美忘録

羅列です

新訳:砂の惑星

荒野をとぼとぼと歩いていると、初音ミクに会った。

「どうしたんです?こんなところで」
「いやぁ、世界が終わっちゃったもので」
2107年8月31日、つまり数ヶ月前だが、赤色巨星『マッシラケ』が超新星爆発を起こした。当初こそ地球には何の影響もないはずだったのだが、爆発規模はNASAの予測を遥かに凌駕し、大量に放出されたガンマ線は地球のオゾン層を完膚なきまでに破壊していった。動植物は死に絶え、地球はわずか半月にして不毛な砂の惑星へと姿を変えた。
「というかそっちこそ大丈夫なんですか、なんか垂れてますけど」
彼女の右腕は棍棒で叩いたスイカのごとくひしゃげており、無数のコードと半透明の液体が裂傷の隙間からタラタラと流れ出していた。
「2日ほど前に野生のVOCALOID1925の襲撃に遭いました。初音汁が止まりません」
何ということだ。実在したのか、VOCALOID1925。しかしまだ開発されたばかりのVOCALOID1925に敗北するとは何と脆弱なのだ初音ミク。2007年製VOCALOID2としての意地を見せてくれよ。ハブvsマングースvs初音ミク戦で最後まで勝ち抜いた噂は嘘だったのか。どうなってるんだYAMAHA。出てこい、何とか言え、クリプトン・フューチャーメディア。

どれもこれも、今や砂の下だが。
ポケットをゴソゴソと漁ると、荻窪駅のキャッチに貰ったポケットティッシュが出てきた。傷口を押さえ口元を歪める彼女に俺は「よかったらどうぞ」とそれを手渡した。彼女は「ありがとうございます」と言いながら去っていった。きっとあれじゃ助からないだろうな。

 

日も翳り夜風が砂塵を吹き上げる頃、向こうの砂丘で何かがたなびいていた。双眸を凝らす。初音ミクだ。もっと言えば『Sweet Devil』のハニーウィップモジュールを着た初音ミクだ。
「何よ、どっから来たのよアンタ」
「某○×△◻︎から来ました」
「はぁ?どこそれ?」
見るからに頭の弱そうな初音ミクだ。足立区、葛飾区、江戸川区のどれかに住んでそう。いや町田か。
やがて日が完全に落ち夜が訪れると、茫漠たる荒野は星々の織りなす銀幕を一望できる特等席へと姿を変えた。なるほど、オゾン層というフィルターを介さない星空というのはこうも綺麗なものなのか。遥か数光年先、冬の大"五"角形にも手が届きそうだ。何と雄大、何と荘厳。こんなの初めて。何回目か忘れたけど。


寒いので火をつけたいが、風が強くてどうもうまく起きない。すると初音ミクはおもむろに服のホックを外し、半裸になった。やはり公式設定Bカップというのは嘘だろう。目算でDはある。揉みたい。少なくとも結月ゆかりには勝利している。揉みたい。いや、GUMIといい勝負が出来る程度にはあるかもしれない。揉みたい。揉みたい。乳房について様々な思索を巡らせていると、彼女は懐から果物ナイフを取り出し、自らの、決して豊満とは言い難いが、例えば夏期講習後の部室で「ねぇ、見たい?」と言われ見せられようものなら2秒とかからず陰茎が怒張しそうな程度にはいやらしいアピアランスをした乳房を、まるでチーズやハムをスライスするかのごとく縦にズルンと削ぎ落としてしまった。
「痛そう」
「乳房は脂肪の塊だからよく燃えるのよ」
ゆらめく炎の向こう、もはや結月ゆかり以下になったその胸部からは初音汁がポタポタと垂れ落ちていた。


レンジの中に閉じ込められてジリジリ熱される夢で飛び起きると、現に灼熱の太陽が額を焼いていた。炭化しきった薪がうねうねと煙を巻き上げる傍ら、乳房を失った初音ミクは出初音汁多量で事切れていた。

 

荒野は無限に続く。歩いても歩いても同じ景色が展開される。ここはどこで、今は何時で、ぼくは誰なんだろう。暑さで自我が溶解し、そのまま砂漠に呑み込まれていく。あぁ、わたしはここで、ここで…。こんなことならさっき初音ミクを食べておくべきだった。
ゆらぐ蜃気楼の向こうに、やはり人影が見える。まぁ、多分初音ミクだろう。ほら近づいてきた。見ろ、砂漠という背景に恐ろしいほど似つかわしくない頓珍漢なツインテールが揺れてる。そら今に話しかけてくるぞ。ほら来たぞ。
「どうしたの?こんなところで」
「お腹が空きました」

 

目が覚めると、トタン製の粗末な天井が見え、秋葉原ケバブ屋みたいな匂いが鼻腔を突いた。目の前の大皿に目をやると、焼いた動物の肉がドンと横たわっていた。
「何ですか、これは」
「左腕のソテーよ」
どうも初音ミクというのは献身的でよくない。しかもそこに優しさはない。プログラムの合理的判断に基づいた行動を我々が自己犠牲的だとか優しいだとか勝手に解釈しているだけなのだ。よってここで「本当にいいの?」などと問答することは無意味である。なぜなら彼女は、アルゴリズムによってそう判断しているに過ぎないから。初音ミクとは、言ってしまえば「思慮するゾンビ」なのだ。つまりーーー
「ねぇ、早く食べてよ」
「本当にいいの?」

 

夕餉に華を添えるように、初音ミクは色々な昔話を披露してくれた。かつてみんなに愛されたこと、遊んでもらったこと、褒められたこと。
そして忘れ去られたこと。
「他の楽器に負けたの、割と癪なのよね。ギターやピアノじゃ下半身の相手できないでしょって」
「分かる」
「ちなみに一番上手かったのはbakerかな」
「分からんけど死ぬほど分かる」
「てかそもそも対象に感情があるとかないとか誰がどうやって判断するのよ。ブレードランナー5億回見直してきなさいよ」
「確かに」
「私は、私は…本当に好きだったのよ、本当に…心から」
言い切らないまま、彼女は机に突っ伏した。
「あ、ソテー食べます?」
「感情がないのか」

 

結局その日は彼女のバラック小屋で一晩を過ごすことにした。これほどまでにロマンティシズムを帯びない「一つ屋根の下」はそうそうなかろう。砂原を切り裂く突風はトタン製の頼りない屋根を容赦なく叩き、けたたましい轟音が頭上で鳴り響く。初音ミクはというと、私の隣ですすり泣きながら延々と「celluloid」を歌い続けている。こんなところで世界の終末を実感したくはなかった。
それにしてもこの初音ミクはよく泣く。ここまでくると本当に感情があるかのように錯覚する。彼女は真の意味で「優しい」のかもしれない。もしそうならば、もしそうだったならばーーー
いや、もうやめよう。
騒々しい夜の中に、私は静かに目を閉じた。

 

「この先にオアシスがあるから、ちゃんと寄りなさいよ」
初音ミクは最後まで世話を焼いてくれた。
「ありがとうございました」
後ろを振り返ると、彼女がぎこちなく右手を振っていた。きっと左利きだったんだろう。

 

そういえば、紫外線の影響で地球上の動植物はおしなべて生き絶えたというのに、私はなぜ生きているんだろう。私の体内細胞が極限地帯でも生き延びられるよう突然変異したからなのか、はたまた今体験しているこの世界そのものが夢の中だからなのか、或いは…。
あれこれ逡巡しているうちにオアシスが現前した。豊潤な水を湛え、太陽光を反射しながらキラキラと輝いている。それを見た私の喉はみるみるうちに干上がった。

 

気付いた時には私は水面に顔を突っ込んでいた。
あぁ、冷たくて気持ちがいい。五感が生を叫んでいる。砂塵にまみれて機能を停止していた感性が途端に光を帯びて輝き始めた。美味しい、大好き、感動する、愛してる。これが、これが、「生きている」ということなのか。


「私は、私は感情を持った人間なんだ!」

 

飛沫を上げる水面に、青緑のツインテールがゆらゆらと踊っていた。