美忘録

羅列です

カードキャプターさくらというアニメ

俺は一度惚れ込むとなかなか引きずるタイプである。

 

俺はまんまと木之本桜に惚れてしまった。

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これは世に氾濫する萌えアニメのヒロインに対して感じる「うっはめっちゃ可愛いwww」といったうちつけの恋心などとは一線を画す。

 

俺は、本当に、プラトニックに、純粋に、彼女のことが好きになってしまっていたのだ。

 

彼女だけではない。李小狼大道寺知世、木之本桃也、彼ら全員のことが俺は好きで好きで仕方がなかった。

 

カードキャプターさくら」という世界観を、擬人的に捉え、そして愛していた。

 

だからこそ、終わりなど見たくなかった。

 

「終わり」というのは彼女たちの物語の「終わり」ではない。彼女たちの生活はこれからも続いていくだろうし、現にあの終わり方も確実に「続き」を示唆していた。

 

「終わり」を迎えたのは彼女らと我々をつなぐ「糸」である。身も蓋もなく言ってしまえば。70話という「放送期間」の終わりである。

 

決してインタラクティブではないけど、それでもオブザーバーとして今まで見守ってきた愛おしき情景たちが、「放送期間」だなんてメタで無粋な要素によって突然終わりを迎えるなんて、切なすぎじゃないか…

 

閉じられた本の中で依然として進み続ける「日常」は、本の外からでは観測できない。

 

どこに何があるのか分かっているのに、そこに決して手が届かない。

 

この歯痒さが彼女らへの愛おしさと混ざり合い、そして俺の心を苦しめるのだ。

 

万物は流転する。「始まり」というのはそもそも「終わり」を必然的に伴う。だから、このアニメを見始めた瞬間から、俺は「終わり」を覚悟しなければいけなかったんだ。

 

このようなことは過去にも事例があるのに、「もしかしたらその先が、その次が…」を期待しては同じような悲嘆に暮れている。

 

きっとこの気持ちをこの先1週間は引きずるだろう。

 

二次元なんかに感情移入してバカじゃねぇのと大半の人間は思うだろう。俺も思う。

 

でも、そうやって簡単に割り切れないからこうやって文字にして気を紛らわすしかねぇんだよ…

 

さようなら木之本桜

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って思ったけど

 

 

 

2018年からクリアカード編の新アニメ放送らしいですね!!!!!!!!!

 

 

 

 

やったーーー!!!!!!!!ウヮーーーーーーイ!!!!!!!!!

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とりあえずは死刑が来年まで延期されたようなので無事勉学に励めるというものである。

趣味の啓蒙

我々は、娯楽に対峙する際、「自分のみで享受する快楽」とともに、それを「誰かと共有する快楽」をも同時に得ようとする傲慢な生き物である。

 

「娯楽など自分一人で楽しむもんだろうが!」という反論はもっともではあるのだが、誰かと共有することで初めて得られるパースペクティブというものも確かに存在すると俺は思うのだ。

 

それに、この前書いた記事でも述べたように、この行為もまた「自分の趣向を誰かにも認めてもらう」という点において自己承認欲求を満たすための行為と言えるから、我々はそもそもこの欲求から逃れることが難しいのだ。

 

こうして我々は、自分が面白いと思った何かを、布教ーー即ち「啓蒙」するのに躍起になるのである。

 

だがしかしBUTけどけれどTHOUGHこれが本ッッッッ当に成功率が低い。誰もが経験したことがあるだろう、

 

僕「これいいよ!」

相手「アッソ」

僕「悲しいなぁ…」

 

というやり取りを…

 

といった具合にほとんどの「オススメ」は無に収斂するのだ。

 

そう、あなたの真摯な想いは九分九厘虚空を空転しそして儚く消え去るのだ。

 

このような事態に直面すると「なんだてめぇぶち殺されてぇかおとなしく見ろや(or聴けやor読めや)カス」という怒り悲しみに打ちのめされ相手を中国拳法でボコボコにしたくなることもあるだろう。

 

しかし逆の立場に立ってみて欲しい。

 

興味もないものをいきなりオススメされて誰がそれに触れたいと思うだろうか。

 

これらの「無に収斂するタイプの"オススメ"」からは、圧倒的に「何か」が欠落している。

 

ここでビデオ屋のDVDの見出しを思い出してみよう。

 

大抵は簡潔な文章で受け売りが載っている。「凶暴な純愛」とか「天国じゃ、みんなが海の話をするんだぜ」とか、記憶に残っているものもそれなりにあるんじゃないだろうか。

 

そう、「記憶に残る」のだ。

 

「記憶に残る」というのはつまり、「相手の心に深く爪痕を付ける」ことに他ならない。

 

俺はこれが、「何か」を埋めるための最善の策であり、また、趣味の啓蒙において一番肝要な点なのではないかと思っている。

 

実質的な内容への言及よりも、その作品の輪郭を捉えた的確な一言の方が、相手にそれに触れたいと思わせられるポテンシャルを秘めていると思うのだ。

 

我々は普段から利己主義的になりたい衝動を社会的・倫理的責任感というフィルターによってセーブされている。

 

だからこそ、趣味においてのみくらいは自分の好きなものを自分の好きなように見て聴いて読みたいわけである。

 

誰かにオススメする行為というのはそういう「自由空間」への領空侵犯なのである。

 

相手にそれを受け入れる義務など全くないし、それについて話を聞く義務も同様にない。

 

それなのに何度も何度も執拗にオススメ攻撃をされたらそれに対する防御力もだんだん高まるのも当たり前である。

 

だからこそ、簡潔に、かつ力強く、一発で相手の心を捉えなければならない。

 

これができないのなら、啓蒙は、自分がオススメしたいものに対しての相手の興味をむしろ削ぐという真逆の結果を生み出すだろう。

 

そうだ、考えるのだ…

 

自分なりに、相手を一発で納得させられる最高の一言を…

 

ちなみに僕はあなた方にカードキャプターさくらをオススメします。

 

以下の画像を見て少しでも可愛いと思ったら見ようね(説明放棄)(ここまでの話は全てカードキャプターさくらの面白さを引き出すための序詞に過ぎない)(さくらちゃん今日も可愛いですわぁ〜♡)。

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ブログ

ブログはすごい。

 

ブログの体をとることで、ただの自慢話でさえもが「ちょっとオシャレな生活報告」くらいのこざっぱりしたものに変わる。

 

また、全く価値のない日々の出来事をアクセス数として実際的利潤にコンバートさせられるというのも素晴らしい点である。

 

このように、ごくパーソナルな感情列挙にある程度の「権威」を与え、読む者に「恩赦」を芽生えさせるためにブログという媒体が存在しているのだ。

 

と俺は思ってきた。

 

だがしかし現状は惨憺たるものであった。

 

自己の価値を高める、或いは自己をひけらかす「手段」としてのブログの時代は終わりを告げたのだ。

 

「○○してみたwwwww」などという扇情的なタイトルの記事が並び、あらゆる手を用いて面白おかしい内容にしようと躍起になる人々…

 

今やブログを書くこと自体が、また、閲覧数を稼ぐこと自体が「目的」なのだ。

 

そう、自己表現の機会として与えられた「環境」に我々が逆に支配されているのだ。

 

このことは動画サイトなどにも言える。

 

「ジュース早飲みしてみた」だの「女装して町に繰り出した」だの、挙げ句の果てには「おしっこ飲んでみた」だのお前らアカウント作成と引き換えに尊厳でも奪われたのかと言わんばかりの内容の動画ばかりがおすすめ動画に表示される。殺すぞ。

 

これこそが自己表現の機会を与えられすぎたインターネット・おたくたちの成れの果ての姿である。

 

自己承認欲求はもはや閲覧数や再生数などといった可視化された数値によってしか満たされなくなり、インターネットは自己承認欲求と実際のポテンシャルがまるっきり乖離したようなおたくで溢れかえり、結果的に俺やSyamu_gameのような怪物を生み出してしまったというわけである。

 

こういう手の人間は閲覧数などは全く伸びないのに、それでも閲覧数をかき集めるべく余計に投稿ペースのみが加速していくので本当にどうしようもない。

 

こうしてあらゆるブログや動画サイトなどはごく一部の秀逸なものとその他99%のゴミで構成されるようになるわけである。

 

地獄だ。

 

しかしその現状に対峙してもなお自己承認欲求は留まるところを知らない。これはもう人間として生まれたからには誰もが持つカルマなのだろう。

 

そこへ、インターネットが普及して、ブログや動画サイトなどが成立してしまったわけだから、それを大義名分にありったけのカルマをブチまけることさえ可能になってしまったのだ。

 

もう手の施しようがない。

 

こうして我々のカルマに満ちた人生はこれから先も続いていくのだ。

 

インターネットがある限り永遠に。