美忘録

羅列です

ボーカロイドのこれまでとこれから 前編

はじめに。初音ミク10周年おめでとうございます。私は君の歌う歌をただただ聴くことしかできませんけど、これからもよろしく願い致します。

 

さて本題。こうして初音ミクが多くの人間に祝福されながらめでたく10周年を迎えたということで、本文では「ボーカロイドのこれまでとこれから」と題して、今までボカロが歩んできた歴史とそれを取り巻く環境、そしてそれらから導き出されるボカロの未来像について、超音楽素人の立場から少し考察してみようと思います。少しとは言いましたが、かなり長くなってしまいました。天井のシミを数えること以外何もすることがないくらい暇な時にでもお読みください。

 

1.これまで

 

第1章~初音ミク黎明期~

 

合成音声ライブラリ「初音ミク」は2007年8月31日に発売されるや否や、ニコニコ動画という伝播性と共有性を兼ね備えた最強の土壌の上でそのポテンシャルの高さを遺憾なく発揮し始めた。しかし最初期は単に初音ミクを「ヒトの声を喋る面白い楽器」として既存の曲を歌わせるというアプローチ以外が存在せず、もしここで立ち止まっていればきっとボカロは今頃ネットミームの墓場で朽ち果てていたことだろう。

 

しかしここでボカロにいち早く無限の可能性を見出し、それを大衆に知らしめたパイオニア的Pが登場する。それこそがOSTER Project(以下オスプロ)である。

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『恋するVOC@LOID』は、「初音ミクは楽器ではなく一人のアイドル歌手なんだ!」という、認識的パラダイムシフトを起こすには十分すぎるほどの誘発力があった。これよりしばらく初音ミクはKEI氏の描いたパッケージ絵のような「萌え」的性質を付与され、『私の時間』や『みくみくにしてあげる♪【してやんよ】』といった俗に言うAポップ系の楽曲が流行した。また、この時期は自己言及的な、つまり「初音ミクが自分自身の境遇を歌う」ような曲(上記の2曲や『えれくとりっく・えんじぇぅ』、『あなたの歌姫』など)が多かった。漠然としてはいるものの、ここでクリエイターやリスナーの、初音ミクについての認識がある程度統一されたような気がする。そう考えると初音ミクという宗教はこの時点で既に体系化されつつあったのだなと感心する。

 

初音ミクがアイドルとしての特徴を強めていく一方で、新たな音楽的潮流も生まれていた。その中心にいた人物がryo、kz(livetune)、bakerの3人だ。ryoは言わずもがなあの大名曲『メルト』の作者で、そのキャッチ―なメロディと甘く切ない歌詞で主に10代リスナーを中心にボカロ旋風を巻き起こした。kzは合成音声とテクノポップの親和性を世に知らしめたミクノポップの元祖的存在で、主に『Packaged』が有名だろう。bakerはテクノもロックも幅広くこなすマルチな才能を持つPなのだが、正直言って(というより私の音楽的知見のなさのせいで)「ここがいい!」とは明言しにくいのだが、彼のバラードナンバー『celluloid』を聴いてボカロPになった有名Pは数知れず。詳しくは音楽ナタリーのこの記事

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を読んで欲しい。上記3人がいかに他クリエイターへのインセンティブになったかを窺い知ることができるだろう。

 

こうしてオスプロが嚆矢となった「初音ミクオリジナル曲」ブームは上記のPを中心に、また、初音ミクの姉妹分である鏡音リン鏡音レンの参入によりさらに勢いを増すようになった。この頃主に活躍していたのは、限りなくアウトに近いアウトをやった結果動画を削除され、結果的に「機械にセクハラするのは合法か」という法哲学的な問題を見事に炙り出した初期ボカロ界の問題児デッドボールP、野生のNHKの異名を持つ心優しきトラックメイカーのトラボルタP、ポップ・レクイエムというニューウェイブ創始者たる小林オニキス、キャッチーなサビで多くのファンを獲得した黒うさP、音楽に物語性を付与する風潮の先駆けとなった悪ノPなど。誰もがメロディ・歌詞・使用ライブラリ等とにかく様々なアプローチでボカロを活かそうという信念のもと創作活動に励み、ボカロの音楽性の多様化は日を追うごとに進んでいった。そう、商業主義的文脈から完全に遊離していたこの時期のボカロは、完全に個々人のイマジネーションの発露として機能していたのである。暴走Pの『初音ミクの消失』なんかはまさに「ボカロにしかできないこと」を追求し、イマジネーションを爆発させた結果たどり着いた一つの境地だろう。

 

また、Dixie FlatlineやにおPのような黒人音楽、つまり、俗に言う「第一線からは逸れる音楽」を取り入れた楽曲を主に制作するPもこの頃から既に評価されていたという点にも留意しておきたい。クリエイター側が進歩するごとに、リスナー側もそれに呼応するように審美眼ならぬ審美耳を養っていったのである。

 

第2章~ボカロック、ミクノポップの隆盛~

 

初音ミクにロックを歌わせた動画はそれこそ初期から存在していた。かなりマイナーではあるが、田舎の学生バンド感を出しつつパンクロックを試みたクズ野郎Pの『世界に一人のクズ野郎』などがその好例だ。

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これらが「ボカロック」というジャンルの紐帯によって体系化されたのは08年中頃から09年初頭にかけてだろうか。何と言ってもアゴアニキの登場が大きい。

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ピノキオピーも彼の『ダブルラリアット』を「泥臭い歌詞のバンドサウンド」と高く評価し、自らもそれをきっかけにボカロを始めたという。この頃を境に初音ミクのアイドル性についての認識は単に「初音ミクを構成する一要素」くらいにまで大きく引き下がった気がする。こうして、一周回って半ばバイアス化し、初音ミクを安易な「萌え」という画一性の中に閉じ込めていた「アイドル」という性質が崩壊することによって、初音ミクは真に自由で無限の可能性を秘めた存在になったのである。

 

アゴアニキがヒットを飛ばすとそれに呼応するように数多のロッカーが台頭してきた。『天ノ弱』の164や『モザイクロール』のDECO*27や『星屑ユートピア』のotetsuなどの超大型Pもこの頃がデビュー時期である。このように、アイドル性への固執からの脱却により、ボカロックという新しい流れが完成したのである。

 

ちょうどこの頃、ボカロテクノ界隈も隆盛を極めていた。その渦中のど真ん中にいたのがやはり「変拍子の貴公子」の異名を取るTreow(逆衝動P)、ボカロハウス界の異端児、いや異常児ことZANIO(パイパンP)、そして世界的に有名なトランスミュージシャンという一面も持つ野生のプロこと鼻そうめんPだろう。Treowといえば何よりもまずデビュー曲の『L'azur』だ。

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どこか現実から乖離した歌詞、ガラス細工の如く精巧なメロディライン、無機質ゆえにかえって透明感が強まる初音ミクの歌唱・・・ここまでハイブロウな逸品が未だかつて存在しただろうか。何もかもが圧倒的な一曲である。まさにボカロテクノ界の革命と形容していいだろう。彼はこの後『Chaining Intention』でもスマッシュヒットを飛ばし、ボカロテクノ界の背負って立つPの一人になった。ZANIOは言ってしまえばオケだけメチャクチャ綺麗になったデッドボールPで、『ペヤングだばぁ』や『ボカラン詐欺』等の動画は、綺麗なメロとそれに反してあまりにもおふざけが過ぎるネタ歌詞の化学反応に驚愕したリスナーによる「オケだけよこせ」「歌詞wwwww」といったコメントで溢れかえった。Treowがハイブロウで高次元的な立ち位置にいるとするならば、ZANIOはその真逆であろう。だがしかし、だからこそ彼が推され続けているのだと私は思う。敷居が低いほうが入り口としては最適である。鼻そうめんPはHiroyuki ODAという世界的に名の知れたトランス界の雄で、ボカロが完全にアマチュアの独壇場だった当時からしてみればこれはパラダイムシフト的な出来事だったのだ。ほぼ歌詞の存在しないガチガチのトランスミュージックから80'sを思わせるディスコサウンドまでテクノ系統なら何でも来いのオールラウンダーで、オマケにイラストも描けるマルチクリエイターである。個人的には『YOUTHFUL DAYS' GRAFFITI』が頭一つ抜けている気がする。

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この3人以外でも、後にDenkitribeとして大成するよよPや、ベースを巧みに操るベースラインの魔術師こと鮭Pなど、ボカロ界に大きな爪痕を残していったPが数多登場した。

 

こうしてロックとテクノが同時に進化し、クリエイター人口が増えることでその品質もより向上していった。また、巡音ルカがくっぽいどめぐっぽいど等のライブラリの増加の影響も受け、遂にボーカロイドはインターネットを飛び出し、大々的なボカロムーブメントが巻き起こった。

 

第3章~ボカロブーム前半~

 

一般的にボカロブームが起きたとされるのは(諸説あるが)09年末あたりとされる。何を差し置いてもハチとwowakaがこのブーム初期の起爆剤となったというのは否定しようのない事実である。それと同時に、良くも悪くも「ボカロっぽい」曲というものがほぼ体系化されてしまったのもこの時期である。ハチの楽曲の特徴といえば祭囃子の如き騒々しさと狂気的なリリックで、wowakaの場合は超高速のBPMと超高音のボカロ調教である。ユビキタス社会が完全に確立し、どの家庭にもネット環境が普及するようになった当時のリスナーの主な年齢層といえば、心身ともに発展途上で多感な中高生が殆どで、彼らにとって上記の4要素はまさに脳髄ドストライクの麻薬だったのである。かくいう私もその一人である。意味はよく分からんけどとりあえず速くてカッチョイイなら最高じゃないか、と思ったわけである。ロックバンドのキュウソネコカミの『ビビった』

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の中に「意味なんか要らんそれでオッケー、結局音楽はBGM」という歌詞があるが、まさにこの頃のボカロはそれを地で行く感じであった。「ハチやwowakaは浅薄な音作りしかできない」と言っているのでは決してない。むしろこの2人ほどボカロに対して真摯に取り組んだPは他にあんまりいないのではないかと思う。そのあたりはこれらの記事

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を読めば嫌というほどに伝わってくるだろう。問題なのは、彼らの曲風を模倣するばかりでそれ以上の試みをすることを放棄してしまったこの頃のボカロシーンの風潮そのものである。この頃になるとボカロにもマネタイズの波が押し寄せ、ボカロを手っ取り早く有名になるための足蹴くらいにしか考えてないようなクリエイターもちらほら見受けられるようになった。別に商業主義に走ること自体を悪と言っているのではなく、よりマスに受け入れられるためにと自分の真にやりたいことを捻じ曲げるようなスタンスに対して懐疑的なだけである(実際、この時期に入ってから途端に作曲の方向性が変化したPは多かった)。商業主義の下では決して解放できないイマジネーションの発露としてボカロには大きな価値があったはずなのに、これでは全くもって本末転倒なのではないか。しかしそんな疑問も掻き消えるくらいの勢いでこのボカロブームはこの後も際限なく広がっていった。今思えば、そういった漠然とした疑問と、この画一化の果てにはいつかボカロ自体の終焉が来るかもしれないという潜在的な不安こそがこのブームをさらに推進していったのではないかと推測する。

 

しかしそうは言ってもボカロの多様化が完全に停止したわけではない。『Just a game』あたりがいい例だろう。

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takamattはオタク蔓延るニコニコ動画で、オタクの好むジャンルとは対極的な位置付けにあったレゲエを見事輸入することに成功したのだ。また、当時のボカロシーンにも流行に囚われることなく真に良いものを選択的に聴いていた主体的なリスナーの存在がいたことの証左として、『glow』

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のkeenoや『またあした』

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のふわりPのヒットも挙げておこう。聴けば分かると思うが、彼らは根っからのバラード畑の人間である。当時のBPM至上主義的なボカロシーンの風潮を鑑みると彼らのヒットは実にイレギュラーなものである。しかし、これはつまり、そういったイレギュラーをも快く受け入れられるような懐の深さを持った層が少なからず存在していたということである。

 

第4章~ボカロブーム後半~

 

09年末~13年中頃くらいまで持続した全国的ボカロブームの後半期を支えた代表的Pとしてじん(自然の敵P)、kemu、トーマが、また、代表的な曲として『千本桜』が挙げられる。

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まぁまずは何と言っても『千本桜』の大流行。まさにお手本と呼ぶに相応しい王道的な曲進行(ABサビABサビB転調サビ)で、なおかつ当時のボカロシーンで求められていた要件が全て完璧に揃っていた。ボカロ文化はこれ以前とこれ以後とで明確に区切ることができるだろう。それまではあくまでオタク界隈という閉じた世界の中で完結していたボカロ文化が大きく外へと羽ばたいた瞬間だったのだ。『千本桜』で遂にブームは爆発期を迎え、猫も杓子もボカロ、ボカロのボカロ大旋風が巻き起こった。ここで台頭してきたのが上記の3人である。じん(自然の敵P)は10年代最大のヒットメイカーで、ハチ、wowaka的な音作りに、楽曲に物語性を付与する悪ノP的手法を混ぜ合わせた新旧ボカロ文化のいいとこ取りなスタンスで見事大ヒット、彼の打ち立てた「カゲロウプロジェクト」はメジャーレーベルで音源化され、さらに小説化、アニメ化までされる超ビッグコンテンツに成長した。kemuはじんの少し後に頭角を現してきたPで、高速BPMシンセサイザーロックを融合させ、「kemuブランド」を確立した。彼もまた新(高速BPM)旧(シンセロック)をうまく組み合わせる天才だった。トーマはまさにハチ、wowakaの影響をモロに受けたPで、ハチ以上に難解な歌詞、wowaka以上に高速なBPMを駆使する、まさに時代が生んだ寵児である。一言でいえば凶悪。そんなダークな魅力が中高生のセンシティブな感性と共鳴し、見事ブレイクと相成った。

 

この3人に共通する点は、既存の流行+αで革新性を産み出した点である。じんなら物語性の付与、kemuならシンセロックへの回帰、トーマなら既存性の限界値までの研鑽がそれぞれα部分に該当する。いずれもボカロシーンにおけるハチ、wowaka的な音楽性が既にコモディティ化している現状を目ざとく察知していたことが窺える。「ボカロブーム」という大きな物語として巨視的に見た際には誰も彼もが同じような曲ばかりを作っているという印象しか受けないかもしれないが、このように歴史を追いながら細かく見ていくと、歴代のヒットメイカーたちにはそれぞれヒットするだけの個性と、それに至るための努力や試行錯誤があったことが見て取れよう。

 

しかし、ヒットを外部から俯瞰している人々や「ブームだから」という理由のみでボカロを聴いていた層にとって、そんなことは些事も些事、どうでもよいことだったのである。じんの「カゲプロ」が完結し、kemuが『敗北の少年』で作曲活動の実質的中止を宣言し、トーマが知らないうちにフェードアウトした13年中頃よりボカロブームは徐々に終息の道を辿っていった。

 

~中編へ続く~

 

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