美忘録

羅列です

"ダサくない"ボカロ曲15選

お久しぶりです。因果です。

 

突然だが、ボカロはダサい。

 

ちょっと言い過ぎたかもしれない。ニュアンスとしては「ボカロはダサい曲が多い」の方が近いかもしれない。

 

「ダサい」という言葉があまりにもバズワードすぎるのでここで本ブログにおける「ダサい」の定義を簡単にまとめておこう。以下の3点である。

 

・高速BPM

・音が雑多すぎる

・歌詞が現実離れしすぎているor直接的すぎる

 

俗に「人気曲」と呼ばれているボカロ曲には以上の3点を見事に全て網羅しきっているものが多い。「ボカロって同じような曲ばっかじゃん?」といった内容の揶揄がよくぶつけられる理由もここにおるのではないかと私は考える。

 

しかしかといって私は決してそれらの曲が劣っているのだと言いたいわけではない。

 

今回私がこのような苛烈な言い方をしてまで伝えたいのは、上記の条件を満たす音楽を好まない人々、つまり一般的なボカロファンとは価値基準が異なる人々が、それらの曲だけを聴いて「ボカロってダメなんだなぁ」と思ってしまうことは少々早計なんじゃないか?ということである。

 

そこで今回は「ダサくない(と私が感じた)ボカロ曲」をいくつか紹介させていただこうと思う。また、その曲を選んだ理由も付記するので暇だったらそちらも併せて読んで頂けると幸いである。

 

あ、あと初音ミク11周年おめでとうございます。

 

①つまらない葬式/マスターvation

アナクロに響くギターが彩るポップ・レクイエム。いつも思うけどP名が酷すぎる。

 

リリックメイキングの過程において最も困難を極める要因の一つに、独白と俯瞰の使い分けが挙げられる。これが両極端に振り切れていると、歌詞の向こうに強烈な自我を感じる、あるいは逆に全く感じないため、実感覚から乖離した歪な印象を受け、「なんかキモいな・・・」と感じてしまう。

 

一概に言えることではないかもしれないが、俗に「人気」とされるボカロ曲には特にこの傾向が多い気がする。前者に傾倒したものがカンザキイオリの『命に嫌われている』やNeruの『再教育』などで、後者に傾倒したものが日向電工の『ブリキノダンス』やトーマの『バビロン』などだろう。まぁ挙げれば枚挙に暇がない。

 

その点においてこの曲は非常に秀逸であるといえる。「葬式」という題材は人間固有のイニシエーションであるがゆえにエモーションの発露として機能しやすく、上述した「強烈な自我を感じる」状態に陥りやすのだが、このPはそこに俯瞰的ーつまり建前的なー視点を織り交ぜることで、バランスの取れた歌詞世界を構築することに成功している。だからこそ時折顔を見せる「本音」がリアリティを帯びて響く。

 

②あいのうた/haruna808

夜の中央線、70億分の1の日常。

 

だいたい①と理由同じ。俯瞰と独白の間をゆったりと反復するような、さながら帰りの電車の微睡みのような、輪郭のない歌詞が特徴。

 

haruna808はリリックもさることながらサウンドも一級品。夜を紡ぎ出す電子ピアノの優しい旋律、感情の起伏に合わせ転変するリズム。キック音はさながら電車のジョイント音のよう。リリックが内面についての描写に徹している一方でサウンドは外面についての描写に徹しているのだ。

 

そしてこの役割分化が総体としての「曲」に立体性を付与する。この曲を聴いていると感じる柔らかな没入感はまさにこの立体性によって生まれている。

 

ここでは省略させていただくが、これが気に入ったら氏の『Haruna』もぜひ聴いてほしい。スゲー良いので。

 

③sleepy dance/temporu

全編9分の超大作。広義ではハウステクノにカテゴライズされそうだが、それよりかは先鋭性が強い。

 

全ての音が終盤のカタルシスに奉仕していながら、奉仕している音それ単体にも一切の抜かりがないのだ。

 

この曲は、「ABメロ→サビ→ABメロ→サビ→Cメロ→サビ」のようなよくあるシーケンスではなく、完全に「静→動」という二項において2分割されているため、前者のような手っ取り早く消費(=カタルシスを享受)できる音楽以上に、技巧的な外連味が求められる。

 

しかし『sleepy dance』はこの課題を難なく突破している。映画の場面が切り替わるように二転三転するアトモスフィアは聴く者の意識をグッと自身の中に引き込んでいき、4拍子のトランス的なうねりの渦中へとゆっくり沈潜させていく。多分「トリップする」というのはこういうのを指すんだろう。

 

そしてうねりと自我が完全に同化しきった臨界点に達したまさにその時、静が動へと逆転し、微睡みの中に憩っていた自我は突如その外へと突き放され、ここにおいてマゾヒスティックな快楽の達成、つまりカタルシスが生じる。それも極上の。

 

映画かよ・・・(2回目)

 

しかもこれらの精神作用は全てtemporuの思惑の範疇内なのだから恐ろしい。

 

④L'azur/Treow(逆衝動P)

Treowの作る音楽は冷たい。それは「冷酷」とか「冷徹」といったものではなく、温度的な、「cold」の意味において冷たい。それはまるで永久凍土の氷柱のように一切の不純物を含まない冷たさである。

 

こう感じる理由は、やはり彼の音楽における「初音ミク」の存在態にあるだろう。彼においてはボーカルとしての「初音ミク」が存在しない。そこにはべ―スやドラムといった諸楽器と並列して「歌詞」という名の音素を紡ぎ出す、果てしなく楽器としての初音ミクがあるばかりなのだ。

 

つまり彼の音楽は、リリックがありながらインストゥルメンタルであるという捻れた構造を持っているのである。

 

この捻れた構造を成立させるべく、リリックも一切「人間」を感じさせないようになっている。かといって日向電工のように無意味に難解な単語をただひたすらに羅列するような露骨なダサさもなく、あくまで「私秘性の強い現代詩」くらいの体裁は整っている。歌詞のダサさに対してセンシティブな感性をお持ちの方々も、彼の曲を聴いて嫌な鳥肌が立つことはないだろう。

 

『L'azur』もその例に漏れない。キラリ輝く氷晶のような冷たい音楽を是非心ゆくまで楽しんでほしい。

 

⑤違います/目赤くなる

初音ミクは今まで様々なものと声を交えてきた。同じVOCALOIDである鏡音リン・レン巡音ルカをはじめ、softalk(ゆっくり)や歌い手など、その組み合わせは枚挙に暇がない。

 

本曲においてその相手役を務めるのは、iPhoneの音声ガイドツール「Siri」。イノセンス論を中心に初音ミク存在論が活発に論じられていた2017年当時のシーンにおいてこういうカップリングが登場するのはある意味必然と言えるかもしれない。(イノセンス論については私の過去のブログを参照していただきたい。暇な方は是非…)

 

この曲においては初音ミクとSiriの「会話的非会話」が延々と繰り返される。

 

会話的非会話とは、言うなれば文脈を共有しているようで全くしていないモノローグ同士のぶつかり合いのことである。

 

曲の初めこそは初音ミクがSiriに語りかけ、Siriがそれに応答するという対話の構図が展開されるが、次第に互いの問答の焦点はズレていき、最後には「語りかけ」「応答」だと思っていたものが単なる独言の連続だったという何とも滑稽なオチがつく。

 

それはまるで横溢する初音ミク存在論者たちに対して「お前ら本当に初音ミクについて知ってんの?」と疑問を投げかけているかのように痛切に響く。

 

諧謔味溢れる表層と皮肉に満ちた深層の二面性を持つ非常に「厚い」一曲だ。

 

⑥Mictronica/Kiichi(なんとかP)

Kiichiはエレクトロニカ、ポストロック系統の楽曲を得意とし、黎明期から投稿活動を続けている古参P。

 

サウンドに関しては先述のTreowに類似している部分もあるが、Treowのような冷たさはなく、むしろエモーショナルであると形容できよう。リバーブがかった初音ミクの歌声、無限に反復されるフレーズ、白昼夢の中を彷徨うようにぼやけた主観的なリリック。彼の音楽は、今ここにありながら、どこか遠くで寂寞と響いている。

 

ここでは『Mictronica』を紹介したが、この他にも『置いてけぼりの時間』、『プラスチック・ガール』なども非常に秀逸である。

 

⑦キーウィ/ATOLS

ボカロシーンにおいてはきくお、回転楕円体、ばぶちゃんと並んで「電ドラ四天王」と称されるATOLS。ノイズやビープのようなギミックを飛び道具的に多用するのではなく、知識や経験に裏打ちされた技術に基づいて理路整然とそれらを用いることによって質の高い電子ドラッグを作曲している。

 

『キーウィ』という曲名の通り、キーウィの歌。いや、本当にそれ以上でもそれ以下でもない。そこに何らかの寓意があるのかないのかいまいち分からない絶妙な歌詞がクセになる。ちなみに氏の『MIKU DET EP』収録のLONG VERSIONは7分くらいある。しかし完全版とかではなくあくまでロングバージョンなのでニコニコに投稿された2分半の原曲もれっきとした完成品である、ということだけは言っておこう。

 

フォッサマグナ/baboo

よれよれとした楽器隊にこれまたリバーブがかった初音ミクのふにゃふにゃした声が乗っかった脱力系ロック(?)ナンバー。やる気はないがやけに耳に残るイントロのギターリフが印象的。

 

二転三転とリズムが変化するが、気だるげな雰囲気だけは徹頭徹尾変化しない。まるでぐわんぐわんと左右に触れながらも決して転倒はしない、やじろべえを見ているような、何とも不思議な気分になる。

 

また、口語的な文体でありながらどこか少し日常生活の域を出た変な言い回しが出てくるリリックが大変クセになる。こういった感じの曲が気に入った方は是非「VOCALOIDよれよれ曲リンク」で検索してほしい。腐るほど出てくるから。

 

⑨日暮らし/キツヅエ

アコースティックギターの優しげな音色が夕刻の暗がりにこだまするようなフォークナンバー

 

平たく言えば「失恋ソング」なのだが、言葉選びのセンスが群を抜いている。「野良猫は笑っている」「ちいさな日々のすき間で」といった詩的な表現と「君に会いたい」「君とココアが飲みたい」といった直情的な表現が混じり合い、心内環境の不安定さが巧みに描き出されている。

 

そして感情が臨界点に達したところでふと外で鳴くヒグラシに気が付き、どんなに大きな悩みや葛藤も外から見れば些末な出来事に過ぎないのだなぁという諦観に辿り着く、という何とも切ないオチが付く。

 

また、曲の時間的な経過に伴って音素が増えていく点も大変にエモーショナルでよい。リリックという観点だけなら今回のブログで紹介した中でもずば抜けて素晴らしいといえよう。

 

⑩この夏のすべて/平田義久

ボカロ音楽がなんとなく疎遠なものに感じる原因はいくつもあるが、その中でも「実感覚から著しく乖離している」というのはその中でも大きなウェイトを占めるだろう。そしてこの実感覚を規定するのが「固有名詞」である。たとえば「二次元ドリームフィーバー」だとか「ダンスロボットダンス」といったものは、どんなにインパクトはあっても、それらが我々の日常生活に登場することはないため、自身の頭の中でそれを適切に想起することができない。聴いている途中で「ん?」という急ブレーキがかかってしまうのである。この不快なタイムラグ、つんのめるような感覚が精神的な疎遠さを生み出しているのだ。

 

その一方で平田義久の音楽はいつも日常のすぐ近くにある。「祭りばやし」「路面電車」「風鈴」「金魚」・・・。どれも全て我々の手が届くところに存在する固有名詞だ。これらはすんなりと頭の中で処理できるため上記のようなタイムラグが発生しない。

 

さらに、彼は固有名詞が連なりすぎるとかえって実感覚が消滅してしまうということも考慮しており、適宜意図的な曖昧さ(「あの海」、「この夏」といった指示語を含んだ表現など)を演出することでちょうどよいバランスを保たせている。このバランス感覚はひとえに氏の知識と経験に裏打ちされた構造的なものであり、その一見質素に思える歌詞の向こうには、深遠なる音楽史の平野がどこまでも無辺に広がっている。

 

あえて『この夏のすべて』を選んだのは、そりゃもう時期的にピッタリだからである。海か?山か?プールか?いやまずは平田。

 

⑪玉葱/ピノキオP

今もシーンの牽引役として絶大な人気を誇るピノキオPのアイロニックな初期ロックナンバー

 

アイロニーというのは表現の過激さがそのままアイロニーとしての完成度に直結するものでは決してない。たとえ表明したい立場は一緒でも、その過程において言葉選びを間違えればそれは途端に陳腐化する。これはもはやアイロニーですらない、言うなれば「中学生の屁理屈」みたいなものだ。

 

このようにアイロニーとは高度なセンスが要求される至極難儀なレトリックなのだが、ピノキオPは基本的にこの「言葉選び」が上手い。ギリギリ失笑を買わないラインを知っているし、そこに最大限肉薄していけるような豊富な語彙も備わっている。

 

その完成形ともいえる一曲がまさにこの『玉葱』なのである。

 

「涙は全部が玉葱のせい」から始まる数多の偏見が巡り巡って自分に突き刺さるさまを、面白おかしく、しかしどこかもの悲しく描いた傑作。

 

⑫スーパーワールド/江戸川の水

新進気鋭のボカロP、江戸川の水による脱力系テクノ。

 

ボカロの技術面における進化はめざましいものであり、その発声は人間それと遜色のないレベルにまでエンハンスされつつある。それに付随して新たなライブラリも続々登場し、まさにボカロダイバーシティ時代が現前しているが、この曲において何度も試行される「全く同じリリックを全く同じ発音で繰り返す」技法はVOCALOIDの機械性を殊更に強めるもので、「ライブラリや発声パターンの多様化」というボカロの技術的進化の流れに完全に逆行している。

 

だが、こうすることによってダイバーシティの生み出した複雑な構造の木々をかき分けていくことは、その深奥に眠る「初音ミクとは何か?」という根底的なアイデンティティ問題に立ち返る契機になるのではないかと私は考える。

 

コンテンツというものは、極端な二者の間を一定のスパンで往復する場合が非常に多い。近年、初音ミクについての根本的な存在論が方々で唱えられているのは、ボカロというコンテンツが多様化という一つの臨界点を迎えたからこそなのかもしれない。

 

⑬celluloid/baker

初音ミクというキャラクターコンテンツとしての側面が強かったボーカロイド音楽を、他の諸音楽に劣らぬ一カテゴリにまで押し上げる嚆矢となった黎明期の名曲。上述のharuna808といい彼といい、2007年のボカロ界隈は実直なアングラ感があってよい。

 

セルロイドとは加工が容易な合成樹脂のことで、20世紀にはこの素材を応用した玩具としてセルロイド人形が大量に生産された。しかし、セルロイドは燃えやすい、耐久性が低いといった理由から次第に使われなくなり、歴史の闇の中に静かに消えていった。

 

この曲のリリックもそんなセルロイドのように、か細く切ない。しかしそれでも朝を待ち続ける詩中の彼のひた向きさにホロリとした気分にさせられる。

 

アイドル一辺倒だった初音ミクというコンテンツの新たなる一面を開拓した珠玉の名曲だ。

 

⑭(spilled 4 mitutes from)Liquid Metal/ハイネケンP

黎明期からコンスタントに投稿を続けている古参Pの一人。水の中を揺蕩うような浮遊感のあるエレクトロニカを得意とする。よくyahyelっぽいというコメントをよく見かける。

 

上述したATOLSほどの毒はないが、こちらもまさに聴くドラッグと形容して相違ない。リリックも真夜中に見る夢のようにフレーズごとの相関性がなく、サウンドの波に乗ってあっちへこっちへゆらゆらと漂流している。クラブとかでユラユラするのが好きな方は多分気に入ると思う。

 

今回はLiquid Metalを紹介したが、彼の真髄はアルバムを通して聴くことによって発揮される。少しでもピンと来たなら是非『Electric&Sleeping』と『Flowers』を聴いてほしい。

 

nikoniko390831.hatenablog.com

 

 

⑮walk around/chet_brocker

chet_brockerはとにかくベースラインが気持ちよい。「気持ちよい」とはいってもそれはスラップが早いというような、刹那的な音の快楽を満たしてくれるという点によるものでは決してない。あくまでドラムと電子オルガンの音響を最大限有効化してくれるような、言うなれば寿司におけるワサビのような役割を果たしている。こういうさりげなさ、イイですよね・・・

 

リリックはほぼ聞き取れないが、多分彼は初音ミクを音素のひとつくらいにしか捉えていないのだろう。サブのオルガン程度の存在感しか主張してこないのである。しかしこれはまさに合成音声ソフトの特徴を最大限活かした「ボカロならでは」のテクニックである。インストゥルメンタルとして聴くのが一番おすすめである。

 

 

 

 

 

とまぁたくさん紹介したがこれでもメチャクチャ絞りに絞ったのでそこそこ洗練されたリストが完成したという自負がある。是非多くの方に聴いていただきたい。

 

それではまたどこかで。

バイト バイト バイト

高2の頃にコンビニバイトで精魂尽き果てるまで使役された過去から長らくバイトを控えていた俺。しかし、金を口座から下ろすたびに残高表示を見ないように目を瞑る日々がそれはもう惨めでたまらなかったのでそろそろ働くかと思い立ち、バイトを探すことにした。

 

バイトの募集などそれこそ星の数ほどあるが、しかしだからこそその中から宝玉を探し出すのはまさに至難の技といえよう。一歩間違えればマネジメント能力ゼロのクソ店長と共感能力ゼロのクソ客の地獄万力に挟まれて健全な精神が粉々のミンチになってしまう

 

そこで俺は過去の経験を生かし「こんなバイトは可及的速やかにやめよう!」リストを作成した。是非これからバイトを始める人も参考にしてほしい。

 

・店舗が繁華街、レジャー施設、ライブ会場、高速道路(PA)に面している

・アクティブの従業員が10人未満

・深夜も営業している

・週3が最低条件

・店長がクソ

・店長が全く仕事をしない

・店長が高偏差値高校→Fラン大学という経歴を持っている

・店長が12時出勤の18時退社

・店長が事務室に引きこもって艦隊これくしょんをしている

・店長が大学の序列に詳しい

・店長が高校模試のシステムに詳しい

・店長がデブ

・店長がバカ

・店長がバイトリーダーの買ってきた椅子を数日中に破壊する

 

以上の事項に抵触しないことが健全なバイト生活を送るための最低条件である。しかし、ここでこういった質問が噴出するかもしれない。「時給についての言及がないやん!」と。

 

うんまぁ・・・確かに時給もバイトを選ぶ上での重要な判断基準の一つかもしれない。しかしここだけを頼りにバイトを始めると思わぬ誤算に足を取られる可能性がある。

 

俺がなぜコンビニなんかで働いていたかというのも、ひとえにその時給の高さにあった。なんと850円/hという超高時給(長野県における850円は東京における1200~1300円に匹敵する)。私は850円という甘い響きにまんまとおびき寄せられ、見事地獄の一年間を過ごすこととなった。

 

コンビニというのはとにかく仕事が多い。レジ打ちだけではとてもではないが店を回せない。商品の陳列、フライヤーの調理、店内の清掃、つまみ食い、収支の確認、宅急便の引渡、クレーム処理、つまみ食い、ゴミ捨て、(ウチは無かったが)トイレ掃除、店外での呼び込み、つまみ食い、電話対応など、挙げれば枚挙に暇がない。

 

よく「コンビニバイトは慣れてくるとだんだん『シャッセ~』とか『ッエ~~~』とか言うようになる」みたいなネタコピペを見かけるが、あれは決して笑い事ではない。

 

あれは債務の蓄積や極悪非道な底辺客の襲来によって楽しかった日々の思い出や人との温かい関わりを忘れてしまった、いわばコンビニバイトたちの悲痛な叫び声なのである

 

もしこの声が聞こえたら、そっと何も買わずに店を出るか、買うとしてもいちいちレジ打ちについて文句を言わないであげよう。あとポイントカードは会計前に出さないと殺すからな。「あ~やっぱありました~」じゃねぇんだよ、陰毛毟るぞ。そこのお前も「トイレだけ使うのは申し訳ないから」とか言ってガム買ってくのやめろ。トイレだけ使ってさっさと出てけ。

 

このように、時給だけでバイトを選ぶとロクなことにならない。確かに中には高時給高優遇の超優良バイトもあるだろうが、それも全体からすればごく一部である。そもそも蓋を開けるまで職場の内実なんか分かんねーよバーカ

 

バイトを探すこと約半日。やっぱり俺には無職が一番かなと考えていたところに思わぬニュースが入ってきた。

 

私は寮に住んでいるのだが、なんとウチの寮生だけで回しているという中華屋が高円寺内にあるというのだ。しかも業務は配膳・洗い物・レジのみ。そのうえ17時~22時までというちょうどよいシフト。時給も約1000円で申し分ない。マジで天が味方したとしか思えない。

 

早速俺は研修に入ってみた。そこで俺は衝撃の光景を目の当たりにする・・・・・・!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

・・・・・・・客が来ない

 

 

 

客が来ないのだ。

 

 

 

いくら待てど客が来ない

 

 

 

携帯をいじってても友達と喋ってても、

 

 

 

全く客が来ない

 

 

 

え?ここマジで高円寺?とビビるくらい客が来ない

 

 

 

しかし俺は客という存在がこの世で一番面倒臭くて嫌いなのでこれ以上嬉しいことはない。

 

この店が一体月にいくら儲けているのか、店長が果たして本当に健康で文化的な最低限度の生活を営めているのか、色々気にかかることはあるが、それはそうとしてマジで快適な職場である。

 

この前は、あまりにも暇だったので店長と談話していたら、店長がおもむろにビンのようなものを取り出し、グビグビと飲み始めた

 

そのビンに刻まれていた文字はーーーーー

 

 

 

 

 

 

 

 

ーーーーージャイアン・・・・・・

 

 

 

 

 

そう・・・

 

 

 

 

 

・・・焼酎である・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ーーーーー俺はここで働くことを決めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

灯台下暗しということわざが示すように、素晴らしいバイトというのもまた案外自分の近くに転がっているものなのかもしれない。

 

よし働くぞ、俺はここで一生懸命働くぞ。

 

6月は2回もシフトに入ります。

 

俺はすごいんだ。

 

みんなもいいバイトを見つけていい人生を送ろう!おわり!

VOCALOIDにおける作り手/受け手の関係

VOCALOID界隈、殊にリスナー界隈においては以下のような議論が頻繁に巻き起こる。それは、作り手/受け手がそれぞれどう振る舞うべきかについての議論である。これについて作り手/受け手がそれぞれの立場から喧々諤々と意見を鍔迫り合わせる様子は界隈にいる人間にとってはもはやお馴染みの光景だろう。

 

そもそもなぜこのような事態が起きるのか。私はここにVOCALOID音楽(これは「同人音楽」まで定義を広げても構わないかもしれない)における作り手/受け手関係の特異性を見た。今回はそれについてつらつらと記述しようと思う。

 

VOCALOID音楽はインターネットに根を下ろしながら成長を遂げてきた音楽である。従ってこれに対置すべきはインターネット以前の音楽だろう。そこでまずはインターネット以前の音楽の特徴について記述することで、結果的にVOCALOID音楽の特異性を炙り出していこうと思う。

 

インターネット以前の音楽における作り手/受け手の構造はインタラクティビティが決定的に欠如している。「作り手→受け手」の構図は存在したが、「受け手→作り手」の構図はそもそも成立しにくかった。

 

これはひとえに作り手と受け手が平等な状態で対峙できるステージが存在しなかったことが原因だ。作り手はいつ何時でも自分自身を音楽によって表現できた一方で、受け手はコールや拍手といった記号的応答、あるいはファンレターやプレゼントといったメタ階層の低い手段による意思表示しかできず、作り手/受け手の関係がフラットで相互的なものだったとは言い難い。

 

また、インタラクティビティが欠如することで作り手の素性はブラックボックス化される。作り手は自分自身を自由に表現できたため、そうしようとさえ企図すれば簡単に自らを秘匿できたのだ。こうなると、作り手への愛と知識欲が溜まりに溜まった受け手の感情は最終的には神性を帯びたイデア的作り手像を自らの内面に構築する。テレビにほとんど出演しないアーティストが受け手の想像力によって過剰なまでに祭り上げられていたのがその好例だ。

 

弥生時代に神事以外では決して外部と接触しなかった卑弥呼や城柵と監視カメラに囲まれ外敵を拒む皇居に住んでいる天皇などが信仰や尊敬を集めている例にからも分かるように、秘匿化された存在に何か深遠なるもの、神性を見出してしまうというのは今も昔も変わらない普遍的な現象なのだろう。

 

受け手が作り手に神性を見出す流れは、言うなれば受け手が作り手に対してフラットな関係であろうとする営為を放棄したということであり、これは「受け手→作り手」の構図の実現可能性をさらに低めていく要因となった。

 

このように、インターネット以前の音楽では、受け手は作り手に従属する形で存在している側面が強かったのである。

 

しかし、インターネットがユビキタスに広がっていくにつれ、この構図は揺らぎを見せはじめた。

 

殊にTwitter時代の到来は従来までの作り手/受け手の構造を根本から変えた。Twitterにおいてはどんなに著名な人間でもどんなに矮小な人間でも同じフィールドに立て、しかも相手の主張に対してほぼノータイムでレスポンスを返すことができる。これにより作り手と受け手の距離は従来に比べ大幅に縮まった。これにより両者間に一定のインタラクティビティが担保されるようになったのだ。

 

また、Twitterでは、瑣末な情報を表面化させる行為が許容されており(というかそもそもそういった些事の集積こそがTwitterの本質だと思うが)、例えば超がつくほどの有名人が「タンスの角に小指ぶつけた」などと呟いても誰もそれを咎めない。それどころか、「あぁ、この人も俺と同じ人間なのだな」という安心感さえもたらす。

 

そしてこのTwitterの特性は、先述した「作り手の神性」を完膚なきまでに破壊する。受け手の想像力が都合よく補完していた行間を本人の方が先に埋めてしまうのだから、そこに神性を見出すことが困難になるのは至極当然だ。

 

以上から、インターネット以前の作り手/受け手の関係はSNS(主にTwitter)の台頭によりほぼ完全に相互的なものへと変容した。(「ほぼ」と記述したのは、上記を見越して意図的にSNSを運用しない作り手がまだそれなりにいることを考慮したからである。)

 

VOCALOID音楽はまさにこの相互性の時代に生を受けた音楽である。大抵の作り手はTwitterを運用しており、受け手と活発にコミュニケーションを取っている者も多い。

 

『天ノ弱』で有名な164や『ネトゲ廃人シュプレヒコール』で有名なさつき が てんこもりなどは自分のことをフォローしてきた受け手をほぼフォローバックしている。また、『私は演者です』のヒッキーPは、メインアカウントとは別に、リスナーと交流するためのラックスアカウントを所有している。これらは作り手と受け手の関係を作り手側からフラットなものにしていこうという意思の表れとも取れるだろう。

 

VOCALOID音楽では、作り手/受け手が相互的に作用し合う関係の中にある。だからこそ、こうして互いの立ち位置について議論する余地も生まれてくる。「作り手かくあるべし」「受け手はもっとああしろ」といった議論が絶えないのは、まさに二者間に相互性が存在することを象徴するものなのだ。

 

 

 

 

 

以下はここ数日で巻き起こった作り手/受け手の関係性についての議論に対しての私見である。暇があれば読んで頂けると幸いだ。

 

二者間の関係が相互化している場合が圧倒的に多いVOCALOID音楽においては、作り手は従来以上に受け手の方を真摯に見据えなければ、衆目を集めることはきわめて難しいだろう。というのも、受け手が勝手に行間を埋めたり神性を見出して無条件に礼賛してくれたりする構図はTwitter時代の今となってはもはや成立しないからである。

 

従って、きちんと時流を読み、文脈を踏まえた者だけが「人気者」になれるのだ。それさえ怠り好きなことをやるだけで栄光が掴めると思い込むのはよっぽどのカリスマ性を備えた天才か、もしくは真性のバカだけだろう。

 

好き勝手やること自体はまた別ベクトルの価値を持つ営為だとは思うが、それで想定以下の反響しか得られなかった場合に受け手を非難するのは少々エゴが強すぎるのではと感じる。

 

とはいえ、これらは我々受け手にも通ずる部分がある。目の前に現前する好きなものだけで満足し、それ以上何もアクションを起こさないのは、常に新たな極地へと邁進し続けている作り手たちに対して大変不誠実である。曲を掘るなり宣伝するなり感性の幅を広げるなりできることはいくらでもあるはずだ。

 

どっちつかずな結びとなってしまったが、しかしこれは決して日和見ではない。どちらかが動くだけではシーン全体としては何も進展しないというのは純然たる事実である。だからこそ、どちらもが相手を真摯に見据えることが何よりも重要不可欠なのだ。我々の関係は今まさに"相互的"なのだから。

東京極貧紀行〜浅草・スカイツリー編〜

春先、私はふと旅に出たくなり、東京の格安スポットについて検索をかけた。

 

しかしヒットしたのは関東の暇そうな大学生の「格安で行ける東京の名スポット!」みたいなブログ。それを見た私は思わず血反吐を吐いた。

 

1000円以内で食べられる格安ランチ!」じゃねぇんだよボケ。はっ倒すぞ。小田急の準急で新百合ヶ丘まで拉致されろ。

 

インスタグラムに投稿できる!」じゃねぇんだよブス。ぶっ飛ばすぞ。中央線の通勤快速で三鷹まで拉致されろ。

 

こういう大学生の言う「安い名スポット」というのは往々にして「最低限ブランド化されている」ことが暗黙の了解として含意されており、従って「最安」ではない。「安く済ませたい!でもインスタには載せたい!」という強欲セルフィッシュな自意識がこのような中途半端なクソブログを生み出してしまうのだ。合計3000円もかかるくせに「格安」なんて銘打つんじゃねえよバーーーーーカ!!!死ね!!!

 

上述した現状を打破し、真の「最安」を提供すべく、私は自意識の壁を乗り越え、ただひたすらに安い場所、安い飯、安いルートを模索した。そう、これこそがホンモノの「"最安"スポット」である。刮目して見よ。

 

 

第1回『浅草・東京スカイツリー

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交通費:0円

食費:400円

合計:400円

 

えっ!?こんなオシャレな観光地にこの値段で!?と思う方は多いだろう。しかしある手段を使えば本当にたったの400円でこのランドマークを楽しみ尽くせるのだ。

 

まず用意するのは何と言ってもコレ。

 

 

 

 

 

 

 

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自     転     車     。

 

コレは以降のスポットでも頻用される必須アイテムなので是非とも手に入れておきたい。メルカリでだいたい数千円程度で買えるが、それでも高いと思ったらウインズ浅草前あたりの自転車放置区域からパクってくるのもアリだろう。

 

アチェン?んなもん要らねーよ関東平野舐めんな。

 

さて、この自転車でどうやって浅草やスカイツリーまで行くかというと…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

…漕ぐのである。

 

ただひたすらペダルを漕ぐのである。

 

特別なことなど何一つない。漕げ

 

疲れるからヤダ」じゃねぇ、漕げ

 

漕げばいつか着く。漕げ

 

23区内なら一番遠いところからでも距離はたったの20kmしかない。つまり自転車があれば遅くとも2時間程度で浅草やスカイツリーまで到着してしまうのだ。もちろん交通費はゼロ。そのうえ地球と健康にも優しい。いいことしかない。

 

だが20kmも自転車を漕げば当然腹は減る。しかし浅草は右も左も金銭感覚の狂った金持ち外国人観光客ばかりなので、彼らから少しでも多く利益を貪ろうとあらゆる飯屋のレートがはね上がっている。

 

600余円の白饅頭を安い安いと叩き売るのが果たしてグローバリズムの正しい在り方なのか。下町人情(笑)の閉鎖性がこういうところに垣間見えますよね。

 

しかしそんな非情なる観光客ビジネスの裏、頭のおかしい値段で良質な食物を提供してくれる牛串屋がギャンブル狂収容施設・ウインズ浅草の近くにあった。その名は『丸十精肉店』。

 

チェーンじゃねーか殺すぞボケと突っ込まれるかもしれないが、ここの串焼きを頬張りながら浅草の街をブラブラするのは正直かなり乙だし、無駄に高額な個人店で微妙な飯を食らうより5億倍はマシなので敢えて紹介させてもらう。

 

丸十精肉店といえば牛串だが、この旅で買うのは牛串ではない。牛串は600円もかかるのでいかんせんコスパが悪いのだ。

 

そこで代わりに買うのは鶏皮串(200円)×2である。鶏皮串200円って普通じゃね?などと思うなかれ。とにかくここの串はデカい。f:id:nikoniko390831:20180208071224j:image

2本も食べれば十分腹の足しになるだろう。こうして帰りの自転車も元気満々で漕げるというわけである。

 

腹も膨れたところでそろそろスカイツリーを見てみよう。しかしスカイツリーの綺麗な写真が撮りたいだけなら正直浅草寺からでもその全体がはっきりと見えるので、わざわざツリーの根元まで行く必要はないかもしれない。f:id:nikoniko390831:20180208180123j:image

そして仮に根元まで行くとしても、もちろん自転車を使う。東武伊勢崎線?都営浅草線?知りませんね。

 

隅田川を越えるといよいよ天を衝くスカイツリーの御姿が並ならぬダイナミズムを持って現前する。行ってみれば分かると思うがスカイツリーってメチャクチャデカいんですよね。さすが都庁からも池袋駅からも高尾山山頂からもその全貌を視認できるだけはある。とはいえあまり近づきすぎるとカメラに収まらなくなるので注意が必要。

 

また、どうでもいい豆知識だが、スカイツリー午前0時を回ると消灯される。綺麗な写真を撮るなら午前0時までだろう。消灯後は観光地チックな華々しさも完全に消失し、ただただ無機質な巨影が下町の深夜を不気味に支配する。巨大建造物フォビアの人にとっては卒倒不可避の気味の悪さだろう。

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さて、スカイツリーも十分堪能した頃だしそろそろ浅草に戻ろう。なぜならまだ浅草には面白スポットが残っているからだ。

 

辿り着いたのは東京メトロ銀座線浅草駅。は?ここまできて地下鉄で帰んのかよ殺すぞと思うかもしれないが落ち着いて欲しい。

 

ここで紹介するのは銀座線浅草駅の周辺にこじんまりと佇む場末スポット『浅草地下商店街』である。

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近代化された浅草駅改札からほど近い路地にこんな潰れかけのバラック商店街があること自体不思議だが、こういう実利性が全く欠如したわけのわからん機構が「だって浅草だから」の一言で許容されてしまうのが浅草の魅力といえよう。

 

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こういう日本語が怪しげな国際料理系の個人店が多いのも浅草クオリティ。ちなみにこの店は蕎麦を300円で提供してくれる。味の方は…うん、まぁ…

 

これで浅草・スカイツリー周辺の文化についてはほぼ知ることができたも同然。どうだ、本当に400円で済んでしまっただろう。

 

深夜帯なら無人仲見世通りを自転車で爆走しながら帰路につくこともできる。昼間はあれだけ胡散臭い観光客でごった返す通りがこれほどまでに静まり返るとは何とも不思議なものである。

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さぁ君も400円だけ持って今すぐ浅草に繰り出そう。こんな場所で何万も費やしている愚鈍な観光客どもを鼻で笑おう。貧乏人万歳

 

10選+αで語る2017年ボカロシーン

あけましておめでとうございます、現存在の皆さん。因果です。

 

2017年のボカロシーンも本当にいろいろなことがありましたので、10選の紹介を交えつつ2017年という潮流を断片的に振り返ってみたいと思います。例によってものすごい長いので部屋の隅で三角座りをする以外やることがない時などにお読みいただけると幸いです。

 

光合成/こじろー

私が思うに、2017年は更にv flowerが成長を遂げた年であったと思う。

v flowerといえばそのハキハキとした発音。彼女のヒットこそが「歌詞が聞き取りにくいのがボカロ」という見解が今となってはいかにアナクロニズム甚だしい誤謬であるかを端的に示していると言っても過言ではない。

ではなぜ彼女は最近になって突如流行り始めたのか?これを単なる偶然、巡り合わせと結論付けることも可能かもしれないが、私はここにある仮説を見出している。

それは、彼女のヒットこそがボカロ最盛期(11~13年)的画一性超克の象徴なのではないかというものだ。

最盛期に衆目を集めた楽曲に通底する音楽的特徴を述べるとだいたい以下のようになる。「高速BPM」、「サビ至上主義」、「難解(そうな)歌詞」。それが悪いことだとは一概には言えないが、この時期までのボカロ音楽は界隈全体が実体を持たないバブル的熱気のようなものに支配されており、誰も彼もがそれに陶酔しきっていた節がある。しかし14~15年になるとその熱、もとい幻想も徐々に冷め、寄る辺を失う不安からこの時期を「暗黒期」だの「衰退期」だの(本文では以降統一して「暗黒期」と形容する)と呼称する者も現れた。かくいう私もそろそろヤベーかもなとは思っていた。

かの哲学者リオタールは近世以降のもはや普遍性という支柱を持たなくなった思想潮流を「大きな物語の終焉」だと述べたが、まさに暗黒期のボカロシーンはこの流れを完璧なまでになぞっていたようだった。

しかしボカロ音楽はここで安易な消極的ニヒリズムに陥り続けることはなかった。多くの作り手受け手が「ボカロは死んだ」と嘆き界隈を立ち去る傍ら、それでも依然としてこの界隈に夢を抱き続ける変わり者たちが、また「大きな物語」なき時代だからこそ俺が一山当ててやろうと意気込み飛び込んできたニューフェイスたちが、焼け野原の上で自由に試行錯誤を繰り返していたのだ。そんな彼らの試行錯誤の末に見出された一つの可能性がまさにv flowerだろう。

先述したように、v flowerといえばそのハキハキとした聞き取りやすい発声であるが、これは実は最盛期においては軽視されがちであった音楽的要素をことさらに強調するものである。それは歌詞である。

あまりこういった主観性が強すぎる主張はしない方が良いのだろうけど、それでも敢えて言わせてもらおう。最盛期において主に人気を集めていた曲の歌詞は、正直ダサい。肥大化した自我に語彙が追い付いていない感じはまさに「中二病的」と形容できよう。具体例を挙げろと言われてもどれを挙げようか迷うレベルでほぼほぼダサい。酷い。『カゲロウデイズ』・・・?『人生リセットボタン』・・・?ウッ頭が・・・

今思えばなぜこんなダサい歌詞の曲がこんなに流行ったのかと思うが、当時の「熱気」や高速BPM曲の圧倒的人気やライブラリの発音の発展途上具合など多重的な要因が重なり、そもそも歌詞という要素に意識が向きにくかったのだろうと推測できる。しかしそういった土壌が全て崩壊した暗黒期に入ると、今までは潜在していた「ダサさ」が一気に表面化し、ボカロシーンは否応なしに「歌詞」という大きな壁に対峙しなければならなくなった

こうして歌詞に対する意識が変容しつつあった時期にちょうど発売されたのがv flowerというライブラリである。まさにシンクロニシティ。そして数年の吟味を経たのち、v flowerは見事ボカロシーンの第一線を走る人気ライブラリに化けた。それが2016年の出来事である。しかし2016年時点では、v flowerの主たるクリエイターがバルーンに限られていたこともあり、v flowerに魅力があるのか単にバルーンに需要があるのか判別がつかなかったが、2017年に入ると新旧問わず多くのクリエイターがv flowerを起用した曲で注目を集めた。『ローファイ・タイムズ/しーくん』や『超常現象/ろくろ』等がその好例だろう。こうしてv flowerは、一過性のミーム的な持ち上がりによって流行ったのではなく、最盛期から暗黒期へ移行した際に炙り出された「歌詞」の問題に対するソリューションとなり得るものとして流行るべくして流行ったライブラリであることが証明された。・・・と私は考えている。

この『光合成』もそんな時代性の中に生まれた一曲である。サウンドこそ最盛期においても散見された「ザ・軽音部」といった趣だが、やはり歌詞が最盛期のそれに比べ精緻に、かつセンス良く組み上げられている。「光合成」という自然現象に現実の人間関係をなぞらえさせながら、「水」「細胞」「呼吸」といった語彙でそれらを表現したトリッキーな一曲だ。『ユクエシレズ』だけではない、こじろーの"真価"、いや"進化"がこの曲にはある

 

②またねがあれば/risou

これも上記した「歌詞」に対する認識変化を如実に表す一曲である。正直サウンドやメロディの面に関して言えばこの曲はあまり好みではないのだが、それを差し引いても有り余る歌詞の洗練性に魅せられ、10選入りさせざるを得なくなった。

恋愛が主題化された曲というのは往々にして恋愛の綺麗な部分ばかりを取り上げがちだが、このような完璧主義は曲を我々の共感のはるか外へと放り投げてしまうことが多い。

その点この曲は生活感に満ち満ちている我々の感覚にやたら「近い」

 

"だらしない寝顔 片っ方を探す靴下

絶対言わない「ありがとう」 たまにくれる花の束"

 

この曲の中には「イデア化された「彼氏」という虚像」は存在せず、そこには優しいけどちょっとだらしない、何の変哲もない「普通の彼氏」がいる。そしてそんな彼にフラれたのも、決して「どこかの誰か」などではなく、「この曲の中のこの女性」。この実名性こそがリアリティーをさらに深みをもって演出し、我々が共感できる余地をさらに広めてくれる。「狭義化することでかえって共感の幅が広がる」という逆説に目を向け、それをうまく歌詞として表出させたrisouの手腕にただただ脱帽である。

え?お前が恋愛を語るなって?いや、勘弁してください・・・ホントに・・・許して・・・

 

③summer history/歩く人

クラブでかかったら踊っちゃうタイプのゴリゴリ系テクノポップ。ゴリゴリ系とは言ってもEDMのようなド派手な感じではなく、むしろゴリゴリな部分(動)とそれ以外の部分(静)を明確に分け、それを的確な位置に配置したような打算的で偏差値高めの一曲。テクノ文脈には全く詳しくないのでテキトーなことばかり言うと親族を皆殺しにされそうなのでここら辺にしておこうと思うが、それでも漠然と「最近っぽいサウンドだなぁ」と感じる。ポストEDM的というか。何にせよボカロテクノ界隈の今を語るうえで彼の存在を度外視することはできないだろう。

あんまり関係ないが歩く人の1stアルバムである『qinema』が委託販売中なのでまだ購入していない方はぜひ購入してみてはいかがか。もちろんこの曲も高音質で収録されている。早く購入して2017年ボカロ文脈全理解マンになろう。

 

④I Wanna Be Reborn/藍緑P

お洒落でキャッチ―なR&B。曲名の直訳は「生まれ変わりたい」。

サビで繰り返される「I Wanna Be Reborn」のフレーズがとにかく耳に残る。GUMIはこういった思春期の苦悩系ソングを淡々と歌い上げ、それでいてそこに一切の違和感をもたらさないから流石である。

また、R&Bというとお洒落な一方でどことなくアダルティな印象が強いが、そこはさすがニコニコ大百科の紹介文が「エレクトリックな曲を作る人物です」の一行しかない藍緑P、キラキラしたテクノポップと融和させることでそういった印象を抑えることに成功している。一口に「お洒落」といってもそこには数多の技巧が凝らされているのだ。そう考えると、ニコニコのタグはもう少し細分化させた方がいいんじゃないかとも思ったりする。

 

⑤春の化身/かしこ。

春の午後に聴きたいふわっとした一曲。女子高生のとある逡巡を綴ったロックナンバーである。

注目すべきはそのヨレッヨレな歌詞。

 

"春の化身 とある分身 今のあたし 瞬間ヒロイン

期末ないし あれもないし 思春期 生命体

春の化身 あなたが好き 「あたしの部屋にも来てほしい」

あのゲーム クリアしたいし レベル上げむずいの 超むずぃ"

 

「化身」「分身」「あたし」や「瞬間ヒロイン」「思春期生命体」で韻を踏んでラップ的な挙動を見せたかと思いきや「むずいの」でその流れを完全に破壊。抽象的な概念・言葉ばかりを弄んでいるかと思いきや突如飛び出る「あなたが好き」。「あたし」なのか「私」なのか定まらない一人称。ああもどかしい隔靴掻痒!

しかしよく考えてみてほしい。この、いい感じのところで意図的に「ずらす」歌詞、まさに多感な女子高生のメタファーなのではないだろうか。表向きは勝手気ままでテキトー、飽きたらすぐやめる。しかしそれでいて内心は「手を繋ぎたい」「もう無理ぃ」と大パニックに陥っていて、結局「あなた」のことしか考えられない、そんな存在。なんだお前、メッチャ愛おしいな。

これぞ萌えである。凡百の萌えソングを歌詞だけでボコボコにできそうな程度には破壊力を備えた2017年ボカロシーン屈指の萌え曲である。

浮ついた歌詞もさることながら初音ミクのリバーブがかった調教も春のまどろみを巧く演出している。

 

 ⑥夏が零れてゆく/かりく

①あたりで散々全盛期的な音作りにアイロニーをぶつけておいてこんなことを言うと憤慨されるだろうけど、やっぱりサビは大事だと思う。サビの強さは曲の強さである

クワガタPあたりを彷彿とさせるエモロックバラードにナブナ的レトリックを加味したいいとこ取りの良曲。しかし単なる二者の安易なハイブリッドに終始するのではなく、感傷的に唸るギターの残響に理性的な電子オルガンの音色が付随するようなバランスの良さや、個人的にはナブナよりさらに落ち着いているように感じる歌詞など細部で差別化を図っており、クリエイターの確かなプライドを感じざるを得ない。

 

"潮風通り過ぎる 君の背中

砂浜に映った その影は朧

波の音は静かに 夏を運び

水面を染める 落日の朱"

 

夏と夕暮れとノスタルジーはやっぱり相性が良いなと改めて思った。

 

現象学/shima

フッサールだと思った?残念!宮沢賢治でした!なポストロック。

歌詞のベースになっているのは宮沢賢治の詩集『春と修羅』。なるほど読後ならなんとなく歌詞が理解できる気がする。このような小説に明確なリスペクト元を持つ曲は『9'ON/PIROPARU』や『little traveler/ジミーサムP』を筆頭に今までも多くみられたが、それでもこういった先鋭的な解釈は珍しい。

宮沢賢治の作品といえばエモーショナルでどこか現実離れした世界主義的世界観であるが、彼自身の人生はといえば、これがかなり壮絶なもので、30代の頃、農作業の指導中に高熱で卒倒してからは苦しい病臥生活を送り続けることとなり、37歳でその短い生涯を閉じるというものであった。

以上を踏まえるとこの曲に対する認識も大きく変容を遂げる。サウンドを支配するベースの低音はまるで宮沢賢治の壮絶な人生をなぞらえるかのように重苦しく響き、一切のブレスも許さず淡々と紡ぎ出され続けるリリックは彼の人生の短さを寓意しているようではないか。エモーい!

著作権意識がインターネットにも広く普及し、リスペクトとパクリの境界線が曖昧なままで規制ばかりが強まりつつある21世紀という時代性の中、「これはリスペクトだ」と臆面もなく主張する作品を発表する行為は、相当の気概を要する一方で、確かな意義がある。

つげ義春リスペクトとかやってくれねぇかな誰か。

 

⑧キミの全てを見せてよ/Omoi

ここまでレビューを書いてきて思ったことが一つある。疲れた。私は元来聡明な人間ではないので長文を書くと脳がひどく疲弊してしまうのだ。これは耳に関しても言えることで、ハイブロウで偏差値高めの曲ばかりを聴いているとやはりどうしても耳が疲れてしまう。だからこそ、たまにはこういうパワフルで前向きな曲が聴きたくなるのだ。

私はここまでの文章で、また、去年あたりに書いた記事で、暗黒期以降のボカロシーンは「大きな物語」を失ったことでかえって進歩を見せたという旨の話を展開してきたが、しかしその「進歩」というのは、完全に全方向へと散逸したものではなく、ある程度方向性がまとまったものであったと私は考える。

 

端的に言って、ボカロは暗黒期以降「落ち着いた」方面へと向かっている。それは音に関しても歌詞に関しても言える。最盛期がワイワイガヤガヤ系ばかりだった反動もあってか、最近では俗に「チルい」などと形容されるような「冷めた」感じの曲が増えたのだ。具体的なクリエイター名を挙げるなら有機酸、歩く人、ぬゆりあたりだろうか。決してこの傾向が好ましくないと言っているわけではないが、投稿されるボカロ曲の表出的な意味での温度が低下したのは事実である。私はなんだかシーン全体が大人になってしまったかような錯覚を感じた。半ば自分らで「大きな物語」手放しておいて、いざそれが失われると寂しくなってしまうとは何とも勝手なことである。しかし今の雰囲気が嫌いなわけでは決してないし・・・うーん困った。

しかしOmoiはこの絶望的なアンビバレンスを快刀乱麻を断つかのごとくものの見事に解決してくれた。言うなれば彼/彼女は「最盛期の音を2017年の文脈で鳴らすクリエイター」なのだ。

聴けば分かると思うが、この曲といえば、というかOmoiの曲といえば、その圧倒的な「音圧」である。そしてこの音圧を可能にしているのがシンセサイザーである。こういった感じのシンセの鳴り方は最盛期のポップアイコンことkemuを彷彿とさせる。シンセサイザーは最盛期の象徴的なアイテムであると言っても過言ではないかもしれない。

しかしOmoiはkemuとは決定的に異質なものなのである。そう、Omoiは2017年の文脈を把握しているのだ。

先ほど「暗黒期以降のボカロシーンは落ち着いた」と述べたが、Omoiはここに目を向けた。周囲が落ち着いた曲ばかりだということを知っていたからこそ、「たまには騒がしい曲も聴きたい」というニッチな需要をうまく突くことができたのだろう。彼/彼女は2017年がどのような年なのかをはっきり知ったうえで、確たる自信を持って楽曲を発表していたのだ。なんと打算的なことか。そしてこの目論見は見事的中し、『テオ』は今ではミリオン間近の大人気曲である。

そんな彼/彼女の曲の中でもとりわけパワーに溢れているのがこの『キミの全てを見せてよ』である。サウンドはもちろんのこと、歌詞もすこぶるエネルギッシュで、特にサビの「キミの全てを見せてよ!」のリフレインは嫌なことの蓄積ですっかりすり減ってしまった精神を下から突き上げるように鼓舞してくれる。

こういう歌詞は人間のアーティストだとWANIMAあたりが歌うのだろうと推察できるが、人間である彼らに「キミの全てを見せてよ!」なんて迫られたらとてもじゃないが暑苦しい。疲労がさらに増すだけである。こういうのはボカロに歌わせるからこそすんなりと受け入れられるのだろう。この考え方は後述する「イノセンス」の概念にも通じる部分があるので心の片隅にでも留めておいていただけると幸いである。

 

⑨耳なりはフェンダーローズ/MSSサウンドシステム

最盛期という幻想の終焉がもたらしたのは何も作り手受け手の内省だけではない。忌々しい普遍性が瓦解したおかげで今まであまり動きがなかったジャンルが大きく躍動し始めた。その一例がヒップホップだろう。

暗黒期以降は松傘、mayrock、でんの子P、空海月あたりを筆頭に、様々な技巧が凝らされたユニークなヒップホップナンバーが数多投稿された。また、音楽のダウンロード販売サイトである「Bandcamp」ではヒップホップをテーマにしたアルバム「MIKUHOP LP」シリーズがstripelessより発売され、大いに注目を浴びた。

ヒップホップの醍醐味は「編集」にある。例えば、日本語ラップの金字塔『証言/LAMP EYE』のトラックは1964年のシドニー・ルメット監督作品『恐怖との遭遇』のサントラ盤に収録されていた『Who Needs Forever』をMIXしたものである。

そしてさらにそれを初音ミクで試行したのが2015年の『初音ミクの証言/松傘ほか』である。

このように、ヒップホップでは、他の音楽ジャンル以上に「既知から未知を導出する運動」、つまり「編集」が行われている。あらゆる種類の音楽が横溢し、もはやこの世界には真の意味での新規性などは存在しないとさえ言われる現代だが、ヒップホップはこの「新規性のなさ」という限界をむしろ肯定的に捉え、それならば、わざわざ全く新しいものを作ろうとなどせずに既にあるものを巧くくっつけたり磨いたりして結果的に新しいものを生み出せばいいのではないかと考えたのだ。なんて前向きなジャンルなんだ・・・

さて、この『耳なりはフェンダーローズ』もまた「編集」がうまく活かされた名曲である。これについては鈴木O氏が自身のブログで私の言いたいことを全部代弁してくださったので正直私の出る幕はないような気もする。以下引用。

 あまりに名曲です。元ネタはファラオ・サンダースの You've Got To Have Freedom。大ネタでかつまんま使い。曲中のいくつかの部分をサンプリングして繋ぎ合わせていますが、手の込んだ編集は行われていません。初音ミクの歌うメロディに関してもサンプリング元のフレーズをほぼそのまま使ったようなものです。これは安易さから来るものとも取れますが、それ以上に勇気のいる選択です。オリジナリティや作家性といったものへの拘泥はしばしば過剰な自己主張を生み、作品の心地よさ捻じ曲げてしまいます。大好きな曲をサンプリングして作った上出来なトラックに「個性的な」メロディを乗せようとして台無しにしてしまう……これはわたしにも経験があることです。しかしMSSサウンドシステムはそうはしませんでした。あくまで素直にメロディをのせたのです。作家が自らのエゴを適切に管理し作品へ奉仕することが、この作品のよさに貢献しています。ではこの作品にサウンド面での作家の自己主張はないのかというともちろんそんなことはなく、むしろ特大で鳴り響いています。すばらしいドラムの音が。

https://note.mu/suzuki0/n/n3c3ee2f43fad

 このように、『耳なりはフェンダーローズ』においては、「編集」がもはや「要素」ではなく「全体」にまで拡大化している。つまり曲のほとんどの部分が既存曲のサンプリングなのだ。引用部分でも触れられているが、まさにこの「自我の薄さ」もまた後述する「イノセンス」の概念にちょうど合致する。「イノセンス」は2017年中頃にTwitterを中心に広がっていった概念だが、これももしかするとヒップホップの精神性が下地になっているのかもしれない。

 

⑩アイドル/puhyuneco

イノセンスイノセンス言われても何のことだか分かんねーよバカという方が多いだろうからキュウ氏のブログを引用しておこうと思う。これを読んでおけばなんとなく「イノセンス」の何たるかが把捉できるのではないだろうか。

ではまず、イノセンスの言葉の意味からアプローチしていきたいと思います。
イノセンスは日本語では無垢、無邪気などと訳されます。
このことから簡単に解釈すると、例えばモテたいとか、人気者になりたいなどといった世俗的な欲望を排したことを指していると考えられます。
そうすることによって本当に伝えたい感情をフォーカスした音楽が「イノセンスがある」と呼ばれていると言えるでしょう。

 

(中略)

 

元々、無垢を表現するための手法として、心の無いものに頼る手法が存在しました。
そして方法論として、当事者では無い声(特に子供の声)を用いる、あるいは声を加工する、などが存在していました。
それから技術は発達し、そこに新たな心のないものである機械を用いる手法が台頭してきます。
ところが機械による声が存在しなかったため、機械によるイノセンスのある歌ものを表現することが出来ませんでした。
それを可能にする最後のピースであり、しかも当事者では無い声として用いることが出来る、それがボーカロイドであると言えるでしょう。

https://note.mu/rooftopstar/n/nbf5d12b2bdd6

つまり「イノセンス」とは作り手の感情が完全に純化(=無垢化)されたボーカロイド音楽のことを指すのである。とはいえ、「イノセンス」自体がかなり扱いにくいバズワードであるため、「である」と言い切ることはできないかもしれないが。

しかしここで疑問が一つ。それは、ボーカロイド自体は2007年から存在していたのになぜ「イノセンス」の概念が提唱されるようになったのは2017年に入ってからなのかというものである。

ここからは勝手な持論だが、私はこの「イノセンス」の概念が誕生したことにも①で述べたような最盛期的「大きな物語」の喪失が密接に関わっているのではないかと考えている。

再三同じことを言っている気がするが、最盛期の「大きな物語」の熱気はボカロシーンに潜む諸問題を曖昧化させていた。これについて、①では歌詞の例を挙げたが、問題はそれ以外にもある。その中で「イノセンス」へと直接結びつくのが「敢えてボカロに歌わせることの意味」という問題である。

最盛期までのボーカロイド文脈では、ボカロという技術の目新しさゆえ「ボカロであること」自体が新規性を帯びたものであり、従ってわざわざ「ボカロに歌わせる意味」など考えなくても、曲を発表さえすればそれは必然性を伴って「新しいもの」であったのだ。しかしこの実体なき熱気が終焉を迎え、ボカロが「世の中に存在する音楽のうちの一つのカテゴリ」へと収斂した時、つまり、ボカロがボカロであるがゆえの特別性を喪失した時、ボカロ音楽は遂に己のアイデンティティを獲得できなければ他の無数に存在する音楽の中に埋没してしまうという窮地的局面へと突き当たってしまったのである。そしてここで改めて「敢えてボカロに歌わせることの意味」というビッグイシューが浮かび上がってきたのだ。

これについては多くの人間が頭を抱えた。ある者は前衛音楽に傾倒し、ある者はブログを書き、またある者は界隈から去った。まさに過渡期だったと思う。

しかし苦節約数年を経、2017年、遂にある一つのアンサーが誕生した。それが「イノセンス」だ。

イノセンス」には絶対に人間が介入できない。なぜなら人間は人間でしかないからてまある。いくら人間の声のピッチを機材で弄っても、それは「人間を引き延ばしたもの」に過ぎない。従ってそこに「イノセンスっぽさ」はあったとしても、それはどこまでも疑似的なものなのだ。ボカロだからこそ純粋な「イノセンス」たり得るのである。イノセンス」はまさにボカロシーンが苦悩の果てに遂にたどり着いた一つの境地だと言えよう。これを喜ばずして何に喜ぼうか。

『アイドル』はそんな「イノセンス」の発端となった、いわば全ての起点である。

前衛とポップの狭間をふらふらと揺れ動くようなサウンド、感情の見えない無機質な絵、そして他の追随を許さぬ圧倒的なまでに抒情的な歌詞。どこを取っても圧巻の一言である。

 

"動物と人間のあいだで きみが好きって そんな青春

コンクリートに埋まるさよなら

ふり返ったら咲いてたらいいな って

 

初恋でとなり同士、一言もしゃべらないまま

夏休み、部活帰りに きみとばったり 夕立のなか

 

夕立のなか。

 

偶然アイドル 偶然にアイドル"

 

曲単体としても、界隈に与えた影響の大きさとしても、間違いなく2017年で随一の最高傑作であると言えよう。是非聴いていただきたい。

 

⑪翼のない天使/平田義久

なぜ11曲目?と思うかもしれないがまぁ落ち着いて欲しい。

私は愚かなので12月下旬には既に「2017年10選」をTwitteで公開してしまっていた。さすがにあと数日で私の心を射抜くような曲が出てくることはないだろうと。しかしこれはあまりに軽率愚盲な行動であった。まさか12月のしかも27日にこんなヤバいものが投稿されるとは夢にも思わなかった。来年からは年が明けてから10選を公開するようにしたい。

この曲で注目すべきはやはり初音ミクの調声である。はきはきしており抑揚のついた有機的な響きはどこかにおPを彷彿とさせる。日の照る海辺の輪郭線のない情景を克明に表現したエモーショナルな歌詞は我々を夏へと誘う。レゲエはダサいというパラダイムを覆すほどの熱量を持った年末の快作である。

やっぱ冬より夏の方が好きかもしれない。夏には逆のこと言ってると思うけど。

 

まとめ

2017年は初音ミク10周年ということもあり、多くの人々がボカロシーンに横たわる諸問題について「反省」した年であったように感じた。また、kemu、ハチ、wowakaといった最盛期の大物Pが次々に復活し「王の帰還」だのと散々持て囃されたのも記憶に新しい。これについては私の過去の記事でちょいちょい触れてきたので気になった方は読んで頂けると幸いである。

 

 

 

記事を書いていて改めて思ったが、やはりボカロはどこまで追っても面白い。2018年もどんな出来事が巻き起こるのか相変わらず目が離せない。私もボカロについてのブログを執筆することで少しでも界隈に寄与出来たら嬉しいと思うばかりである。

 

それでは皆さん、今年度も良きボカロライフを。

2017年終わっちゃうの悲しいブログ

ビルの隙間から都会的な無機質さを帯びた冷風が吹きすさび、アウター1枚ではどうも心細い今日この頃。気づけば2017年も数えるところあと2週間だという。

 

長野という辺境の地を飛び出し辿り着いたこの東京。引っ越し当初の浮き足立つような気持ちもやや収まり、山手線を全て順番に言える程度には都心の生活が自己の一部と化してきている。えー?コンビニが半径100m以内に一軒もない生活ぅ〜?ヤダ考えられない〜!

 

このように生活拠点がガラリと変化したこともあってか、今年度は例年以上に印象的な年であった。

 

とにかく今年は色んなものごとに積極的にアプローチした。

 

まず学問。私は高校時代は自分のことを天才だと思っていたので、従って自分の口から紡がれる言葉すべてには妥当性正当性が必然的に付随していると思い込んでいた。小論模試に赤字で書かれた「独りよがりな文章です」という指摘にさえ「こいつバカかよ」とおこがましくも噛みついていた。

 

この誤謬は大学で数多くの学友、先輩、先生に出会うことによって完全に打破された。ゼミで、飲み会で、ファミレスで、徹底的に「それ違うよね?」と糾されることで次第に自身の浅薄さに自覚的になったのだ。私は凡才であった。「出会いが人を成長させる」などという意識高い系御用達の陳腐な金言に賛同するわけではないが、やはり他者との関わりなしでは我々に進歩はねぇだろうなと思った。

 

特に、今仲良くしてる哲学科の友人2人には特段感謝している。初詣行こうな。

 

次に趣味。これが本当にデカイ。東京に進出したことによる恩恵は多々あるが、その中でもやはり「様々なイベントに交通費をかけることなく参加できる」というのが挙げられる。

 

私は春先に友人たちとニコニコ超会議に初参加した。列に並んで早口で喋るオタクが本当に気持ちが悪くて私は直ちに帰宅したかったが、ボカロDJブースなるものがあると聞いたので、なんとなく行ってみた。これが存外面白く、気づけば5時間近くサイリウムを振りたくっていた。私がボカロイベントに開花した瞬間である。

 

9月にはマジカルミライにも初参戦した。私は「ハジメテノオト」を初音ミク10周年への想いを馳せながら涙まみれで熱唱し、初音ミクへの恋慕を更に深めた。

 

ここまでくればもう戻れない。私は11月初頭にボカロクラブイベントであるボカクロに単身突入した。そこで私はボカロリスナー・クラバー界隈の人々と知り合いになり、以降クラブやTwitterでお世話になるようになった。

 

これ以前、VOCALOIDは「私一人」で完結する完全閉鎖的な趣味であった。しかし、ボカクラで色々なリスナーと知り合うことを通じ、インタラクティブに持論を展開し合うことができるようになり、今まで以上に色々なタイプのボカロ音楽にも触れるようになった。

 

このように2017年という年は私にとって「飛び込む」一年であったと言えよう。様々なコンテンツに、ある意味命がけで飛び込んでいくことで、上から静かに俯瞰しているだけでは分からなかった「熱」を感じることができたと思う。哲学科らしく言えばまさに実存主義的な一年だった。え?違う?

 

こんなブログを書いている間にもう5限が始まってしまう。単位を落とすと長野のおっかさんが悲嘆に暮れるのでシャキッとしていきたいです。終わり。

VOCALOIDリスナーが本気でオススメするアルバムベスト25

一口にボカロ趣味とはいっても、そこには様々な形態の沼がある。マジカルミライ等の公式ライブイベント沼、Project DIVA沼、エロ同人沼、クラブイベント沼、初音ミク存在論沼など挙げれば枚挙に暇がない。「そんな沼知らん」って?うん俺も。

 

そんな中で割と深い(と私が勝手に思っている)沼が「アルバム収集沼」である。私は一昨年あたりにうっかりこの沼に落ちたのだが、もがけばもがくほど足は底なしの泥の中へと引きずり込まれ、遂に所持アルバムは500枚を数えた。総額に関しては・・・聞くな。

 

しかしアルバム収集に関しては以下のような意見も多い。「え?ボカロなんてニコニコで無料で聴けるじゃん」と。いやはやごもっともである。だがしかし敬虔な、いや、狂信的なボカロ教徒の皆様なら理解してくださると思うが、ニコニコの音質にはどうしても限界があるのだ。せっかくの良曲も、高音域で音が割れてしまったり、ベースの音が均一化してしまったりしていてはその魅力をフルに楽しむことはできない。

 

そこで我々はアルバムに手をかけるわけである。アルバムを買えば、高音質で曲が聴けるうえ、アルバム限定収録曲が楽しめることもある。さらにクリエイター側に収益金が入ることがボカロPへのインセンティブにもなる。まさにいいことづくめ。みんなアルバムを買ってエウダイモニアに至ろう。

 

さらに「アルバム」という媒体は時に曲単体を聴くだけでは知覚しえない価値をも創出することがある。『ウミユリ海底譚』等で有名なナブナは、2ndアルバムである『花と水飴、最終列車。』について、「商業用として販促しなければいけない以上、(ニコニコでの)再生数が多い曲をどうしても入れざるを得なかった」として、このアルバムの不完全性を示唆した。その反省を活かしたという3rdアルバム『月を歩いている』では、商業主義やポピュリズムといった不純物が完全に排されており、全体として統一感のある珠玉の一枚に仕上がっていた。個々の曲を聴くだけでは感じられないこの「統一感」こそがまさにアルバムという媒体のみが持ちうる独立した価値なのではないかと私は考える。アルバムは単に曲を詰め込んだだけの媒体ではない。そこには必ずクリエイターの魂が宿る。それを楽しむこともアルバム収集の醍醐味の一つなのである。

 

前置きが長くなってしまったが、つまりアルバム収集はドチャクソ楽しいし価値があるということである。

 

そこで今回は私が自信を持ってオススメするボカロアルバムをランキング形式で紹介しようと思う。それぞれに聴いてみての雑感なども付記するので、購入するアルバム選びの参考にしていただければ幸いである。読みやすさ重視で書いたのであんまり身構えなくて大丈夫だ。・・・と思う。

 

それでは早速25位から~~~カウント~~~、ダウン!!

 

25位『UFHs -luxury-』

「rain stops, good-bye」で大ヒットを飛ばしたにおPの1stアルバム。実を言えばこのアルバムは前半部がボカロ歌唱版で後半部が歌い手歌唱版なので厳密に言えば純粋なボカロアルバムではないのだが、それでもボカロアルバムとしてだけ見ても非常に完成度が高いためランクインさせた。

このアルバム全体に通底するのは「優しさ」「温かさ」。よくボカロには「感情が籠ってない」といった具合に合成音声技術の拙さに対しての揶揄が飛ばされる。しかし彼はそういった意見を真摯に受け止め、ではどうすれば感情を生み出すことができるのかを、技術面からはもちろんのこと、歌詞やメロディーラインの面からも研究を重ね、見事このディスアドバンテージを乗り越えた。掠れ掠れに絞り出すビブラート、実に人間らしい機微を持った歌詞、角のない柔和なメロディ。これは本当にボカロなのか?と驚嘆せざるを得ないほど「優しく」、そして「温かい」一枚。筆者オススメの一曲は「ナトリウム」。ラブソングというのは往々にして恋愛の綺麗な部分ばかりを取り上げてしまいがちだが、この曲はそういった部分以外にもきちんと目を向けている。だからこそ、この曲はどんな凡百のラブソングより我々の感覚に「近い」のだ。

 

24位『meteor』

「メテオ」で一躍名を馳せたJOHNの1stアルバム。オススメしておいてこんなことを言うのは非常に心苦しいのだが、このアルバム、そもそも流通している枚数が少ないうえに頒布が終了しており現在入手困難となっている。悲しい。中古で見かけたら即座に購入しましょう。

私はバズワードは極力使用したくない主義なのだが、それでも言わせてもらおう。このアルバムは大変「エモい」。エモいの定義がそもそも曖昧なので雰囲気が把捉できないだろうから補足しておこう。このアルバムを聴くと、幼少時に見上げた西の夕焼けとか6時の一番星とか真夜中の流星群とかが頭の中を逡巡する。彼の音楽はもう戻れないあの日あの頃を夢想している。しかしそこに厭味ったらしいニヒリズムはなく、ただひたすらに純粋で美しいノスタルジーへの羨望だけがある。オススメは「スローイン´ドッグシューズ」。この曲こそがこのアルバムを購入しようと決意した理由と言っても過言ではない。「戻らない時間のシーソー 流れる雲の動きに 並んで靴を投げてみたら ふたりは風になれた」なんてエモーショナル大爆発なリリックがどうやったら書けるのか小一時間問い詰めたいくらいである。

 

23位『to-kyo』

筑波大卒&図書館司書&プロの作曲家というドチャクソイケメンな肩書きを持つエハミックことehamikuの1stアルバム。耳が肥えた音楽ファンならきっと分かると思うが、彼の曲はどれも生楽器によって演奏されている。しかもそのサウンドは彼の豊穣な音楽知識・経験に裏打ちされており、素人耳に聴いても唸るほどである。だがそんなハイブロウなサウンドとは対照的に、彼のボカロ調教はかなり素朴で無機質だ。しかしこの倒錯した対照性こそが我々を未知の音楽体験へと誘う。一度聴いてしまえばもう戻れない、そんな魔性を秘めているのが彼の音楽であり、そこまで計算したうえで音楽を作っているのがehamikuというボカロPなのだ。オススメは「スターライト・トールボーイ」。統一と散逸の狭間をユラユラと揺れ動くような危うい歌詞の合間を鏡音リン・レンのぶっきらぼうな調教が突き抜けていくエネルギッシュな一曲だ。

 

22位『MIKUHOP EP』

ボカロPの中でも屈指のキワモノが集ったサウンドメイカー集団「Stripeless」によるコンピEP。「BandCamp」というサイトで実質無料(もちろん合法)でダウンロードできるので今すぐに聴いてくれ。貢ぐのはそれからでも遅くないぞ!ボカロにヒップホップを歌わせることの難しさはリスナーである我々にとってはなかなか想像がつかないが、その辺については音楽だいすきクラブ氏が以下のブログで超丁寧&超簡潔に説明してくださっている。

V.A.『MIKUHOP LP』 - 音楽だいすきクラブ

初音ミク、いやボーカロイドは唄を歌うとき、楽譜上の一音に対して言葉を載せるクセがある。そんな制作エディット上で避けられない事実と、上述した発音上の問題が絡んだ日本語ラップの避けられない問題が絡むことで、奇怪なキメラの姿が見えてくる。機械的な発音で流麗なメロディを唄うことも難しい彼女らのたどたどしさが、より鮮明になって立ち現れてくるのだ。

このように、ボカロのヒップホップ(ミックホップ)はそもそも前提として要求される技術力がすこぶる高いため、ROCKやテクノのようにはボカロP間に浸透しにくい。しかしこれは裏を返せばつまり、ミックポップを主として作曲活動をしているボカロPは皆かなり技術力が高いということである。実際、ミックポップ界の重鎮こと松傘は、『ele-king』のインタビュー記事において「ボカロの発音面をクリアすべくライブラリはEnglishを使用している」と答えており、これはボカロの発音の難点と良点をしっかり把握していることの証左に他ならないだろう。

そんなキワモノだけどツワモノな皆さんが一堂に会したのがこのEP。前述した松傘をはじめ、空海月、緊急ゆるポートなど名だたるミックホッパーが名を連ねる。オススメはMSSサウンドシステムの「耳なりはフェンダーローズ」。「仕事が早く終わったら 一緒に飲もうよ今日は金曜日」なんてフレーズ、無職学生で未成年な私でも痺れてしまう。

 

21位『Birthday』

VOCAR&B界を最初期から支えてきた古参である鮭Pの1stアルバム。「OVER」等で知っている人も多いのではないだろうか。彼の音楽と言えばまず何をおいてもその美しいベースラインである。彼はもともとあまり音を重ねない作曲スタイルなので楽器一つ一つの音が綺麗に響く。そこに初音ミクの悲しげな歌唱が印象的に相乗し、質素だが強く心に残る鮭P空間が形成される。「ボカロの声は悪目立ちしがち」という難点を逆手に取ったテクニックだ。オススメは何と言っても「End of Rain」。失恋の悲しみを雨になぞらえ、雨がいつまでもやまないことを憂うセンチメンタルな一曲。

 

20位『フラッシュバックサウンド』f:id:nikoniko390831:20171115021636j:plain

ボカロックの大御所クワガタPの1stアルバム。全編にわたってエモーショナルな曲が詰め込まれており、特に表題曲である「フラッシュバックサウンド」は、氏の過去曲がフラッシュバックする歌詞構成となっている。まさに「emotional」を軸に緻密に作られたコンセプトアルバムと言ってよい。他にも代表曲である「君の体温」、「パズル」等も収録されており、コンセプトアルバムであると同時にベストアルバムとしても満足できる秀逸な作品に仕上がっている。筆者オススメは「感覚」。ツンデレって本来こういうのを指すんじゃないかって思うんですよね。

 

19位『Miracle Child』

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多様性を謳いながらもやはりギーク的な音楽ばかりが市民権を得ていた初~中期ボカロシーンに、当時なら「ドキュソ音楽逝ってヨシ!」と非難轟々であったろうレゲエやR&Bを、その圧倒的音楽センスによって見事輸入したtakamattの1stアルバム。全体的にアダルティな雰囲気で、所謂「ボカロっぽい」音楽に少し飽きてしまったという方にオススメ。takamattの音楽の真髄は、お洒落だったり上品だったり綺麗だったりする言葉と言葉の間にチラリと人間臭さが垣間見えることにあると思う。筆者オススメは「Etude No.3」だ。GUMIに対する一般的なイメージとして「子供と大人の狭間的存在」というのが挙げられると思うのだが、そこらへんが歌詞に上手く反映されている。「木枯らしだけが まるで共通言語」なんて浮ついたー言ってしまえば「背伸びした」ー歌詞は彼女にしかこなせないと思う。

 

18位『Stance on Wave』

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音ゲー界隈の重鎮ことかめりあのベストアルバム。こういう、歌詞の解釈等の「音楽そのものの外にある価値についての考察」が一切必要とされない、ただひたすらに耳に快感をもたらすものとしての麻薬のような音楽を作れるのは本当にすごいと思う。こればかりはかめりあのサウンドメイキングのセンスに脱帽である。彼の音楽の中では、VOCALOIDの無機質な声もまた快感要素のひとつであり、完全に楽器として機能している。「音」を「楽しむ」ものこそが「音楽」であるという原初的な態度に立ち返るきっかけとしてこれ以上素晴らしいアルバムはないかもしれない。筆者オススメは「鈍色トリガー」。何という重厚なベースライン。何という音圧。「耳が幸せ」という感想はこういう音楽のためにあるのかもしれない。

 

17位『FUNCOOL』

 chet brockerが実質無料で公開している1stベストアルバム。こんなものがタダで聴けるのヤバすぎでしょ。私が音楽理論や音楽的タームといったものに全く詳しくないため、彼が具体的にどういう音楽を作っているのかを説明することはできない。ただ、率直な印象を言わせてもらうと、「乾いている」。彼の音楽の最大の魅力はその乾ききったアナーキーな世界観にあるのだ。例えるなら、乾ききった荒野の真ん中でただただ無意味だと分かっていながらそれでも叫び続けているような。「悲しい」とか「苦しい」といったワードを羅列するよりもよっぽど虚無を感じる。私のオススメは「walk around」。散歩に出たくなったり出たくなくなったりする。

 

16位『DQN Style2』

http://vocadb.net/Album/CoverPicture/9589?v=10

 コンピレーションアルバムというのは往々にしてある同一テーマのもとでそれに沿った曲が収録されるものだ。つまり、コンピの趣向が自分の趣向と合致したならば、アルバム全体として好感が持てるようになることが多い。このコンピは読んで字の如く、レゲエやEDMやラップといった、所謂「DQN」な音楽が集結した珠玉のアルバムである。単なるオタク的営為の集積と見なされがちなVOCALOIDであるが、これは真っ向からそういう一般的認識に立ち向かった勇気ある一枚である。指向性としては先述した『Miracle Child』に近いものがあるかもしれない。現にこのコンピにもtakamattが参加している。かごめPやDixie Flatlineといったブラックミュージック系の大御所をはじめ、パトリチェフや青屋夏生等の比較的新進気鋭の若手勢力も参加している。オススメは何といってもkonkonの「青」。中高生の適度に歪んだ日常の叙述。

 

15位『ZANEEDS #3』

 パイパンPなどというボカロ界でも屈指に不名誉な二つ名を持つテクノ界隈の重鎮ことざにおの3rdアルバム。彼の作るサウンドはまさにプロの犯行と呼ぶにふさわしい。耳に馴染む心地よいラウンジ系の曲を得意とし、本アルバムも彼の特性が遺憾なく発揮されている。しかしサウンドが上品で清潔感に溢れている一方で歌詞は最低最悪である。そもそも、「ペヤングだばぁ」だの「ちんげ in the まんげ」だのといった具合に低俗極まりない曲名の動画を開いてよもやオシャレなラウンジミュージックが流れ出すとは誰が想像しようか。歌詞も「ペヤングだばぁ・・・流しにだばぁ」だの「ちんげまんげ一本抜いてパイパンいぇいいぇいホワホワ~」だのもう本当に「酷い」以外の言葉が出てこない。しかしこの、あるベクトルでは限りなく善い方向に向かおうとする一方で別のベクトルでは限りなく悪い方向に向かおうとするこの倒錯感がクセになるのもまた事実。このアルバムもそんな「ざにお節」が大炸裂している。特に聴いて欲しいのは「Hello_World」。『ZANEEDS#2』までで暴れまくった反省を活かしたかと思いきや慎ましくなったのは曲名だけである。

 

14位『Re:Start』

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 初音ミク10周年を記念して製作された「ドキッ!有名Pだらけの大コンピ(過去曲もあるよ!)」的アルバム。新旧の有名Pがここまで一堂に会する機会というのはそうそうないのではないだろうか。一応、10歳を迎える初音ミクに対する「おめでとう」アルバムではあるのだが、この「おめでとう」の形はPによって本当に様々で、素直に謝辞を述べる者から皮肉交じりに愛をちらつかせる者まで十人十色という印象。初音ミクを、ひいてはボーカロイドを長い間聴いてきた者にとってはどの曲も感涙に値するエモーショナルさを持っているだろう。まさに記念碑。そんな百戦錬磨の大物P渾身の曲たちがひしめく中でもひときわ異彩を放つのがwowakaの「アンノウン・マザーグース」。「ボカロっぽい」という形容を体系化した戦犯として揶揄さえされた彼の、この鮮やかな反逆を見よ。これほど感情が爆発したサビが未だかつてあっただろうか。この衝撃を味わえるだけでもこのアルバムを購入する価値は十分にあると断言しよう。

 

13位『バフォメット』

トリッキーなサウンドメイキングに定評のあるなんとかPことKiichiの1stアルバム。このアルバムの印象を簡潔に言い表すなら「漠然とした不安」。彼の作る音には何かえもいわれぬ靄がかかっており、その内実を知ることは容易ではない。それはまるで「初音ミク」という存在の不安定さを示唆しているようで、8曲目の「プラスチック・ガール」なんかはそれを如実に表している。「私はドコにいるの?私はソコにいるの?」と無機質な合成音で淡々と歌う彼女に何か声をかけてあげたい、でもそれは決してできない。そんなもどかしさを執拗なまでに描き切ろうという試行の結果がまさにこのアルバムなのではないか、私はそう考える。殊に初音ミク存在論を履修したいと思っている者にとってこのアルバムは不可避なマイルストーンの一つだろう。オススメは「[I Love You]。現実からフワーッと遊離しながらも地に落ちていくような、そんな一曲。

 

12位『D.A.technology』

 

R&BやJazzといったお洒落路線からワルツ、チップチューン、果ては二胡を使用した民族調バラードまで幅広くこなすDATEKEN氏の1stアルバム。このアルバムはコンセプトが完全に散逸しきっており、むしろ「散逸しきっている」という点においてコンセプトが統一されている。つまり、一枚の中に全く違った精神性を持った音楽が混在しており、人種の坩堝ならぬ「曲種の坩堝」なのである。氏の多彩さが前面に押し出されたエネルギッシュな一枚だ。「紡唄」や「trick art!」といった氏の代表曲も聴きごたえがあるのだが、その中でも私が一番注目したのは最終トラックの「君が生まれた日」。この曲単体だけで聴けば単なる何の変哲もないアコギバラードに思えるかもしれないが、雑多な音楽がカオスに混じり合うこのアルバムにおいては、この単純で実直なナンバーはかえってその純潔さを増し、聴く者に強烈な存在感を与える。ちょうど様々な色で彩られたキャンパスに白いペンキをぶち撒けた時のように。これを最後に持ってきた氏のセンスには素直に脱帽せざるを得ない。

 

11位『アヒルホスピタル』

入手の困難さにかけてはこのランキング随一であろう「捻れたアヒル」のコンピアルバム第3弾。ゼロ年代ボカロ界のアングラシーンを牽引したヒッキーPはじめとするボカロPが結集したのがこの「捻れたアヒル」。本作は「病院」をテーマに各Pが珠玉の一曲を持ち寄った。やはり「病院」というテーマらしく生や死といった人間の根源的な部分に言及した曲が多い。そしてそれをいのちを持たないボーカロイドが淡々と歌い上げる気味の悪さ。まるで生死の境目を彷徨う患者を冷静に見守る医者のようである。だからジャケットイラストも白衣の巡音ルカと看護服の初音ミクなのだろうと推測できる。そんな彼女らの冷めきった視点から見た人間の生は、死は、果たしてどんな色をしているだろうか。いわばこのアルバムは、いのちを持たない彼女らによって記述された患者カルテの集積なのだ。オススメはやはり若干Pの「サボテンと蜃気楼」。私は初めてこの曲を聴いたとき恥ずかしながら号泣してしまった。「愛」は、「愛」だけは、ボーカロイドの冷徹なフィルターを介してもなお美しく、そして儚いのである。

 

9位『Flowers』

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エレクトロニカ界隈で名を馳せ、アスキー編集の『大人が聞くべき「初音ミク」』に自身の曲が選出されたこともあるハイネケンPの2ndアルバム。この『Flowers』はこの前のボマスで頒布されたばかりの新譜だが、死ぬほど完成度が高かったので迷うことなくこの順位でランクインさせた。

余談だが、頒布ブースで私が本人に「なぜ今になって新譜を?」と尋ねたところ「いや、曲が溜まったんで」という答えが返ってきて痺れてしまった。かっこよすぎだろこの人。

閑話休題。彼の音楽はメロディから歌詞から初音ミクの調教までどれをとっても地に足がつかない感じで浮遊している。それでいて、深く深く、どこまでも沈んでいく。しかし沈む先は暗澹と光を呑む深海の闇ではなく、むしろ「幸福」とか「愛」とかといった暖かな光である。ちょうど午後の白昼夢の中を揺蕩うような、そんな感じ。この、「そんな感じ」としか形容できないところもまた実に彼らしいといえよう。あなたも是非彼の「輪郭のない音楽」に浸ってみないか?オススメは「Eniadarg」。音声ライブラリは白鐘ヒヨリ。初音ミクを中心に起用しているボカロPなので純粋にヒヨリの声が物新しいというのもあるが、イヤホンで聴いた時の何とも言えない「包まれてる」感がたまらない。立体音響というのだろうか。

 

8位『MONSTER BEERGARDEN』

ナウなヤングにバカウケ中のナナホシ管弦楽団の1ndアルバム。青臭い歌詞と唸るエレキギターがダサカッコいいというのは氏のどのアルバムにも言えることだが、その中でも全体的な完成度がとりわけ高いのがこれ。若者特有の葛藤と歓喜がカオスに入り乱れているので最初から最後まで聴き通すと胸焼けを引き起こす恐れがあるので注意してほしい。

彼の紡ぐ歌詞はどれも子供と大人の狭間を彷徨っており、それについて自己問答を繰り返すというパターンが多い。「MISTAKE」の「歳だけ増えたってどうにも 変われる気があんましないや そりゃそうだろ 中身は子供のまんまだ」という歌詞が一番それを端的に示していると思う。んでもってそれらを酒やタバコや女で乗り越えようという考え方も実に青い。現に私の大学の友人にもそういう奴がたくさんいる。ニヒルになりたいけど周囲から見たらひどく滑稽に見える、そんな残念な若者たちの心の叫びを代弁しているのが彼のロックなのかもしれない。オススメは「最後の晩餐」。アルバム限定収録のインターネット未発表なので本当にここでしか聴けないレア音源だ。「最後」を飾るに相応しい渾身の一曲である。

 

7位『アンハッピーリフレイン』

もはや説明不要。中期ボカロシーン随一の牽引者ことwowakaの一般流通版アルバム。「グレーゾーンにて。」から「アンハッピーリフレイン」まで、彼の駆け抜けた軌跡が全て詰まった魂の一枚である。彼は「現実逃避P」という二つ名の通り、報われない現実とそこから抜け出したい自我の織り成す軋轢を見事に歌詞に落とし込むことに成功している。確かにメロディのキャッチーさも人気上昇の一要因ではあると思うが、歌詞の秀逸さもまた彼の音楽の評価ポイントであると私は考える。

また、彼は後に「ボカロっぽい」という概念を体系化させた戦犯として一部から非難を浴びることになるが、私はこれについて懐疑的な意見を抱いている。確かに結果論的にはそういった概念を完全に根付かせたかもしれないが、それはきっと「ローリンガール」や「裏表ラバーズ」といった氏の代表曲に対するイメージによるものが多いだろう。しかし彼は他方で当時、いや今でもなかなかボカロシーンでは見られないようなサウンドメイキングをしている。それは「グレーゾーンにて。」や「ずれていく」を聴けば分かるだろう。これらは所謂「サビ」が限界まで温存されており、最後の最後で大爆発するという曲進行を取っている。これは動画サイトでの閲覧を前提とする音楽としてはなかなか大胆な試みである。なぜなら動画サイトで曲を聴く者は大抵、自分が気に入らなければ動画タブを閉じる。だから上記の2曲も「なんだこれサビねぇじゃん」と一笑に付して動画を閉じられてしまう可能性だって十分に考えられたのだ。しかしそれを敢えて投稿した。あまつさえ「グレーゾーンにて。」は処女作であるにもかかわらず。これはwowakaの自信の表れと捉えてよいだろう。動画を開いた者は必ず最後まで聴き通すだろうという圧倒的な自信である。その目論見は見事的中し、彼は一躍時の人となった。まさに得るべくして得た名声である。そしてそんな「自信の結晶」こそがこのアルバム。徹頭徹尾全身全霊。自然と背筋がゾクゾクすること請け合いである。オススメは表題曲である「アンハッピーリフレイン」。wowakaの集大成と言っていいだろう。私は2017年度に「アンノウン・マザーグース」が投稿されるまで完全にこの曲が氏の最後の曲になると思っていた。アナクサゴラスの種子論のように、この曲を覗けばwowakaがどんな人物でどんな音楽を作っているのかが一瞬で分かると思う。

 

6位『Antenna』

これも説明不要だろう。「ありふれたせかいせいふく」や「すろぉもぉしょん」でヒットを飛ばし、現在でもシーンのトップに君臨し続けるピノキオピーの6thアルバム。本作は氏のアルバムの中でも特にエクスペリメンタルな一枚で、私としてはこれが氏の大きなターニングポイントとなったのではないかと推測している。

14~15年は「ボカロ衰退期」とも揶揄される時代で、所謂「ミリオンヒット曲」がなかなか飛び出て来ず、この時代にシーンを去っていったPも多かった。しかしその混沌の渦中でも彼は決して初音ミクを見捨てなかった。どうすればシーンで生き残れるか、彼は自問自答を続けた。「すろぉもぉしょん」では「ゆっくり」こと「SofTalk」を起用したり、「頓珍漢の宴」では14年以前に流行した曲調をオマージュしてみたり、とにかく彼は生き残るために、より正確に言えば「初音ミクとともに」生き残るために試行錯誤を重ねた。そしてその結果たどり着いた一つの答えがこのアルバムの次のアルバムである『HUMAN』である。言ってしまえばこのアルバムは『HUMAN』になる「過程」なのだ。『HUMAN』ではアルバムタイトルの通り、初音ミクの歌唱に加えピノキオピー本人の声という「人間」が参加している。コーラスとかそういうレベルではない。ガッツリ彼が歌っているのだ。初音ミクと一緒に。これこそが、彼が追い求めていた「初音ミクとともに生き残る」ためのたった一つの冴えたやりかたなのだろう。

話を戻すが、『HUMAN』を念頭に置いて考えるとこの『Antenna』はそれに至るための「試行」がたくさん詰まったマイルストーンだと解釈できる。『HUMAN』が完全な統一性を持った一方で『Antenna』はどこかとっ散らかっている。だがそれでいい。なぜならそれは氏の初音ミクに対する熱意が強烈であるがことの証に他ならないのだから。ピノキオピーのアルバム史上最も熱を持った一枚こそがこの『Antenna』であると断言しよう。おすすめは表題曲である「アンテナ」。歌詞を読んだだけで自然に涙が溢れてしまいそうになる、そんな一曲。「そう アンテナを張って 色んなものを見て聴いて 触って つねって確かめて そして各方面を好きになって 嫌になって アンテナを張って ミスって 説教臭い言葉にちょっと引いて うるさい くたばれ 悪態ついて 数年後にゆっくり理解して アンテナを張って 色んなものを見て聴いて 触って つねって確かめて そして価値観の渦に飛び込んで 溺れちゃって そうアンテナを張って 遊んで 学んで わずかな喜び見つけて つらかったことも いつか笑って 数年後に思い出して」。

 

5位『Youthfull』

電柱の人こと電ポルPの3rdアルバム。正直ジャケ買いした。メッチャ良くないですかこのジャケ写真。彼の音楽性をよく反映した最高の一枚だと思う。安易なニヒリズムが横行し、何か権威的なものを皮肉っているリリックほど素晴らしいなどといったどうしようもない作詞スタンスがシーンに瀰漫していた時代性の中、こういった実直な曲が書け、なおかつそれで人気を獲得できていたというのは絶賛に値する。また、彼の作る音楽というのは言ってしまえば「駅前でシンガーソングライターが歌ってるような」音楽である。つまり彼はニコニコ動画という土俵においてはあまり見られないタイプのサウンドメイカーなのだ。だからこそ、そういう新規で特異なものに対する受容体がニコニコ動画界隈全体に形成されていないうちから己の腕一つでコンスタントに人気を飛ばしていた彼はまさしく天才であるといえよう。本アルバムでは夏が密かなテーマになっているらしく、夏らしい爽快な曲調のものが多い。オススメは「Youthful Finder」。ファインダーを通して広がる2人の生活には山もあれば谷もある。その全てが愛おしいからこそ、人はそれを逃すまいとシャッターを切り続けるのかもしれない。

 

4位『Piece of Cipher+』

変拍子の貴公子の異名を取るTreow(ここではELECTROCUTICA名義を用いる)の一般流通版アルバム。彼ほどトリッキーな音楽を作るボカロPを私は知らない。どうやったらこんな複雑で精緻なコード進行を思いつくんだろうか。アコギで弾こうとして嫌な思いをした思い出が頭をよぎった。

私は音楽理論に明るくないため、ここの音の出し方がいい!といった仔細に及んだ指摘は申し訳ないができないのだが、そんな素人からしても彼の作り出す音には並々ならぬ技術力の高さを感じる。「Chaining Intention」の動画のコメントで彼の音楽を「殺人的」と形容していた人がいたが、まさに言い得て妙だと思う。間違っても「音が質的に尖っていて先鋭的」という意味ではない。言うなれば、先の見えないジェットコースターに乗せられ、ぐわんぐわんと為すがままに振り回されている感じである。これからどんな音が展開されるのか、彼は絶対に読ませない。そんな予測不可能な彼の音楽に、我々はいつしか虜になっているのだ。

サウンドメイキングもさることながら歌詞にも目をみはるものがある。彼の書く歌詞には自我がない。誰が主体で、誰に向けられているのか、何一つとして判然としない。文脈を持った文章なのか、単なる言葉の羅列なのか、そんなことを延々と考えながら我々は深い深い懐疑の中に沈んでゆく。そうして曲が終わる頃になってハッと気付くのだ。この、我々の逡巡でさえも、全て彼の思惑の内なのだと。オススメは「L'azur」。フランス語で「青空」という意味だ。この曲はネタ曲を除けばボカロ曲の中で一番高いキーが要求される曲で、なんと最高音は驚異のhihihiD#。ボカロの特性を最大限利用した攻めの一曲。恐ろしいのはこれが彼の処女作ということである。

 

3位『Exchange Variation』

「影炎≒Variation」や「閃光⇔Frustration」など一発で彼だと分かる曲名と鬼畜じみたドラムでお馴染み、やいりの一般流通版アルバム。彼の音楽は実に手が込んでいる。というのも、彼の来歴を見てみると、ゆよゆっぺとはもともと知り合いでバンドを組んでいるとの記述がある。ゆよゆっぺといえばボカロシーンにおけるラウドロックの担い手としてその名を轟かせる有名Pであり、そしてやいりもまた彼に多少なり影響を受けている部分が散見される。しかしやいりの音楽はゆよゆっぺの音楽とは決定的に違う。ゆよゆっぺはガチガチのラウドロック、つまりボカロシーン以外の音楽シーンにおけるラウドロックを専攻している一方で、やいりはラウドロックをしながらも「ボカロ音楽」という文脈を読み込んでいる。敷居の高い音楽を咀嚼し敷衍することで普段ラウドロックを聴かないニコニコのリスナーにもラウドロックを聴いてもらおうとしたのだ。事実、彼の作る曲は音こそ重いが随所にニコニコミュージック的なレトリック(ピアノ連弾、分厚いシンセサイザーなど)がふんだんに起用されており、とても聴きやすい。そして彼の思惑は見事に再生数という形で現れ、彼は人気Pの仲間入りを果たした。

このアルバムはそんなやいりの「技」が詰まった渾身の1枚である。曲名は最後の「〇〇〇〇〇」を除いて「熟語+記号+英単語」のパターンのみなのでCDを取り込んだ時のスッキリ感がたまらない。オススメは「神様∴Application」。メロディが「ボカロっぽい」のはもちろんのこと、歌詞の何とも言えない中二病具合もポイントだ。ボカロ音楽への揶揄として用いられがちな「ボカロっぽい」という形容だが、それを技巧的に突き詰めればこんなにカッコいい曲ができるんだよと、やいりの音楽はそう主張している。

 

2位『あくとわんっ!』 

R&Bからスカロックまでありとあらゆる「オシャレ」な音楽を自由自在に作り出すパトリチェフの1stアルバム。『あくとわんっ!』という題名の通り、このアルバムでは鏡音リンAct1しか使用されていない。まさに鏡音リン原理主義。この狂気とも形容できるこだわりこそがこのアルバムの価値を最大まで高めている。

鏡音リンAct1といえばハキハキとしたその歌声である。しかしこれを活かすのは至難の技で、歌わせる曲のジャンルによっては彼女のハキハキとしたエネルギッシュな歌声がかえって曲全体としての統一感を破壊しかねない。鏡音リンAct1を真に最大限に利用するには、どのような曲調が彼女の声質にピッタリなのかを判別する音楽的教養はもちろんのこと、「鏡音リン」というキャラクターついての的確な理解が必要不可欠となるのだ。これを踏まえると、鏡音リンAct1オンリーのアルバムを出すということがいかに勇猛果敢なことなのかが容易に想像できよう。しかしパトリチェフは持ち前の教養深さとその狂気的な鏡音リンへの愛によってこの2つの要件を見事に満たした。実際、アルバム中のどの曲を聴いていても違和感が全くない。全ての曲が鏡音リンのため「だけ」に作られているという印象を強く受ける。とある一人のリン廃が、全てを捧げて綿密に作り上げたステージの上でマイクを握る鏡音リンの歌声は、どこまでも、どこまでも伸びていく。ただ高らかに・・・。オススメは「スピンドル・シャフト」。こんなに気持ち良さそうに歌う鏡音リンが見られるのは本当に彼のアルバムだけなんじゃないかとすら思ってしまう。サビの伸びが印象的でフレッシュな一曲。

 

1位『GHOST』

説明不要のボカロック界、いや、ボカロ界の重鎮ことDECO*27の一般流通5thアルバム。最後の最後にこんな誰でも知ってるアルバム持ってきやがってなんだてめぇブン殴るぞという玄人の皆様のご指摘もそりゃまぁごもっともなんだが、それでもこれを1位にしたのにはそれ相応の理由があるのだ。あーコラ!タブ閉じないで!あとちょっとで終わるから! 

私はあまり一般流通版アルバムを購入しない。「売り出す」ことが念頭に置かれている以上、ちょうどクリープハイプの契約レーベルが勝手にベスト盤を発売して炎上した例の一件のように、クリエイター側の制作意図がおろそかにされてしまう危険性が高いからである。というのは建前で、一般流通版は高額だからである。同人版が安すぎるというのもあるが。しかし今回ばかりはクロスフェードを視聴した瞬間に少しの迷いもなく「買おう」という確固たる意志が芽生えた。一言でこのアルバムを形容するなら「圧倒」が相応しい。

「何かを評価する」という行為について考えたとき、その態度は大抵2種類に分けられる。一つは、作品を受容する前に自分の中にある点における評価基準を設けておいて、実際に受容した後でその「ある点」が評価基準に達していた場合にその作品を高く評価する、というものである。この評価態度は、自己の理性によって基準を設け、自己の理性によって判断を下しているという点において「積極的」な評価態度である。これに対し、もう一つは、「素晴らしい」「すごい」といった感情が理性による営為に先行する、というものである。これはつまり、言ってしまえば「なんかわかんねーけどスゲー・・・」という状態である。つまり、理性的思考が作品自体の放つ価値に気圧され、いわば「受動的」になってしまっているということだ。

曲がりなりにも物書きをしている身からすれば、後者など言語道断である。こんな評価態度ばかりが罷り通ってしまっては、レビューサイトは「わかんないけどすごい」「なんかやばい」だのといった小学生並み、いやそれ以下の犬も食わない駄文で埋め尽くされ、やがて日本は滅びるだろう。

しかし、それを踏まえた上で敢えて言わせてもらおう。このアルバムは、ヤバい。「ヤバい」という「感じ」が理性による理屈付けを完全に拒んでいる。私だって本当は落ち着いて「ここがスゴイ」とか「この歌詞は〇〇のメタファー」といった具合に俯瞰的に評論したいのだが、この、圧倒的な「感じ」の奔流の前ではどんな美辞麗句もチープな瓦礫となって流されてしまうのだ。お手上げである。とりあえず、何が言いたいかというと、私のこの感動体験の記述を通して『GHOST』というアルバムのヤバさの片鱗を少しでも知っていただきたいということである。

初期からシーンの最重鎮として活躍し続けてきた彼だが、その人気は今もなお留まるところを知らない。それどころか彼は常に進化し続ける。2016年投稿の「ゴーストルール」の再生回数がそれを端的に物語っているだろう。彼はこれからどこへ向かっていくのだろうか。これからも片時たりとも目を離せない。

とまぁありのままの実感をつらつらと書き綴ってはみたものの、流石にこんな投げっぱなしのレビューで文を締めるのも申し訳ない。なので少しばかり頑張って理性的なことを書き連ねておこうと思う。

『GHOST』というタイトルは一体何を示しているのだろうか?「そりゃゴーストルールのことでしょ」と言われてしまえばそれまでなのだが、私はそれ以上に意味を持ったタイトルであると推測する。そのためにはジャケットイラストに注目する必要がある。『GHOST』ではそれ以前の彼のアルバムからは考えられないようなことが起きているのだ。それは「初音ミクが描かれている」ということである。今までは、(初音ミクではない)女の子だとか国旗を模した模様だとかが起用され、「初音ミク」感を薄めようという意図を感じた。これは、DECO*27が初音ミクを、ひいてはVOCALOID自己実現の手段として考えている側面が強かったことの証左であろう。しかし、ここへきて、やっと初音ミクが登場した。「このアルバムの主役はDECO*27ではなく私なのだ」と主張するように。構図としては、初音ミクという実体を持たない「幽霊」がDECO*27に憑依し、彼を媒介として自己を顕現化させた、というのがピッタリだろう。「GHOST」というのは紛れもない、初音ミクのことを指すのである。これはもはや「反逆」と呼んで相違ない事件だろう。DECO*27お馴染みのメロディに乗りながらも、その歌声は確かに魂を帯びており、「私はここにいる」としきりに生を叫ぶ。きっと私が感じた「ヤバい」という「感じ」もこの部分に対して感じたものなのだろう。

オススメ曲は「針鼠」。2017年で一番多く聴いたボカロ曲は?と訊かれたら迷わずこれを挙げる。電話口で、終電間際のホームで、電子の海で、自我を吐き散らすどうしようもない生き物、通称「メンヘラ」。その愛おしいほどに愚かな彼女らの頭の中は、意外と打算に塗れているのかもしれない。「尖ってないのに痛がるのは 実際一回きりの切り札 かまってちゃんなの 甘えたいのもっともっと溶けていたいよ」。

 

以上です。ここまでで約1万5000字らしい。正気の沙汰ではない。でもこれって僕の愛なの♡

 

これを機にあなたもボカロアルバム収集沼にどっぷり浸かってみてはいかがだろうか?私がウンディーネとしてあなたを地獄まで導こう。

 

それでは皆さん、良いボカロライフを・・・