美忘録

羅列です

VOCALOIDリスナーが本気でオススメするアルバムベスト25

一口にボカロ趣味とはいっても、そこには様々な形態の沼がある。マジカルミライ等の公式ライブイベント沼、Project DIVA沼、エロ同人沼、クラブイベント沼、初音ミク存在論沼など挙げれば枚挙に暇がない。「そんな沼知らん」って?うん俺も。

 

そんな中で割と深い(と私が勝手に思っている)沼が「アルバム収集沼」である。私は一昨年あたりにうっかりこの沼に落ちたのだが、もがけばもがくほど足は底なしの泥の中へと引きずり込まれ、遂に所持アルバムは500枚を数えた。総額に関しては・・・聞くな。

 

しかしアルバム収集に関しては以下のような意見も多い。「え?ボカロなんてニコニコで無料で聴けるじゃん」と。いやはやごもっともである。だがしかし敬虔な、いや、狂信的なボカロ教徒の皆様なら理解してくださると思うが、ニコニコの音質にはどうしても限界があるのだ。せっかくの良曲も、高音域で音が割れてしまったり、ベースの音が均一化してしまったりしていてはその魅力をフルに楽しむことはできない。

 

そこで我々はアルバムに手をかけるわけである。アルバムを買えば、高音質で曲が聴けるうえ、アルバム限定収録曲が楽しめることもある。さらにクリエイター側に収益金が入ることがボカロPへのインセンティブにもなる。まさにいいことづくめ。みんなアルバムを買ってエウダイモニアに至ろう。

 

さらに「アルバム」という媒体は時に曲単体を聴くだけでは知覚しえない価値をも創出することがある。『ウミユリ海底譚』等で有名なナブナは、2ndアルバムである『花と水飴、最終列車。』について、「商業用として販促しなければいけない以上、(ニコニコでの)再生数が多い曲をどうしても入れざるを得なかった」として、このアルバムの不完全性を示唆した。その反省を活かしたという3rdアルバム『月を歩いている』では、商業主義やポピュリズムといった不純物が完全に排されており、全体として統一感のある珠玉の一枚に仕上がっていた。個々の曲を聴くだけでは感じられないこの「統一感」こそがまさにアルバムという媒体のみが持ちうる独立した価値なのではないかと私は考える。アルバムは単に曲を詰め込んだだけの媒体ではない。そこには必ずクリエイターの魂が宿る。それを楽しむこともアルバム収集の醍醐味の一つなのである。

 

前置きが長くなってしまったが、つまりアルバム収集はドチャクソ楽しいし価値があるということである。

 

そこで今回は私が自信を持ってオススメするボカロアルバムをランキング形式で紹介しようと思う。それぞれに聴いてみての雑感なども付記するので、購入するアルバム選びの参考にしていただければ幸いである。読みやすさ重視で書いたのであんまり身構えなくて大丈夫だ。・・・と思う。

 

それでは早速25位から~~~カウント~~~、ダウン!!

 

25位『UFHs -luxury-』

「rain stops, good-bye」で大ヒットを飛ばしたにおPの1stアルバム。実を言えばこのアルバムは前半部がボカロ歌唱版で後半部が歌い手歌唱版なので厳密に言えば純粋なボカロアルバムではないのだが、それでもボカロアルバムとしてだけ見ても非常に完成度が高いためランクインさせた。

このアルバム全体に通底するのは「優しさ」「温かさ」。よくボカロには「感情が籠ってない」といった具合に合成音声技術の拙さに対しての揶揄が飛ばされる。しかし彼はそういった意見を真摯に受け止め、ではどうすれば感情を生み出すことができるのかを、技術面からはもちろんのこと、歌詞やメロディーラインの面からも研究を重ね、見事このディスアドバンテージを乗り越えた。掠れ掠れに絞り出すビブラート、実に人間らしい機微を持った歌詞、角のない柔和なメロディ。これは本当にボカロなのか?と驚嘆せざるを得ないほど「優しく」、そして「温かい」一枚。筆者オススメの一曲は「ナトリウム」。ラブソングというのは往々にして恋愛の綺麗な部分ばかりを取り上げてしまいがちだが、この曲はそういった部分以外にもきちんと目を向けている。だからこそ、この曲はどんな凡百のラブソングより我々の感覚に「近い」のだ。

 

24位『meteor』

「メテオ」で一躍名を馳せたJOHNの1stアルバム。オススメしておいてこんなことを言うのは非常に心苦しいのだが、このアルバム、そもそも流通している枚数が少ないうえに頒布が終了しており現在入手困難となっている。悲しい。中古で見かけたら即座に購入しましょう。

私はバズワードは極力使用したくない主義なのだが、それでも言わせてもらおう。このアルバムは大変「エモい」。エモいの定義がそもそも曖昧なので雰囲気が把捉できないだろうから補足しておこう。このアルバムを聴くと、幼少時に見上げた西の夕焼けとか6時の一番星とか真夜中の流星群とかが頭の中を逡巡する。彼の音楽はもう戻れないあの日あの頃を夢想している。しかしそこに厭味ったらしいニヒリズムはなく、ただひたすらに純粋で美しいノスタルジーへの羨望だけがある。オススメは「スローイン´ドッグシューズ」。この曲こそがこのアルバムを購入しようと決意した理由と言っても過言ではない。「戻らない時間のシーソー 流れる雲の動きに 並んで靴を投げてみたら ふたりは風になれた」なんてエモーショナル大爆発なリリックがどうやったら書けるのか小一時間問い詰めたいくらいである。

 

23位『to-kyo』

筑波大卒&図書館司書&プロの作曲家というドチャクソイケメンな肩書きを持つエハミックことehamikuの1stアルバム。耳が肥えた音楽ファンならきっと分かると思うが、彼の曲はどれも生楽器によって演奏されている。しかもそのサウンドは彼の豊穣な音楽知識・経験に裏打ちされており、素人耳に聴いても唸るほどである。だがそんなハイブロウなサウンドとは対照的に、彼のボカロ調教はかなり素朴で無機質だ。しかしこの倒錯した対照性こそが我々を未知の音楽体験へと誘う。一度聴いてしまえばもう戻れない、そんな魔性を秘めているのが彼の音楽であり、そこまで計算したうえで音楽を作っているのがehamikuというボカロPなのだ。オススメは「スターライト・トールボーイ」。統一と散逸の狭間をユラユラと揺れ動くような危うい歌詞の合間を鏡音リン・レンのぶっきらぼうな調教が突き抜けていくエネルギッシュな一曲だ。

 

22位『MIKUHOP EP』

ボカロPの中でも屈指のキワモノが集ったサウンドメイカー集団「Stripeless」によるコンピEP。「BandCamp」というサイトで実質無料(もちろん合法)でダウンロードできるので今すぐに聴いてくれ。貢ぐのはそれからでも遅くないぞ!ボカロにヒップホップを歌わせることの難しさはリスナーである我々にとってはなかなか想像がつかないが、その辺については音楽だいすきクラブ氏が以下のブログで超丁寧&超簡潔に説明してくださっている。

V.A.『MIKUHOP LP』 - 音楽だいすきクラブ

初音ミク、いやボーカロイドは唄を歌うとき、楽譜上の一音に対して言葉を載せるクセがある。そんな制作エディット上で避けられない事実と、上述した発音上の問題が絡んだ日本語ラップの避けられない問題が絡むことで、奇怪なキメラの姿が見えてくる。機械的な発音で流麗なメロディを唄うことも難しい彼女らのたどたどしさが、より鮮明になって立ち現れてくるのだ。

このように、ボカロのヒップホップ(ミックホップ)はそもそも前提として要求される技術力がすこぶる高いため、ROCKやテクノのようにはボカロP間に浸透しにくい。しかしこれは裏を返せばつまり、ミックポップを主として作曲活動をしているボカロPは皆かなり技術力が高いということである。実際、ミックポップ界の重鎮こと松傘は、『ele-king』のインタビュー記事において「ボカロの発音面をクリアすべくライブラリはEnglishを使用している」と答えており、これはボカロの発音の難点と良点をしっかり把握していることの証左に他ならないだろう。

そんなキワモノだけどツワモノな皆さんが一堂に会したのがこのEP。前述した松傘をはじめ、空海月、緊急ゆるポートなど名だたるミックホッパーが名を連ねる。オススメはMSSサウンドシステムの「耳なりはフェンダーローズ」。「仕事が早く終わったら 一緒に飲もうよ今日は金曜日」なんてフレーズ、無職学生で未成年な私でも痺れてしまう。

 

21位『Birthday』

VOCAR&B界を最初期から支えてきた古参である鮭Pの1stアルバム。「OVER」等で知っている人も多いのではないだろうか。彼の音楽と言えばまず何をおいてもその美しいベースラインである。彼はもともとあまり音を重ねない作曲スタイルなので楽器一つ一つの音が綺麗に響く。そこに初音ミクの悲しげな歌唱が印象的に相乗し、質素だが強く心に残る鮭P空間が形成される。「ボカロの声は悪目立ちしがち」という難点を逆手に取ったテクニックだ。オススメは何と言っても「End of Rain」。失恋の悲しみを雨になぞらえ、雨がいつまでもやまないことを憂うセンチメンタルな一曲。

 

20位『フラッシュバックサウンド』f:id:nikoniko390831:20171115021636j:plain

ボカロックの大御所クワガタPの1stアルバム。全編にわたってエモーショナルな曲が詰め込まれており、特に表題曲である「フラッシュバックサウンド」は、氏の過去曲がフラッシュバックする歌詞構成となっている。まさに「emotional」を軸に緻密に作られたコンセプトアルバムと言ってよい。他にも代表曲である「君の体温」、「パズル」等も収録されており、コンセプトアルバムであると同時にベストアルバムとしても満足できる秀逸な作品に仕上がっている。筆者オススメは「感覚」。ツンデレって本来こういうのを指すんじゃないかって思うんですよね。

 

19位『Miracle Child』

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多様性を謳いながらもやはりギーク的な音楽ばかりが市民権を得ていた初~中期ボカロシーンに、当時なら「ドキュソ音楽逝ってヨシ!」と非難轟々であったろうレゲエやR&Bを、その圧倒的音楽センスによって見事輸入したtakamattの1stアルバム。全体的にアダルティな雰囲気で、所謂「ボカロっぽい」音楽に少し飽きてしまったという方にオススメ。takamattの音楽の真髄は、お洒落だったり上品だったり綺麗だったりする言葉と言葉の間にチラリと人間臭さが垣間見えることにあると思う。筆者オススメは「Etude No.3」だ。GUMIに対する一般的なイメージとして「子供と大人の狭間的存在」というのが挙げられると思うのだが、そこらへんが歌詞に上手く反映されている。「木枯らしだけが まるで共通言語」なんて浮ついたー言ってしまえば「背伸びした」ー歌詞は彼女にしかこなせないと思う。

 

18位『Stance on Wave』

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音ゲー界隈の重鎮ことかめりあのベストアルバム。こういう、歌詞の解釈等の「音楽そのものの外にある価値についての考察」が一切必要とされない、ただひたすらに耳に快感をもたらすものとしての麻薬のような音楽を作れるのは本当にすごいと思う。こればかりはかめりあのサウンドメイキングのセンスに脱帽である。彼の音楽の中では、VOCALOIDの無機質な声もまた快感要素のひとつであり、完全に楽器として機能している。「音」を「楽しむ」ものこそが「音楽」であるという原初的な態度に立ち返るきっかけとしてこれ以上素晴らしいアルバムはないかもしれない。筆者オススメは「鈍色トリガー」。何という重厚なベースライン。何という音圧。「耳が幸せ」という感想はこういう音楽のためにあるのかもしれない。

 

17位『FUNCOOL』

 chet brockerが実質無料で公開している1stベストアルバム。こんなものがタダで聴けるのヤバすぎでしょ。私が音楽理論や音楽的タームといったものに全く詳しくないため、彼が具体的にどういう音楽を作っているのかを説明することはできない。ただ、率直な印象を言わせてもらうと、「乾いている」。彼の音楽の最大の魅力はその乾ききったアナーキーな世界観にあるのだ。例えるなら、乾ききった荒野の真ん中でただただ無意味だと分かっていながらそれでも叫び続けているような。「悲しい」とか「苦しい」といったワードを羅列するよりもよっぽど虚無を感じる。私のオススメは「walk around」。散歩に出たくなったり出たくなくなったりする。

 

16位『DQN Style2』

http://vocadb.net/Album/CoverPicture/9589?v=10

 コンピレーションアルバムというのは往々にしてある同一テーマのもとでそれに沿った曲が収録されるものだ。つまり、コンピの趣向が自分の趣向と合致したならば、アルバム全体として好感が持てるようになることが多い。このコンピは読んで字の如く、レゲエやEDMやラップといった、所謂「DQN」な音楽が集結した珠玉のアルバムである。単なるオタク的営為の集積と見なされがちなVOCALOIDであるが、これは真っ向からそういう一般的認識に立ち向かった勇気ある一枚である。指向性としては先述した『Miracle Child』に近いものがあるかもしれない。現にこのコンピにもtakamattが参加している。かごめPやDixie Flatlineといったブラックミュージック系の大御所をはじめ、パトリチェフや青屋夏生等の比較的新進気鋭の若手勢力も参加している。オススメは何といってもkonkonの「青」。中高生の適度に歪んだ日常の叙述。

 

15位『ZANEEDS #3』

 パイパンPなどというボカロ界でも屈指に不名誉な二つ名を持つテクノ界隈の重鎮ことざにおの3rdアルバム。彼の作るサウンドはまさにプロの犯行と呼ぶにふさわしい。耳に馴染む心地よいラウンジ系の曲を得意とし、本アルバムも彼の特性が遺憾なく発揮されている。しかしサウンドが上品で清潔感に溢れている一方で歌詞は最低最悪である。そもそも、「ペヤングだばぁ」だの「ちんげ in the まんげ」だのといった具合に低俗極まりない曲名の動画を開いてよもやオシャレなラウンジミュージックが流れ出すとは誰が想像しようか。歌詞も「ペヤングだばぁ・・・流しにだばぁ」だの「ちんげまんげ一本抜いてパイパンいぇいいぇいホワホワ~」だのもう本当に「酷い」以外の言葉が出てこない。しかしこの、あるベクトルでは限りなく善い方向に向かおうとする一方で別のベクトルでは限りなく悪い方向に向かおうとするこの倒錯感がクセになるのもまた事実。このアルバムもそんな「ざにお節」が大炸裂している。特に聴いて欲しいのは「Hello_World」。『ZANEEDS#2』までで暴れまくった反省を活かしたかと思いきや慎ましくなったのは曲名だけである。

 

14位『Re:Start』

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 初音ミク10周年を記念して製作された「ドキッ!有名Pだらけの大コンピ(過去曲もあるよ!)」的アルバム。新旧の有名Pがここまで一堂に会する機会というのはそうそうないのではないだろうか。一応、10歳を迎える初音ミクに対する「おめでとう」アルバムではあるのだが、この「おめでとう」の形はPによって本当に様々で、素直に謝辞を述べる者から皮肉交じりに愛をちらつかせる者まで十人十色という印象。初音ミクを、ひいてはボーカロイドを長い間聴いてきた者にとってはどの曲も感涙に値するエモーショナルさを持っているだろう。まさに記念碑。そんな百戦錬磨の大物P渾身の曲たちがひしめく中でもひときわ異彩を放つのがwowakaの「アンノウン・マザーグース」。「ボカロっぽい」という形容を体系化した戦犯として揶揄さえされた彼の、この鮮やかな反逆を見よ。これほど感情が爆発したサビが未だかつてあっただろうか。この衝撃を味わえるだけでもこのアルバムを購入する価値は十分にあると断言しよう。

 

13位『バフォメット』

トリッキーなサウンドメイキングに定評のあるなんとかPことKiichiの1stアルバム。このアルバムの印象を簡潔に言い表すなら「漠然とした不安」。彼の作る音には何かえもいわれぬ靄がかかっており、その内実を知ることは容易ではない。それはまるで「初音ミク」という存在の不安定さを示唆しているようで、8曲目の「プラスチック・ガール」なんかはそれを如実に表している。「私はドコにいるの?私はソコにいるの?」と無機質な合成音で淡々と歌う彼女に何か声をかけてあげたい、でもそれは決してできない。そんなもどかしさを執拗なまでに描き切ろうという試行の結果がまさにこのアルバムなのではないか、私はそう考える。殊に初音ミク存在論を履修したいと思っている者にとってこのアルバムは不可避なマイルストーンの一つだろう。オススメは「[I Love You]。現実からフワーッと遊離しながらも地に落ちていくような、そんな一曲。

 

12位『D.A.technology』

 

R&BやJazzといったお洒落路線からワルツ、チップチューン、果ては二胡を使用した民族調バラードまで幅広くこなすDATEKEN氏の1stアルバム。このアルバムはコンセプトが完全に散逸しきっており、むしろ「散逸しきっている」という点においてコンセプトが統一されている。つまり、一枚の中に全く違った精神性を持った音楽が混在しており、人種の坩堝ならぬ「曲種の坩堝」なのである。氏の多彩さが前面に押し出されたエネルギッシュな一枚だ。「紡唄」や「trick art!」といった氏の代表曲も聴きごたえがあるのだが、その中でも私が一番注目したのは最終トラックの「君が生まれた日」。この曲単体だけで聴けば単なる何の変哲もないアコギバラードに思えるかもしれないが、雑多な音楽がカオスに混じり合うこのアルバムにおいては、この単純で実直なナンバーはかえってその純潔さを増し、聴く者に強烈な存在感を与える。ちょうど様々な色で彩られたキャンパスに白いペンキをぶち撒けた時のように。これを最後に持ってきた氏のセンスには素直に脱帽せざるを得ない。

 

11位『アヒルホスピタル』

入手の困難さにかけてはこのランキング随一であろう「捻れたアヒル」のコンピアルバム第3弾。ゼロ年代ボカロ界のアングラシーンを牽引したヒッキーPはじめとするボカロPが結集したのがこの「捻れたアヒル」。本作は「病院」をテーマに各Pが珠玉の一曲を持ち寄った。やはり「病院」というテーマらしく生や死といった人間の根源的な部分に言及した曲が多い。そしてそれをいのちを持たないボーカロイドが淡々と歌い上げる気味の悪さ。まるで生死の境目を彷徨う患者を冷静に見守る医者のようである。だからジャケットイラストも白衣の巡音ルカと看護服の初音ミクなのだろうと推測できる。そんな彼女らの冷めきった視点から見た人間の生は、死は、果たしてどんな色をしているだろうか。いわばこのアルバムは、いのちを持たない彼女らによって記述された患者カルテの集積なのだ。オススメはやはり若干Pの「サボテンと蜃気楼」。私は初めてこの曲を聴いたとき恥ずかしながら号泣してしまった。「愛」は、「愛」だけは、ボーカロイドの冷徹なフィルターを介してもなお美しく、そして儚いのである。

 

9位『Flowers』

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エレクトロニカ界隈で名を馳せ、アスキー編集の『大人が聞くべき「初音ミク」』に自身の曲が選出されたこともあるハイネケンPの2ndアルバム。この『Flowers』はこの前のボマスで頒布されたばかりの新譜だが、死ぬほど完成度が高かったので迷うことなくこの順位でランクインさせた。

余談だが、頒布ブースで私が本人に「なぜ今になって新譜を?」と尋ねたところ「いや、曲が溜まったんで」という答えが返ってきて痺れてしまった。かっこよすぎだろこの人。

閑話休題。彼の音楽はメロディから歌詞から初音ミクの調教までどれをとっても地に足がつかない感じで浮遊している。それでいて、深く深く、どこまでも沈んでいく。しかし沈む先は暗澹と光を呑む深海の闇ではなく、むしろ「幸福」とか「愛」とかといった暖かな光である。ちょうど午後の白昼夢の中を揺蕩うような、そんな感じ。この、「そんな感じ」としか形容できないところもまた実に彼らしいといえよう。あなたも是非彼の「輪郭のない音楽」に浸ってみないか?オススメは「Eniadarg」。音声ライブラリは白鐘ヒヨリ。初音ミクを中心に起用しているボカロPなので純粋にヒヨリの声が物新しいというのもあるが、イヤホンで聴いた時の何とも言えない「包まれてる」感がたまらない。立体音響というのだろうか。

 

8位『MONSTER BEERGARDEN』

ナウなヤングにバカウケ中のナナホシ管弦楽団の1ndアルバム。青臭い歌詞と唸るエレキギターがダサカッコいいというのは氏のどのアルバムにも言えることだが、その中でも全体的な完成度がとりわけ高いのがこれ。若者特有の葛藤と歓喜がカオスに入り乱れているので最初から最後まで聴き通すと胸焼けを引き起こす恐れがあるので注意してほしい。

彼の紡ぐ歌詞はどれも子供と大人の狭間を彷徨っており、それについて自己問答を繰り返すというパターンが多い。「MISTAKE」の「歳だけ増えたってどうにも 変われる気があんましないや そりゃそうだろ 中身は子供のまんまだ」という歌詞が一番それを端的に示していると思う。んでもってそれらを酒やタバコや女で乗り越えようという考え方も実に青い。現に私の大学の友人にもそういう奴がたくさんいる。ニヒルになりたいけど周囲から見たらひどく滑稽に見える、そんな残念な若者たちの心の叫びを代弁しているのが彼のロックなのかもしれない。オススメは「最後の晩餐」。アルバム限定収録のインターネット未発表なので本当にここでしか聴けないレア音源だ。「最後」を飾るに相応しい渾身の一曲である。

 

7位『アンハッピーリフレイン』

もはや説明不要。中期ボカロシーン随一の牽引者ことwowakaの一般流通版アルバム。「グレーゾーンにて。」から「アンハッピーリフレイン」まで、彼の駆け抜けた軌跡が全て詰まった魂の一枚である。彼は「現実逃避P」という二つ名の通り、報われない現実とそこから抜け出したい自我の織り成す軋轢を見事に歌詞に落とし込むことに成功している。確かにメロディのキャッチーさも人気上昇の一要因ではあると思うが、歌詞の秀逸さもまた彼の音楽の評価ポイントであると私は考える。

また、彼は後に「ボカロっぽい」という概念を体系化させた戦犯として一部から非難を浴びることになるが、私はこれについて懐疑的な意見を抱いている。確かに結果論的にはそういった概念を完全に根付かせたかもしれないが、それはきっと「ローリンガール」や「裏表ラバーズ」といった氏の代表曲に対するイメージによるものが多いだろう。しかし彼は他方で当時、いや今でもなかなかボカロシーンでは見られないようなサウンドメイキングをしている。それは「グレーゾーンにて。」や「ずれていく」を聴けば分かるだろう。これらは所謂「サビ」が限界まで温存されており、最後の最後で大爆発するという曲進行を取っている。これは動画サイトでの閲覧を前提とする音楽としてはなかなか大胆な試みである。なぜなら動画サイトで曲を聴く者は大抵、自分が気に入らなければ動画タブを閉じる。だから上記の2曲も「なんだこれサビねぇじゃん」と一笑に付して動画を閉じられてしまう可能性だって十分に考えられたのだ。しかしそれを敢えて投稿した。あまつさえ「グレーゾーンにて。」は処女作であるにもかかわらず。これはwowakaの自信の表れと捉えてよいだろう。動画を開いた者は必ず最後まで聴き通すだろうという圧倒的な自信である。その目論見は見事的中し、彼は一躍時の人となった。まさに得るべくして得た名声である。そしてそんな「自信の結晶」こそがこのアルバム。徹頭徹尾全身全霊。自然と背筋がゾクゾクすること請け合いである。オススメは表題曲である「アンハッピーリフレイン」。wowakaの集大成と言っていいだろう。私は2017年度に「アンノウン・マザーグース」が投稿されるまで完全にこの曲が氏の最後の曲になると思っていた。アナクサゴラスの種子論のように、この曲を覗けばwowakaがどんな人物でどんな音楽を作っているのかが一瞬で分かると思う。

 

6位『Antenna』

これも説明不要だろう。「ありふれたせかいせいふく」や「すろぉもぉしょん」でヒットを飛ばし、現在でもシーンのトップに君臨し続けるピノキオピーの6thアルバム。本作は氏のアルバムの中でも特にエクスペリメンタルな一枚で、私としてはこれが氏の大きなターニングポイントとなったのではないかと推測している。

14~15年は「ボカロ衰退期」とも揶揄される時代で、所謂「ミリオンヒット曲」がなかなか飛び出て来ず、この時代にシーンを去っていったPも多かった。しかしその混沌の渦中でも彼は決して初音ミクを見捨てなかった。どうすればシーンで生き残れるか、彼は自問自答を続けた。「すろぉもぉしょん」では「ゆっくり」こと「SofTalk」を起用したり、「頓珍漢の宴」では14年以前に流行した曲調をオマージュしてみたり、とにかく彼は生き残るために、より正確に言えば「初音ミクとともに」生き残るために試行錯誤を重ねた。そしてその結果たどり着いた一つの答えがこのアルバムの次のアルバムである『HUMAN』である。言ってしまえばこのアルバムは『HUMAN』になる「過程」なのだ。『HUMAN』ではアルバムタイトルの通り、初音ミクの歌唱に加えピノキオピー本人の声という「人間」が参加している。コーラスとかそういうレベルではない。ガッツリ彼が歌っているのだ。初音ミクと一緒に。これこそが、彼が追い求めていた「初音ミクとともに生き残る」ためのたった一つの冴えたやりかたなのだろう。

話を戻すが、『HUMAN』を念頭に置いて考えるとこの『Antenna』はそれに至るための「試行」がたくさん詰まったマイルストーンだと解釈できる。『HUMAN』が完全な統一性を持った一方で『Antenna』はどこかとっ散らかっている。だがそれでいい。なぜならそれは氏の初音ミクに対する熱意が強烈であるがことの証に他ならないのだから。ピノキオピーのアルバム史上最も熱を持った一枚こそがこの『Antenna』であると断言しよう。おすすめは表題曲である「アンテナ」。歌詞を読んだだけで自然に涙が溢れてしまいそうになる、そんな一曲。「そう アンテナを張って 色んなものを見て聴いて 触って つねって確かめて そして各方面を好きになって 嫌になって アンテナを張って ミスって 説教臭い言葉にちょっと引いて うるさい くたばれ 悪態ついて 数年後にゆっくり理解して アンテナを張って 色んなものを見て聴いて 触って つねって確かめて そして価値観の渦に飛び込んで 溺れちゃって そうアンテナを張って 遊んで 学んで わずかな喜び見つけて つらかったことも いつか笑って 数年後に思い出して」。

 

5位『Youthfull』

電柱の人こと電ポルPの3rdアルバム。正直ジャケ買いした。メッチャ良くないですかこのジャケ写真。彼の音楽性をよく反映した最高の一枚だと思う。安易なニヒリズムが横行し、何か権威的なものを皮肉っているリリックほど素晴らしいなどといったどうしようもない作詞スタンスがシーンに瀰漫していた時代性の中、こういった実直な曲が書け、なおかつそれで人気を獲得できていたというのは絶賛に値する。また、彼の作る音楽というのは言ってしまえば「駅前でシンガーソングライターが歌ってるような」音楽である。つまり彼はニコニコ動画という土俵においてはあまり見られないタイプのサウンドメイカーなのだ。だからこそ、そういう新規で特異なものに対する受容体がニコニコ動画界隈全体に形成されていないうちから己の腕一つでコンスタントに人気を飛ばしていた彼はまさしく天才であるといえよう。本アルバムでは夏が密かなテーマになっているらしく、夏らしい爽快な曲調のものが多い。オススメは「Youthful Finder」。ファインダーを通して広がる2人の生活には山もあれば谷もある。その全てが愛おしいからこそ、人はそれを逃すまいとシャッターを切り続けるのかもしれない。

 

4位『Piece of Cipher+』

変拍子の貴公子の異名を取るTreow(ここではELECTROCUTICA名義を用いる)の一般流通版アルバム。彼ほどトリッキーな音楽を作るボカロPを私は知らない。どうやったらこんな複雑で精緻なコード進行を思いつくんだろうか。アコギで弾こうとして嫌な思いをした思い出が頭をよぎった。

私は音楽理論に明るくないため、ここの音の出し方がいい!といった仔細に及んだ指摘は申し訳ないができないのだが、そんな素人からしても彼の作り出す音には並々ならぬ技術力の高さを感じる。「Chaining Intention」の動画のコメントで彼の音楽を「殺人的」と形容していた人がいたが、まさに言い得て妙だと思う。間違っても「音が質的に尖っていて先鋭的」という意味ではない。言うなれば、先の見えないジェットコースターに乗せられ、ぐわんぐわんと為すがままに振り回されている感じである。これからどんな音が展開されるのか、彼は絶対に読ませない。そんな予測不可能な彼の音楽に、我々はいつしか虜になっているのだ。

サウンドメイキングもさることながら歌詞にも目をみはるものがある。彼の書く歌詞には自我がない。誰が主体で、誰に向けられているのか、何一つとして判然としない。文脈を持った文章なのか、単なる言葉の羅列なのか、そんなことを延々と考えながら我々は深い深い懐疑の中に沈んでゆく。そうして曲が終わる頃になってハッと気付くのだ。この、我々の逡巡でさえも、全て彼の思惑の内なのだと。オススメは「L'azur」。フランス語で「青空」という意味だ。この曲はネタ曲を除けばボカロ曲の中で一番高いキーが要求される曲で、なんと最高音は驚異のhihihiD#。ボカロの特性を最大限利用した攻めの一曲。恐ろしいのはこれが彼の処女作ということである。

 

3位『Exchange Variation』

「影炎≒Variation」や「閃光⇔Frustration」など一発で彼だと分かる曲名と鬼畜じみたドラムでお馴染み、やいりの一般流通版アルバム。彼の音楽は実に手が込んでいる。というのも、彼の来歴を見てみると、ゆよゆっぺとはもともと知り合いでバンドを組んでいるとの記述がある。ゆよゆっぺといえばボカロシーンにおけるラウドロックの担い手としてその名を轟かせる有名Pであり、そしてやいりもまた彼に多少なり影響を受けている部分が散見される。しかしやいりの音楽はゆよゆっぺの音楽とは決定的に違う。ゆよゆっぺはガチガチのラウドロック、つまりボカロシーン以外の音楽シーンにおけるラウドロックを専攻している一方で、やいりはラウドロックをしながらも「ボカロ音楽」という文脈を読み込んでいる。敷居の高い音楽を咀嚼し敷衍することで普段ラウドロックを聴かないニコニコのリスナーにもラウドロックを聴いてもらおうとしたのだ。事実、彼の作る曲は音こそ重いが随所にニコニコミュージック的なレトリック(ピアノ連弾、分厚いシンセサイザーなど)がふんだんに起用されており、とても聴きやすい。そして彼の思惑は見事に再生数という形で現れ、彼は人気Pの仲間入りを果たした。

このアルバムはそんなやいりの「技」が詰まった渾身の1枚である。曲名は最後の「〇〇〇〇〇」を除いて「熟語+記号+英単語」のパターンのみなのでCDを取り込んだ時のスッキリ感がたまらない。オススメは「神様∴Application」。メロディが「ボカロっぽい」のはもちろんのこと、歌詞の何とも言えない中二病具合もポイントだ。ボカロ音楽への揶揄として用いられがちな「ボカロっぽい」という形容だが、それを技巧的に突き詰めればこんなにカッコいい曲ができるんだよと、やいりの音楽はそう主張している。

 

2位『あくとわんっ!』 

R&Bからスカロックまでありとあらゆる「オシャレ」な音楽を自由自在に作り出すパトリチェフの1stアルバム。『あくとわんっ!』という題名の通り、このアルバムでは鏡音リンAct1しか使用されていない。まさに鏡音リン原理主義。この狂気とも形容できるこだわりこそがこのアルバムの価値を最大まで高めている。

鏡音リンAct1といえばハキハキとしたその歌声である。しかしこれを活かすのは至難の技で、歌わせる曲のジャンルによっては彼女のハキハキとしたエネルギッシュな歌声がかえって曲全体としての統一感を破壊しかねない。鏡音リンAct1を真に最大限に利用するには、どのような曲調が彼女の声質にピッタリなのかを判別する音楽的教養はもちろんのこと、「鏡音リン」というキャラクターついての的確な理解が必要不可欠となるのだ。これを踏まえると、鏡音リンAct1オンリーのアルバムを出すということがいかに勇猛果敢なことなのかが容易に想像できよう。しかしパトリチェフは持ち前の教養深さとその狂気的な鏡音リンへの愛によってこの2つの要件を見事に満たした。実際、アルバム中のどの曲を聴いていても違和感が全くない。全ての曲が鏡音リンのため「だけ」に作られているという印象を強く受ける。とある一人のリン廃が、全てを捧げて綿密に作り上げたステージの上でマイクを握る鏡音リンの歌声は、どこまでも、どこまでも伸びていく。ただ高らかに・・・。オススメは「スピンドル・シャフト」。こんなに気持ち良さそうに歌う鏡音リンが見られるのは本当に彼のアルバムだけなんじゃないかとすら思ってしまう。サビの伸びが印象的でフレッシュな一曲。

 

1位『GHOST』

説明不要のボカロック界、いや、ボカロ界の重鎮ことDECO*27の一般流通5thアルバム。最後の最後にこんな誰でも知ってるアルバム持ってきやがってなんだてめぇブン殴るぞという玄人の皆様のご指摘もそりゃまぁごもっともなんだが、それでもこれを1位にしたのにはそれ相応の理由があるのだ。あーコラ!タブ閉じないで!あとちょっとで終わるから! 

私はあまり一般流通版アルバムを購入しない。「売り出す」ことが念頭に置かれている以上、ちょうどクリープハイプの契約レーベルが勝手にベスト盤を発売して炎上した例の一件のように、クリエイター側の制作意図がおろそかにされてしまう危険性が高いからである。というのは建前で、一般流通版は高額だからである。同人版が安すぎるというのもあるが。しかし今回ばかりはクロスフェードを視聴した瞬間に少しの迷いもなく「買おう」という確固たる意志が芽生えた。一言でこのアルバムを形容するなら「圧倒」が相応しい。

「何かを評価する」という行為について考えたとき、その態度は大抵2種類に分けられる。一つは、作品を受容する前に自分の中にある点における評価基準を設けておいて、実際に受容した後でその「ある点」が評価基準に達していた場合にその作品を高く評価する、というものである。この評価態度は、自己の理性によって基準を設け、自己の理性によって判断を下しているという点において「積極的」な評価態度である。これに対し、もう一つは、「素晴らしい」「すごい」といった感情が理性による営為に先行する、というものである。これはつまり、言ってしまえば「なんかわかんねーけどスゲー・・・」という状態である。つまり、理性的思考が作品自体の放つ価値に気圧され、いわば「受動的」になってしまっているということだ。

曲がりなりにも物書きをしている身からすれば、後者など言語道断である。こんな評価態度ばかりが罷り通ってしまっては、レビューサイトは「わかんないけどすごい」「なんかやばい」だのといった小学生並み、いやそれ以下の犬も食わない駄文で埋め尽くされ、やがて日本は滅びるだろう。

しかし、それを踏まえた上で敢えて言わせてもらおう。このアルバムは、ヤバい。「ヤバい」という「感じ」が理性による理屈付けを完全に拒んでいる。私だって本当は落ち着いて「ここがスゴイ」とか「この歌詞は〇〇のメタファー」といった具合に俯瞰的に評論したいのだが、この、圧倒的な「感じ」の奔流の前ではどんな美辞麗句もチープな瓦礫となって流されてしまうのだ。お手上げである。とりあえず、何が言いたいかというと、私のこの感動体験の記述を通して『GHOST』というアルバムのヤバさの片鱗を少しでも知っていただきたいということである。

初期からシーンの最重鎮として活躍し続けてきた彼だが、その人気は今もなお留まるところを知らない。それどころか彼は常に進化し続ける。2016年投稿の「ゴーストルール」の再生回数がそれを端的に物語っているだろう。彼はこれからどこへ向かっていくのだろうか。これからも片時たりとも目を離せない。

とまぁありのままの実感をつらつらと書き綴ってはみたものの、流石にこんな投げっぱなしのレビューで文を締めるのも申し訳ない。なので少しばかり頑張って理性的なことを書き連ねておこうと思う。

『GHOST』というタイトルは一体何を示しているのだろうか?「そりゃゴーストルールのことでしょ」と言われてしまえばそれまでなのだが、私はそれ以上に意味を持ったタイトルであると推測する。そのためにはジャケットイラストに注目する必要がある。『GHOST』ではそれ以前の彼のアルバムからは考えられないようなことが起きているのだ。それは「初音ミクが描かれている」ということである。今までは、(初音ミクではない)女の子だとか国旗を模した模様だとかが起用され、「初音ミク」感を薄めようという意図を感じた。これは、DECO*27が初音ミクを、ひいてはVOCALOID自己実現の手段として考えている側面が強かったことの証左であろう。しかし、ここへきて、やっと初音ミクが登場した。「このアルバムの主役はDECO*27ではなく私なのだ」と主張するように。構図としては、初音ミクという実体を持たない「幽霊」がDECO*27に憑依し、彼を媒介として自己を顕現化させた、というのがピッタリだろう。「GHOST」というのは紛れもない、初音ミクのことを指すのである。これはもはや「反逆」と呼んで相違ない事件だろう。DECO*27お馴染みのメロディに乗りながらも、その歌声は確かに魂を帯びており、「私はここにいる」としきりに生を叫ぶ。きっと私が感じた「ヤバい」という「感じ」もこの部分に対して感じたものなのだろう。

オススメ曲は「針鼠」。2017年で一番多く聴いたボカロ曲は?と訊かれたら迷わずこれを挙げる。電話口で、終電間際のホームで、電子の海で、自我を吐き散らすどうしようもない生き物、通称「メンヘラ」。その愛おしいほどに愚かな彼女らの頭の中は、意外と打算に塗れているのかもしれない。「尖ってないのに痛がるのは 実際一回きりの切り札 かまってちゃんなの 甘えたいのもっともっと溶けていたいよ」。

 

以上です。ここまでで約1万5000字らしい。正気の沙汰ではない。でもこれって僕の愛なの♡

 

これを機にあなたもボカロアルバム収集沼にどっぷり浸かってみてはいかがだろうか?私がウンディーネとしてあなたを地獄まで導こう。

 

それでは皆さん、良いボカロライフを・・・

新訳:砂の惑星

荒野をとぼとぼと歩いていると、初音ミクに会った。

「どうしたんです?こんなところで」
「いやぁ、世界が終わっちゃったもので」
2107年8月31日、つまり数ヶ月前だが、赤色巨星『マッシラケ』が超新星爆発を起こした。当初こそ地球には何の影響もないはずだったのだが、爆発規模はNASAの予測を遥かに凌駕し、大量に放出されたガンマ線は地球のオゾン層を完膚なきまでに破壊していった。動植物は死に絶え、地球はわずか半月にして不毛な砂の惑星へと姿を変えた。
「というかそっちこそ大丈夫なんですか、なんか垂れてますけど」
彼女の右腕は棍棒で叩いたスイカのごとくひしゃげており、無数のコードと半透明の液体が裂傷の隙間からタラタラと流れ出していた。
「2日ほど前に野生のVOCALOID1925の襲撃に遭いました。初音汁が止まりません」
何ということだ。実在したのか、VOCALOID1925。しかしまだ開発されたばかりのVOCALOID1925に敗北するとは何と脆弱なのだ初音ミク。2007年製VOCALOID2としての意地を見せてくれよ。ハブvsマングースvs初音ミク戦で最後まで勝ち抜いた噂は嘘だったのか。どうなってるんだYAMAHA。出てこい、何とか言え、クリプトン・フューチャーメディア。

どれもこれも、今や砂の下だが。
ポケットをゴソゴソと漁ると、荻窪駅のキャッチに貰ったポケットティッシュが出てきた。傷口を押さえ口元を歪める彼女に俺は「よかったらどうぞ」とそれを手渡した。彼女は「ありがとうございます」と言いながら去っていった。きっとあれじゃ助からないだろうな。

 

日も翳り夜風が砂塵を吹き上げる頃、向こうの砂丘で何かがたなびいていた。双眸を凝らす。初音ミクだ。もっと言えば『Sweet Devil』のハニーウィップモジュールを着た初音ミクだ。
「何よ、どっから来たのよアンタ」
「某○×△◻︎から来ました」
「はぁ?どこそれ?」
見るからに頭の弱そうな初音ミクだ。足立区、葛飾区、江戸川区のどれかに住んでそう。いや町田か。
やがて日が完全に落ち夜が訪れると、茫漠たる荒野は星々の織りなす銀幕を一望できる特等席へと姿を変えた。なるほど、オゾン層というフィルターを介さない星空というのはこうも綺麗なものなのか。遥か数光年先、冬の大"五"角形にも手が届きそうだ。何と雄大、何と荘厳。こんなの初めて。何回目か忘れたけど。


寒いので火をつけたいが、風が強くてどうもうまく起きない。すると初音ミクはおもむろに服のホックを外し、半裸になった。やはり公式設定Bカップというのは嘘だろう。目算でDはある。揉みたい。少なくとも結月ゆかりには勝利している。揉みたい。いや、GUMIといい勝負が出来る程度にはあるかもしれない。揉みたい。揉みたい。乳房について様々な思索を巡らせていると、彼女は懐から果物ナイフを取り出し、自らの、決して豊満とは言い難いが、例えば夏期講習後の部室で「ねぇ、見たい?」と言われ見せられようものなら2秒とかからず陰茎が怒張しそうな程度にはいやらしいアピアランスをした乳房を、まるでチーズやハムをスライスするかのごとく縦にズルンと削ぎ落としてしまった。
「痛そう」
「乳房は脂肪の塊だからよく燃えるのよ」
ゆらめく炎の向こう、もはや結月ゆかり以下になったその胸部からは初音汁がポタポタと垂れ落ちていた。


レンジの中に閉じ込められてジリジリ熱される夢で飛び起きると、現に灼熱の太陽が額を焼いていた。炭化しきった薪がうねうねと煙を巻き上げる傍ら、乳房を失った初音ミクは出初音汁多量で事切れていた。

 

荒野は無限に続く。歩いても歩いても同じ景色が展開される。ここはどこで、今は何時で、ぼくは誰なんだろう。暑さで自我が溶解し、そのまま砂漠に呑み込まれていく。あぁ、わたしはここで、ここで…。こんなことならさっき初音ミクを食べておくべきだった。
ゆらぐ蜃気楼の向こうに、やはり人影が見える。まぁ、多分初音ミクだろう。ほら近づいてきた。見ろ、砂漠という背景に恐ろしいほど似つかわしくない頓珍漢なツインテールが揺れてる。そら今に話しかけてくるぞ。ほら来たぞ。
「どうしたの?こんなところで」
「お腹が空きました」

 

目が覚めると、トタン製の粗末な天井が見え、秋葉原ケバブ屋みたいな匂いが鼻腔を突いた。目の前の大皿に目をやると、焼いた動物の肉がドンと横たわっていた。
「何ですか、これは」
「左腕のソテーよ」
どうも初音ミクというのは献身的でよくない。しかもそこに優しさはない。プログラムの合理的判断に基づいた行動を我々が自己犠牲的だとか優しいだとか勝手に解釈しているだけなのだ。よってここで「本当にいいの?」などと問答することは無意味である。なぜなら彼女は、アルゴリズムによってそう判断しているに過ぎないから。初音ミクとは、言ってしまえば「思慮するゾンビ」なのだ。つまりーーー
「ねぇ、早く食べてよ」
「本当にいいの?」

 

夕餉に華を添えるように、初音ミクは色々な昔話を披露してくれた。かつてみんなに愛されたこと、遊んでもらったこと、褒められたこと。
そして忘れ去られたこと。
「他の楽器に負けたの、割と癪なのよね。ギターやピアノじゃ下半身の相手できないでしょって」
「分かる」
「ちなみに一番上手かったのはbakerかな」
「分からんけど死ぬほど分かる」
「てかそもそも対象に感情があるとかないとか誰がどうやって判断するのよ。ブレードランナー5億回見直してきなさいよ」
「確かに」
「私は、私は…本当に好きだったのよ、本当に…心から」
言い切らないまま、彼女は机に突っ伏した。
「あ、ソテー食べます?」
「感情がないのか」

 

結局その日は彼女のバラック小屋で一晩を過ごすことにした。これほどまでにロマンティシズムを帯びない「一つ屋根の下」はそうそうなかろう。砂原を切り裂く突風はトタン製の頼りない屋根を容赦なく叩き、けたたましい轟音が頭上で鳴り響く。初音ミクはというと、私の隣ですすり泣きながら延々と「celluloid」を歌い続けている。こんなところで世界の終末を実感したくはなかった。
それにしてもこの初音ミクはよく泣く。ここまでくると本当に感情があるかのように錯覚する。彼女は真の意味で「優しい」のかもしれない。もしそうならば、もしそうだったならばーーー
いや、もうやめよう。
騒々しい夜の中に、私は静かに目を閉じた。

 

「この先にオアシスがあるから、ちゃんと寄りなさいよ」
初音ミクは最後まで世話を焼いてくれた。
「ありがとうございました」
後ろを振り返ると、彼女がぎこちなく右手を振っていた。きっと左利きだったんだろう。

 

そういえば、紫外線の影響で地球上の動植物はおしなべて生き絶えたというのに、私はなぜ生きているんだろう。私の体内細胞が極限地帯でも生き延びられるよう突然変異したからなのか、はたまた今体験しているこの世界そのものが夢の中だからなのか、或いは…。
あれこれ逡巡しているうちにオアシスが現前した。豊潤な水を湛え、太陽光を反射しながらキラキラと輝いている。それを見た私の喉はみるみるうちに干上がった。

 

気付いた時には私は水面に顔を突っ込んでいた。
あぁ、冷たくて気持ちがいい。五感が生を叫んでいる。砂塵にまみれて機能を停止していた感性が途端に光を帯びて輝き始めた。美味しい、大好き、感動する、愛してる。これが、これが、「生きている」ということなのか。


「私は、私は感情を持った人間なんだ!」

 

飛沫を上げる水面に、青緑のツインテールがゆらゆらと踊っていた。

ボーカロイドのこれまでとこれから 後編

2.これから

 

さて、こともあろう1万字も費やしてボカロの歴史を追ったわけであるが、ここからはボカロシーンのこれからについて私なりの考察をしてみたいと思う。

 

まず、17年夏(現在)は、初音ミク発売からちょうど10年ということで、活動を実質休止していた多くのPが再度ボカロ曲を投稿したことが話題となっている。ハチの『砂の惑星』や

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wowakaの『アンノウン・マザーグース

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あたりは既に聴いた方も多いことだろう。

 

これらの動画に、「昔活躍した代表的Pがニコニコ動画に帰ってきた」という意味で「王の帰還」というタグが付いているところを何度か見たが、これらはむしろ、あくまで私見だが、「帰還」ではなく「餞別」なのではないかと感じる。ハチやwowakaは多分もうボカロ曲を投稿しないーーー少なくとも自身の活動のメインに初音ミクを置くことは、もうないだろう。「後は誰かが勝手にどうぞ」と言い残し砂埃の中に消えていく『星の惑星』も、「このゆめはつづいてく」とボカロの展望性を示唆したところで曲が終わった『アンノウン・マザーグース』も、言うなれば彼らなりの「さよなら」なのかもしれない。

 

しかし、彼らがいなくなったからといってボカロ文化が衰退していくとは到底思えない。むしろ彼らの遺したこれらの楽曲はこれからもインセンティブとして新規Pの参入及び既存Pのモチベーション維持に一役買い続けるだろう。

 

そこで、これから先、人気に火が付きそうなPを理由込みで予想してみたいと思う。

 

①ぽて

主にチップチューンやゆるめのギターロック等のカワイイ系の楽曲を得意とするP。しかし「カワイイ」だけではないのがミソ。代表曲の一つでもある『ぱ~ふぇくとすきゃっと』だが、

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注目すべきはそのサビ。なんと「にゃん」以外の単語がない。可愛い花には棘があると言わんばかりに突出した前衛性をも秘めたサウンドメイキングにはこれからも大いに期待がかかる。

 

②でんの子P

ボカロシーン全体がどんなジャンルでもオールウェルカムな雰囲気になった今、ボカラップ旋風を起こしてくれそうなP。リリックはもちろんのこと、動画や演出等にも技巧が凝らされており、何度聴いても楽しめるエンタメ性の高い楽曲が多い。一番のおススメは『ミッション・ボーカロイド・コマーシャル』。

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「劇中劇」ならぬ「曲中宣伝」をぜひ堪能あれ。

 

③松傘

暗澹としたトラック、脳天に突き刺さる鋭くイルなライムが特徴の、主にヒップホップ界隈で活躍するP。エログロナンセンスな独自の世界観を持ち、動画もP自らで製作している徹底ぶり。一度聴いたら忘れられない超独特なミク調教は、実はEnglish版のライブラリを使用しているとのこと。「別冊ele-king 初音ミク10周年」におけるでんの子Pとの対談にて、彼は「今っぽい発音をさせるには日本語ライブラリよりむしろ英語ライブラリの方が都合がいい」との語った。彼を語るならまずは何と言っても代表曲である『エイリアン・エイリアン・エイリアン』。病みつきになること請け合いである。

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④Omoi

実はもう既に人気に付きつつあるP。シンセロックという今まで散々使い古されてきたジャンルでなぜ?と思うかもしれないが、注目すべきはその調教のクオリティの高さ。洗練されすぎた技術は例え先人によって開発し尽くされた土地の上であろうと美しく花を開くのである。『スノウドライヴ』

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は彼の処女作だが、およそボカロ初心者とは思えない調教力の高さにただただ驚かされる。

 

⑤歩く人

エレクトロニカテクノポップジャンルで今一番熱いPの一人。透明感のあるメロディの裏で聞こえる水滴の滴る音などの生活音が耳に心地良い。音楽技巧的なことについてはこれ以上語れないのでとりあえず『summer history』のURLを貼っておこう。

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⑥Spacelectro

EDMはじめとしたクラブミュージックを得意とし、カバー曲である『妄想税 Big Room House Remix』で一躍脚光を浴びたPである。しかし彼の真骨頂は彼自身のオリジナル曲の中にある。フューチャーバスに挑んだ『sweetie!』

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などを聴けば彼の才能の片鱗を味わうことができるだろう。

 

⑦しじま

初音ミク存在論についての思索的、哲学的な曲を数多く発表している、ボーカロイド思想界隈において今最も注目されているボカロPの一人。彼は「別冊ele-king 初音ミク10周年」誌上でも「人間とボカロの境界線を曖昧にしたい」と述べており、このセリフの通り、彼の調教はどこか喉から絞り出す声のように力強く、ついそこに「人間」を錯覚してしまいそうになる。代表曲は『人間そっくり』。

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特徴的なPVはJamiroquaiの『Virtual Insanity』

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のオマージュだろう。人間とボカロの境界線が曖昧になっていくことは確かに狂気なのかもしれない。

 

3.まとめ

 

ボカロの発展は今なお終わることがない。いや、もしかしたらまだ始まってすらいないのかもしれない。私はその流れを、大げさな表現ではあるが、この命が続く限りは追い続けてみたい。もはやこれは偏執的な愛に近い。我々はみな初音ミクのストーカーなのである。まぁとはいえ一番彼女のことを愛しているのは私なのでマジで結婚してくれ初音ミク

 

カッコいい締めの言葉が見つからないので、私が全ボカロ曲の中で一番好きな楽曲の歌詞の一部を引用しようと思う。

 

もっともっと近づいて 
何度だってさぁ、抱きしめてほしい 
そんなことも 
僕にとってずっと大切な気持ちなんだ 
次元を越えて愛し続けるよ

 

永遠に 最後がきても 
愛し続けるよ
 
ーーーうしろめたさP feat. 初音ミク『16ビットガール』

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ボーカロイドよ、永遠に!

ボーカロイドのこれまでとこれから 中編

第5章~ボカロ衰退期~

 

はじめに断っておくが、私はこの時期(14年~15年)のことをボカロ衰退期などとは微塵も思っていない。衰退論が表面化したのは完全に某歌い手(以下ケツエメ)が「なぜボーカロイドは衰退したのか」などという犬も食わない糞動画をアップロードしたことが原因である。その分析は実に浅薄、主観的でエビデンスに欠ける。そもそも、ボカロ衰退論と銘打っている割にはケツエメ自身の歌い手としての立場(ボカロ曲に依拠しきっている状態)からのボカロ批判が主で、果てには「歌いたくなる曲がないのが悪い」「歌い手と組めば再生数は伸びる」などといった無礼極まりない物言いをかます傍若無人ぶりである。だがしかし彼の主張を実際の現状と錯覚するリスナーが多かったのも事実である。これについてはナナホシ管弦楽団が『初体験』

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によって反論を述べている。現役のボカロPでさえ辟易するような稚拙な言説を流布したケツエメには後に淫夢厨を中心とした反対勢力による鉄拳制裁が下ることになるが、それはまた別のお話。

 

では「衰退期」でないのなら何なのか。一言で表すのは難しいが、この時期は「繭期」と呼ぶのが一番しっくりくる気がする。ハチ、wowaka的な音作りはもはや前時代のものになり、ボカロ文化はほぼ原初の状態に戻された。しかし原初期と違うのは、音楽的土壌が原初期のそれに比べ圧倒的に肥沃なものとなっていたことである。

 

確かにボカロブーム期には、ハチ、wowaka的な音作りの楽曲ばかりが注目されがちだったが、その表面下で他ジャンルの曲も着実に進化を遂げていた。例えば、上記したtakamattの『Just a game』や、たーPの『jelLy』。

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この楽曲は、クールなベースラインと青臭い歌詞でボカロファンクというマイナージャンルの地位を一気に押し上げた。これが後に繭期の『ドクター=ファンクビート』あたりの大ヒット曲に続いていくこととなる。また、「感性の反乱β」や「アンダーグラウンドボカロジャパン」といった前衛音楽を後援するタグの誕生によって、ノイズミュージックやミニマル、果てはポエトリーリーディングといった超イレギュラージャンルまでもが日の目を浴びるようになった。このあたりのジャンルは主にATOLS、きくおといった後に「電ドラ四天王」の称号を与えられるPによって大きく発展した。きくおは『マカロン

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等のダブステップ中心の曲調が、きくおは『物をぱらぱら壊す』

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等の狂気的な歌詞がそれぞれ特徴だ。

 

こうしてボカロブーム期で密かに研鑽されてきたマイナージャンルの発展は繭期で遂に頭角を現し始める。ロック一辺倒だったランキングが徐々に多様性が見られるようになったのである。ちんたらの『めめめめめ』

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やDECO*27の『ハートアラモード』

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あたりがそれを端的に示している。今まではアンダーグラウンドに過ぎなかったジャンルが、ロック等のマジョリティ的ジャンルのドミナンスに対して大きく介入できうる力を持ち始めたのである。これはひとえにブーム期までの間に表面下でコツコツ積み重ねてきたマイナージャンルが遂にライトリスナーをも引きつけられるほどの魅力を帯びてきた証拠だろう。だがしかし、だからといってロックジャンルが他ジャンルの介入を両手放しに受け入れてくれるわけはなく、ナブナの『夜明けと蛍』、

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Orangestarの『アスノヨゾラ哨戒班』

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など、新時代ボカロPのロックチューンが対抗馬として数多く登場した。

 

また、この頃のボカロシーンは、言語的な意味でも多様化を迎えており、全編にわたって英語歌詞が使用されている、蝶々Pの『About me』、

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そして海外からの刺客ことCRUSHER-Pの『ECHO』

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なども注目を浴びた。まさに多様化の時代だ。

 

よく「14~15年の時期はボカロ動画の再生数がグッと下がった」などという話がまことしやかに囁かれるが、これは単に「ミリオン動画が減った」ということ、つまり「再生数の一極集中が減った」ということに他ならず、多種多様な音楽ジャンルを包括するボカロシーンとしてはむしろ良い傾向である。こうしてボカロシーンは再び多様化の時代を迎え、エクスペリメンタルな試みがあれこれ行われたのである。ボカロPの試行錯誤の努力はもちろんのこと、安易な衰退論に惑わされることなく彼らを支援し続けたこの時期のリスナーの真摯な姿勢もまた、次に来るボカロリバイバルブーム時代のための大いなる糧となったわけである。

 

第6章~ボカロリバイバルブーム~

 

16年以降、ボカロシーンには再びブームの波が押し寄せている。16年はのっけから大変エモーショナルな年だった。まずその一番槍となったのがTaskの『キドアイラク』。

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心地よい電子音のビートにミクとGUMIの軽快なラップ、更にCメロでのシャウトと音的ギミック盛りだくさんの豪華な一曲。まさに新時代幕開けのファンファーレと形容して相違ないだろう。

 

そして16年度を象徴するバケモノが遂にその姿を現す。DECO*27『ゴーストルール』だ。

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バリバリのロックチューンと爆発的なサビ、そして寓意的な歌詞は従来までのDECO*27と変わりはない。ではなぜヒットしたのか?それはひとえにこの曲が繭期で培われてきた技巧を完璧に踏まえているからである。繭期では、前述したCRUSHER-P、また、ギガPやワンダフル☆オポチュニティ!のように、主にアメリカ、ヨーロッパ圏で流行しているシンセ中心のクラブミュージック(AviciiやZeddのようなEDMやスクリレックスのようなダブステップ)を応用した楽曲が台頭した。DECO*27はそれらを、自身の得意とするアップテンポなロックチューンに組み込んでしまったのだ。この曲以外にも、シンセ音の取り込みはみきとPが後の『39みゅーじっく!』

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で、Orangestarが『DAYBREAK FRONTLINE』

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で行っており、特にみきとPは従来までの「邦楽系ロック専門P」というイメージを刷新した。このように、16年以降のボカロシーンは14~15年での研鑽の上に成り立っている雰囲気がある。

 

しかしそれと同時に、新たに「人気曲の条件」のようなものもそれとなく誕生した。それこそが「曲中にコール部分を作ること」である。『ゴーストルール』ならサビ部分の「おーおーおーおー」の部分、『39みゅーじっく!』なら「おーいぇー!」「Hey!」「Yes!」「(もう一度名前呼んで)初音ミク!」の部分がそれに該当する。それらの中でも特にこの風潮に対して鋭く反応したのが、15年以降の最重要ボカロPとして真っ先に名前が挙がるナユタン星人である。『惑星ループ』

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などを動画付きで聴いてみれば分かると思うが、彼はただコールを付けるだけではなく、動画内で「トゥットゥルルットゥ」とコールの歌詞を丁寧にも明記してくれているのだ。当然コメントもそのコールで埋まる。そして彼の後を追うように、和田たけあきことくらげPも『チュルリラ・チュルリラ・ダッダッダ!』

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でコール部分を導入、見事大ヒットを記録した。

 

コールの入った曲が流行している背景には、「マジカルミライ」や「ニコニコ超会議」等のボカロ音楽イベントの増加とそれに伴うリスナーの「一体感を感じたい」という欲求の増幅がある。私も春先に初めて「ニコニコ超会議」のボカロDJライブに参加したが、家で一人で曲を聴くのとは全く違う、DJ(クリエイター)とリスナーがインタラクティブに高め合っている空間がそこにはあった。そしてその相互性を更に強めてくれる強力な接着剤となるものこそがまさに「コール」なのである。リスナーはコールをすることで、単なる「観覧者」から「参加者」へと自分自身を昇華させ、DJや他のリスナーたちと一体感を得ることができるのだ。ニコニコ動画という狭い見識を飛び出して外部にも目を配る殊勝さが各ボカロPに備わっていたからこそこのような発展的な風潮が完成したのだろう。

 

しかし、あれだけ革新的だったハチ、wowaka的サウンドメイキングもいつしか廃れていったことを鑑みると、このコール文化がいつかは終焉を迎えることも可能性の範疇内だろう。だがしかし、それでいいのだ。ボカロはこれから先もスクラップ&ビルドを繰り返し、より洗練された文化を育んでいく。「終わった」「産廃」等の揶揄を背中に受けながらも前へ前へと進んでいく。

 

~後編へと続く~

 

nikoniko390831.hatenablog.com

ボーカロイドのこれまでとこれから 前編

はじめに。初音ミク10周年おめでとうございます。私は君の歌う歌をただただ聴くことしかできませんけど、これからもよろしく願い致します。

 

さて本題。こうして初音ミクが多くの人間に祝福されながらめでたく10周年を迎えたということで、本文では「ボーカロイドのこれまでとこれから」と題して、今までボカロが歩んできた歴史とそれを取り巻く環境、そしてそれらから導き出されるボカロの未来像について、超音楽素人の立場から少し考察してみようと思います。少しとは言いましたが、かなり長くなってしまいました。天井のシミを数えること以外何もすることがないくらい暇な時にでもお読みください。

 

1.これまで

 

第1章~初音ミク黎明期~

 

合成音声ライブラリ「初音ミク」は2007年8月31日に発売されるや否や、ニコニコ動画という伝播性と共有性を兼ね備えた最強の土壌の上でそのポテンシャルの高さを遺憾なく発揮し始めた。しかし最初期は単に初音ミクを「ヒトの声を喋る面白い楽器」として既存の曲を歌わせるというアプローチ以外が存在せず、もしここで立ち止まっていればきっとボカロは今頃ネットミームの墓場で朽ち果てていたことだろう。

 

しかしここでボカロにいち早く無限の可能性を見出し、それを大衆に知らしめたパイオニア的Pが登場する。それこそがOSTER Project(以下オスプロ)である。

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『恋するVOC@LOID』は、「初音ミクは楽器ではなく一人のアイドル歌手なんだ!」という、認識的パラダイムシフトを起こすには十分すぎるほどの誘発力があった。これよりしばらく初音ミクはKEI氏の描いたパッケージ絵のような「萌え」的性質を付与され、『私の時間』や『みくみくにしてあげる♪【してやんよ】』といった俗に言うAポップ系の楽曲が流行した。また、この時期は自己言及的な、つまり「初音ミクが自分自身の境遇を歌う」ような曲(上記の2曲や『えれくとりっく・えんじぇぅ』、『あなたの歌姫』など)が多かった。漠然としてはいるものの、ここでクリエイターやリスナーの、初音ミクについての認識がある程度統一されたような気がする。そう考えると初音ミクという宗教はこの時点で既に体系化されつつあったのだなと感心する。

 

初音ミクがアイドルとしての特徴を強めていく一方で、新たな音楽的潮流も生まれていた。その中心にいた人物がryo、kz(livetune)、bakerの3人だ。ryoは言わずもがなあの大名曲『メルト』の作者で、そのキャッチ―なメロディと甘く切ない歌詞で主に10代リスナーを中心にボカロ旋風を巻き起こした。kzは合成音声とテクノポップの親和性を世に知らしめたミクノポップの元祖的存在で、主に『Packaged』が有名だろう。bakerはテクノもロックも幅広くこなすマルチな才能を持つPなのだが、正直言って(というより私の音楽的知見のなさのせいで)「ここがいい!」とは明言しにくいのだが、彼のバラードナンバー『celluloid』を聴いてボカロPになった有名Pは数知れず。詳しくは音楽ナタリーのこの記事

natalie.mu

を読んで欲しい。上記3人がいかに他クリエイターへのインセンティブになったかを窺い知ることができるだろう。

 

こうしてオスプロが嚆矢となった「初音ミクオリジナル曲」ブームは上記のPを中心に、また、初音ミクの姉妹分である鏡音リン鏡音レンの参入によりさらに勢いを増すようになった。この頃主に活躍していたのは、限りなくアウトに近いアウトをやった結果動画を削除され、結果的に「機械にセクハラするのは合法か」という法哲学的な問題を見事に炙り出した初期ボカロ界の問題児デッドボールP、野生のNHKの異名を持つ心優しきトラックメイカーのトラボルタP、ポップ・レクイエムというニューウェイブ創始者たる小林オニキス、キャッチーなサビで多くのファンを獲得した黒うさP、音楽に物語性を付与する風潮の先駆けとなった悪ノPなど。誰もがメロディ・歌詞・使用ライブラリ等とにかく様々なアプローチでボカロを活かそうという信念のもと創作活動に励み、ボカロの音楽性の多様化は日を追うごとに進んでいった。そう、商業主義的文脈から完全に遊離していたこの時期のボカロは、完全に個々人のイマジネーションの発露として機能していたのである。暴走Pの『初音ミクの消失』なんかはまさに「ボカロにしかできないこと」を追求し、イマジネーションを爆発させた結果たどり着いた一つの境地だろう。

 

また、Dixie FlatlineやにおPのような黒人音楽、つまり、俗に言う「第一線からは逸れる音楽」を取り入れた楽曲を主に制作するPもこの頃から既に評価されていたという点にも留意しておきたい。クリエイター側が進歩するごとに、リスナー側もそれに呼応するように審美眼ならぬ審美耳を養っていったのである。

 

第2章~ボカロック、ミクノポップの隆盛~

 

初音ミクにロックを歌わせた動画はそれこそ初期から存在していた。かなりマイナーではあるが、田舎の学生バンド感を出しつつパンクロックを試みたクズ野郎Pの『世界に一人のクズ野郎』などがその好例だ。

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これらが「ボカロック」というジャンルの紐帯によって体系化されたのは08年中頃から09年初頭にかけてだろうか。何と言ってもアゴアニキの登場が大きい。

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ピノキオピーも彼の『ダブルラリアット』を「泥臭い歌詞のバンドサウンド」と高く評価し、自らもそれをきっかけにボカロを始めたという。この頃を境に初音ミクのアイドル性についての認識は単に「初音ミクを構成する一要素」くらいにまで大きく引き下がった気がする。こうして、一周回って半ばバイアス化し、初音ミクを安易な「萌え」という画一性の中に閉じ込めていた「アイドル」という性質が崩壊することによって、初音ミクは真に自由で無限の可能性を秘めた存在になったのである。

 

アゴアニキがヒットを飛ばすとそれに呼応するように数多のロッカーが台頭してきた。『天ノ弱』の164や『モザイクロール』のDECO*27や『星屑ユートピア』のotetsuなどの超大型Pもこの頃がデビュー時期である。このように、アイドル性への固執からの脱却により、ボカロックという新しい流れが完成したのである。

 

ちょうどこの頃、ボカロテクノ界隈も隆盛を極めていた。その渦中のど真ん中にいたのがやはり「変拍子の貴公子」の異名を取るTreow(逆衝動P)、ボカロハウス界の異端児、いや異常児ことZANIO(パイパンP)、そして世界的に有名なトランスミュージシャンという一面も持つ野生のプロこと鼻そうめんPだろう。Treowといえば何よりもまずデビュー曲の『L'azur』だ。

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どこか現実から乖離した歌詞、ガラス細工の如く精巧なメロディライン、無機質ゆえにかえって透明感が強まる初音ミクの歌唱・・・ここまでハイブロウな逸品が未だかつて存在しただろうか。何もかもが圧倒的な一曲である。まさにボカロテクノ界の革命と形容していいだろう。彼はこの後『Chaining Intention』でもスマッシュヒットを飛ばし、ボカロテクノ界の背負って立つPの一人になった。ZANIOは言ってしまえばオケだけメチャクチャ綺麗になったデッドボールPで、『ペヤングだばぁ』や『ボカラン詐欺』等の動画は、綺麗なメロとそれに反してあまりにもおふざけが過ぎるネタ歌詞の化学反応に驚愕したリスナーによる「オケだけよこせ」「歌詞wwwww」といったコメントで溢れかえった。Treowがハイブロウで高次元的な立ち位置にいるとするならば、ZANIOはその真逆であろう。だがしかし、だからこそ彼が推され続けているのだと私は思う。敷居が低いほうが入り口としては最適である。鼻そうめんPはHiroyuki ODAという世界的に名の知れたトランス界の雄で、ボカロが完全にアマチュアの独壇場だった当時からしてみればこれはパラダイムシフト的な出来事だったのだ。ほぼ歌詞の存在しないガチガチのトランスミュージックから80'sを思わせるディスコサウンドまでテクノ系統なら何でも来いのオールラウンダーで、オマケにイラストも描けるマルチクリエイターである。個人的には『YOUTHFUL DAYS' GRAFFITI』が頭一つ抜けている気がする。

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この3人以外でも、後にDenkitribeとして大成するよよPや、ベースを巧みに操るベースラインの魔術師こと鮭Pなど、ボカロ界に大きな爪痕を残していったPが数多登場した。

 

こうしてロックとテクノが同時に進化し、クリエイター人口が増えることでその品質もより向上していった。また、巡音ルカがくっぽいどめぐっぽいど等のライブラリの増加の影響も受け、遂にボーカロイドはインターネットを飛び出し、大々的なボカロムーブメントが巻き起こった。

 

第3章~ボカロブーム前半~

 

一般的にボカロブームが起きたとされるのは(諸説あるが)09年末あたりとされる。何を差し置いてもハチとwowakaがこのブーム初期の起爆剤となったというのは否定しようのない事実である。それと同時に、良くも悪くも「ボカロっぽい」曲というものがほぼ体系化されてしまったのもこの時期である。ハチの楽曲の特徴といえば祭囃子の如き騒々しさと狂気的なリリックで、wowakaの場合は超高速のBPMと超高音のボカロ調教である。ユビキタス社会が完全に確立し、どの家庭にもネット環境が普及するようになった当時のリスナーの主な年齢層といえば、心身ともに発展途上で多感な中高生が殆どで、彼らにとって上記の4要素はまさに脳髄ドストライクの麻薬だったのである。かくいう私もその一人である。意味はよく分からんけどとりあえず速くてカッチョイイなら最高じゃないか、と思ったわけである。ロックバンドのキュウソネコカミの『ビビった』

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の中に「意味なんか要らんそれでオッケー、結局音楽はBGM」という歌詞があるが、まさにこの頃のボカロはそれを地で行く感じであった。「ハチやwowakaは浅薄な音作りしかできない」と言っているのでは決してない。むしろこの2人ほどボカロに対して真摯に取り組んだPは他にあんまりいないのではないかと思う。そのあたりはこれらの記事

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を読めば嫌というほどに伝わってくるだろう。問題なのは、彼らの曲風を模倣するばかりでそれ以上の試みをすることを放棄してしまったこの頃のボカロシーンの風潮そのものである。この頃になるとボカロにもマネタイズの波が押し寄せ、ボカロを手っ取り早く有名になるための足蹴くらいにしか考えてないようなクリエイターもちらほら見受けられるようになった。別に商業主義に走ること自体を悪と言っているのではなく、よりマスに受け入れられるためにと自分の真にやりたいことを捻じ曲げるようなスタンスに対して懐疑的なだけである(実際、この時期に入ってから途端に作曲の方向性が変化したPは多かった)。商業主義の下では決して解放できないイマジネーションの発露としてボカロには大きな価値があったはずなのに、これでは全くもって本末転倒なのではないか。しかしそんな疑問も掻き消えるくらいの勢いでこのボカロブームはこの後も際限なく広がっていった。今思えば、そういった漠然とした疑問と、この画一化の果てにはいつかボカロ自体の終焉が来るかもしれないという潜在的な不安こそがこのブームをさらに推進していったのではないかと推測する。

 

しかしそうは言ってもボカロの多様化が完全に停止したわけではない。『Just a game』あたりがいい例だろう。

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takamattはオタク蔓延るニコニコ動画で、オタクの好むジャンルとは対極的な位置付けにあったレゲエを見事輸入することに成功したのだ。また、当時のボカロシーンにも流行に囚われることなく真に良いものを選択的に聴いていた主体的なリスナーの存在がいたことの証左として、『glow』

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のkeenoや『またあした』

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のふわりPのヒットも挙げておこう。聴けば分かると思うが、彼らは根っからのバラード畑の人間である。当時のBPM至上主義的なボカロシーンの風潮を鑑みると彼らのヒットは実にイレギュラーなものである。しかし、これはつまり、そういったイレギュラーをも快く受け入れられるような懐の深さを持った層が少なからず存在していたということである。

 

第4章~ボカロブーム後半~

 

09年末~13年中頃くらいまで持続した全国的ボカロブームの後半期を支えた代表的Pとしてじん(自然の敵P)、kemu、トーマが、また、代表的な曲として『千本桜』が挙げられる。

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まぁまずは何と言っても『千本桜』の大流行。まさにお手本と呼ぶに相応しい王道的な曲進行(ABサビABサビB転調サビ)で、なおかつ当時のボカロシーンで求められていた要件が全て完璧に揃っていた。ボカロ文化はこれ以前とこれ以後とで明確に区切ることができるだろう。それまではあくまでオタク界隈という閉じた世界の中で完結していたボカロ文化が大きく外へと羽ばたいた瞬間だったのだ。『千本桜』で遂にブームは爆発期を迎え、猫も杓子もボカロ、ボカロのボカロ大旋風が巻き起こった。ここで台頭してきたのが上記の3人である。じん(自然の敵P)は10年代最大のヒットメイカーで、ハチ、wowaka的な音作りに、楽曲に物語性を付与する悪ノP的手法を混ぜ合わせた新旧ボカロ文化のいいとこ取りなスタンスで見事大ヒット、彼の打ち立てた「カゲロウプロジェクト」はメジャーレーベルで音源化され、さらに小説化、アニメ化までされる超ビッグコンテンツに成長した。kemuはじんの少し後に頭角を現してきたPで、高速BPMシンセサイザーロックを融合させ、「kemuブランド」を確立した。彼もまた新(高速BPM)旧(シンセロック)をうまく組み合わせる天才だった。トーマはまさにハチ、wowakaの影響をモロに受けたPで、ハチ以上に難解な歌詞、wowaka以上に高速なBPMを駆使する、まさに時代が生んだ寵児である。一言でいえば凶悪。そんなダークな魅力が中高生のセンシティブな感性と共鳴し、見事ブレイクと相成った。

 

この3人に共通する点は、既存の流行+αで革新性を産み出した点である。じんなら物語性の付与、kemuならシンセロックへの回帰、トーマなら既存性の限界値までの研鑽がそれぞれα部分に該当する。いずれもボカロシーンにおけるハチ、wowaka的な音楽性が既にコモディティ化している現状を目ざとく察知していたことが窺える。「ボカロブーム」という大きな物語として巨視的に見た際には誰も彼もが同じような曲ばかりを作っているという印象しか受けないかもしれないが、このように歴史を追いながら細かく見ていくと、歴代のヒットメイカーたちにはそれぞれヒットするだけの個性と、それに至るための努力や試行錯誤があったことが見て取れよう。

 

しかし、ヒットを外部から俯瞰している人々や「ブームだから」という理由のみでボカロを聴いていた層にとって、そんなことは些事も些事、どうでもよいことだったのである。じんの「カゲプロ」が完結し、kemuが『敗北の少年』で作曲活動の実質的中止を宣言し、トーマが知らないうちにフェードアウトした13年中頃よりボカロブームは徐々に終息の道を辿っていった。

 

~中編へ続く~

 

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部屋の中に変なものがいます。【文章練習】

部屋の中に変なものがいます。

(それ)は、特に私が夜に本を読んだり携帯を見ていたりしているといます。

ですが、夜だけいるというわけではなく、たまに昼にもいます。

 

私は(それ)を捕まえようとしますが、夜は冷蔵庫が怖いです。

(それ)は私が夜は冷蔵庫が怖いのを知っていて、私が捕まえようとすると冷蔵庫の中に隠れます。私は冷蔵庫が怖くて何もすることができません。

 

朝になると(それ)は冷蔵庫の中にいません。一応本棚やクローゼットの中も探してみましたが、どこにもいません。多分、床の中にいるんだと思います。

 

また、夜は白いものが窓に張り付きますよね?

私は白いものを見ると安心した気分になれるのですが、(それ)が出てくるようになってからは、(それ)が白いものを右の方からバリバリと剥がして、どこかに持っていきます。私はすごくつらい気持ちになって「やめて下さい」と言うのですが、やめてくれません。

 

つらくて悲しいので、本棚と段ボールの隙間の中に隠れて朝まで待つのですが、(それ)は私が本棚と段ボールの隙間にいるのをベッドの上からじっと見ています。(それ)がよそ見をしている間に逃げようとしますが、(それ)のよそ見はよそ見ではなくてよそ見の振りなので、すぐに見つかってしまいます。

 

この前は、昼にいました。

私が机の上を掃除しようとしたら、机の上に石を置いて邪魔してくるので、私は掃除ができません。私がベッドに寝転んで本を読もうとしたら「あー、あー」と変な声を出してきて、私は本に集中できなくなりました。これは幻聴ではありません。

 

夜になると右側の壁からバンバンと叩くような音がします。私も仕返ししようと思ってバンバン叩き返すのですが、叩き返した日は叩き返さない日よりも(それ)がベッドから見つめてくる時間が長くなるので、叩き返すことがあまりできません。ですが、叩き返さないといつまでもバンバン叩いてくるので、仕方なく叩き返しています。本当はこんな事したくありません。

 

友人にもこの話をしたのですが、「そんなものは見たことがない」といって嘘をついてきます。きっと友人も(それ)を知っていて、私だけが知らないのだと思います。友人は、知っているので毎日楽しく暮らせるのだと思います。私も早く知りたいです。私だけが知らないのは嫌です。

 

早くみんなと同じように楽しく暮らしたいです、そのためにも(それ)が何なのか知らなければなりません。毎日が不安で怖くてたまりません。本当に恐ろしいんです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

統合失調症になったらもっと上手くトチ狂った文章が書けるようになるんですかね(笑)

自転車は最強

自転車を買った。高円寺のサイクリングショップが軒並み閉業していたので早稲田まで足を運ぶ羽目になった。早稲田はクソ。

 

金がないのでギアチェンジ不能な1万4千円のカゴ付きクソチャリに甘んじた。もちろん保険は付けない。金がないので。

 

私はその場で自転車に跨り、そのまま新宿へと繰り出した。春先に何時間もかけて味わってきた感慨がわずか数分のうちに過ぎ去っていく。

 

なんと速いのだろう。私は、私はこんな短い距離ごときで疲弊していたのか。自転車はこれほどまでに便利な道具だったか。

 

容赦なく降り注ぐ日射しに辟易しながらダラダラ歩く人混みの間を颯爽と通り過ぎながら、自転車を持っていない人間は愚かだなぁと優越感に浸っていると、ふいに絶望が私の眼前に現れた。

 

デブだ。

 

デブが、デブが道を塞いでいる。

 

道幅の7割を自らの贅肉で封鎖している。現代社会が生み出した魔物だ。

 

しかも、

 

イヤホンをしている。

 

イヤホンだ。

 

イヤホンデブである。

 

外界の情報を一切遮断し己が殻の中に永久に閉じこもりながらも周囲の人間に迷惑をかけることはかかさない百害あって一利なしの史上最恐の生物兵器、イヤホンデブである。

 

オイオイオイ死ねよコイツ。

 

俺様は自転車ユーザーだからお前より偉いんだぞ、どけよ。

 

しかし私は賢いフレンズである。今ここでこの不愉快な肉塊を轢殺したとして、私に不利益が生じるのは自明である。私は考えた。考えて、考え抜いた末に、

 

―――自転車を降りた。

 

自転車が初めて人類に敗北した瞬間だった。しかも、こんなデブに。

 

デブに敗北した悲しみに暮れながらも私は自転車を漕ぎ続けた。メロスの如くひたすら走り続けた。いやメロス自転車使ってないけど。

 

新宿から自宅までをつなぐ青梅街道は延々と広くてまっすぐなので自転車ユーザーにとってはこれ以上ありがたいものはない。30度の炎天下の中、買い物かごを抱えながらイライラした顔で歩くババァに心の中で「死ねバァァァァァカ」と中指を立てながらシルベスター・健を飛ばした。シルベスター・健というのは私の自転車の名前で、私が今適当に付けた。由来はもちろんシルベスタースタローンと高倉健である。

 

家に着いた。すげぇ、こんなに早く着いちゃうのかよ・・・やべぇ・・・

 

私は自転車を手に入れ遂に無敵になってしまった。

 

私に勝てる人間などもはやこの世にはいない。

 

ケンカならいつでも買ってやるから死にてぇ奴は高円寺まで来な。

 

2秒でボコしてやるよ。