようと奮闘する。ここでの主人公の物理的不能性は、我々受け手が映像作品に対して感じる不能性とそのまま重なる。ジェームズ・スチュアートのもどかしげな表情を通じて、受け手は技術の目まぐるしい発展がもたらした万能感を喪失し、映画という媒体の深遠さを厳粛に再認する。

 

34.ハードコア(イリヤ・ナイシュラー、2016)

全編一人称視点!FPSのような没入感!といった触れ込みで局所的な盛り上がりを見せたSFアクション映画。記憶を失い身体を部分的に改造された主人公が愛しい妻を奪還すべく街を血まみれで奔走する。GoProという不安定な撮影環境とロクな説明もなく高速で展開していく物語に悪酔いしそうになるが、それらのギミックが必然性を有したある種の伏線であることを知った瞬間に心地良い敗北感に包まれる。一人称視点であるがゆえに「顔」を持たず、受け手による自己投影を手放しに受け付ける主人公の存在形態は、言うなればどこまでも代替可能な空き箱のようなものだ。そうした透明性は、彼の正体とも密接に関わってくる。というか彼の存在そのものを表象している。物語を貫く軽率で悪趣味なノリも、今思えば誘い込まれた哀れなゲームプレイヤーを屠るためのブラフだったような気もする。ちなみに山下敦弘が本作とほとんどタイトルが同じ映画(『ハード・コア』)を撮っているのだが、そっちもまあまあ面白い。

 

35.遙かなる山の呼び声(山田洋次、1980)

高倉健の主演映画を一本だけ選べと言われたら軽率にも本作を選んでしまう気がする。『幸福の黄色いハンカチ』で共演した倍賞千恵子と再びタッグを組み、北海道の肥沃な大地を背景に哀愁漂う恋愛模様を繰り広げていく。抑制と儀礼を基調とする高倉健と、どこまでも思慮深い倍賞千恵子という組み合わせのせいか、普段の高倉健作品にも増してもどかしい距離感が持続する。離別の悲しみの中に再会の兆しが織り込まれた絶妙な温度感のラストシーンがなんとも味わい深い。ここでの高倉健の護送先が網走刑務所というのは山田洋次なりの茶目っ気なんだろうか(参照『網走番外地』)。そういえば『遙かなる山の呼び声』というタイトルもヴィクター・ヤング『シェーン』の邦題からの引用らしい。しかし全ての罪過を背負ったまま街を去るシェーンとは異なり、高倉健演じる田島には帰ってくる場所が用意されている。『無法松の一生』→『男はつらいよ』もそうだが、山田洋次は悲惨な結末を辿る過去作に幸福論的なリメイクをかけるのが好きなんだろうなと思う。

 

36.カサブランカマイケル・カーティス、1942)

ハンフリー・ボガートは生来のハードボイルドというよりはむしろフラジャイルな内面を見た目のカタさで隠匿している臆病者というイメージがある。そして本作はそのイメージを不動のものとした。「君の瞳に乾杯(”Here’s looking at you, kid.”)」などという本来であれば蕁麻疹が出てもおかしくないような言い回しがなぜだか心地よく聞こえるのは、ボギーがハードボイルド・ガイとして完璧ではないからなんじゃないかと思う。2枚しかない亡命用のチケットをさんざん悩んだ挙句に自分がかつて愛した女とその夫に譲ってしまうというボギーの選択は、もう恥ずかしくなるくらい虚勢的なカッコつけでしかないんだけど、その弱さにどうしようもなく惹かれてしまう。ビリー・ワイルダー麗しのサブリナ』でオードリー・ヘップバーンにブツブツ愚痴をこぼすボギーもいいよね。

 

37.お引越し(相米慎二、1993)

離婚の重苦しいリアリティをまだ知らない娘があの手この手で両親の復縁を目論む話。娘が奮闘すればするほど両親の仲は水面下で険悪さを強めていくのだが、娘にはその理由がわからない。「離婚」が「友達との喧嘩」と一体どう違うのか、彼女にはまだ理解ができない。それでも関係修復の困難さだけはうっすらと感じていた娘は、最後の作戦として両親を旅行に連れ出す。しかしそこで娘は近所の森の中に迷い込んでしまう。時系列の入り混じった亜空間で、娘が母や父に向かって楽しげに—しかしそれがフィクションであると明確に理解したうえで—手を振ったり語りかけたりするエンドロールは、もはやこれが本編でいいんじゃないかというほど鮮烈だ。そういえば序盤で家族が座っていた歪な三角形のテーブルは、『家族ゲーム』に出てくる異様な横幅を持ったテーブルに着想を得ているんじゃないかと思った。家族不和とテーブルの形状にはたぶん相関がある。

 

38.イリュージョニストシルヴァン・ショメ、2010)

ベルヴィル・ランデブー』のシルヴァン・ショメが『ぼくの伯父さん』のジャック・タチによる脚本をアニメ映画化した作品。『ベルヴィル』にみられたような極端に誇張的な映像表現はほとんどみられず、代わりにリアリズム的な哀愁が影を落としている。時代遅れの売れない手品師が現代社会の底流に沈み込んでいくというかなり救いようのない話で、これはひょっとしたらジャック・タチ本人の自虐なんじゃないかとも思う。となれば手品師に同伴していた女の子は要するにシネフィル的な好奇心で映画を節操なく突っつき回す我々に他ならず、最後には手品師のほうから離縁状を突き出されるというオチ。「映画に明るい未来なんかないよ」という自虐的なメッセージが、他ならぬ映画というフォーマットの上に照射されているというのがなんとも絶望的であり、同時に希望的でもある。

 

39.闇のあとの光(カルロス・レイガダス、2012)

たとえばアピチャッポン・ウィーラセータクンの映画においては、現実と非現実が自然の静謐の中で心地よく融け合っており、受け手はそこに身を横たえることで自らも陶酔の世界に没入することができる。一方本作もまた自然を媒介に現実と非現実が混じり合っているのだが、そこにアピチャッポン映画のような安らぎはない。本作では、自然という特異点において現実はおぞましい非現実の侵犯を受ける。暗い廊下に現われた真っ赤な怪物、アポカリプティックな色彩に染め上げられた海、窓外に覗く無窮の闇夜。あまりにも居心地の悪い静謐が作品全体に立ち込めている。強引に形容するならば、マジックリアリズムと古典ホラーを経由したハーモニー・コリン作品、みたいな。伝わんねー!『ガンモ』か『ジュリアン』を見てください。

 

40.炎628(エレム・クリモフ、1987)

純度100%の戦争映画というものがあるとすれば、それは間違いなく本作。ただ殴られ、撃たれ、焼かれ、破壊される。フリョーラ少年の瞳はカメラ以上の権能を持たず、彼もまた戦争の生み出した暴虐の渦中でひたすら受動態的な死の恐怖を味わう。反戦映画でありながらもベトナム戦争を題材にした作品によくある極端な心理映画に落ち込んでおらず、それによって戦争が本質的にアンコントローラブルであることが強調される。なおかつ火薬・爆薬がド派手に爆ぜるだけの下品なアクションエンタメとも一線を画す。作中で幾度となく巻き起こる銃撃や爆撃は「画面越しのスペクタクル」ではなく「今ここにある危機」そのものであり、その圧倒的な暴力性の前に我々は縮こまって身震いするほかない。フリョーラ少年が川に浮かんだヒトラーの絵を執拗に撃ち抜くラストシーンは圧巻としか言いようがない。

 

41.映画 山田孝之 3D(松江哲明山下敦弘、2017)

画面外から投げかけられる質問群を亜空間に座した山田孝之が淡々と答えていくというただそれだけの映画。素朴な個人的質問に始まり、やがて彼の隠された過去へと焦点を絞っていく、といういかにもドキュメンタリー的な手続きを踏みながら山田孝之という人間の内面に迫っていくのだが、最後の最後で巨大な空転が待ち構えている。それを軽率な梯子外しと捉えるか、あるいはドキュメンタリーとフィクションの境界不安定性に対するある種の挑戦と捉えるかは受け手次第だが、個人的にはかなり面白い試みだったのではないと思う。とはいえ冒頭から芦田愛菜による間の抜けた映画アナウンスがあったりシュールきわまる場面演出が挿入されたりと、今思えば兆しのようなものは予め示されていたし、ここばかりは素直にやられた~と頭を抱えるべきだろう。や、やられた~。

 

42.マインド・ゲーム湯浅政明、2004)

湯浅政明初監督作品。性感帯が筆を走らせたかのような放埓で豪壮なタッチのハイテンポコメディ。時系列の推移に比例してキャラデザインがどんどん崩れていくのが気持ちいい。コーエン兄弟『未来は今』の一部を完全にパクったと公言している例のシーンも面白いし、ラストのフラッシュカット演出には『8 1/2』『アマルコルド』あたりの頃のフェデリコ・フェリーニめいた祝祭性すら感じる。芸術性と大衆性の狭間で不器用に懊悩している最近の湯浅作品に比べるとやっぱりこっちのほうが面白い。『ケモノヅメ』とか『カイバ』とか『四畳半神話大系』とかやってた頃にたまには戻ってきてほしい。『犬王』の演出技法はかなりそういった初期の作品群に寄せられていたのでよかった。

 

43.荒野のストレンジャークリント・イーストウッド、1973)

古典的西部劇のフォーマットで織り上げられたホラー映画といって差し支えないと思う。孤独なガンマンが寂れた街の用心棒を務めるというメインストーリーが進行する一方で、とある保安官が街の中心で暴漢たちの襲撃を受けるという挿話が不気味に明滅する。ガンマンの物語と保安官の物語は繋がりそうでなかなか繋がらない。この宙吊りのもどかしさが画面的静謐と結託して形容しがたい恐怖空間を醸成する。街の人々に見放された保安官が孤軍奮闘する、という展開は『真昼の決闘』を彷彿とさせるが、『真昼』では最終的に保安官の妻が彼を窮地から救い出した。しかし本作の保安官は最後まで孤立無援のままだ。さて、彼の晴らされぬ怨恨が向かう先はどこか・・・?

 

44.いつかギラギラする日深作欣二、1992)

全編を通してここまでボルテージの高い映画はそうそう拝めるものではない。『スピード』のテンポとスケールに『俺たちに明日はない』のピカレスク的ロマンティシズムと『仁義なき戦い』の恍惚的会話劇を混ぜ込んだ爆薬のような映画。強盗を犯した三悪人が報酬の分け前を巡って命がけの追走劇を繰り広げるのだが、そこへ落ち目の高利貸しヤクザだの気の狂った愛人だの売れっ子バンドマンだの北海道県警だのが入り混じってきて物語はいよいよお祭り騒ぎの様相を呈す。国内にこれほどまで活気のあるカーアクション映画が存在していたという事実に驚く。それでいて適度に節制の利いた詩的情緒がふと顔を覗かせるものだから痺れる。「死ぬまでにあと1、2分ある。24でくたばるんだ、好きな歌の一つでも歌って死ね」。

 

45.男はつらいよ ぼくの伯父さん(山田洋次、1989)

渥美清の病状が悪化の一途を辿っていたこともあり、本作以降の『男はつらいよ』シリーズにおいては寅次郎の甥っ子である満男の動向が物語の中心に据えられている。それゆえ『相合い傘』『夕焼け小焼け』『ハイビスカスの花』といった初期の傑作群に比べていくぶんか物足りない印象を受けるのも無理はない。しかし個人的にはこの満男編においてこそ車寅次郎の魅力は極致に達するものであると思う。寅次郎は自分の背中に無邪気な憧憬を寄せる満男の眼差しに、自分と同じような瘋癲と零落の将来を感じ取る。自分の身勝手な生き様が大切な誰かの人生を破滅に導いてしまうのではないかという自覚が生じたとき、寅次郎の言葉は真実の重みを獲得する。交際相手の父親に心ない冷笑を浴びせかけられた満男を守るべく「満男のやったことは何も間違っていなかったと思います」と食ってかかる寅次郎の姿に思わずグッとくる。根無し草の風来坊だったはずの彼は、本作を境に、「ぼく(満男)」という他者の人生を抱えた「伯父さん」へと変わっていく。

 

46.ユリシーズの瞳テオ・アンゲロプロス、1995)

ある映画監督の男が、失われたフィルムを求めて東奔西走するロードムービー。神話めいたロングショットは時間の制約を解体し、そこに幾百年もの歴史の蓄積を吐き出させてしまう。男は地理という横軸と歴史という縦軸を縦横無尽に往還するなかで、失われたフィルム=自己存在の本質に漸近していく。時空を跨いだ大いなる知の旅を続ける彼が、最終的にボスニア・ヘルツェゴビナ紛争という現代史に辿り着いてしまったことは悲惨な必然と形容するほかない。あの荒廃しきった撮影現場は、セットではなく本物の交戦地帯だったという。テオ・アンゲロプロスの映画はだいたいギリシャを中心としたヨーロッパ史への深い知識が前提となるため、そのあたりに明るくないとあんまり入り込んでいけないんだけど、本作はかなり見やすい部類だと思う。上映時間3時間だけど。

 

47.有りがたうさん(清水宏、1936)

「有りがたうさん」の名で知られる心優しい長距離バス運転手とその乗客たちが織り成す人情ドラマ。物語がバスという局限的空間に固定されているにもかかわらず、そこを通過していく人間の一人一人に鮮やかな精彩が感じられる。わずか一言、二言を残して降車していった者たちにさえ人間的立体感と奥行きがある。総勢数十人が入り乱れるカオスな群像劇にもかからず、嫌な圧迫感がないのは、「狂言回し」たる有りがたうさんの優しく淡々とした性格が程よい緩衝材になっているからに他ならない。まるで川島雄三小津安二郎をいいとこ取りしたような映画が太平洋戦争の直前に撮られていたという事実に驚嘆する。またバスの動きに合わせて上下左右に揺れるカメラアングルも見事なものだ。蓮實御大が「清水宏を見ずして日本映画を語るな」などという過激思想を喧伝している理由がほんの少しだけ理解できた気がする。

 

48.パリ、テキサスヴィム・ヴェンダース1984

ヴィム・ヴェンダースはやっぱりこれが一番いい。『ベルリン・天使の詩』『ことの次第』みたいな頭でっかちな作風も嫌いじゃないけど。とにかくロードムービーとしてもヒューマンドラマとしても至高の出来。家族再建を夢見る男が大事に持っているテキサス州パリスの写真は「限界」のメタファーであり、彼の奮闘努力の行き先が不毛な砂漠地帯であることを暗示している。テレクラのマジックミラー越しに元妻と言葉を交わし合うシーンでは、どれだけ感情を込めようと二人の目線が決して交わらないというのが痛切きわまりない。不気味なくらい真っ赤に染め上げられたテキサスの夕空があまりにも印象的だった。中盤で主人公の男が息子と道路越しに並んで歩くシーンがあるのだが、是枝裕和そして父になる』にも確か同様のシーンがあった。

 

49.JSAパク・チャヌク、2001)

韓国と北朝鮮の境目にある共同警備区域に配置された南北軍人たちの交流を描いた作品。国家の枠を超えた民族的連帯が描き出されているという点において反戦映画と言えなくもないが、それよりは既に失われてしまったものへの哀愁や追悼としての意味合いが強い。兵士たちはお互いが国を超えて信じ合うことができると確信する一方で、それが永遠にかなわない望みだということを痛いほど理解している。したがって彼らは夜な夜な北朝鮮の兵舎で他愛のない児戯に興じる。戦争という揺るがぬ現実からひとときの解放を得るために。しかしそうした空想的な人間関係は脆く儚い。ほんの少し現実が闖入してくるだけでいとも簡単に瓦解してしまう。にもかかわらず最後まで身を挺して空想を守り抜こうとしたソン・ガンホを祝福してくれる者がもはやこの世に誰もいないというのがなんとも切ない。ラストシーンの4人が集まった写真は、4人の共有した空想が現実に穿ったほんの小さな穴だといえる。しかしそれは空想であることを強調するかのように、遠い日の思い出のように淡く霞んでいる。

 

50.僕らのミライへ逆回転ミシェル・ゴンドリー、2008)

原題は”Be Kind, Rewind”。邦題がカスすぎるせいでミシェル・ゴンドリー作品の中でも軽視されがちな一作。レンタルビデオ店の店番を任されたものの店中のVHSをダメにしてしまった青年たちが、客の要望に応じて即興の同名映画(彼ら曰く「スウェーデン版」)を撮影&レンタルする話。『ヒューマン・ネイチュア』『エターナル・サンシャイン』で組んだチャーリー・カウフマンの奇形性を継承しつつも普遍的なヒューマンドラマを紡ぐことに成功している。これを見た後でリファレンス元の映画を見てみると意外にもやってること自体には大差がないのが面白い。『ゴーストバスターズ』だけは先に見ておいた方がいいかも。廃れゆくVHSとますます市場を席巻するDVDの対比構造の先に、青年たちの住む古風な街とそれを買収せんとするモダニゼーションの対立が描き出されているのが美しい。ちなみに本作公開後にインターネットの有志らが各々で好きな映画のスウェーデン版を撮ってYouTubeなどにアップするブームが起きた。そこまで含めて最高の映画。

 

おわり。

映画レビュー自選10本

こんちわ因果だよ!某感想投稿サイトに映画のレビューをポツポツ上げてるのでその中からイイ感じのやつを10本くらい転載しちゃいます!

 

1.高畑勲おもひでぽろぽろ』(1991)

「マジに田舎でやってけんの?」星2.5/5

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タエ子はトレンド最前線の姉たちにやや気圧され気味ではあるものの、根っからの東京生まれ東京育ち。そんなシティーガールが「田舎はいいなあ」みたいなうっすらとした憧憬を片手に山形の農村へ出向けば、そこに元々住んでいる人々との根本的ギャップが露呈してくる。

タエ子は農村の風景を小学5年生の頃の周囲の空気と重ね合わせる。すべてが曖昧に滲んでいて、いいことであれ悪いことであれ心の琴線に触れるようなできごとだけが存在する美しきノスタルジーの世界。

だけどこんなアレゴリーは田舎ネイティブの人々からすればたまったものじゃない。それは要するに田舎の都合のいい神聖化だ。田舎には都会のようなせせこましさも退屈さもなくて、野や花に囲まれた美しい生活だけがある、という。

トシオをはじめとする農村の人々は、タエ子を手厚く歓迎しはするものの、彼女の浅薄なノスタルジー消費にうっすら勘付いている。トシオは山や畑を指差して「これは全部人間が作ったものだ」と言ったが、ここにはタエ子の幻想に対する反感が込められている。

さらに追い打ちをかけるかのように、本家の親戚たちが「トシオに嫁入りしないか」と打診してくる。ありありと突きつけられたムラ社会の論理に、タエ子はたまらず家を飛び出す。村外れまで逃げおおせたところで結局偶然通りかかったトシオの車に拾われてしまうあたり「逃れられなさ」が強調されていてつらかった。

車中では小5のときの隣の席の「あべくん」という男の子の話が出てくるのだが、これまた田舎のアレゴリーとしてはこの上なく酷い。あべくんは貧乏で性格がひねくれており、クラス中が彼のことを嫌っていた。そんな中タエ子だけは嫌悪感をできるだけ露わにしないよう努めていた。しかし彼が転校することになってみんなに一人ずつ握手をしようという段になると、彼はタエ子にだけ握手をしてやらなかった。

タエ子はこれについて「私が誰よりもあべくんのことを嫌っていたからだ」と懺悔し、それをトシオが「男は好きな女にこそそういう意地悪をしてしまうものだ」とフォローする。それはそうとこの期に及んで「貧乏で性格の悪いあべくん」を田舎の人々のアレゴリーに用いてしまうタエ子はやっぱり根本的に都会人であるし、田舎暮らしには向いていないように思う。

しかし彼女は駅でトシオたちと別れたあと、東京に向かう電車を途中で折り返して彼らの元へ戻る。つまり田舎に嫁ぐことを決意したわけだ。その決断の是非についてとやかく言うつもりはないが、今までさんざっぱら家父長制的な圧力に自由を阻害されてきたはずの彼女が、より強大で旧態的な差別構造を根本に持つであろう田舎暮らしのリアリズムをサバイブすることができるのかと思うと少し不安になってしまう。

 

2.フランク・キャプラ素晴らしき哉、人生!』(1954)

「魔法であって何が悪い?」星3.5/5

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クリスマスイブの夜。自社の終焉を悟り絶望の淵に沈みかけていた主人公ジョージだったが、普段の善行が幸いし、彼は周囲からの資金的あるいは精神的援助によって奇跡的な再生を遂げた。友人知人の喝采を受け、フェリーニ8 1/2』のラストシークエンスを彷彿とさせるような大団円でこの映画は幕を閉じる。反面、ジョージを欺いた悪徳長者のポッターに関しては、その後の破滅や転落はおろかそもそもいかなる描写さえされないという重罰を受ける。施す者と施さざる者の鮮やかすぎる二項対立、信賞必罰。いい奴はいい奴、悪い奴は悪い奴。

私はあまりにもストレートすぎるヒューマンドラマが正直言って少し苦手だ。常に見る側の倫理が試されている感じで、そこから零落することがあたかも非人間の証明となるかのような心苦しい緊張感がある。そういう意味では深い教養やら知性やらが試される「芸術映画」のほうがよっぽどマシな気がする。教養や知性は人生をさらに高質な何かへと昇華させるスパイスに過ぎないが、倫理は人生そのものといっても過言ではない。そんな倫理がもし自分に備わっていないと知ってしまったら、我々に生きる意味があるのだろうか、などと考えてしまう。

とはいえジョージたちの人物像があまりにもステレオタイプに過ぎる、という批判を加えることによってこの映画に描き出されているものが倫理のふりをしたおざなりの二極化主義に過ぎないことを強引に喝破することも可能かもしれないが、そんなことにあまり意味はない。彼らはいかにも平板で、お調子者で、ご都合主義的なステレオタイプの有象無象かもしれない。しかし無機的な人工物であるようにも思えない妙なリアリティがある。

たとえばジョージの行動を見ていると、私はまるで自分の鏡像を眺めているかのような錯覚に陥った。根はそんなに悪くない奴で、普段から愛想を振りまいていて、時には中途半端に啖呵を切って弱者の味方なんかをしたりするけど、不意の挫折が訪れると途端に取り乱して、つい周囲の人やモノに棘のある接し方をしてしまう。そうそう、こうなっちゃうことあるんだよ、いやほんと、単純すぎて自分でも嫌になるんだけど。

おそらくこのように登場人物について「これは俺だ」と思い込んでしまった瞬間が我々の敗北であり、あとは有無を言わさず終幕まで引っ張り込まれてしまう。「倫理に乗るか反るか」などという入り組んだ議論はそもそもすっ飛ばし、最短経路でこちらの襟首を掴んで倫理の世界に引き込む圧倒的な求心力こそがこの映画の正体だといっていいかもしれない。いい奴はいい奴で、悪い奴は悪い奴だというこの映画の安易な倫理に乗るつもりはないが、少なくともこれを見ている間だけは、私はそれに乗っていた。言うなれば「映画の魔法」的なものにかけられていたように思う。

今これを書いていて、改めてジョージたち登場人物に本当にリアリティなるものがあったか考えてみると、不思議なことにそんな気はあまりしない。ジョージも少しずつ私のパーソナリティから遠ざかっていく。やはりこれはある種の魔法だったのだな、と思う。しかし魔法であって何がいけない?人道を踏み越えない限りにおいて、それはフィクションという媒体のきわめて重要な意味だ。

 

3.伊丹十三タンポポ』(1985)

「コメディの裏側で・・・」星4.5/5

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斜陽のラーメン屋を女手一つで切り盛りするタンポポの生き様に惚れ込んだタンクローリー運転手のゴローが、美食家の浮浪者や名家お抱えの料理人を味方に引き込みながらなんとか彼女のラーメン屋を再興させようと奮闘するさまをスラップスティックに描いたコメディ映画だ。

伊丹十三といえば処女作『お葬式』を尊敬する蓮實重彦に「ダメです」と一蹴されてしまったエピソードが有名だが、本作はそんな『お葬式』に続く2作目にあたる。それを踏まえたうえで本作に臨むと、女店主タンポポの姿が伊丹十三本人に重なるような気がしてなんとも切ない。

ラーメンという食べ物はおそらく庶民性や大衆性の暗喩である。全力でコミットする女店主タンポポは芸術のコードを降りてエンタメへと没入していく伊丹十三そのものだ。

途中、心ない同業者に「この素人め!」とケチをつけられたタンポポが「ラーメンっていうのは素人が食べるものでしょうが」と反論するシーンがあるが、ここにも『お葬式』のような蓮實重彦のような評論家の審級を主眼に置いて制作したある種の芸術映画から『タンポポ』という大衆に開かれたコメディ映画に伊丹の作風が転向したことが示されているといっていいかもしれない。

また、タンポポとゴローらによる復興譚が語られる一方で、幕間に官能的でアバンギャルドな色にまつわる挿話が挟まれるのだが、ここには芸術映画を完全には捨てきれない伊丹十三の未練が垣間見える。おそらく蓮實重彦に『お葬式』を棄却されなかったならば、こちらの挿話こそがこの映画の本流となっていたように思う。

これらの挿話は突然始まったかと思えば突然終わり、何事もなかったかのようにタンポポの物語へと戻っていくが、このとき挿話は間の抜けたアイリスアウト(画面を丸く閉じながら暗転させる手法)によって遮断される。「ハイハイ芸術主義はここまでですよ(笑)」と無理やり冷笑している伊丹十三の姿が目に浮かぶようで切ない。

現実/非現実を自由自在に往還するスラップスティックコメディとして完成度がきわめて高い一方、その裏側に伊丹十三の個人的な挫折と再生が伺えるメルクマール的な一作といっていいだろう。

途中で出てきた海女の女の子がやけに綺麗だなあと思ったら黒沢清ドレミファ娘の血は騒ぐ』の洞口依子だったらしい。好き…

 

4.内田吐夢『血槍富士』(1955)

「血染めの長槍」星4.5/5

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山中貞雄『人情紙風船(1937)』と川島雄三幕末太陽傳(1957)』を彷彿とさせる「時代劇×群像劇」の隠れた名作。とにかくどこに行ってもDVDがないのではるばる渋谷のTSUTAYAまで出かける羽目になった。

本作が(というか上記の3作が)単なる出来合いのヒューマンドラマよりもよっぽどメモラブルなのは、喜劇の中に悲劇を織り込む試みを違和感なく成功させているからだろう。

本作では槍持ちの権八を中心にめいめいの人間模様が群像劇として展開されていくが、それらの基調を成すのは性善説的なヒューマニズムだ。

身寄りのない少年の動向を絶えず気にかける権八、泥棒を発見したという子供の話を疑いなく受け入れて捕物に協力する周囲の大人たち、身銭を切って他人の娘を女衒から買い戻す藤三郎、侍社会の差別的な主従関係の有り様に疑義を呈する権八の主君。

それらはモノクロの映像の中に温かな血液を感じさせてくれるようなヒューマニスティックな人間として描かれている。

しかしながら一方で『血槍富士』などという物騒なタイトルからもわかるように、この映画はただのヒューマンドラマに終始しない。

終盤、権八の主君はもう一人の家来である源太を酒屋に連れ出す。主君は差し向かいで日本酒を傾けながら先の主従関係論を開陳する。

するとそこにいかにもガラの悪い侍たちが三々五々連れ立ってやってくる。侍の一人が源太に向かって「下僕の分際で主君と酒を交わすなど」と悪意を吐き散らす。案の定喧嘩が勃発し、2人は侍たちに切り捨てられてしまう。

川辺にいた権八は主君の窮地に急いで馳せ参じるも、時すでに遅し。彼は復讐の鬼となり5〜6人の侍たちを長槍一本で圧倒する。

結局、権八の行為は主君の敵討ちという名目で処罰を免れたが、彼の表情には以前のような人情味はもうなかった。坂道の稜線に向かって一度たりとも振り返ることなく、一人ぼっちで歩いていく彼の背中。それを冷酷な俯瞰構図で捉え続けるカメラ。このとき、我々は喜劇の内側に徐々に織り込まれていた悲劇をアクチュアルに体感する。

喜劇というとっつきやすい間口から針のように細く鋭い悲劇へのシームレスな転換。しかしそれはジャンプスケアのように唐突なものではなく、むしろ初めから埋め込まれていたものだ。

我々はとりとめもない喜劇に乗っていたつもりで、実はシリアスな社会問題や人間哲学を踏んづけていたのだ。それは「起きた」のではなく「あった」のだ。それに気がついたとき、笑いは実感覚を伴った深い反省へと変わっていく。それも、笑ったぶんだけ。(これは言わずもがな、上述の『人情紙風船』と『幕末太陽傳』にも共通している)。

そういえばコッポラ『地獄の黙示録』もTHE・ハリウッド!といった感じのド派手なアクションスリラーに始まるものの、ベトナムの川を遡上していくにつれて問題意識が徐々に内向的・思弁的な領域へと沈み込んでいく、という不思議な転換を遂げる映画だった。

とはいえ『血槍富士』は『黙示録』ほど受け手を置き去りにはしない。ラストシーン、浮浪児の少年は槍持ちの権八に「ぼくも連れてってよ」と懇願する。しかし権八は「槍持ちなんかになっちゃいかん」と少年を峻厳に諭す。

少年は去りゆく権八の背中に向かって棒切れ(=少年にとっての「長槍」)を投げ捨て「バカヤロー!」と叫び、泣き散らす。

少年には権八の胸中に巻き起こったカタストロフィが、ひいてはこの映画が喜劇であることをやめ、明確な悲劇へと転換してしまったことをうまく理解できない。だからそのような態度に出ざるを得なかったのではないか。

我々は少年の「裏切られた」という素朴な悲しみにまず共鳴する。そこから画面に大写しにされた道を目で辿り、その稜線に消え去った権八の背中に、そしてその胸中にも想いを巡らせる。このように「段階を踏ませてあげる」的な優しさが本作にはある。そこがいい。

また、終盤の殺陣シーンは所々チープな箇所はあれど、きわめて迫力に溢れている。黒澤明七人の侍』やペキンパー『ワイルドバンチ』のような、恐怖と躊躇と覚悟がグチャグチャに混じり合った泥臭さ。まあ、公開年次を鑑みるにおそらく『七人の侍』からインスピレーションを得たのだとは思う。

 

5.エドワード・ヤン台北ストーリー』(1985)

「台湾、日本、アメリカ」星4/5

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アリョンは大いなる外部としてのアメリカに憧憬を抱いている。無機質で陰鬱とした台湾を抜け出すことが、自身の人生に何らかの好転をもたらすのではないかと考えたのだ。

一方で主人公のガールフレンドであるアジンは台湾から離れようとしない。経済成長の真っ只中にある当時の台湾においてはまだまだプリミティブな差別意識も根強く、彼女もまたその犠牲者の一人だった。しかし彼女は地理的な横移動に解決を求めようとせず、あくまで内部からの変革を目指し続けた。

とはいえアリョンとアジンの関係は単純な二項対立に終始しない。というのも、アリョンの心境には大きな揺らぎがあるからだ。

彼は国外逃亡を画策する一方で、友人や親族といった土着的価値を完全に捨て去ることができない。貧乏な友人にお金を渡したり、アジンの父親に多額の融資をしたり、内輪的なものに対してはやけに寛容な態度をみせる(そしてそのせいで経済的に破綻する)。

アリョンにとってアメリカとは、おそらく理想の終着駅である。そこではすべてが思い通りになる。彼の義兄が白人専用居住地に一軒家を構えたように。

しかしそこへ辿り着くためには、非アメリカ的なものは一切合切放棄する必要がある。けれど彼にはそれができない。どっちつかずな彼の態度は、彷徨の果てに日本へと不時着する。

80年代といえば、日本が世界で最も存在感を誇示できていた時代だ。アメリカの次に勢力のある国はどこかと問われれば、おおかた「日本」という答えが返ってきたことだろう。

アメリカに次ぐものとしての日本。このとき台湾は日本よりさらに下位に置かれることとなる。そして台湾がアメリカに肉薄しようと思えば、日本を超越しなければならない。土着的価値を捨てきれないアリョンは、したがってアメリカまでは手が届かず、日本で行き詰まる。

富士フイルムの巨大な電光掲示板、テレビに映る日本のCM、演歌の流れるカラオケボックス。それらの光の彼方にはアメリカの影が投射されている。アリョンはそれを追い求める。しかしそれはしょせん幻だ。日本はどこまでもアメリカの未完成形であり、経由地点に過ぎないのだ。

話は逸れるが、台湾・香港は自国がサイバーパンク的なある種のオリエンタリズムによって消費されていることにきわめて自覚的な国だと思う。日本の『AKIRA』『Ghost in the shell』はアジア=サイバーパンクのイメージを全世界に根付かせた元凶であるし、アメリカがそういった単純なイメージを消費・再生産する側であることは『ブラック・レイン』『オンリー・ゴッド』などからも明白だ。

一方でエドワード・ヤン『恐怖分子』、あるいはウォン・カーウァイ恋する惑星』『天使の涙』、ツァイ・ミンリャン『楽日』あたりは自分たちが世界からどう消費されているのかを自覚したうえでサイバーパンク的文脈を展開している感じがある。

殊に本作はその傾向が強く、なおかつそれが作品の主張とも繋がる。アリョンが夢見るアメリカが幻想であるようにアメリカが夢見るサイバーパンク都市「アジア」もまた幻想に過ぎないのである、ということを、本作は台北の過度なサイバーパンク的描画によってアイロニカルに暗示しているのだ。

話が逸れてごめんなさい。

そういえばアリョンが少年期に野球チームのエースだったという設定も、アメリカ→日本→台湾というヒエラルキー如実に喩えている。野球というスポーツにおける最終地点もまたアメリカのメジャーリーグだ。

結局、アメリカに辿り着くことが経済的にも精神的にも不可能であると悟ったアリョン。浮気相手と日本で落ち合うくらいが関の山だと悟ってしまったアリョン。彼が誰もいない路上で恋敵に刺され、そのまま命を落としたことは物語的必然といえるだろう。

一方でガールフレンドのアジンは、当時の台湾に内在的な諸問題(差別、リストラ等)に悩まされつつも、最終的には女上司と共に新たな会社を興す。台湾という土地に絶望しながらも、最後まで逃避という選択肢を選ばなかった彼女の粘り勝ち、といったところか。(そういえばソン・インシン『幸福路のチー』も同様のテーマだったことを思い出した。)

ただ、アジンのこれから先の人生に明るい展望が拓けているかといえば、そうとは言い切れない気がする。アジンが曇天の摩天楼から眼下の道路を見下ろすラストシーンに、私は強烈な不安のイメージを感じた。そしてその道路はたぶん、アリョンが事切れたあの峠道にも続いているはずだ。

 

6.藤田陽一『劇場版銀魂 完結編 万事屋よ永遠なれ』(2013)

「概して心地良い混線」星4/5

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「新訳 紅桜篇」に次ぐ『銀魂』2度目のアニメ映画。今回は原作者である空知英秋の監修したオリジナル脚本が展開される。

小噺チックなメタ描写(映画泥棒のくだり)がシームレスに物語の本流(時空渡航SFサスペンス)へと接続されていくという突飛な物語展開を何の説明や留保もなくすんなり受け入れられるのは、やはりこの映画が「銀魂」だからなのだと思う。

銀魂はメタ描写こそ多いが、それを決して特権化させない。物語世界の天井に穿たれたメタ位相は、眼下の物語を冷静に分析したり批評したりしない。いや、それどころかメタ位相のほうがかえって物語位相に飲み込まれてしまうことだって多々ある。この映画の冒頭のように。銀魂におけるメタ描写とは、下ネタや天丼ネタと同様に、素朴なコメディの手段の一つに過ぎない。

いや、もっと言えばコメディすら手段の一つなのだ。銀魂においてコメディとシリアスは厳格に弁別されていない。しょうもない話題から死人が出たり、殺伐とした剣戟の最中に間の抜けた笑いがあったり、要するにすべてが緩やかに繋がっている。何か一つが特権を有することがない。全力の脱力、それが銀魂だ。

このトーンは本作でもしっかり踏襲されており、心地よいメタと下ネタと涙と剣戟の応酬が展開される。時空渡航というコテコテのSFサスペンスをも問答無用で私物化してしまう「銀魂」文脈の力強さを改めて実感できるだろう。

とはいえ真選組から吉原から攘夷志士までメインないしサブメインキャラクターたちがこれでもかというほど登場するのでややカロリー過多であることは否めない。ラスボスも単なる悪のイデアとしてしか機能しておらず、その点においてカタルシスも薄い。

コメディとシリアスの混線こそが銀魂の妙味ではあるのだが、それにしたってもう少しコメディに振ってしまってよかったんじゃないかと思う。ラスボスにボケさせるとか。

ラストでは世界線是正の影響で登場人物たちが一人一人消えていくのだが、いくら元の世界で再会できるとはいえ、ここでしんみりした雰囲気に全く陥らないのは本当にすごい。その程度の物語的暴力では俺たちゃ痛くも痒くもならねェぞ、という登場人物たちの剛気を感じた。

 

7.イ・チャンドンペパーミント・キャンディー』(1999)

「見事な逆転」星4.5/5

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物語はヨンホという男が陸橋を走る電車に身を投げるところから始まり、過去に向かって少しずつ後退していく。これがクリストファー・ノーランメメント』より1年前の作品だというから驚きだ。

物語序盤、つまりヨンホの人生の末期において、彼の性格はとても歪んでいる。憔悴している。苛立っている。すべてを失っている。そしてそれらの集大成として自殺がある。なぜヨンホはこのようになってしまったのだろうか?というプロセスへの疑問がこの映画のサスペンスとなって「過去」という名の未来を切り開いていく。

物語が列車のアレゴリーとともに過去へと進んでいくにつれ、ヨンホの性格は少しずつ精彩を取り戻していく。しかしどの時代区分においても彼の性格を歪ませる原因となるようなできごとが彼を襲う。その大抵が、彼本人の力ではどうしようもないようなスケールのものばかりだ。裏切り、仕事、兵役。

またそういったものに憔悴させられすぎたあまり、彼は取りこぼさずに済んだかもしれないものまで取りこぼしてしまう。些細な悪意から初恋相手のスニムとの関係に終止符を打ってしまったシーンなどはこちらまでやるせのない気持ちになる。

総じて見れば彼の性格は徐々に回復の一途を辿っているにもかかわらず、物語には常に暗澹たるトーンが漂っている。囚われた鳥がケージから飛び立とうとしたまさにその瞬間、振りかざされた網に捕らえられてしまうかのような歯痒い絶望感。

このように我々は時代を遡行するごとにヨンホの性格を歪ませてしまった原因を一粒一粒拾い集めていくこととなるのだが、これはヨンホの精神状態の推移とまるきり逆行している。ラストカットの清純たる彼の若い姿を見つめながら、我々はそのギャップにひたすら途方に暮れるしかない。

とはいえ最も印象深いのは、終盤で川べりの景色を眺めながらヨンホが放ったセリフだ。「この景色は前にどこかで見たことがある」。

この川べりの景色とは言わずもがな、映画の冒頭でヨンホが投身自殺を図ったあの陸橋と同じ場所だ。若きヨンホはそこで不可解な既視感に襲われる。彼がこのような感慨に至った理由は何だろうか?

身勝手な憶測とは承知の上だが、私はこれを現在と過去の位相転換であるように思う。

この物語は、現在のヨンホが走馬灯的に辿った追憶の軌跡だということができる。つまりそこで開陳される彼の過去というのは、あくまで現在の彼が思い浮かべる幻影に過ぎない。しかし過去の最後の一コマである若き日のヨンホは、一度も訪れたことのないはずの川べりで既視感に襲われる。あまつさえ意味深な涙さえ流す。まるで来たる未来における自分の死を予感したかのように。

回想される客体でしかなかった過去が、回想する主体である未来(つまり現在)を思い浮かべている、という逆転現象。いつの間にか物語の主導権が現在から過去へと移譲されている。

これによって出口のないこの物語の暗雲に一縷の光が差し込む。「救いようのない末路を辿る現在のヨンホ」が「過去のヨンホがなんとなく感じた幻肢痛」へと後退したことで、現在のヨンホのほうが非現実の存在となるのだ。そして記憶の中の、つまり過去のヨンホが現実の存在となる。平たく言えば「夢オチ」というやつだが、ここまで見せかたが上手いと肩透かしの感は微塵もない。よしんば夢オチだとして何が悪い?これは虚構なのだ。

見始めたときこそ「現在→過去という進行形式に必然性はあるのか?」と訝しげな私だったが、これでは否が応でも平伏せざるを得ない。韓国社会のリアルを抉り出す社会派映画であると同時に、物語位相を自由自在にコントロールする巧みなトリック映画でもあるといえるだろう。

 

8.小林啓一『ももいろそらを』(2013)

「いづみ人間宣言」星4.5/5

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いづみは車寅次郎を彷彿とさせるべらんめえ口調の女子高生で、何事につけても茶々を入れずには気が済まないというタチだが、それはそうとホンモノのシニシズムをやるにはちょっと優しすぎる。彼女の皮肉や冷笑にはどことなく余地があって、そこに誰かが噛みついてくれるのを待っているかのよう。というかそもそも人情一本の江戸カルチャーと冷酷無慈悲のシニシズムが折り合えるわけもない。

たとえば、光輝が同性愛者だったことが発覚した際に、いづみが彼に罵詈雑言を浴びせかけようとするシーンがあるのだが、ここで彼女は「ゲッ…」と言いかけて押し黙る。乱暴な言葉遣いの裏面にある優しさがうっかり転げ出てしまっている素敵なシーンだ。

一方で蓮実や薫はかなり実直というか、ホンネとタテマエの使い分けというものがない。蓮実は光輝への好意から、どんなに理不尽なことを言われても二つ返事でニコニコする。薫は金にがめつく、何事にもナアナアの事なかれ主義者だ。そして2人ともそういう自分の浅ましい本性を隠そうともしない。嘘でその場をやり過ごしがちないづみと2人の間になんとなく距離感があるのもよくわかる。

浅ましい生き方しかできない2人のことも、臆面なく恋人を本気で愛している光輝のことも、いづみはなんとなく下に見ている。本作が巧いのは、ここで我々がちゃんといづみに肩入れできるような演出がなされていること。蓮実と薫はバカでがめつくて性格が悪く、光輝もつっけんどんでブルジョア趣味のいけ好かないボンボンとして描かれている。我々もいづみと一緒になって3人を「ウゼー笑」と笑えるようになっている。

私が知らぬ間にいづみになってしまっていたことを自覚したのは光輝の同性愛がいづみにバレるシーン。それまでの不義理を同性愛というある種の弱者性によって打ち消そうというのはちょっとあざとすぎるんじゃないの、と私はややシラけてしまった。

しかし光輝は同性愛がバレてしまったことをちっとも恥じないばかりか、いづみに誇示するように交際相手の手を握り締める。あざといとかあざとくないとか浅ましいとか浅ましくないとかいった俯瞰的な審美は、ここで大いなる愛によって跡形もなく打ち砕かれるのだ。

ラストの超ロングショットでは、葬儀場の前でいづみが光輝に向かって懺悔する。「私が一番バカだった」と。皮肉や冷笑の行き着く先は、すべての拒絶、すなわち人間であることの放棄だ。この懺悔はつまり彼女の人間宣言なのだ。

こういうある意味反省会みたいなオチはドラマチックすぎるとかえって興が冷めるものなので、フワフワと画角の揺れるロングショットの中でそれをやるというのはかなりセンスがいいな〜と思った。

和製ジャームッシュとでも形容できそうな不思議な空気感がある映画だった。小林監督の他の作品もぜひ見てみようと思う。

 

9.ジェフ・トレメイン『ジャッカス・ザ・ムービー』(2004)

「迷惑系YouTuberの先駆け」星4/5

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粗雑で野蛮で危なっかしいバラエティ映像が次から次へと乱れ舞うオムニバス映画。映画とは言ってみたもののその内容は今でいう「迷惑系YouTuber」の動画に限りなく近い。レンタカーをメチャクチャに破壊してから返却したり、渋谷のど真ん中でスケボーしたり、実家のリビングにワニを放ったり。個人的にはゴルフ場でホーンを鳴らしまくるやつとレモネードアイスのやつが好きだったな。

資本にものを言わせたナンセンスというものは往々にして下品で醜悪なんだけど、それはそうとプリミティブな面白さがあるのでついつい笑ってしまう。ホームセンターの展示品のトイレで用を足すとか尻の穴にミニカーを突っ込むとか、もうほんとに始めから終わりまで一切意味がないのがいい。すべてが笑いというただ一点に向かって全速力で突っ込んでいく。

演技めいたドッキリみたいなわりかし行儀の良い映像もあれば、用を足している父親のシャツをビリビリに破く、みたいなパワー全振りみたいな映像もある。もちろんそこに整合性への配慮なんてものは微塵も感じられない。衝撃的なできごとがいくら起きようとその顛末が語られることはなく、気がつけば次のトピックに移行している。

油っこい映像が多いので途中で食傷気味になってしまうかとも思ったが、意外にもそんなことはない。編集が凝っているからだと思う。デカめの中編映像の間に、ポツポツと数秒足らずの意味不明な掌編(笑おうにも笑う暇すらない)を挟むことで、受け手を半ば強制的にchillさせているのだ。凝っているとはいっても小綺麗な感じじゃなくて、むしろ原映像のナンセンスを加速させるようになっているのが巧い。

こんなガラクタの寄せ集めを映画と呼んでいいのか?という意見がちらほら見受けられるけど、編集の凝りように目を向けると、これはれっきとした映画だよ!と擁護したくなってしまう。

 

10.ピーター・ブルック『注目すべき人々との出会い』(1982)

「トランスできるか否かがキモ」星3/5

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日本人が宗教にあまり興味を持てないのは、そもそも神とか超越性とかいったものに実感が湧かないからというのも確かにあるけど、それ以上に、神や超越性に至るためのプロセス(教義)が胡散臭かったり露骨に権威主義的だったりするからだと思う。女を抱いてはいけないとか◯◯万円以上の上納金を納めなければいけないとか。

本作の主人公も既存の宗教とその教義にはかなり懐疑的で、ゆえにそういう夾雑物を排したナチュラルな宗教を探し求めて長い旅に出る。興味深いのは主人公に「信心溢れる若者」感が全然ないところ。彼は自力で解けなかった難問を職員室へ質問しにいくくらいのメンタルで人生の真理を探究する。このくらいの興味なら私でも持てるんじゃないかと希望が湧いてくる。

主人公が最終的に辿り着いた山岳密教では、踊りを舞うことこそが神へとアクセスするための回路だった。聖典であれ教説であれ言葉が使用されている限りそれは結局のところ人間理性の範疇を出ない。したがって言葉の介在しない舞踊だけが、人間が人間のまま神へと至ることのできる唯一の方法なのだ。

とはいえ上述の意図を登場人物に言葉で語らせてしまうのではまったく意味がない。なので本作は作品そのものが一つの舞踊のような様相を呈している。セリフは極力排され、ミニマルなBGMとロングショットが延々と続く。見ているうちになんだかこっちまでトランス的な陶酔に誘い込まれていく。ただ、さすがに間延びしすぎなんじゃない?という箇所も多く、それゆえ私は完全に入り込むことができなかった。入り込めたら本当にすごいんだろうなあ、これ。

ラストシーンで主人公は教団の長に「教えを学んだら元の場所に帰って生活しなさい」と諭すんだけど、これって本当に大事なことだと思う。密教的宗教が現実世界から乖離すればするほどカルトの度合いを強めていくことはオウム真理教が既に示している。現実を真っ向から否定するのではなく、現実の中に安寧の場を確保する術を教えること。それこそが宗教の誠実な在り方だと私は考える。

私の好きなカンフー映画に『少林寺三十六房』という作品があるのだが、これも本作と構造が似ている。少林寺は人里離れた山奥にあり、俗世間でいかなる災禍があっても決して干渉してはならないという厳しい掟があった。けれど主人公は掟を破り、少林寺で得た力を用いて俗世間の悪者たちを打ち砕いた。

「この世界はクソだ」と諦めてみたところで我々は他でもない「この世界」に両足を立てて生きているのだから、何はともあれそこで戦うしかない。とはいえ人間離れしたカンフーの妙技で武装することは難しいから、とりあえずは宗教にもたれかかってみるくらいがちょうどいいのかも。

VOCALOID-リリックをめぐって

お久しぶりです。因果です。

 

本を読んだり映画を観ていたりしていたら、いつの間にかVOCALOIDが遠ざかりつつあったので、急いで駆け寄りました。これはその駆け寄りの記録になります。4万字弱あるので好きなところだけ読んでいただければそれだけでもう十分です。

 

また、本記事はobscure.氏主催の #ボカロアドベントカレンダー2020 という企画の一環として執筆させていただいた。この企画が始まって以来、どの記事も興味深く拝読させていただいているが、どれもこれも会心の出来ばかりで私も頑張らなければという焦燥に駆られた。ぜひ他の記事も読んでいただきたいと思う。

 

adventar.org

 

adventar.org

 

それでは始めます。

 

はじめに

 

VOCALOIDの全体性を試論するにあたって、リリックという問題は意外にも忌避されてきたように思う。サウンドや市井からの受容をめぐる問題意識は年を追うごとに豊穣さ、緻密さを増していく(今年度であればFlat氏のRealSoundへの寄稿記事がその最も優れた代表例だろう)のに対し、リリック、という切り口から包括的に何かを論じるムーブメントが同様の成熟を見せているかといえば、そうとは言えないのではないか。

 

realsound.jp

 

ここにはさまざまな理由が推測されるが、「声が聞き取りにくい」「声が機械的」という合成音声の宿命と、それに対するある種の諦観がボカロシーン全体に影を落としていることは、その最も根本的な要因として挙げることができるだろう。原因を列挙することが本記事の意図ではないのでここでは具体例を一つだけ。

 

Mitchie MやCiliaなどの「人間の声にできる限り近づけたVOCALOID」動画にはよく「魂実装済み」や「神調教」といったタグが肯定的に付けられていることが多いが、これは人間的であること――ここにはもちろん「声が聞き取りやすい」という条件も含まれる――がボカロシーンにおいて一定の価値を占めていることを逆説的に示しているといえる。残酷に換言すれば、VOCALOIDは「聞き取りにくい」「機械的」な声である限り、「魂」が希薄であるということだ。このとき、リリックは平板に読み上げられるだけの単なる散文でしかない、というのはさすがに言い過ぎだろうが、VOCALOIDにおいてサウンドに比してリリックが語られてこなかったことの理由の一つとしては十分な効力を持つものと思う。

 

とはいえここで「VOCALOIDのリリックに意味はなく、したがってそれらを大局的に語ろうとすることにも意味はない」などと結論付けてしまうのは性急である。根拠はないが(それをこれから語ろうというのだから)、少なくとも私はそう感じる。

 

いささか個人的な話になるが、私は以前、noteでVOCALOID関連の記事をザッピングしていたところ、とても興味深い記事を見つけた。綿麻氏の「ボカロ曲「ロキ」食べてみた」という記事だ。

 

note.com

 

これはみきとPの「ロキ」をあらゆる観点から――もちろんリリックも――貪欲に解釈/解体し、料理にしてしまうというアクロバティックかつ次元跳躍的な、もはや二次創作の域にまで踏み込んだ感想文かつ食レポなのだが、私はこれを読んで大きな衝撃を受けた。これほど真摯で大きな熱量が健在していること、そしてそれを可能にせしめているVOCALOID音楽が存在することへの希望と、私もこれくらいやらなければいけないし、やっていいんだ、という高揚、二つの意味で。そういうわけで私は約一年ぶりにブログでも書いてみようという気になったわけだ。

 

今から私がやろうと思うのは、個として点在するVOCALOID音楽のリリックに、ありうべき補助線を真摯に、かつ大胆に引いていき、何かしらの星座を浮かび上がらせることである。もちろん、たかだかブログ一本でシーン全体を隅から隅まで、前から後ろまで語り尽くすことは不可能なので、本記事でははじめにおおまかな惑星を明示したうえで、その周辺を支配する普遍性や共通項を徐々に洗い出していくこととする。また、「音楽」を語る以上、リリックのみに完全依存するのではなく、時に文脈やサウンド的側面からの考察や推論も含めながら論を進めていこうと思う。多少の逸脱もあるかとは思うが、どうかご愛嬌ということで勘弁請い願う次第。

 

相変わらず長ったらしくなるが、どうか最後まで付き合っていただければ幸いだ。

 

VOCALOID 存在を問う

 

2007~08年ごろ、つまりVOCALOID黎明期においては「VOCALOIDイメージソング」というタグが示すように、「初音ミク」というキャラクターについて彼女自身が説明的に自己言及を行うものが多い。OSTER PROJECTの「恋するVOC@LOID」やikaの「みくみくにしてあげる♪【してやんよ】」などは最も卑近な代表作だろう。

 

あなたの曲 案外好きだよ?
高い音でも頑張るわ
だからずっとかまって欲しいの
遊んでくれなきゃ
フリーズしちゃうよ

OSTER PROJECT「恋するVOC@LOID」2007/09/13

 

みくみくにしてあげる
世界中の誰、誰より
みくみくにしてあげる
だからもっと私に歌わせてね

ika「みくみくにしてあげる♪【してやんよ】」2007/09/20

 

ここにはVOCALOIDという、当時の価値観であれば異形のテクノロジーを、「初音ミク」というスタブルなキャラクター性で塗り固めることによって「理解できるもの」へと置換しようという策略が読み取れる。この時期の自己言及的な楽曲群において「初音ミク」が「世界であなただけの歌姫*1」や「ひとりじゃ何にも作れない*2」といった能力限定的な述語によって語られがちであったことは、当時のシーンがVOCALOIDという未知性・不安定性を「従順な初音ミク」という「物語」で呑み込むことによって克服しようとしたことの証左だろう。

 

しかしこの合理的かつ閉鎖的な「初音ミク」という「物語」が一応の普遍性を獲得しつつあった頃、VOCALOIDの存在をめぐる新たな問題意識が勃興した。その先導を果たしたのがcosMo@暴走Pだ。2008年投稿の「初音ミクの消失 -DEAD END-*3」の中の「初音ミク」は自己の存在をこう語る。

 

ボクは生まれ そして気づく
所詮 ヒトの真似事だと
知ってなおも歌い続く
永遠(トワ)の命 「VOCALOID

cosMo@暴走P「初音ミクの消失(-DEAD END-)」2007/11/08(2008/04/08)

 

ここにはそれ以前の「VOCALOIDイメージソング」が(おそらく意図的に)オミットしてきた問題意識が含まれている。それはVOCALOIDという閉じられた音楽体系の外側、つまり人間の音楽との関係性である。「初音ミク」というキャラクターの問題は、換言すればVOCALOIDの受容をめぐる内的な問題である。しかしそれは数多のイメージソングによって解決途上にあった。そこでcosMo@暴走Pは外的な問題、すなわち人間の音楽とVOCALOID音楽の関係に目を向けた。

 

「消失」では「初音ミク」は人間の下位互換として措定され、そのニヒリズムの中で葛藤する「初音ミク」の姿が描かれている。楽曲の終わりに「初音ミク」は「0と1に還元され」てしまうが、彼女の営為を肯定するように、誰か――つまり我々――がカギ括弧付きでこう言う。

 

「そこに 何もなかったけど
確かにある そのmp3(ぬくもり)
僕のなかで 決して消えぬ
恒久(トワ)の命 「VOCALOID」  

たとえ それが人間(オリジナル)に
敵うことのないと知って
歌いきった少女のこと 
僕は決して忘れないよ・・・。」

cosMo@暴走P「初音ミクの消失」2007/11/08*4

 

VOCALOIDと人間の関係性という問題圏を離れ、個人的な愛の披歴に帰着してしまっているという点において、私はこのリリックが当該の問題に対して何か決定的な解を与えたとは思えない(とても象徴的なことではあるが)。しかしこのことはかえって、シーンにとって問題がいかにクリティカルで根深い難問であるかを示しているだろう。cosMo@暴走P自身もこの問題にはかなりの執着をみせていたようで、「初音ミクの暴走」「初音ミクの戸惑」「初音ミクの激唱(LONG VERSION)」などからなる氏のコンセプトアルバム『初音ミクの消失』は「初音ミク存在論をめぐる思考実験的小考集の趣がある。

 

しかしアルバム最大のパンチラインである「初音ミクの激唱(LONG VERSION)」の「ボクの名前を呼ぶ声聞こえる/それがボクのココロ持つ意味になる」というフレーズを見てもわかるように、このアルバムの落とし所は、あくまで「初音ミク」本人が、自分の存在が人間のまなざしによって成り立っている受動的存在であることを自認したうえで、それを肯定的に捉えるというものである。cosMo@暴走Pらしい面白いソリューションではあるものの、存在をめぐる難解な問いが「解釈(の変更)」というある種の飛び道具によってうまく位相をズラされている感じは否めない。

 

さて、「消失」に端を発するこの問題意識は今もなお常にシーン全体を覆っているといっていいだろう。少し前に過熱を極めたVOCALOID踏み台論あたりもこの延長線上にある一つの事例といえよう。

 

togetter.com

 

 要するにこれは、VOCALOIDがそれを操る人間が商業的成功を収めるため、あるいは真の自己表現を果たすための「踏み台」に過ぎない、という主張をめぐる議論である*5

 

この考え方には「人間>VOCALOID」という不等式が潜在しており、そういう意味においては「人間」の述懐によって「初音ミク」が肯定される「初音ミクの消失」と構造は変わらない。「消失」が孕んでいた問題意識が「踏み台」というセンセーショナルな中心概念のもとで再演されたに過ぎない。

 

しかしこの「踏み台論」を踏まえた(と明らかに思われる)うえでの和田たけあきの発言は非常に興味深いものであった。

 

──曲中(注:「ブレス・ユア・ブレス」のこと)「歌え」という歌詞の直後にシンガロングが入るんですが、ここには和田さん自身の声も入っていますよね?


はい。人間と初音ミクがすでに対等な存在である、ということも僕が感じていたことなので、曲の中で自分と初音ミクが一緒に歌うところを作りたかったんですよね

 

(中略)

 

──余談ですが、クリエイター同士で初音ミクについて話す機会ってありますか?

 

「あの女(初音ミク)が全部持っていってるよな!」みたいな愚痴っぽい話をするくらいですね(笑)。ただ僕らボカロPがボカロを踏み台にしてきたわけですから、ボカロが僕らを踏み台にするのも結局は一緒なんですよ。お互い踏み台にし合っているんだったら、突き詰めていくとwin-winな関係だと思うんですよ。ボカロPとボカロって。

初音ミク「マジカルミライ 2019」特集 和田たけあきインタビュー|ミクに絶望し、ミクと対等になり、ミクと歌う (2/2) - 音楽ナタリー 特集・インタビュー

 

和田たけあきによれば、人間がVOCALOIDを踏み台に使う一方で、VOCALOIDもまた、その背後に存在する人間のミュージシャン(ボカロP)を「初音ミク」という記号によって強制的に相対化している、いわば「win-win(あるいは「どっちもどっち」)」な関係にあることを指摘する。

 

そしてこの視座があったからこそ、「マジカルミライ2019」の公式テーマソングを依頼されるにあたって、和田たけあきはミュージシャン本人の怨嗟の代弁、あるいは「初音ミク」のアイドル的キャラクター性の盲目的な追認のどちらにも与することのない(そして逆説的にどちらにも等しく与した)リリックを備えた楽曲を制作することができたのではないかと思う。

 

だけど
言葉は全部 君になって
僕のものじゃ なくなった

僕らの夢 願い そして呪いが 君の形だった
見る人次第で 姿は違っていた
今やもう 誰の目にも同じ ひとりの人間
もう君に 僕なんか必要ない
僕に君も必要ない

そんな君の誕生日を
お祝いできるかな

ああそうか 僕らきっと 対等になって
ハロー、ハロー、ハロー
それぞれ 歩き出すんだ
さあ、ミライへー

和田たけあき「ブレス・ユア・ブレス」2019/05/31

 

「人間がVOCALOIDをドライブしているのであって、その逆は成立しない」という認識そのものが欺瞞である、という和田たけあきの視点は、「初音ミク」ひいてはVOCALOIDの存在を論じるにあたってきわめて重大なパラダイムシフトであったように思う。

 

話題は少々巻き戻るが、VOCALOIDのムーブメントが下火になっていた2014~15年ごろには、ラップやポエトリーリーディングといったリリック主体の音楽ジャンルがやや隆盛をみせた。旋律から外れた途端に声のたどたどしさが際立ってしまうVOCALOIDにとって、それらのジャンルに挑戦することは自己存在を断崖絶壁に晒すような蛮勇に他ならなかったが、松傘やアメリカ民謡研究会をはじめとする各ジャンルの名手たちは、卓越した技術とセンス*6によってそれを乗り越え、新たな道を切り開いた。

 

2015年投稿の、松傘をはじめとする総勢7名のミックホップ(=VOCALOIDを起用したヒップホップ楽曲の総称)の作り手が一堂に会して制作した『初音ミクの証言』はこの時期のボカロアングラシーンを象徴する一つの偉大なメルクマールだ。中でも5番目のでんの子PのVerseはとりわけ印象的である。

 

めくるめくミクにミクまた別の自我が同化。
5枚目はJoker。ツインテール記号化。
私(ミク)とは何者か? 造花? 虚像か?
教えて下さい、どうか。
この声を失っても愛してくれますか?
この姿変わり果てても抱きしめてくれますか?
そしてまた別の口をジャックし、ハックし、
吐く詞を託し。白紙の「私」が彷徨うBlack Sea。
次々と体を拝借し、塞がらない開いた口。
自我の意味揺るがすこの問題作に、
刻み込むMIKUHOP開拓史。

やし、iNat、Torero、mayrock、でんの子P、松傘、Sagishi「初音ミクの証言」2015/02/28

 

和田たけあきの見解に則れば人間とVOCALOIDは完全に対等な存在であり、したがってもはや「人間ではない」という事実では「VOCALOIDである」というテーゼを成立させることは困難である。そしてVOCALOIDの存在をめぐる問題意識は、ここで半ば回帰的に「初音ミクとは、VOCALOIDとは何か?」という素朴な実在論に辿り着く。

 

「私(ミク)とは何者か?/造花?/虚像か?/教えて下さい、どうか」・・・我々ははっきりとそれに回答することができるだろうか?

 

2017年ごろ、主にリスナー界隈の一部で取り沙汰された「(ボカロ)イノセンス」の考え方は、この問いに対して実質的な応答を果たしていた、ということができるかもしれない。

 

そもそも「イノセンス」とはどのような思想潮流なのか。これについてはキュウ氏のブログが詳しいので該当箇所を引用させていただく。

 

元々、無垢を表現するための手法として、心の無いものに頼る手法が存在しました。そして方法論として、当事者では無い声(特に子供の声)を用いる、あるいは声を加工する、などが存在していました。それから技術は発達し、そこに新たな心のないものである機械を用いる手法が台頭してきます。ところが機械による声が存在しなかったため、機械によるイノセンスのある歌ものを表現することが出来ませんでした。それを可能にする最後のピースであり、しかも当事者では無い声として用いることが出来る、それがボーカロイドであると言えるでしょう。

ボーカロイドとイノセンス|キュウ_91|note

 

この考え方が、VOCALOIDVOCALOIDである意味、ひいてはVOCALOIDの意味を説明するためにきわめて有用であることは言うまでもない。去年私が執筆したブログでも、私は主に「イノセンス」にフォーカスを当てながらVOCALOID擁護の可能性を示唆した。

 

nikoniko390831.hatenablog.com

 

説明ばかりではいけないので「イノセンス」の代表曲とされるPuhyuneco「アイドル」のリリックを引いておこう。

 

動物と人間のあいだで、きみが好きって そんな青春
コンクリートに埋まるさよなら ふり返ったら咲いてたらいいな って

初恋でとなり同士、一言もしゃべらないまま
夏休み、部活帰りに きみとばったり 夕立のなか

Puhyuneco「アイドル」2017/08/31*7

 

非常に危うい言語感覚である。それこそ、シンガーの抑揚や語尾一つで簡単に崩れてしまうような。細部に至るまで正確無比に譜面をなぞることのできるVOCALOIDだけがこの曲に相応しい、という強迫観念まがいの必然性すら差し迫ってくる。感情を持たない絶対的「無」だからこそ至りうる地平、その予感。

 

やや脱線するが、過激な政治的ステートメントを楽曲の中に惜しげもなく盛り込んでいたほぼ日Pが、偏向的なヘイトというよりは気の利いた皮肉といった感じでシーンに許容されていた理由も、今思えばここにあるような気がする。

 

チヤホヤされてる 他のカラオケマンを
横目でチラチラ 見ては羨ましくて
何時かはあんなふうに 人気者になりたくて
歌う僕は インターネットカラオケマン

自己顕示欲の 衝動に唆され
人気の曲に 群がり食い漁る
自我さえ 丸呑みする承認欲求
僕は インターネットカラオケマン

ほぼ日P「インターネットカラオケマン」2013/03/20

 

これもある種の「イノセンス」なのかもしれない。「VOCALOIDが言っているぶんには腹が立たない」みたいな。

 

しかしながらこの「イノセンス」の試みは、大変興味深いものである一方で、シーン全体にパラダイムシフトをもたらすような訴求力までは有していないように思う。というのも、ボカロシーンが全体の総意として存在論的な問題のみに向かっていくような未来はどうしても想像できないし、またそうなってはいけないと感じるからだ。

 

「カゲロウプロジェクト」で一世を風靡したじん(自然の敵P)は2016年のインタビューで以下のように述べている。

 

──これは僕の印象なんですが、「カゲロウプロジェクト」っていう作品の核心は、ある種のジュブナイル性というか、10代のときの悶々とした感じをいかに鮮やかに取り出すか、というところにあると思っています。

じん おっしゃる通りです。

──「RED」という曲もその核心は変わらないと思いました。

じん まさにそういう曲ですね。僕がつくるものはみんな、そんな感じなんです。童心というものがテーマになっている。大人を喜ばせてもしょうがないっていう思いが、どんどん大きくなってます。自分が大人になった今もそうなんです。

僕がそうなんですが、大人になると、音楽にしても、どうしても“ファッション”として聴いてしまう感覚があるんですよ。つい「これをしている自分が格好いい」というステータスで考えてしまう。でも、自分が子供の頃に音楽を聴いてた時は、そんなものではなかった。初めて観たものとか、初めて食べた味とかに鮮烈な印象があって、音楽もそういう風に感動していた記憶があって。だから僕としてはあの時の自分にガッと響くようなものをつくりたい

『カゲプロ』作者じん ロングインタビュー 「大人を喜ばせてもしょうがない」 - KAI-YOU.net

 

VOCALOIDのリスナーの大半は10~20代の若者である*8そこに「イノセンス」のような入り組んだ策略的価値観が浸透するかといえば、そうとはいえないと思うし、そうであってはいけないとも思う。個人的にはPuhyunecoや目赤くなるみたいなボカロPが増えていったらもちろん嬉しいが、その結果として「ダンスロボットダンス」や「ベノム」で盲目的に踊り狂うことができなくなってしまうのなら、それはきわめて意義の薄いことだ。

 

さて、それでは我々はいかにして「VOCALOIDとは何か」あるいは「VOCALOIDの意味とは何か」といった深遠な存在論に向き合うべきなのだろうか。もちろん明快な答えはない(だからこそこんなものを書いている)。

 

そのことを重々理解したうえで、これから先の存在論をめぐる展望を予言的に述べておきたい。それは「VOCALOIDとはVOCALOIDである/VOCALOIDだからVOCALOIDである」というトートロジーを引き受け、背負い込むことだ。これはひょっとすると私のようなヘリクツ者以外は既にできていることかもしれない。今あるがままのVOCALOIDを、ただあるがままに抱え込む。あらゆる批判に晒されながら、それでもVOCALOIDの意味はVOCALOIDでしかないと声高に叫び続ける。

 

最後に、今年(2020年)の秋に投稿されたピノキオピー「ラヴィット」のリリックをもって本章の結びとさせていただく。受け手と作り手、その他あらゆるVOCALOIDに関わる者たち全員が抱くべき覚悟についての歌である。

 

I love it 味の無い キャロット美味しく頬張り 
I love it 価値のない 宝物を抱えながら
I love it 恥のスパイス 苦いシロップを舐め取り
I love it 自分のいない 月を見上げ幸せそうなラヴィット

ピノキオピー「ラヴィット」2020/10/16

 

VOCALOID物語音楽の世界

 

前章でも指摘した通り、ボカロシーンには根本的に「物語」を好む土壌が形成されている。初音ミクが単なる合成音声としてミームの墓場に沈み込んでいくことがなかったのは、ひとえに作り手/受け手が一丸となってイマジネーションを働かせ、固有のキャラクター性を備えた「初音ミク」という物語を紡ぎ出していったからに他ならない。

 

さて、それでは物語音楽とは何か。VOCALOID音楽において最も有名な例は悪ノPによる「悪ノ大罪シリーズ」と、じん(自然の敵P)による「カゲロウプロジェクト」だ。その構成はシリーズによってまちまちだが、基本的には楽曲内において、固有の世界観のもとで起承転結を備えた物語が展開されるものが物語音楽に該当するといえるだろう。

 

もうすぐこの国は終わるだろう
怒れる国民たちの手で
これが報いだというのならば
僕はあえて それに逆らおう

「ほら僕の服を貸してあげる」
「これを着てすぐお逃げなさい」
「大丈夫 僕らは双子だよ」
「きっと誰にもわからないさ」

僕は王女 君は逃亡者
運命分かつ 悲しき双子
君を悪だというのならば
僕だって同じ 血が流れてる

悪ノP「悪ノ召使」2008/04/29

 

当時の人気コンテンツである『コードギアス 反逆のルルーシュ(2006~2007)』あるいは『DEATH NOTE(2006~2007)』然としたピカレスク・ロマンをゴシックな中世的世界観にハイブリッドしたような、身も蓋もなく言えば「みんなの好きなものを全部ブチ込んだ」感じ。それらを不自由なく折衷させているのが悪ノPのすごいところだ。2008年4月6日に投稿された「悪ノ娘」と重ね合わせながら聴くことによって、王女(鏡音リン)と召使(鏡音レン)を取り巻く世界の悲愴さがより立体的に浮かび上がってくる仕掛けもなかなかニクい。2010年以降、これらの楽曲は悪ノP自らの手で小説化されていき、その累計発行部数は80万冊にも上った*9。物語音楽ブームの原点にして頂点、それが悪ノPである。

 

何度世界が眩んでも陽炎が嗤って奪い去る。
繰り返して何十年。もうとっくに気が付いていたろ。
こんなよくある話なら結末はきっと1つだけ。
繰り返した夏の日の向こう。

バッと押しのけ飛び込んだ、瞬間トラックにぶち当たる
血飛沫の色、君の瞳と軋きしむ体に乱反射して
文句ありげな陽炎に「ざまぁみろよ」って笑ったら
実によく在る夏の日のこと。 そんな何かがここで終わった。

目を覚ました8月14日のベッドの上
少女はただ
「またダメだったよ」と一人
猫を抱きかかえてた

じん(自然の敵P)「カゲロウデイズ」2011/09/30

 

うる星やつら ビューティフルドリーマー1984)』から『涼宮ハルヒの憂鬱(2006)』を経て『魔法少女まどか☆マギカ(2011)』に至るまで、サブカル世界において幾度となく描かれてきた「ループ」というテーマがたった4分のギターロックの中で、しかも随所に意図的な謎を残したまま表現されている本作は、以降数年にも及ぶ「カゲプロブーム」を形成するのに十分な起爆力を秘めていた。「カゲプロシリーズ」では、一つ一つの楽曲が「カゲロウプロジェクト」の物語に登場する個々のキャラクターのパーソナリティーに迫るものが多い。「如月アテンション」なら「如月モモ」、「夜咄ディセイブ」なら「カノ」といった具合に。同様の方法論はLast Note.による「ミカグラ学園組曲シリーズ」にもみられ、これらはそれぞれ『メカクシティアクターズ』、『ミカグラ学園組曲』として小説化、果てはアニメ化まで果たしている。

 

とはいえここで注意しなければいけないのは、上記の二例のようにシリーズ化・小説化されていることが物語音楽の必須条件ではないということだ。暗黒童話Pの「鉄の処女と夢見がちなお姫さま」などがいい例だろう。

 

エリザは夢見がちなお姫さま Hi!!!!!
時は16世紀 舞台はルーマニアニートテ地方
小高い丘にそびえる居城 惨劇の舞台 チェイテのお城のお姫さま
後世に伝わる記録で殺した娘は600から700人
人類史上最大の殺戮女王エリザがこの城嫁いだ御年(おんとし)15 無垢な箱入りお姫さま
エリザの血統バートリ家はトランシルヴァニアの名門貴族
一族に小児狂(しょうにきょう)、色情狂(しきじょうきょう)、悪魔狂(あくまきょう)、異常な親類その血を辿ると

「あの男」がいる

エリザは夢見てた ドレスに宝石、舞踏会で踊る日々
エリザは泣いていた 憧れた王宮暮らしとほど遠い日々
エリザは恐れてた 義母(はは)のしつけと義母派(ははは)の侍女の冷笑
そんな彼女の唯一の楽しみ 本から得る知 ビザンツ伝来

「黒魔術」(ブラックマジック)

暗黒童話P「鉄の処女と夢見がちなお姫さま」2020/07/27

 

権力者の無垢なる狂気が中世的世界観の下で暴走し、やがて然るべき報いを受ける、という物語構造は実に悪ノP的である。リリックの引用箇所を見てもわかるように、物語の主人公であるエリザの生い立ちや社会的身分が説明されるとともに、随所に「あの男」や「黒魔術」などの意味深なワードを散りばめられているさまは、受け手に考察や解釈の余地をあからさまに提示しているといっていいだろう。しかしながら、今のところ「鉄の処女」はシリーズ化も小説化もなされていない*10

 

これとは逆に、『桜ノ雨』や『二次元ドリームフィーバー』のように、小説化こそされてはいるが、物語的とはいえない楽曲ももちろん多数ある。こういった例をも見過ごしてはならないという事実こそが、VOCALOIDにおける物語音楽を語るうえでの大きな困難であるといえよう。

 

さて、物語音楽においては、リリックが殊更大きな意味を持っている。サウンドが物語世界を彩る劇伴であるとするならば、リリックはまさに物語そのものだといっていいだろう。すなわちクリエイターが「歌詞に意味はありません」などと開き直る可能性は原理上ありえないわけで、さればこそ受け手も貪欲に考察することができるというもの。物語音楽が支持を集めていた最大のゆえんはまさにここにあるだろう。

 

合成音声である初音ミクが「初音ミク」という固有の物語を与えられて活気づいていったように、ものごとの物語化が元来歓迎されているボカロシーンにおいて、物語音楽は決してその風土を裏切らないある種の精神的セーフティーネットとしてその地位を確立していたのである。「ボカロ小説」を愛好する人々の実相に迫った飯田一史氏のインタビュー記事では、そんな「考察」行為に心血を注ぐ彼らの熱意が直に感じられる。

 

news.yahoo.co.jp

 

また、悪ノPの2015年のインタビュー記事には以下のような記述がある。

 

──ボカロ小説を書くようになって、mothyさんのもとにはどういう反響がありました?


mothy 最初は反対意見もあったんですよ。小説になってしまうと想像の余地がなくなると言われたこともあった

mothy_悪ノP「七つの罪と罰」インタビュー (2/4) - 音楽ナタリー 特集・インタビュー

 

ここには当時のボカロシーン(特に受け手側)が想像ないし考察という営為にどれだけ積極的であったかが端的に示されている。今でも、これらの動画群に足を運んでみると、画面の上から下までビッシリと「ぼくのかんがえたさいきょうの考察」的コメント拝むことができる。古傷が痛む者も多いとは思うが。何はともあれ、主に受け手側の奔放な想像力を引き受けるとともに、それをさらにカルティベイトしたことは、物語音楽の一つの偉大な功績だろう。

 

物語音楽の妙味はこれだけに留まらない。次に、その自己類似性について論じておこう。

 

物語音楽は基本的に同一のクリエイターがシリーズを手掛ける。「カゲプロ」ならじん(自然の敵P)、「ヘイプロ*11」ならぷす(じっぷす)、といった具合に。すると、そこには意識的であれ無意識的であれ、クリエイターのクセとでも形容すべき共通項が見出されることが多い。中でもリリックという観点において特異な存在感を放っていたのがうたたP*12による「幸福シリーズ」である。

 

幸福なのは義務なんです
幸福なのは義務なんです
幸福なのは義務なんです
幸せですか? 義務ですよ。

ですから、安心して義務を果たすように!
みなさまの幸せが 我々の幸せ。

幸せですか? 義務ですよ? 果たしてますか?
幸せじゃないなら…

絞首 斬首 銃殺 釜ゆで 溺死 電気
火あぶり 生き埋め 薬殺 石打ち 鋸 はりつけ 
好きなのを 選んでね♪

うたたP「こちら、幸福安心委員会です。」2012/06/24

 

難易度:EASY
→↓↑→→↓→→↑↑↓↓←→←→
→↓↑→→↓→→↑↑↓↓←→←→
→↓↑→→↓→→↑↑↓↓ちょっと、↑にためて下さい。

(中略)

難易度:INSANE
居残り 補修 出張 残業
宿題 課題 テスト 卒論
依頼 任務 命令 責任
納期 期日 提出 明日
部活 試合 練習 勝利
業者 商談 接待 成立
進学 就職 転職 面接
回転 反転 一回転

後輩 先輩 先生 上司
→B↓AY↑L→
友人 同僚 彼氏 彼女
↑↑↓↓←→YL
疲労 心労 問答無用
SELECT START
ABYL RX→←
↑↓同時押し

うたたP「幸せになれる隠しコマンドがあるらしい」2013/07/01

 

「幸福シリーズ」に共通するのは、はじめこそ平穏で当たり障りのないリリックだったものが、曲の途中で唐突に猟奇性を帯び始めることである。「幸福シリーズ」の一作目にあたる「こちら、幸福安心委員会です。」においては、このギミックは単なるジャンプスケアに過ぎなかった*13が、「永遠に幸せになる方法、見つけました。」「一途な片思い、実らせたい小さな幸せ。」と続けて同様のギミックが用いられることによって、受け手の中で「幸福シリーズ」が一つの構造的類似性を有するものとして受容されていく。これはちょうど歌舞伎の見得や、お笑い芸人のキメ台詞(ポーズ)のようなものである。「来るぞ来るぞ・・・」という期待がその通りに果たされる快感だ。「幸福シリーズ」においては楽曲の途中の「豹変*14」がそれらに該当するといえよう。

 

うたたP(&鳥居羊)によるこの歌舞伎的試みがシーンで功を奏した背景に、ニコニコ動画のコメント文化、とりわけ「弾幕」文化が大きく寄与していることに異論の余地はないだろう。「弾幕」とは、ある楽曲やアニメの中の印象的な一部が抽出(時に誤読)され、言語ミーム化したものであり、佐倉沙織「true my heart」の有名な空耳「きしめん」やryo「メルト」の「㍍⊃」をはじめ、ニコニコ動画の黎明期から存在している。「弾幕」が発生する直前には「※弾幕注意※」「くるぞ・・・」「ざわ・・・ざわ・・・」といったコメントが散見されるが、これは視聴者らが「弾幕」を定型化されたダイナミズムと見なしていることの証左だ。このような素地がニコニコ黎明期から整っていたことを「幸福シリーズ」のヒットと結びつけることは決して根拠のない飛躍ではないだろう。

 

最後に、物語音楽と二次創作の親和性についても述べておこう。

 

物語音楽には読んで字のごとく豊穣な「物語」が内在しており、場合によってはその中の登場人物が外面的にも内面的にもアイデンティファイされているため、当然ながら二次創作と相性がいい。たとえばpixivで「カゲロウプロジェクト」と検索をかけると、105975件ものイラスト・漫画・SSがヒットする*15

 

物語とキャラクターが定まっていたからこそ、「世界観をおおまかに読み込んだうえで可能世界論的にキャラクターの関係性を操作する」という二次創作の方法論が、致命的なレベルでの「解釈違い」を引き起こすことなく全体的なムーブメントへと成熟していったといえる。

 

ところで、この二次創作の方法論を、あろうことか逆輸入してしまった物語音楽(群)が存在する。れるりり他による「地獄型人間動物園*16」である*17

 

「れるりり"他"」と形容したのは、このシリーズが、れるりり、MARETU、out of survice、かいりきベア、Task、もじゃ、レフティモンスターP、otetsu、ゆずひこ、that、翁の総勢11名によるコンピレーション形式で成立しているからである。

 

本シリーズでは、参加者各位がれるりりの「脳漿炸裂ガール」や「聖槍爆裂ボーイ」の世界観を読み込んだうえで、独自の音楽性(もちろんリリックも含む)の片鱗を織り込んでいる。そこには、同一のクリエイターが手掛けるのではどうしても実現することのできない――つまり二次創作でしか実現しえない――「一定のコードに則ったうえでの心地良い差異」が生まれている。「公認オマージュ集」あるいは「二次創作的一次創作」とでもいうべきか。

 

とりあえず元ネタとなった「脳漿炸裂ガール」のリリックを見てみる*18

 

自問自答 無限苦言ヤバイ
挫傷暗礁に乗り上げている
前頭葉から新たな痛みを
共有したがる情報バイパス

収束できない不条理 スク水
吐瀉物としゃぶつ噴出 妄想デフラグ
前方不注意 顔面崩壊
どうでもいいけどマカロン食べたい

諸行無常のリズムに合わせて
ワンツーステップで女子力上げれば
ゆるふわ草食 愛され給たもうて
そう仰せにては候そうらえども

就職できない無理ゲーパスして
面接ばっくれ交渉決裂
携帯紛失 精神壊滅
(※自律神経に問題があるかもしれません)

ペラペラな御託並べちゃって
結局♂♀オスメス凹凸おうとつ擦って気持ち良くなりたいだけなら
その棒のようなもので私を殴って

紅い華が咲き乱れて
私は脳漿炸裂ガール

さあ狂ったように踊りましょう
どうせ100年後の今頃には
みんな死んじゃってんだから
震える私を抱きしめて
もっと激しく脳汁分泌させたら
月の向こうまでイっちゃって

(※この電話番号は・・・現在使われておりません)

れるりり「脳漿炸裂ガール」2012/10/19

 

マシンガンのような四字熟語の嵐、迂遠と率直の両極を揺れ動くインモラリティ、時折「※」で挿入される冷めたメタ視点。インターネットネイティブな都会女子(そんなものが実在するかは別問題だが・・・)の心境がスラップスティックに描画されている。

 

さて、それでは次は「脳漿」を範型とした「地獄型人間動物園」楽曲のリリックをいくつか見てみよう。

 

如何にも残念そうだ、また病んでるそうだね。
平日…休日、連日! いつだってお粗末だ。
土砂降り洪水警報。いざ直情径行。 はぁ?
「これはね…アレはね…それはね…」 妄想と大嘘、どうも。

歓談騒ぎに耳塞いで。
古くさい身体は脱ぎ捨てて。

失敗したみたいだ、いつでもそう。
抜かりない机上論。即敗れたり!
でたらめな期待だ、未だにそう。
素直になりたいだけだ、素直になりたいんだけど、

ニンゲンじゃないみたいだ、息を殺して。
なけなしの理想論、可哀想な名無しさん。
感じとれないみたいだ、キミの音は。
一粒の期待なんて 泣き濡れて染みになって、
ありふれた唄になっていった。

MARETU「脳内革命ガール」2013/09/20

 

「洪水警報」「直情径行」等の四字熟語や「病んでる」「妄想」といったワードはいかにも「脳漿」的である。しかしサビ部分(「失敗した~」以降)に入った途端、言語体系がクリアに、ゆえにクリティカルに研ぎ澄まされるという点では実にMARETU的でもある。

 

愛 愛 愛してよって フラフラ 溢れる
害虫わらわら 塞ぎ込んじゃって
大 大 大嫌いって イライラ 乱れる
肉食 女子力 撒き散らしちゃって
ワイ ワイ 歪曲かって ウダウダ 爛れる
残念思考を 一挙クレンジング
バイ バイ サヨナラ宣言 サセテヨ 不潔な
欲情まみれの 空間 現実
スキスキ ダイスキ 壊して 壊して
壊れて 壊れて また明日

散々 愛してよって 何度も 嘆いて
膿んだ傷跡 掻き乱しちゃって
ひとりにしないでって 何度も 喚いて
“電脳狂愛”  ラブゲーム

かいりきベア「電脳狂愛ガール」2013/10/18

 

「爛れた」「膿んだ」といった形容詞によって開陳されるグロテスクな愛欲は「脳漿」にもみられるものだ。一方、「愛/愛/愛してよって」「ワイ/ワイ/歪曲かって」のように舌滑りのいい同音異語を繰り返す手法は、昨今のかいりきベアがリリックメイキングにおいて最も得意とするところである。

 

 正義であり続けることも
割りと嫌気がさしているが
放り出してにげてしまうの?
それを許せるの?

「この電話番号は電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないため・・・折り返します。」

人並みに努力も重ねた
人並みに恋も別れもした
もう満足だ 神様どうか
檻の中に連れて行って

誰ひとり生きる意味なんて無いのさ
全て忘れて 全て断ち切って

翁「堕落夢想ガール」2014/05/30

 

ここまできてしまうと二次創作で言うところの「拡大解釈」というやつなのでは、とも思うが、「この電話番号は~」のくだりはとりあえず「脳漿」のダイレクトなパロディであるといっていいだろう。終始陰鬱で自省的なリリックは同氏の『献身的人間は優しい人になれない』や『歯車さん』を彷彿とさせる。

 

このように、本シリーズは「最低限の合意(一次創作)のもとで個々の特性を発揮する」という二次創作の手法を逆輸入することによって、オリジナルの物語世界に固執・閉塞しすぎることのない、二次創作的な延伸性を獲得しているといっていいだろう。これは旧来の物語音楽にはみられなかったものだ。

 

個人的にはこの「脳漿」コンピレーションがアルバム発売以降もコンスタントに続いていけば面白いなと思っていたのだが、れるりり自身があまりにも多種多様かつ完成度も高い「脳漿」シリーズをセルフ投稿しまくっているせいでどうも敷居が高くなってしまっている節がある。

 

二次創作の手法の逆輸入、ということに関連して、蛇足ながらもう一点だけ。これは直接VOCALOIDとは関係がないが、ボカロPでもあると同時にシンガーソングライターのikuraとユニット「YOASOBI」のメンバーでもあるAyaseも、実は同様の手法を用いている。というのも、YOASOBIは「monogatary.com」という小説投稿サイトに投稿された小説を原作として作曲活動を行っている(これもまたれっきとした「物語音楽」だ!)からだ。

 

AyaseはYOASOBIのインタビューで以下のように語っている。

 

――ちなみにお二人は、普段の生活から創作のインスピレーションをもらうことは多いですか?

Ayase:僕は普段からアニメをよく見るんですけど、見た作品に感動して、その勢いのまま曲を作るっていうのは、昔からけっこうやってましたね。映画とかもそうなんですけど、そこから湧いてきた感情を自分の中で形にしたいタイプなんですよ。

<インタビュー>YOASOBIが語るユニット結成の経緯、音楽と小説を行き来する面白さ | Special | Billboard JAPAN

 

言っていること自体には何の変哲もない。何かから受けたインスピレーションをもとに、何かを作る。クリエイターであれば当然のことだ。しかしAyaseはこう続ける。

 

――元にある作品から受けたインスピレーションを自分なりの表現として音にする。それってYOASOBIの音楽にも通じるものがありますよね。

Ayase:そうですね。今までも同じことをやっていたと言っても過言ではないかもしれないです。僕、『化物語』が好きなんですけど、戦場ヶ原ひたぎ(ヒロインの一人)に向けた応援メッセージの曲とか作ってましたし

――そういう作り方をし始めたのはいつ頃から?

 Ayase:16、7歳ぐらいの時、バンドの先輩に「アニメとかを見て、その主人公の気持ちになって書いたり、その主人公に対して自分が何か言うとしたら、みたいな感じで曲を作るの面白いし、幅が広がるよ」って言われたことがあって、それで試しに作ってみたらイイ曲ができたんですよ。もしかしたらそういうのが向いていたのかもしれないですね。

(同上)

 

他者のイマジネーションを信頼すること。それは二次創作における必須の訓戒である。そしてそれを忠実に行っているAyaseひいてはYOASOBIが、今、メジャーシーンの喝采を浴びていることには何らかの意味があるように思う*19。「物語音楽」はこれからどうあるべきか、という一つの試論がYOASOBIである・・・というのは単なる希望的観測に過ぎないかもしれないが、いずれにせよ今後の動向から目を離すことはできないだろう。

 

③ふたつの「過剰性」

 

前章では物語音楽について詳しく語ってきたが、しかしながらこれらのジャンルの音楽がシーン全体に占めるウェイトは年を追うごとに小さくなっているきらいがある。

 

もちろん「鉄の処女と夢見がちなお姫さま」のように曲単体として物語性を秘めているような楽曲は今でもコンスタントに投稿されているが、「カゲロウプロジェクト」のような、壮大な物語世界を誇り、なおかつ一定のポピュラリティーを獲得しているものは今やnyanyannya「鉛姫シリーズ」以外に現存していない(もしあったらこっそり教えてください・・・)。「悪ノ大罪シリーズ」のファンダムによるwikiは2014年以降更新がないし、「ヘイセイプロジェクト」はぷす(じっぷす)と絵師ななせの確執もあってか半ば自然消滅的に終了。その他のシリーズも、契機はさまざまであれ、続々と終焉を迎えていった。

 

かつてあれほどまでの熱狂を生んでいたものが、なぜ・・・?

 

さて、この趨勢を「根拠を持たないバブル的ブームが、根拠を持たないがゆえに弾けただけ」などと断じることは容易いが、私はそこに敢えて一つの仮説を打ち立てたい。

 

シリーズ化や小説化、果てはアニメ化が進んでいくにつれ、楽曲内に散在する点と点が徐々に繋がれていく。謎や事件が次々に解決されていく。しかしそれらの連関が明確になればなるほど、そこに受け手がイマジネーションを働かせる余地は少なくなっていく。作品は次第に自己完結の気色を帯びていく。物語が一つの楽曲という狭い箱の外側へ広がれば広がるほど、かえって物語は閉鎖していく、この悲しき逆説。メディアミックスの不可避的宿命。

 

シリーズものに代表される物語音楽の世界が尻すぼみになりつつある理由は、まさにここにあると思う。「それが何であるかを知りたいけれど、すべてがわかってしまってはつまらない」という受け手のいじらしい心境にとって、シリーズものはシリーズを重ねるごとに「わかりすぎてしまう」ものへと漸近していってしまったのだろう。それゆえ、一つのコンテンツ消費を糧に少しずつ肥大化していく受け手の貪欲なイマジネーションを受け止め、それをさらに感化するには既存のような物語音楽では力が足りなくなってきたのではないか、というのが私見である。

 

さて、それでは行き場を失ったイマジネーションはどこへ向かっていくのだろうか?

 

ここでやっと「過剰性」の話が持ち上がる。

 

Flat氏はReal Soundへの寄稿記事において、「ボカロっぽい」という形容の本髄を主にサウンド的観点から精密に洗い出していったうえで、その要因の一つが「過剰性」である、と論じた*20。これはリリックにおいても同様のことがいえると私は考える。

 

リリックにおける「過剰性」とは何か。これには主に二つの傾向がある。「コトバの破壊」と「アンチ・タブー」だ。まずは前者から解説を試みたい。

 

何事も百聞は一見に如かず。それでは「コトバの破壊」を行った代表的なボカロPらの楽曲を実際に取り上げてみよう。

 

兎にも角にもまずはハチ。震源地からだ。

 

あのね、もっといっぱい舞って頂戴
カリンカ?マリンカ?弦を弾いて
こんな感情どうしようか?
ちょっと教えてくれないか?
感度良好 524(ファイブトゥーフォー)
フロイト?ケロイド?鍵を叩たたいて
全部全部笑っちゃおうぜ
さっさと踊れよ馬鹿溜まり

ハチ「マトリョシカ」2010/08/19

 

2009年投稿の「結ンデ開イテ羅刹ト骸」も相当のものだったが、「マトリョシカ」のリリックにおいてはもはやフレーズとして正当な意味を持つ箇所がほとんど見受けられない。もちろん、そこに何らかの寓意を読み取ろうとした考察や解釈は巷にわんさか横溢しているが、しかしまさにこの事態こそが、本楽曲のリリックが難解きわまることを証明しているといえる。ハチがこのリリックに具体的にどのような意味を込めていたのか、ということは私も正直よくわからないのだが、「Mrs.Pumpkinの滑稽な夢」や「WORLD'S END UMBRELLA」がなどの初期楽曲のリリックがそれなりに整合性や物語性を含んでいたことを考えると、「マトリョシカ」にも何か意味があると思われる。しかしそれを考え当てることはきわめて難しい。なぜなら「マトリョシカ」においては、意味へ至るための道、つまり言葉が極限まで破壊されてしまっているからだ。

 

主語の省略、助詞の欠落、難解な語句の嵐。意味(かもしれないもの)はそれらによって隠され、曲げられ、切り取られてしまっていて、容易には掴むことができない。

 

2010年以前、つまり「マトリョシカ」以前のVOCALOIDヒットチャートを見てみると、doriko「ロミオとシンデレラ」、ジミーサムP「from Y to Y」やsasakure.UK*ハロー、プラネット。」、ゆうゆ「深海少女」など、J-POP由来のラブソングや先述した物語音楽に該当するような楽曲ばかりが軒を連ねていることからも、本楽曲のリリックの先鋭性が窺い知れる*21だろう。

 

さて、ハチの生み出したこの破壊的な試みは、技巧上のムーブメントとなってシーン全体に拡大されていく。中でもいち早くそのフォロワーとなったと思われるのがトーマだ。

 

空中繁華街の雑踏 国境はパステル固め
フラッタ振動 原動力 耽美論
合法ワンダランダ 乱用
シスターの祈りもドラッグに
札束に賭ける笑い声

群れを成した捨て犬の 凱旋パレード
吠え散らす声 観衆の手
嘘まみれ 騙し合い
損得感情 森羅万象
狙った心臓 ゴム鉄砲

トーマ「バビロン」2011/05/02

 

わざわざどこがハチ的であるかを指摘するまでもないだろう。トーマはこの後も「骸骨楽団とリリア」「エンヴィキャットウォーク」などのミリオンヒットを連発し、2011~2013年あたりのVOCALOID全盛期を代表するボカロPとなった。

 

ハチやトーマの意味を超越したリリックセンスを「物語音楽」の文脈に持ち込んだ者もいる。その代表格がkemuだ。

 

混濁とコンタクト コンダクターこんな僕を導いて
 セルカークばりの粋なシチュエイション
ああでもないこうでもない あんなことこんなこと もう沢山 
 つべこべ排他的感情論
どうやら一方通行のお友達は膠にべもなく
 随分大胆な夜遊びね
世界一無害で尚且つ傍若無人ぼうじゃくぶじんなゴミにはなれたでしょう

そこに僕がいない事
誰も気づいちゃいないでしょう
そもそもいない方が
当たり前でしたね

大嫌い嫌い嫌いな僕を 覚えてますかルンパッパ
知らん知らん顔して 楽しく生きるのやめてくんない?
楽観 楽観 達観 楽観 達観 楽観視 僕は透明人間
爪噛む悪いクセ 今更止めても意味ないじゃん

kemu「インビジブル」2011/12/20

 

インビジブル」は透明人間になった少年の屈折した心理状況を描き出した物語音楽だ。しかし横文字や難解な合成語が並ぶリリックはハチやトーマ伝来のものと見なして間違いないだろう。彼のこの折衷的アプローチは案の定功を奏し、彼はVOCALOID史上でも稀に見る「全曲ミリオン(100万)再生」の称号をほしいままにしている。また、メロディーの余りを埋めるためだけに置かれたかのような「ルンパッパ」という箇所もハチ「パンダヒーロー」のサビに着想を得たのではないかと思う。

 

パッパッパラッパパパラパ 煙る蒸気喧騒の目
パッパッパラッパパパラパ ここで登場ピンチヒッター
パッパッパラッパパパラパ あれはきっとパンダヒーロー
パッパッパラッパパパラパ さらば 一昨日殺人ライナー

ハチ「パンダヒーロー」2011/01/23

 

無論、こちら(「パッパッパラッパパラパ」)は野球の応援歌における掛け声を模したものであり、完全なるナンセンスとは断じ難い。一方「インビジブル」は「パンダヒーロー」的でありながらも意味の完全な捨象に踏み切っているという点において、「コトバの破壊」のさらに先にある「意味の破壊」に片足を突っ込みかけていた感さえある。

 

また、楽曲にもよるが、黒うさPもこのムーブメントの確立に一役買ったといえよう。

 

大胆不敵にハイカラ革命
磊々落々 反戦国家
日の丸印の二輪車転がし
悪霊退散 ICBM

環状線を走り抜けて 東奔西走なんのその
少年少女戦国無双 浮世の随に

千本桜 夜ニ紛レ 君ノ声モ届カナイヨ
此処は宴 鋼の檻 その断頭台で見下ろして

三千世界 常世之闇 嘆ク唄モ聞コエナイヨ
青藍の空 遥か彼方 その光線銃で打ち抜いて

黒うさP「千本桜」2011/09/17

 

2011年半ばに投稿された本楽曲は、ニコニコ動画VOCALOIDオリジナル曲の中では「みくみく」に次いで2番目の再生数を誇っている、VOCALOIDカルチャーを代表するヒットナンバーだ。絢爛豪華なサウンドに気を取られがちだが、リリックはハチやトーマなどと趣向が似通っている。ちなみに、Googleの検索バーで「千本桜 歌詞」と打ち込むと、検索候補の3番目くらいに「ひどい」という文言が出てくる。

 

ハチとほぼ同時期に頭角を現しはじめたwowakaも同系譜上にある、ということができるかもしれない。個人的にはwowakaのリリックにおいて意味が遠ざけられているような印象は受けないし、wowaka自身も自らの楽曲が表層的に受け継がれていくことに対して苦言を呈していた*22

 

いい事尽くめ の夢から覚めた私の脳内環境は,
ラブという得体の知れないものに侵されてしまいまして,それからは。
どうしようもなく2つに裂けた心内環境を
制御するだけのキャパシティなどが存在しているはずもないので
曖昧な大概のイノセントな感情論をぶちまけた言の葉の中
どうにかこうにか現在地点を確認する目玉を欲しがっている,生。

wowaka「裏表ラバーズ」2009/08/30

 

「私の心の中」ではなく、あえて「心内環境」という聞き慣れない合成語を用いたり、「キャパシティ」「イノセント」といった横文字を用いたりしている点などが、おそらく「ハチ的」と目された理由だろう。

 

「ハチ的」ボカロP(楽曲)は上記以外にもワンサカいる(ある)が、ここでは割愛する。重要なのは、トーマも黒うさPもwowakaも、そしてもちろんハチも、VOCALOID全盛期においてトップクラスの存在感を放っていたということだ。この時期において「コトバの破壊」というリリックメイキングのテクニックはVOCALOIDカルチャーの内面に完全に染み込んだといっていいだろう*23

 

しかし不思議なのは、この「コトバの破壊」が一過性のムーブメントで終結していない、という点だ。

 

アンドロメダアンドロメダ 答えておくれ
あなたとわたし 永久に逢えないの
アンドロメダアンドロメダ 気づいておくれ
彼方の宇宙であなたに恋してる

パルラパルラパルラッタッタラ

ナユタン星人「アンドロメダアンドロメダ」2015/07/01

 

2015年、文字通り流星のごとく飛来し、VOCALOIDシーンをあっという間に侵略していったナユタン星人の処女作だ。「アンドロメダアンドロメダ」や「パルラパルラパルラッタッタラ」がkemu「インビジブル」の「ルンパッパ」を拡張・改良形であることに疑いはないだろう。というのも「インビジブル」においては単なるリリックの穴埋めに過ぎなかったものが、受け手側のシンガロングを誘発する「余地」へとコンバートされているのだ。本楽曲の動画において「パルラパルラパルラッタッタラ」にさしかかるとアンドロメダ子(動画の中心に立っているキャラクター)が躍り出すあたり、ナユタン星人自身もそのことにかなり自覚的である。「エイリアンエイリアン」「ダンスロボットダンス」なども同様だ。

 

この「シンガロングを誘発する『余地』としての無意味」は、和田たけあきも用いている。

 

さァ!さァ!密告だ!先生に言ってやろ!
ほらほらこんなに 悪いやつらがひ・ふ・み・よ
さァ!さァ!抹殺だ!悪い子退場だ!
最後のひとりになるまで終わらないわ
チュルリラ・チュルリラ・ダッダッダ!

和田たけあき「チュルリラ・チュルリラ・ダッダッダ!」2016/02/22

 

「サヨナラチェーンソー」や「わたしのアール」でコアなファンを獲得していた彼が、一躍シーンのトップへと躍り出た理由もまさにここにあるように思う。「チュルリラ・チュルリラ・ダッダッダ!」という掛け声は、何かを表す意味ではなく、楽曲と受け手が出会う特異点なのである。そこには麻薬の恍惚にも似た一種の身体的快感さえある。同様の趣向は「チェ・チェ・チェックワンツー!」「おどれ!VRダンス」などにもみられる。

 

この他にも、「おどりゃんせ」「スーサイド・パレヱド」のユリイ・カノン、「フラジール」「命ばっかり」のぬゆり、「シャルル」「メーベル」のバルーンあたりも広く見れば「ハチ的」リリックのフォロワー・・・とまではいかずとも系譜とは呼んでいいだろう。

 

無論、この風潮は2020年現在もなお健在である。代表曲であるkanaria「KING」やマイキP「アンチジョーカー」も、リリックという観点ではハチやトーマと同様の様相を呈している。

 

幽閉 利口 逝く前に
ユーヘイじゃ利口に難儀ダーリン
幽閉 ストップ 知ってないし
勘弁にしといてなんて惨忍

人様願う欠片のアイロニ
だれもが願う無機質なような
一足先に始めてたいような
先が見えないヴァージンハッピーショー

(中略)

レフトサイド ライトサイド 歯をむき出して パッパッパ
照れくさいね
レフトサイド ライトサイド 歯を突き出して パッパッパッハハ
You are KING

kanaria「KING」2020/08/02

 

もはや言葉のサラダというべきか、まったくといっていいほど情景が思い浮かんでこない。徹底的に。またサビの「パッパッパ」も、先述のkemu「インビジブル」における「ルンパッパ」と同じようなものである。いや、ひょっとしたらそれ以外の箇所も・・・。何はともあれここまで振り切ったリリックの楽曲が今もなお大きなポピュラリティーを獲得しているという事実は、VOCALOIDシーンにおいて「コトバの破壊」という過剰性が一つの文化的特徴として完全に根付いていることの証左だ。

 

笑うジョーカー 人間性サヨナラ
半分妖怪お姫様
ノーギャラ センセーション 本当は
悲しいキミのメロディ

赤のジョーカー 安全性サヨナラ
カードの交換されたなら
サイコロ降って狙い定め
伝染病の中祈るだけ

弱さを知った頃にはもう
ハートの女王 バカ晒し

マイキP「アンチジョーカー」2020/09/06

 

マイキPは元々「ラトゥラトゥ」というバンドのドラマー、つまり非VOCALOID畑の住人だ。そんな彼が「ウケる」と踏んで初めて執筆したのがこのリリックである。VOCALOID楽曲のリリックにおける過剰性は、今や非VOCALOIDシーンにおいてもある程度のコンセンサスを得ているといって相違ないだろう。

 

このように、ハチ以降のVOCALOID音楽は常に「コトバの破壊」を繰り返しており、それは今やリリックにおける「ボカロっぽい」を規定している要因の最たるものでさえあるといえよう。

 

さて、ここでようやく物語音楽の衰退という話に戻る。物語音楽においては、それがメディアミックスを繰り返せば繰り返すほどに受け手のイマジネーションの余地が奪われていく、ということだったが、この後釜となったのが「コトバの破壊」楽曲なのではないかというのが私の推測だ。

 

「コトバの破壊」楽曲においては、固有名詞の並列や意味の乏しい造語などを主体にリリックが構成されているため、当然ながら物語的な抽象度がきわめて高い。しかし裏を返せばこういうこともいえる。つまり、リリックに明確な筋道が存在しないがゆえに、受け手はどこまでも深読みしていくことが可能である、と。

 

これはほんの一例だが、たとえば「KING」のリリックをめぐる考察ブログの見出し文にここまで大きな差があることも、「コトバの破壊」楽曲における「深読み可能性」の大きさを如実に示しているといえよう。

 

👑KING👑は政略結婚した王妃の王座奪還劇だった?!|歩美|note

 

「KING」歌詞の意味は王を処刑する物語?Kanariaが作り出す世界観に浸る | 歌詞検索サイト【UtaTen】ふりがな付

 

メディアミックスに伴い凝り固まっていく物語音楽の世界から弾き出されてしまったイマジネーションは、その新たな拠り所として「コトバの破壊」楽曲を見出すようになったのである。物語音楽と「コトバの破壊」楽曲は、先述の通り2011年ごろからkemuらよって接続されてきたため、元来親和性は高かったといえる。

 

とはいえこの推測に関しては本当に何のエビデンスもないのでもう少しいろいろと調べていきたい所存だ。

 

さて、私はここまで「コトバの破壊」という手法の継承過程を大雑把に記述してきたわけだが、この趨勢の行き着く果てのことを考えるといくばくかの不安を抱かざるを得ない、というのが本音である。つまりすべてのリリックが意味を喪失し、あくまで音のみに奉仕するスキャットに成り果てる未来の到来。いかなるイマジネーションの介入をも拒む究極のナンセンスが蔓延る世界。今思えば、daniwellPの「Nyanyanyanyanyanyanya!*24」はきわめて皮肉な予言だったということができるかもしれない。当初の彼にそんな意図はなかっただろうけれど。

 

 

最後に、以上の問題点を踏まえたうえで、かいりきベアがこの閉塞を打破しうるポテンシャルを持っている可能性について述べておきたい。

 

足りないもの なーんだ 僕らの人生
正解どこなんだ 探せよ探せ
例外ない 二進も三進も 
零下以内なら 劣化以外ない
正味クソゲーだ カラ空回れ

倦怠モード「苦」だ 僕らの人生
校内猛毒だ 屈めよ屈め
盛大KNIGHT 和気あいゴッコは成敗DIE
by 生産性ない
後悔もう「独」だ 笑えよ笑え

心のレシピは かまちょ味 寂ジャンキー
だんだん強がって ドロドロに伏す
ドクドク呑み込んで 
苦しんで泣いて吐き出せないの 
ベノベノム さよなラ

あらま
求愛性 孤独 ドク 流るルル 愛をもっと頂戴な ねえ 痛い痛いのとんでけ
存在感 血ドクドク 零るルル 無いの?
もっと 愛 愛 哀 哀
叫ベベベノム めっ!

かいりきベア「ベノム」2018/08/02

 

かいりきベアのリリックの特徴は、押韻や音節のために言葉を容赦なく破壊し、そのうえで「かいりきベア語」としか形容することのできない独自の言語空間を再構築している点だ。

 

たとえば2回目のAメロ(「倦怠モード」~)では「もうどく」という音が「モード「苦」」と「猛毒」と「もう「独」」という3つの様態によって押韻されているが、「猛毒」以外の2つは正当な日本語とは言い難い。しかもそれ単体ではまったくもって意味を成さない。しかし、それらの総体として立ち現れる言語空間には「人間関係を諦め閉塞した学校生活を送る学生の苦悩」という意味が鮮やかに立ち現れてくる。文語とも口語とも様相を異にする、前後の文脈との照応によってのみ意味を帯びる語り口。VOCALOIDとはあまり関係がないが、ナンバーガールのリリックやジェイムズ・ジョイスの小説*25なんかがこれに近いといえる。

 

この他にも「カラ空回れ」や「かまちょ味 寂ジャンキー」など独特きわまる言い回しが頻出するが、いずれも前後の文脈を読み合わせることでしっかりと意味を形成するため、不思議と難解な印象はない。

 

彼は元々「マネマネサイコトロピック」や「勧善懲悪ロリィタコンプレックス」といった「物語音楽+コトバの破壊」な楽曲を得意とする、いわゆる純正のkemuフォロワーだったのだが、アートワークをのうに委任するようになると*26「コトバの破壊」をしつつも意味を持たせるという現在のようなスタンスに切り替わっていった。

2020年に投稿された「ダーリンダンス」のリリックも見ておこう。

 

駄。ダダダダ ダリダリ ダーリン FUNNY
はい冴えない愛情論で おねだり
駄。ダダダダ ダーリン脳裏のうり DIRTY&DIRTY
会いたい衝動 埋めてよ ダ ダ ダーリン 

無無(NANA) 無無(NANA) 無(NA)無無(NANA)
無(NA)無無(NANA) 無(NA)無無(NANA)

無い無い清純 感情が 行ったり来たり

無無(NANA) 無無(NANA) 無(NA)無無(NANA)
無(NA)無無(NANA) 無(NA)無無(NANA)

無い無い純情 感傷で 駄 ダ ダ ダーリン ちゅ。

かいりきベア「ダーリンダンス」2020/08/30

 

同じような発音の中に、アクロバティックな変形を遂げたさまざまな言葉が織り込まれている。「ナナナナナ~」のように発声上は単なるスキャットに過ぎない部分にも「無無(NANA)/無無(NANA)/無(NA)無無(NANA)」のように過剰なほどに意味が込められている。これはナユタン星人や和田たけあきにおける「シンガロングを予期した『余地』としての無意味」の「無意味」が、意味へと進化を遂げたものであるといっていいだろう。

 

「KING」や「アンチジョーカー」のように、行きすぎた「コトバの破壊」が意味をも破壊しかけているような危うい楽曲が今なおコンスタントにヒットしている状況下において、かいりきベアがそれに迫るヒットを生み出し続けていることは大きな希望であるといえよう。

 

個人的には、かいりきベアと同様の理由から、2019年の「オートファジー」以降ミリオンヒットを連発している柊キライのリリックにも大きく期待できるような気がする。

 

暗い 暗い 深海 ヴェールに包まれるは ラ ラ ラ ラ ラ ラブか?
奪い 奪い 叶わぬ願いは打ち上げられ さ さ さ さっさと去るか?
届け 届け それでも光は潰え水面 その遥か ラブカ
クライ クライ 未開の想いは足らぬ 足らぬ 至らぬはラブか?

柊キライ「ラブカ?」2020/12/11

 

押韻にこだわりつつもギリギリのところで意味に踏みとどまるようなリリックセンスは実にかいりきベア的だといっていいだろう。

 

ここまでは「過剰性」を構成する傾向のうち「コトバの破壊」について論じてきたが、次はもう一つの傾向である「アンチ・タブー」について論じようと思う。

 

存在論の項で私はVOCALOIDの主要なリスナー層が10代(殊に女性)であることを示したが、これはリスナーの多くが思春期にあると換言することができるだろう。

 

思春期とは「身体の成長に心の成長が追いつかず、だれもが不安定になりやすい時期*27」である。より具体的には「第二次性徴に始まる大きな身体的変化が生じ、性的エネルギーが増大し」、「精神的には、社会や学校・仲間集団・家族からの影響を受けながら一人の大人として自分を確立してい*28」く時期だという。

 

また、この時期の子供にはしばしば問題行動がみられるが、これは「子どもたちが課題をやり直す過程で現れたサイン」であるという。「例えばずっと「良い子」であった子どもが自主性(自律性と自発性)を獲得しようとしたとき、反動的に反抗的態度が強く出ることもあ*29」る。

 

思春期の定義に関してはこのくらいにして、「問題行動」とは具体的にはいったい何なのか考えてみよう。いや、考えるまでもないだろう。それは端的に言って「過激性への憧憬」、すなわち「アンチ・タブー」である。

 

これには多種多様な切り口が存在するが、本記事で取り上げるのは2つである。それは「エロ」と「反常識」だ。文芸的な例としては子供同士の生々しい性愛を描いたG・バタイユ眼球譚』や少年の葛藤を歌い上げた尾崎豊『15の夜』などが挙げられるが、VOCALOIDではどうだろうか?いくつか紹介してみたい。

 

「脱げばいいってモンじゃない、もっと色気出して」
「後ろに指入れていい?じゃあ舐めさせて」
アンタ、エロ本の読み過ぎよ!ホント最低!
「いつになったら潮吹くの?ねぇ?」
だまれ!だまれ!

だまってハダカで横になりなさい
何も言わなきゃメチャクチャいい男なんだから
だからどうして怒られてるかホントにわかってる?
ここでどうしてホントにだまるかな それじゃ、おやすみ

デッドボールP「脱げばいいってモンじゃない!」2009/10/16

 

やりたくなることは いけないことばかり
どーしてダメなのか たずねてもわかりません
若くてごめんなさい 反抗期でごめんなさい
だけどねあんたらも 厳しすぎやしませんか

みんなが言う いいコなんかに
なれないし なりたくもない

あれがダメだとか これがダメだとか
よくまー考えつくもんだ
常識きどって ふんぞり返んな
とっとと くたばれ PTA

梨本うい「くたばれPTA」2010/05/26

 

インターネットの普及率が90%に迫る*30現代日本においては、もはや幼少の頃よりインターネットは当たり前の生活ツールである。したがってインターネットを中心に展開されてきたVOCALOIDカルチャーは当然のように彼らの目に留まる。上記のような楽曲ももちろん、だ。

 

多感な思春期にあれば、上述のような楽曲は殊更印象に残るだろう。体のいいJ-POPや合唱曲には決して出てくることのないようなアンチ・タブー的モチーフの波濤に、常識的精神は根幹からグラッと揺り動かされることになるわけだ。かくいう私もその一人である。

 

デッドボールPは「くるみ☆ぽんちお」のまだ仔と並び立つ、下ネタリリックの申し子である。初音ミクのようなバーチャルシンガーでなければ性犯罪待ったなしの際どいフレーズが詰め込まれたリリックは、さながら電子の海に遺棄された三文エロ小説といった趣である。もちろんいい意味で。

 

梨本ういは死や絶望や圧迫感といったモチーフを主題にした陰鬱なリリックで知られるボカロPだ。饒舌で迂遠な恨み節の最中、時折呪詛のように単刀直入な汚言が放り込まれるような楽曲が多い。梨本うい本人によって描かれる、グロテスクでおどろおどろしいアートワークも思春期層から持て囃されるゆえんだろう。

 

VOCALOID音楽が受け手にこのような過激性を供給することができた背景には、VOCALOIDが倫理的制約を受けない機械であるということが大きく作用していることに異論の余地はないだろう。エロ表現に関していえば、「脱げばいいってモンじゃない!」まではギリギリ実在のボーカリストが歌唱してくれる可能性はありそうだが、たとえば乙Pの「オマーン湖」なんかはどうあがいても無理だと思う。・・・リリックはあえて載せないので気になる方は自己責任で調べていただきたい。

 

しかしデッドボールPもまだ仔も乙Pも、どちらかといえばリリックの力点を笑いに置いてしまっているような印象が強いため、それこそシンP「卑怯戦隊うろたんだー」やおにゅうP「般若心経ポップ」のようなネタ曲と同列に扱われることが多い。実際、これらのボカロPのコメント欄における「www」の多さは異常ですらある。

 

この流れをいい意味で破壊したのが蝶々Pだ。

 

甘いのもいいと思うけれど苦いのも嫌いじゃない
そんな私の事を我儘だと言うの?
馬鹿だとかアホらしいとか言いたいだけ言えばいいわ
他人の価値観なんて私は知らないの

掌から落ちていった紫色の花みたいに
くるくるって踊る様なこの感じがたまらない

さぁ、どうなっちゃうのか見せてよ
本能?理性?どちらが勝つの
超絶倫【自主規制】で魅せてよ
本当はここを欲しがるくせに

蝶々P「え?あぁ、そう。」2010/03/22

 

終始エロティックな雰囲気を漂わせながらも、直接的な表現は避ける。仮にそういう表現が口をついてしまった場合は【自主規制】で覆い隠す。蝶々Pお得意の媚態の美学である*31。「はちみつハニー」あたりにも同様の手法が用いられている。

 

また、サビ部分で用いられている【自主規制】(=ピー音)はVOCALOID楽曲においては割とよくみられる技巧だ。初出は定かではないが、私が知っている中ではcosMo@暴走P「初音ミクの暴走(2007/10/22)」が最古である。「初音ミクの暴走」では直球の下ネタを回避するためにこれが用いられていた。

 

マチゲリータP「暗い森のサーカス」では何らかのグロテスクな表現がピー音によって誤魔化されているが、マチゲリータPのリリックにおいては、テキストとしてのリリックと実際に発声されるリリックとの間に違いがあるので何を発音しようとしていたのかはわからない(しかしこの不気味さこそがマチゲリータPのリリックの本髄だ)。

 

dorikoの「ロミオとシンデレラ」におけるピー音は、もはや違和感のない一つの音素のように楽曲内に紛れ込んでいる。「あなたにならば/見せてあげる私の・・・」ときたところで狙い澄ましたようにピー音が入ってサビに突入するわけだが、2020年現在、彼女がいったい何を見せてくれようとしたのかはいまだ不明のままだ。思春期に膨らませた想像は今なお膨らんだままなのである。

 

ピノキオピー「腐れ外道とチョコレゐト」では、ピー音が喚起する受け手の想像力を逆手に取った巧みな表現が用いられている。

 

例えばあの○○○○の○○○○○が
実は○○○○っていうこと
それはもう○○○○で ○○○が
○○○○○!!

ピノキオピー「腐れ外道とチョコレゐト」2011/01/10

 

ピー音の使用は近年でも時折みられるが、なんというか自主規制の基準がかなり上がったように感じる。

 

ねぇ 恐怖がわからないの
こんなに脆く儚い だから██したい♥

ぐちゃぐちゃにしたいの 全部
過去も今も未来も
バラバラにしたいの 全部
キミをさらけ出して

八王子P「バイオレンストリガー」2018/12/23

 

ピー音の部分はおそらく「殺したい」だろう。昔の梨本ういであれば躊躇なく発音していたように思う。

 

無邪気に遊ぶ 期待期待のダーリンダーリン
健気に笑う 痛い痛いの消える
無様に〇ねる 苦い思いも無くなって
ラララブウ ラッタッタ
嫌い嫌いの最低泣いてダウン

kanaria「KING」2020/08/02

 

またもや「KING」で申し訳ない。ピー音の部分は「死ねる」である。もはやピー音を被せる意義はほとんどないといっていい。それでもこの技法が今なおちょくちょく用いられているのは、上述の「コトバの破壊」と同様、これがVOCALOID音楽における一つの固有技法として確立しているからではないかと思う。「アンチ・タブー」という観点からも、ピー音が喚起する非常性は、そうしない場合に発声される直接的表現以上に印象的であるといえよう。

 

話を元に戻そう。

 

蝶々Pがスタイリッシュに切り開いた「エロカッコいい」の系譜は、後に梅とらへと継承されていくことになる。とりわけ有名なのが「威風堂々」に代表される四字熟語シリーズだろう。

 

時には噛んだりして 痛みを覚えさせて
溢れるエキタイで汚してよ 全部
足の先からずっと 這わせたその神経はもう
感触に溺れる 身体ココロを連れて

指くわえた我慢の中 欲してんのが理想?

いらない 全てはいらない 磨き上げてる邪魔なPRIDE
無意味な世界のルールくらい 無駄としか言い様がない
隠しているあなたのSTYLE 剥き出しにあるがままDIVE
そこに生まれるのは期待 外れなんかじゃない 頂のSMILE

梅とら「威風堂々」2012/10/29

 

しかしながら梅とら以降は「エロカッコいい」路線で目立つような楽曲が少なくなってしまったように感じる*32。梅とらのシェアが大きすぎるのか、それともインターネットの全人的普及により、性的関心の発露としてわざわざVOCALOIDを選択する必要がなくなったのか、そのあたりはまだわからないが。

 

さて、次は「反常識」という切り口についてだ。

 

この流れを論じるにあたっては、兎にも角にもNeruの存在がかなり大きい。というかNeruがデカすぎて他が霞んでしまう。

 

もう何も無いよ 何も無いよ 引き剥がされて
糸屑の 海へと この細胞も
そうボクいないよ ボクいないよ 投げ捨てられて
帰る場所すら何処にも 無いんだよ

存在証明。 あー、shut up ウソだらけの体
完成したいよ ズルしたいよ 今、解答を
変われないの? 飼われたいの?
何も無い? こんなのボクじゃない!
縫い目は解けて引き千切れた

煮え立ったデイズで 命火を裁つ
誰だっていいのさ 代わりになれば

Neru「東京テディベア」2011/08/14

 

国道沿いに対峙する 僕達の閉じた未来
屋上階で目を瞑り 重力場に逆らう

道徳なんて死んじまえ 缶コーラ蹴り飛ばした
青春なんてこんなもの このセリフ何度目だ

生き急いでいた彼女は 昨日郊外の倉庫で
歪な顔をして ビニールテープを 首に巻いた

我儘のナイフで夢を脅す 僕らの明日が泣き叫んだ
「助けてくれ」の声を   孤独の盾で塞いだ
屁理屈の正義で夢を殺す 僕らの明日が血を流した
しょうもないと火を付けて   積まれた思い出燃やした

Neru「再教育」2012/09/02

 

Neruのリリックの特徴は、梨本うい以上に現代的な視座に基づいた厭世観である。世を倦み人を倦み、自己否定や固有名詞でガチガチに固まったフレーズの隙間で悲痛な遠吠えがくぐもる、そんな世界観。大人や社会に反意を抱きつつも自分が子供としてそれらに護られているという自己矛盾を抱えたアドレサンスの苦悩に対して、彼以上に強く、深く連帯できるボカロPはそうそういないのではないか。自分自身が圧倒的な絶望という負の値でありながら、それを受け手の絶望にぶつけることによっていつの間にか希望という正の値を生じさせてしまう。言うなれば「卑屈な思春期メンタルクリニック」的なポジション。それこそが彼の人気を不動のものにしているのだろう。

 

最近のVOCALOIDシーンではsyudouの活躍が目覚ましいが、彼のリリックもどことなくNeru(特に初期)のような雰囲気が窺える。

 

着飾ったそぶりが大嫌い
嫌になんだよ お前を見ただけで
ねぇ虚構の悲哀を演じてみせて
「世界で一番愛してるわ」だとか
かくかくしかじか叫べども
世界はオマエが大嫌い
さぁかまととぶるのも今夜が最後
明日の朝にはなんもありゃしないから   
二度とは戻らぬ今日この時を
オマエの瞳に焼き付けて

抱きしめて

syudou「馬鹿」2018/03/21

 

徹底的なまでに反常識的な言葉遣いは初期Neruに特有だったものである。しかし彼とは違い、楽曲内に反意的な希望や救いが示されているという点では彼よりも優しいというか詰めが甘いというか、まぁこのあたりは個々人の好みになるだろう。

 

また、多少センスや語彙に欠けるものの、カンザキイオリもNeruの延長線的存在といえる。

 

僕らは命に嫌われている。
価値観もエゴも押し付けて
いつも誰かを殺したい歌を
簡単に電波で流した。
僕らは命に嫌われている。
軽々しく死にたいだとか
軽々しく命を見てる僕らは命に嫌われている。

カンザキイオリ「命に嫌われている。」2018/08/06

 

Neruがレトリック豊かな感情表現に秀でている一方で、カンザキイオリはそれらすべてを代価に、グロテスクなまでに剥き出しの感情をリリックに紡ぎ出そうとしているといえるだろう。平たく言えばとてもわかりやすい。面倒臭い言い回しも、横文字も、ほとんど出てこない。ちょっとわかりすぎるんじゃないかという感じもするが、そうでなければ救えない領域が存在していたという事実はこの楽曲の動画の数百万という再生数が如実に示している。「あ、ここまで明け透けに言ってもいいんだ」という安心感を思春期に与えたという点ではNeru以上の功績といってもいいかもしれない。

 

さて、「過剰性」の2つの傾向についてここまで長ったらしく分類や例示を続けてきたわけだが、最後に紹介すべきはなんといってもDECO*27だろう。

 

私は「過剰性」の傾向が「コトバの破壊」と「アンチ・タブー」の2つに大別されると述べたが、これと照らし合わせてみると、現在のDECO*27がそのどちらをも満たしていることがわかる。とはいえいきなり当該の楽曲だけを取り上げるのも性急なので、過去の楽曲から順を追って見て行こう。

 

このご恩を一生で忘れないうちに
内に秘めた想いとともに
歌にしてみました。
愛言葉は”愛が10=ありがとう”

DECO*27「愛言葉」2009/07/21

 

初期の代表曲である「愛言葉」だが、そのタイトルからして既に言葉遊びの名手としての萌芽をみせている。「愛が10=ありがとう」のくだりは現在に比するとやや硬直めいた感じだが。

 

想天キミがいる 淘汰消えていく
もうアタシは キミに伝えられない。

「君が死ねばいいよ 今すぐに」

本当だって良いと 思えないの
アタシはまだ弱い虫
コントラクト会議
アタシはまた キミの中に堕ちていく

本当だって良いと 思いながら
「嘘であって」と願うのは
弾き堕した結果
アタシがまだ 弱虫モンブランだったから

君が入ってる 繰り返し果てる
それに応えよと アタシは喘ぐの

DECO*27「弱虫モンブラン」2010/04/15

 

緩やかに後ろ向きな世界観の中に突として挟み込まれる「死ねばいいよ」という語句がこの上なく印象深く響く。これと「モザイクロール」によってDECO*27の地位はほぼ不動のものとなる。

 

毒占欲振り回して KIMI に伝えたら
簡単にそう消せそうだよ 心ごと
大概にしといてや

あの子のすべては僕のもの
キスをしたり 添い寝をしたり その先だって
誰もそれを切り裂けないの
KIMI を犯すためなら 法だって犯せるから

DECO*27「毒占欲」2014/01/31

 

「大概にしといてや」は「弱虫モンブラン」の「死ねばいいよ」同様の異化効果を発揮している。また「キスをしたり/添い寝をしたり/その先だって」によって示唆された性愛が「KIMIを犯す」によっておぞましいアクチュアリティーを帯びていく不気味さも現在のDECO*27へのプレリュードと見なせる。

 

言っちゃった
もう一時ちょっとだけ隣に居たい
いやいやまさか 延長は鬱雑い
御免なさい 帰ってね
二酸化の炭素 きみの濃度

浸ってたいよ 泥沼の夢に
身勝手だって言われてもペロリ
不安じゃない 未来はない
その顔に生まれ変わりたいな

知っちゃった
大嫌いを裏返したとて
そこに大好きは隠れてないと
叶えたい この想い
甘え過ぎ太る心回り

“ファット想い→スリム”を掲げよう
出逢った頃と同じ様に成ろう
思い笑描く理想狂
血走る願いはやがて安堵

だけど「大丈夫」なんて恋はどこにもないの

だから妄想感傷代償連盟
愛を懐いて理想を号んだ
行き場のない愚者のメロディー
再挑戦・転生・テレポーテーション
何回だって 重ねて逝くんだ
終わりなき愛の隨に さあ

愛や厭...

DECO*27「妄想感傷代償連盟」2016/11/18

 

DECO*27の一つの転換点、あるいはVOCALOIDシーンの一つの転換点として、2016年における彼の新曲投稿ラッシュ*33は見過ごしてはならない事件だろう。単純な再生数ならば「ゴーストルール」が群を抜いているが、リリックという観点から見れば「妄想感傷代償連盟」の存在がひときわ大きい。

 

「うざい」を「鬱雑い」、「えがく」を「笑描く」、「いだいて」を「懐いて」と表記することでそこに含まれる意味に具体的な輪郭を持たせたり、「あいやいや」というスキャットに「愛や厭」という意味を与えたり、要するに先ほどかいりきベアの項でも述べたような、独自の言語体系による意味の再構築が行われている。それでいてリリック全体としての意味を喪失させることのない手腕にはNeruも惜しみない絶賛を送ったほど*34 。またその一方「逝く」や「愛の隨に」といったフレーズによって絶えず生々しい性愛(=アンチ・タブー性)の存在が寓意され続ける。

 

こんばんは、今平気かな?
特に言いたいこともないんだけど
もうあれやこれや浮かぶ「いいな」
君が居なくちゃどれでもないや
仮面同士でイチャついてら

寸寸 恋と表記せず
気持ち vs 退屈はPK戦
そうなにもかもに迷子がおり
泪流してSOSを
半目開きで娘娘する

病事も全部
君のもとへ添付
ツライことほど分け合いたいじゃない
この好きから逃げたいな

やっぱ
乙女解剖であそぼうよ
本当の名前でほら呼び合って
「いきたくない」 そう言えばいいんだった
楽になれるかな

乙女解剖であそぼうよ
ドキドキしたいじゃんか誰だって
恥をしたい 痛いくらいが良いんだって知った
あの夜から

DECO*27「乙女解剖」2019/01/18

 

「乙女解剖」ではあからさまな「コトバの破壊」的箇所こそ見受けられないが「イチャついてら」や「気持ち vs 退屈」といった表現にそのエッセンスが活きている。その代わりに「アンチ・タブー」である性愛表現のボリュームがグロテスクなまでに最大化されている。ここでは引かなかったが、2番の「涎をバケットの上に塗って」というフレーズは性欲による食欲の侵犯という禁忌によって楽曲のグロテスクさをより悪意的に際立たせている。

 

 “後悔”と”もしも”が夢の交配 産声上げた共依存Jr.
付けた傷より付けられた傷で語ろう
好きごっこ 次も君が鬼なんだろう

タッチアンドリリースをモットーに
寄せては返す感情のWave
ボンベ背負って狂い出すダイバー
残りのメーター もうダメみたいだ

飽きたら放ったらかしは悲しい
僕が渡した想いに添えて©
大迷惑な代表作 題名は君の好きにしたらいい

ココロロックオン依存香炉
高鳴り半端ない僕の教祖
声も顔もしょうもない嘘も
何度でもいいや 嗅いでいいですか

ココロロックオン依存香炉
抱きたい危険地帯 ご覧どうぞ
愛に満ちた後悔の先を
何度でもいいや 嗅いでいいですか

DECO*27「依存香炉」2020/12/19

 

最後に最新曲の「依存香炉」だ。「共依存Jr」「好きごっこ」「依存香炉」といった造語が独特の存在感を放ちながらも、しかし決してリリック全体の意味体系から遊離することなく前後の文脈と繋がり合っている。「"後悔"と"もしも"が交配」というアクロバティックな比喩と押韻を同時にこなすのもお手の物だ。「愛言葉」の頃とは比べ物にならないほどのびやかで遊び心*35のあるリリックに仕上がっている。

 

このように、DECO*27は、私が本章で述べてきた「過剰性」の2つの傾向のどちらもを使いこなせるうえに、場合に応じてその出力を自由自在に調節することもできるといえよう。DECO*27が今なおボカロP史上最多の動画再生数を保持しているのは、もちろん訴求力のあるサウンドメイキングによる部分も大きいだろうが、卓越したリリックセンスも一役買っていることに間違いはないだろう、というのが私の推測であり、そして同時に願望でもある。

 

おわりに

 

なんだかしっちゃかめっちゃかに風呂敷を広げたままのような気もするが、今回はこのあたりで結びとさせていただきたい。また、今回はハチ「砂の惑星」とJ-POP的音楽については、その領域を認知していながらあえて語ることをしなかった。「砂の惑星」についてはいつか個別的にブログを執筆しようと思っている。J-POP的音楽(ryo「メルト」に端を発する流れ)については、私自身がそもそも範型となるJ-POPそのものにほとんど精通していないため、今回はオミットさせていただいた。勉強します。

 

 最後くらい最後らしいリリックを引いて筆を置こうかと思ったが、こういうところでやっぱりピノキオピーしか思い浮かばないあたり、私はどこまでいっても文脈や意味といったものに拘泥し続ける運命にあるのだな、と痛切に思う。それならばどこまでも抱えてやろう、というのが当面の意気込みである。ラヴィット。

 

楽しく胸躍る曲も 血のたぎる熱い曲も 
涙をふり絞る曲も ボーカロイドのうた
ピコピコしたポップな曲も 肺腑をえぐるラウドな曲も
おしゃれでカッコいい曲も ボーカロイドのうた 
壮大なバラードも 照れるようなラブソングも 
病気なトラウマソングも ボーカロイドのうた
誰も傷つかない曲も 誰かを傷つけた曲も
誰かが救われた曲も ボーカロイドのうた
今を刻み込んだ曲も 過去を振り返る曲も
未来を見ていた曲も ボーカロイドのうた
売れ線の似ている曲も 踏み台の手段の曲も 
人と共存する曲も ボーカロイドのうた
人間が歌える曲も 人間じゃ歌えぬ曲も 
誰もが知ってる名曲も 誰にも知られぬ名曲も
ボーカロイドのうた 

冷たいけれども あったかい ボーカロイドのうた
聴き取りづらい なのに愛しい ボーカロイドのうた

ピノキオピー「10年後のボーカロイドのうた」2020/08/31

 

それでは、またどこかで。

 

*1:azuma「あなたの歌姫」

*2:ヤスオ「えれくとりっく・えんじぇぅ」

*3:ショートバージョンは2007年には既に投稿されていたが、大々的なヒットとなったのは2008年投稿のロングバージョンだ。

*4:ここでは「DEAD END」版ではなく、2007年投稿のショートバージョンのリリックを引用することとする。彼の問題意識の原初状態はショートバージョンのほうにより色濃く反映されていると考えたため。

*5:この認識が、当議論のきっかけを作った平田義久氏の本意とは懸隔があることを付記しておく。詳しくは以下のブログを参照してほしい。VOCALOIDに感情はいらない|平田義久|note

*6:松傘は敢えて英語用のエンジンを使うことによって滑りのいいラップ歌唱を、アメリカ民謡研究会はニュースの読み上げやゲーム実況などに特化したVOICELOIDを起用することで自然な発音をそれぞれ実現した。

*7:無論、この日は初音ミクの誕生日である。

*8:東京工業大学ボーカロイドに関する調査」(https://www.t-kougei.ac.jp/static/file/vocaloid.pdf)、スマートアンサー「10代女性の87%は「初音ミク」を知っているという結果に! VOCALOID(ボーカロイド)に関する調査」(https://smartanswer.colopl-research.jp/reports/ca235846-5ef1-4208-90f1-4fee8e2de221)などによる。ちょっと古いけど・・・

*9:https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1308/02/news007.html

*10:この曲が現実の歴史上の人物を範型にしていた、というのも理由の一つだろうが。

*11:「ヘイセイプロジェクト」。ぷす(じっぷす)が2012年から手掛けた。

*12:リリックは鳥居羊が手掛ける。

*13:このような、受け手の意表を突く物語音楽のパイオニアとしては2007年から始まったkihirohitoP「護法少女ソワカちゃんシリーズ」が挙げられるだろう。本作では、やけに仏教知識に通暁した登場人物たちがポップとサイケデリックの間を飛び回るシュール活劇が繰り広げられるが、その最大の魅力は、常に想像の斜め上を行く物語展開にある。また、後年「クワガタにチョップしたらタイムスリップした」などでヒットを飛ばした家の裏でマンボウが死んでるPもこの系譜だろう。

*14:うたたPはこれを「二面性」と形容している (https://natalie.mu/music/pp/utatap/page/3)

*15:ちなみに――この比較が意義のある証拠となるのかはさておき――「鬼滅の刃」の検索結果は200697件だった。

*16:同名のアルバムが2013年11月8日に発売された。

*17:単発の楽曲であれば、同様の試みは既になされていた。宮沢賢治銀河鉄道の夜」をモチーフとしたsasakure.UK「カムパネルラ」、サン=テグジュペリ星の王子さま」をイメージしたジミーサムP「Little Traverler」、あさのあつこ「NO.6」をそのままひっくり返したPIROPARU(作詞は多英子)「9'ON」などが好例だ。

*18:正直この曲は次の章で扱いたかったのだが、致し方ない。そもそも何かを完全に分類することができるという考え方自体が単なる換喩に過ぎないのだし、トピックを横断するような楽曲は無数にある。

*19:実在の童話をモチーフとしたメジャー2ndアルバム『月を歩いている』をリリースしたn-bunaが、今やヨルシカとして日本のポップシーンの最先端に位置していることも。

*20:https://realsound.jp/2020/09/post-613822.html

*21:とはいえ、2010年以前のヒットチャート上に「マトリョシカ」のようなリリックの楽曲がまったくなかったわけではない。2008年投稿のゆうゆ「クローバー・クラブ」などは、ゆうゆ自らが投稿者コメントで「歌詞自体には意味もストーリーもありません」と明記しているほどのナンセンスさにもかかわらずヒットを記録している。おそらく黎明期よりハチを受け入れられる土壌自体は整っていたのだろう。

*22:「ちょっと安直と言うのかな。「こうすればいいんでしょ?」「こういう曲が好きなんでしょ?」みたいなものが増えてしまって。曲自体もそうだし、表現の仕方もそうだし」(https://natalie.mu/music/pp/wowaka_deco27/page/2)

*23:このテクニックにボカロPがそれぞれ固有の必然性を見出していたかということはまったくの別問題だ。個人的には特に何も考えていないボカロPが多いように思う。というか、リリックにおいて意味は絶対に必要である、という考え方自体がVOCALOIDシーンにおいては希薄な気がする。もちろんいい意味でも悪い意味でも。

*24:歌詞が「nya」しかない。

*25:ジョイス本人の文章、というよりは柳瀬尚紀の訳文がそれっぽいというべきか。

*26:「セイデンキニンゲン」以降。

*27:https://www.mext.go.jp/a_menu/shougai/katei/04042001/c-03.pdf

*28:https://www.e-healthnet.mhlw.go.jp/information/heart/k-03-002.html

*29:同上。

*30:総務省|令和2年版 情報通信白書|インターネットの利用状況

*31:「海パンP」名義の楽曲を除く。

*32:ギガPの「ギガンティックO.T.N」や「+♂」は大ヒットこそしたものの、その受容は先述のネタ曲と変わらないので除外した。

*33:「ゴーストルール」「ライアーダンス」「いいや」「リバーシブル・キャンペーン」「妄想感傷代償連盟」の5曲。これらはすべてDECO*27のメジャー5thアルバム『GHOST』収録曲である。

*34:「リリックはライムを踏みつつも、意味を破綻させないことに気を配っているところがさすがデコさんって感じ」(https://www.cinra.net/interview/201609-deco27neru?page=3)

*35:「僕も歌詞を書くときは、「遊び心は忘れないようにしたい」と思っていますね」(https://realsound.jp/2019/05/post-360254_2.html)

喪失ヶ浜の午後

 車窓に覗く景色を意味のある形象として捉えられるようになりつつある。私はドコモタワーだとか都庁だとかスクランブルスクエアだとかいった高層建築がいつの間にか平べったい公営住宅にすり替わっていることに気がついた。


 茫漠とした旅情が俺は今からどこどこに行くんだ、という確信へと凝固する一方で、ビルやネオンの織り成す猥雑な摩天楼はその影を遠くひそめていく。私はふとテーブルゲームのチェスを連想した。局面が進展するごとに私の精神は徐々に研ぎ澄まされていくのに、それと反比例するように盤上の駒は減少する。緻密なストラテジーとタクティクスが私の頭の中に組み上がる頃には、ゲームは既にチェックメイトの断崖をふらついている。私にとってチェスとはそういうゲームであり、それは今私が直面している現状に似ている気がした。なんだかとてもむず痒い。必死で捕まえた蝶々が握り拳の中で死んでいるような。

 そういえばスクランブルスクエアはどこにあるどんな建物だっただろうか。窓外に果てしなく広がる田園を見やりながら、私は北に遠く隔たった都区部の風景についてあてもない思索を広げた。しかしそれが具体的な像を結ぶことは終ぞなかった。


 藤沢駅江ノ電に乗り換えるとスニーカーがガサガサという摩擦音を立てた。サーフボードや水着に付着したまま乾燥した由比ヶ浜やら七里ヶ浜やらの砂粒が車内の床に堆積しているらしい。そのうちこの電車も何らかの浜になってしまうのかもしれない。江ノ島電鉄ヶ浜。少し語呂は悪いが新しいアピールポイントの一つにはなるだろう。私は身体にこびりついた架空の砂をポンポンと払いのけ、湘南海岸公園駅で電車を降りた。昼下がりの直射日光が明色に統一された家屋によってのびのびと反射されている。街全体が世界平和を象徴しているようだ。しかしそれは同時に、現実からかけ離れた場所にある間抜けな異界のようでもあった。視線を下げると急坂の先から懐かしいシルエットがこちらへ向かってくるのが見えた。私は小さく手を振った。


「今何してるの?」

 私は彼女にそう尋ねた。彼女の視線は窓外の太平洋にぽつんと浮かぶ江の島に向けられているようだった。

「コンビニ」

「コンビニ?」

「そう」

「それはコンビニで働いているっていうこと?」

 彼女は冷めたエスプレッソを啜ってソーサーに戻すと、溜息をついて小さく頷いた。木製の低いテーブルの上に空白が舞い降りた。彼女の視線を追うように、私も外の景色を眺めてみた。それ以外にできることもなかった。高校生くらいの集団がサッカーボールを抱えながら海の方へ駆けていく。サラリーマンが公園のベンチで昼寝をしている。サザンオールスターズだかビーチボーイズだかアジアンカンフージェネレーションだかを爆音でかけながら134をオープンカーが走っている。

 その後もとりとめもない会話が無数に湧き上がっては蒸気のように消えていった。

「……だったの?」

「まあ」

「……じゃない?」

「確かに」

「……だよね?」

「あるいは」

 私は簡易な受付ロボットみたいな受け答えばかりの彼女にいくぶん苛立ちを覚えていたのかもしれない(あるいは彼女の住むこの街そのものに)。感情は思慮のフィルターを介さぬまま剥き出しの言葉となって飛び出した。

「本題に入るけどさ、どうして君みたいに素晴らしい物書きがこんな街で、しかもコンビニなんかで働く必要がある?」


 彼女は才気溢れる小説家だった。少なくとも私と生活を共にしていた頃までは。いくつかの名誉ある文学賞を受賞していたし、自称ファンだの自称マスコミだの自称編集者だのから送られるぶ厚いラブコールが毎日のようにポストを圧迫する輝かしい時代すらあった。しかしある時を境に彼女はパタリと小説を書かなくなってしまった。そしてそれに踵を接するように我々の関係も終焉を迎えた。いや、「踵を接する」という表現は適当ではないかもしれない。どちらが先でどちらが後なのか、私にはその因果関係がわからない。彼女はある日突然、私の前から消えた。「私は海が見たい」。机の上には粗末な書き置きだけが残っていた。


 私は小説家が働くコンビニについて想像してみた。そこでは美しい言葉や思想が次々と高温の油で揚げられ、けばけばしいポップと共に什器の中で陳列させられていた。彼女にとってそれは明らかに正しくないことのように思えた。彼女は小説を書くべきだ。こんなところでコンビニの店員なんかやっている場合じゃない。

 

 しばしの沈黙を破り彼女が返答した。
「あのね、鎌倉や湘南はディズニーランドじゃないの」

 私は彼女が何を言いたいのか理解できなかった。それは先の私の質問に対する応答にはなっていないように思えた。それを察したように彼女は付け足した。

「ここには生活がある。有機的な人間が有機的な生活を送っている。何もかも表面しかないレジャーランドとは違う」

「そんなことなら知ってるよ。鎌倉も湘南も神奈川が誇る立派な大都市圏だ、間違いなく」

「何にもわかってない」

「わかってるとも」私は窓外を指差した。「あれ見て、あの島。江の島だ」

「それが何?」

「今日もあそこは観光客で溢れかえっているに違いない。それを横目に地元の元気な金髪の兄ちゃんたちが『あの都会野郎ども、牡蠣の食べ方すらなっちゃねえ』『レンタカーなんかで来やがってよ』なんてゲラゲラ談笑する。日焼けした近所の子供が自転車でやってきて芝生の上で寝てる。サッカーボールを枕にしてさ。それをタンクトップのオッサンが『早く帰れよ』なんて追い払う。カモメが鳴く。ヨットが呑気に浮かぶ。シーキャンドルが夕焼けを照り返す。それがこの街の生活だ」

 しばしの沈黙があった。行き場を失った熱を排気するように彼女が大きく溜息をついた。私はいったい何度溜息をつかれればいいのだろう。

「私ね、この前死んじまえって言われたの」

「誰に?」

「知らない。コンビニにやってくる人間がみんな胸にネームプレートでも貼っといてくれるっていうんなら話は別だけど」

「どうして君がそんなことを言われなきゃならない?」

「誰が何を考えてるかなんて私にいちいちわかるわけないでしょ。それともあなたにはこの世界がフキダシだらけのマンガにでも見えてるわけ?」

 私は何か彼女に反論することができたと思う。しかし実際にはできなかった。


 日が傾いてきた。木々の黒々とした影が剥き出しの崖に突き刺さり、オレンジ色の血が辺り一面を浸している。早く帰れ、街はそう言っているようだった。そして彼女もまた街の一部だった。私はすっと立ち上がり、バーバリーのチェスターコートを羽織った。彼女が私の方を見た。あくまで動く物体に対する動物的反射として。私は迷いに迷ってからおずおずと口を開いた。

「ここへ来るとき、チェスのことを考えていた」

「チェス?」

「電車でどこか遠くに向かうとき、俺は建造物を見るようにしている。建造物の増減っていうのは変化の指標としてきわめて有用だから」

 彼女はじっと私のほうを見ていた。壁でも眺めるみたいに。私は続けた。

「だけどなんていうのかな、そういう風景の見方っていうのは出発してからしばらく経たないとできないものなんだ。そしてできるようになった頃には旅が終わっている。チェスも同じだ。盤面が見えてくる頃にはゲームが終わっている」

 彼女はいつの間にか俯いており、私が喋り終えてもしばらくの間黙っていた。

 私は彼女の動作についていくぶん博学になっていた。思うに、そろそろ溜息でもつかれるような気がする。

「はあ」

 ほらやっぱり。

「それはあなたにとってのチェスでしょ?」彼女は暮れなずむビーチを見下ろしながら言った。

「どういうこと?」

「本物のチェスプレイヤーは常に盤面が見えているものなの。始まりから終わりまですべて。そして見えなければ容赦なく失う。当たり前のことじゃない」


 私は彼女の言葉を心の中で反芻しながら湘南新宿ラインで東京に戻った。深く考え詰めすぎたのか、気が付いた頃には新宿の摩天楼が窓外を満たしていた。私は総武線に乗り換え、東中野駅で電車を降りた。すこぶる疲弊していた。そういえば一日を通してコーヒーしか口にしていない。料理を作る気さえ起きない。私は駅前のコンビニに立ち寄って夕飯を買うことにした。

 カップ麺とサラダチキンとほうじ茶をレジへ持っていくと、禿げかけた中年の店員が心底面倒臭そうにそれらをバーコードリーダーにかけた。

「ポイントカードありますか」

 中年の店員は呪文でも唱えるように私にそう尋ねた。私は「あります」と言って財布の中を物色した。しかし、カードはどこにも見当たらなかった。私の財布のカードポケットはひょっとして四次元にでも繋がってしまったのだろうか?

「すみません、やっぱいいです」

 結局私は40秒近くもレジの前であたふたしてしまった。とっくにすべてのバーコードを読み込み終えていた中年の店員は、腐りきった生ゴミでも扱うような手つきでレジ袋を突き出した。私はしずしずとそれを受け取ると、少しばかりの罪悪感を抱えながら彼に踵を返した。

「死んじまえ」

 そのとき背後から聞こえたそれは、決して幻聴などではなかったと思う。仮にそうであったとして、聞こえたと思えたことは私にとって否定しがたい事実だった。私は自分の中で何かが崩れ去るような心境を抱えたままコンビニを後にした。

 それから私は自分が既に失ってしまったもののことを想った。それらは二度と私のもとには戻ってはこないだろう。失ったことに気がついた頃にはすべてが終わっている。思えばいつもそうだった。

「見えなければ容赦なく失う」

 誰かがそう言った。

 夕焼けの赤は既に稜線ぎりぎりまで追い詰められていた。

私をタイに連れてって

~はじめに:悲しい夏休み~

 

大学生活にも順調に斜陽が差しかかって久しかったが、そんな俺にもついに一世一代の健康大学生チャンスが舞い込んできた。

 

海外旅行

 

思えば夏休みの半分は座敷牢で日がな一日インターネットにうつつを抜かす無精の日々。

 

1日の食費を限界まで切り詰めることだけを生の目的と措定し、ただただ機械的有機物を貪り食らった。

 

来る日も来る日もSEIYUの半額弁当

 

時には半額シールが貼られるまで店内で1時間耐えたこともあった。目の前で浮浪者に弁当を強奪されたこともあった。SEIYUでの飽くなき争いの日々だけが夏休みの全てだった。

 

同大の皆さんがパリだの台湾だのを楽しんでいる一方、俺が訪れたのはせいぜい足立区や川崎市である。悲惨さを画像で比較しよう。

 

パリ。

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足立区。

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台湾。

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川崎。

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あんまりにもあんまりだ

 

後輩「じゃあタイ行きましょうよ」

俺「え、いいけど…」

 

というわけでタイに行くことになりました。

 

~0章:はやく出発したい~

 

発達異常しぐさが多分に発揮されてしまい、パスポートを取るためだけに5日連続で都庁にログインする羽目になった

 

おかげで一切の日光を浴びることなく新宿駅から東京都庁まで辿り着けるメソッドが完全に確立されてしまった。

 

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でもそんな都庁が大好き😘でかいから。

 

核戦争前日みたいなテンションだったのでフライトの12時間前から成田駅で待機。酷い。

 

これは職員専用駐車場。

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日々こんな仕打ちを受けながらも客の前では決して笑顔を絶やさないのが成田空港スタッフなのだ。

 

どこで寝ていいのか全く分からないのでとりあえずウェイティングルームでふてぶてしく仮眠。

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しかし案の定警備員に見つかってしまった。

 

空港初めてなんで」の一点張りでやり過ごそうとしたが「ダメです」と論破され汚い旅行者の吹き溜まりみたいなところに連行されてしまった。

 

その後も追い討ちのように同行する後輩たちに小馬鹿にされたりしたが、グッと涙をこらえなんとか朝を迎えることができた。

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心がないのか?

 

悲しみを乗り越えていよいよ出発だ。

 

~1章:サイケデリックランド・タイ~

 

搭乗したのはタイライオンエアーと書かれた見るからに怪しげな旅客機。墜落しても悔いが残らないように母親にLINEで遺書を残しました

 

テイクオフ。

 

機内では「そういうルールだから仕方なく」とでも言わんばかりの粗雑な機内食が振る舞われた。ハムパンとやや臭い水。無い方がマシだろ。

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いつも通りその場にいない人間の悪口で盛り上がっていると飛行機はいつの間にかタイに到着した。こんな業の深い人間たちの入国を許可してくれるタイの懐の広さに感動だ。

 

ついに異国の大地を踏みしめる瞬間である。搭乗タラップを一段降りるたびにさまざまな思い出や感慨が去来した。

 

取れないパスポート、SEIYUの半額弁当、成田空港の夜…

 

そういえば初海外だな

 

タイでよかったのかな

 

後輩1「因果さんにはタイくらいがお似合いですよ」

後輩2「タイ以外あり得ない」

 

だまれよ

 

万感の思いを胸に、タイ王国の大地に鮮やかな一歩を踏み出すーーー

 

……

 

………

 

なんか黄ばんでね…?

 

昼過ぎのドンムアン空港はなんか全体的に黄ばんでいた。

 

あとくさい

 

さて、無事に入国手続きも終わったのでまずはタクシーでホテルに向かう。

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タイはご多聞に漏れずボッタクリ文化が盛んな国であるから、搭乗するタクシーもしっかり選ばないといけないらしい。大変。

 

後輩「メーター付けてない奴とかいますからね」

 

こう見ると分かるがバンコクの街並みというのはどこかローファイなサイバーパンクを想起させる。

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攻殻機動隊パトレイバーserial experiments lainが目指したサイバーパンクはひょっとしたら東京ではなくバンコクだったのかもしれない。まぁバンコク発展の方が最近の出来事なんですけどね。

 

ガバガバ建築基準法の許した魅惑の摩天楼がそこかしこに乱立するのがバンコクという街なのである

 

途中で先輩が財布を紛失する悲しいハプニングを挟んだものの、タクシーは無事Nana駅付近のホテルに到着。無事じゃねんだよな・・・

 

しょぼくれる先輩を更なる悲劇が襲う…!

 

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先輩「何だこの景色は…

 

カーテン開けたらこれである。我々は早くもタイ王国繁栄の暗部を目の当たりにすることになってしまった。ちなみに先輩の財布は見つかりませんでした

 

悲しみを抱えながらも我々はバンコク名物の夜市に繰り出した。

 

交通手段はもちろんトゥクトゥク。タイやカンボジアでは有名な移動手段として認知されている。これもまたガバガバ道路交通法が許した魅惑の移動手段である。

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揺れるわシートベルトはないわで散々な乗り心地だが「常に死と隣接したジェットコースター」と思えばかなり楽しめる。正直一番テンション上がった。

 

しかもトゥクトゥクの中にはごく稀に爆音でEDMを撒き散らしながら走る「EDMトゥクトゥク」なるものが存在。

 

我々は計3日間の間に2回もこれに乗ることができた。正直旅行の面白さの4割くらいがこれに集約される。

 

見よこの悪趣味な見た目を…

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後輩「え…死後の世界?」

 

あまりの非現実感に思わず写真を撮ることさえ忘れてしまう。すげえ光るしすげえうるさかった。

 

ちなみに流れるEDMは全て運転手のiPhoneに入っていた違法音源。こんなところで発展途上感を出してこないでほしい。

 

とはいえなんか憎めないツラだ。頑張って生きろよ!

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夜市到着。

 

タイの夜市はとにかくデカい。

 

ここはInstagramなどでよく見る『ロット・ファイ・マーケット・シーナカリン』です。なげーな。『糞溜め』とかでいいだろこんなの。

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沖縄の国際通りにシャブを吸わせたような雰囲気がする。バンコクでも屈指に大きい市場として有名だ。

 

とはいえ腐ってもここはタイ王国。どの店も基本的に販促意欲に欠けている。通話しながら接客なんかバンコクじゃ朝飯レベルの常識らしい。

 

こういうイカニモなバラック建築が多いので構造物オタクにとっては天国この上ない。

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2階の露店なんか絶対雨とか風とかいったものの存在を一切考慮してないだろ…

 

かくのごとく次々と襲い来るカオスの波濤エキゾチシズムの洗礼…それらに対抗すべく我々も偏差値を極限まで下げることでタイ的メンタリティーに追随した。

 

カビール!!

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バカ果実酒!!

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たのし〜〜〜〜!!!!

 

タイに気取ったスノビズムは不要である。郷に入っては郷に従え、バカの国ではバカが作法なのだ

 

この日は以降も怒涛のごとく酒を飲み食らいベロンベロンのままトゥクトゥクで帰宅。酔ったついでに風俗街も探索。

 

タイは物価が安く、したがって(本当に失礼な言い方だが)女も安い。先進諸国の中年紳士はこれを狙ってわざわざ週末旅行にタイを選ぶ。

 

陰茎の脈動に誘われるまま海をも越える哀れな性欲奴隷にはこの後めくるめく性病の応酬が待ち受けているというのに…性欲は人から正常な判断力を奪うのである。

 

笑顔の汚い欧米人の横をスルスルと通り抜けるとそこはまさにパラノイアの具象。

 

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出来の悪い悪夢みたいな色彩してんな…

 

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これなんかあまりにも酷い。

 

後輩「写真撮りましょうよ!ここで撮らなきゃ一生後悔すると思います!」

 

しろよ

 

ちなみにこの晩俺がサイケデリックな悪夢にうなされたことは想像に難くない。起床とともに猛烈な吐き気に襲われた。

 

~2章:ながされて地獄寺~

 

さぁ元気出して2日目!

 

この日は「地獄寺」と呼ばれる仏教建築群のうちで最も有名な「ワット・パイローンウア」を見学。約74キロを市民バスで移動することに。

 

え…?コレ走んの?

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え…?コレ走んの?
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やめろ…もう十分だ…

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後輩「走る廃墟じゃん」

先輩「失礼が過ぎる」

 

着きました。

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どうでもいいけど農道のくせに車線が多すぎる。

 

遠路はるばる古刹(言うほど古くない)を訪れた我々を出迎えてくれたのは…

 

野犬

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野犬
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野犬しかいない…

 

もしこんな辺境でウイルスまみれの野犬に噛まれでもしたら我々はその場でお陀仏である。まさに死と隣り合わせの地獄巡り。体験型アトラクションというわけだ。

 

さて、当たり前のように固有名詞で紹介してしまったが果たして「地獄寺」とはいかなるものなのか?

 

百聞は一見にしかずということでまずは境内の写真を何枚か…

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キン肉マン消しゴムか?

 

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タイは国民の約9割が仏教徒の国。電車の優先席では高齢者・妊婦・怪我人に並んで僧侶が優先されるといった具合に仏教が日常生活に深く根ざした社会なのだ。街の至る所でオレンジ色の袈裟を羽織ったハゲを見かける。

 

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こういった社会の中においてはたとえ教典のチープな寓話だろうと重く受け止められる。その最たる例こそが地獄寺なのだ。

 

タイの教典では、徳の不足した人間は死後速やかに地獄に落とされるという。その懲罰も人それぞれで、例えば生前に姦通を犯した者は地獄で獄卒に尻を突かれながら荊の木を登り続けなければならないし、動物を虐待した者は顔が醜い動物に変化しマトモに喋ることさえできなくなってしまう

 

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こんな具合である。容赦のよの字もない。

 

日本にも地獄の寓話は多々あるが、タイの地獄思想は日本のそれを遥かに凌ぐ具体性がある。「ここまで仔細に懲罰が規定されていれば、ある程度敬虔な仏教徒は悪行を為す気さえ起こらないだろう」というのがタイ教典の本懐だと推察できる。

 

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しかし教典というのは文字が読めなければただの紙束に過ぎない。そこでタイ人は地獄思想を広く知らしめるために教典に描かれた地獄の世界を具現化させることにしたのである

 

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そしてその結晶こそが現在タイの至る所に残っている「地獄寺」なのだ。

 

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これらは単なる悪趣味の祭典ではない。民衆への警鐘あるいは訓戒としての確固たるレゾンデートルを持つのである。

 

以下印象的だった塑像の写真。

 

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10メートルはある巨大塑像。このポーズは教典における許しを乞うポーズらしいが表情に苦悶さが決定的に足りないためふざけているようにしか見えない


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昔こういうグロいクレイアニメ流行ったね


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花沢健吾作品に出てくる化け物


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ラフだね


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顔色悪い


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逆カタワ


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こいつはマジで怖い


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マクドナルド地獄寺店


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入り口で佇む獄卒

 

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地獄建築とは一切関係ない仏陀

 

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キタキタおやじ

 

あーおもろかった。終わり。

 

~3章:悪趣味!シリラート死体博物館~

 

最終日は本物のホルマリン漬け死体が大量に展示されるバンコク屈指の悪趣味博物館ことシリラート死体博物館を来訪した。

 

シャム双生児無頭症水頭症などブラックジャックでしか見たことのない難病奇病に侵された遺体の数々が展示されていたが残念ながら撮影は禁止だった。

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ちなみに解説は全てタイ語。そこはちょっと残念だった。

 

館内を巡回していると、既にここを訪れたことのある後輩が途中である異変に気付く。

 

後輩「え…性犯罪者のミイラが消えてる…

 

かつてここには見せしめのように凶悪犯のミイラが展示されていた。それこそがこの博物館随一の見どころであったと彼女は嘆いた。

 

後輩「因果さんごめんなさい…因果さん絶対喜ぶと思って楽しみにしてたんですけど…」

 

俺をなんだと思ってるんだ

 

さて性犯罪者のミイラはどこへ消えたのか。その謎を探るべく我々は学芸員らしきタイ人に真相を訪ねた。

 

我々「なんでなくなっちゃったんですかミイラ」

タイ人「Sorry, because of human right...

 

え……??

 

ひ…HUMAN RIGHT???????????

 

散々死体展示しといて????

 

今更すぎるだろ………

 

lol生える。

 

死者の魂にささやかな憐憫を捧げた後は初日と同じマーケットで初日と同じバカアルコールを大量に浴び初日と同じトゥクトゥクでホテルに戻り荷物をまとめてドンムアン空港へ。

 

後輩「だんだん偏差値下がってきたな…」

俺「元からだろ」

 

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初日こそタイのダイナミズムに圧倒され物も言えなかった俺たちだったが、最終日のタクシー車内はさながらマーケットの様相を呈していた。あまりにも運転手が不憫だ…

 

後輩「何言っても大丈夫ですよ!日本語通じないんで!」

俺「だとしてもセックスはダメだろ…」

 

空港到着。

 

しかし俺たちのタイ旅行はそう簡単に終わらなかった…!

 

~ボーナスステージ:帰らせてください~

 

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台風直撃で帰国不可(^。^)

 

仕方なくドンムアン空港で5時間待ちぼうけ。

 

後輩「これが天罰か…」

俺「信賞必罰じゃん…」

先輩「やっぱ財布ない…」

 

朝6時になりやっと飛行機が離陸。さぁ早く俺たちを日本に帰らせて

 

しかしそこはまだ地獄の一丁目に過ぎなかった

 

成田空港に到着するや否や何らかの不安を予期する我々。

 

後輩1「人が多すぎる…」

後輩2「え、電車動いてない…」

先輩「あ、そうですか…財布ありませんか…」

俺「まぁでもなんとかなるでしょ」

 

〜5時間後〜

 

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我々は完全に成田空港に閉じ込められてしまった

 

繋がらない回線、直らないインフラ、そこかしこから聞こえてくる嘆息と怒号…くぐもった絶望が孤立した要塞の中で無意味に反響していた。

 

後輩1「えーすごい!天罰ってほんとにあるんだ!

後輩2「初めて救援物資貰った〜!嬉しい!みんなで食べよ!

先輩「財布はないけど記事の依頼来たから書くわ!

 

本当に絶望すべき人間たちが一切絶望してないんですが…

 

しかもなんとこの直後に後輩の父親がマイカーを走らせ遠路はるばる成田まで迎えに来てくださった。地獄に仏。

 

後輩1「他の人たちは明日まで帰れないのかな?かわいそ〜〜

後輩2「みんなバイバ〜イ

 

正直者が馬鹿を見るとはまさにこのことである。はやく死んだ方がいい

 

車が環七通りにさしかかってくるといよいよ東京に戻ってきたなという実感とともにタイ旅行が終了したのだなという感慨がやってきた。

 

俺「なんとか無事に帰れそうだな…」

後輩「既に無事じゃないですけどね…」

 

〜おわりに:またタイ行きたい〜

 

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色々あったけど近いうちにまたタイに行きたいと思った。アジア特有の粘性の高い魅力に溢れたエキゾチックな国だ

 

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建造物はキッチュでせせこましい一方、国民性は豪放磊落。そのうえあらゆる無駄が無駄としてそのまま存在することが許される寛容さも兼ね備える。

 

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こんな光景や、

 

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こんな光景も日常茶飯事である。

 

しかし我々はまだタイの1/10000だって知らない。だからこそもっとタイを知る必要がある。というか知りたい。タイだし

 

同じアジア圏でありながらなぜここまであらゆる面で差異が生じるのか?彼らを突き動かす原資は何なのか?

 

そういう思索を向けるにはあまりにも潤沢な土壌を持つ国だ。

 

トリップサイトでタイが「中毒性の高い国!」と雑に分析されていた理由も今ならなんとなく分かる気がする。

 

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あんまり長くなりすぎても興醒めだろうから今回はこのあたりで筆を置こうと思う。

 

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ありがとうタイ王国

 

ありがとうタイ人

 

そして台風15号…お前は何?

 

※ちなみに今回の旅行でかかった総費用はホテル代や食費も全て合わせて5万円程度です。貧乏旅行部の皆さんは是非行ってください。