美忘録

羅列です

10選+αで語る2017年ボカロシーン

あけましておめでとうございます、現存在の皆さん。因果です。

 

2017年のボカロシーンも本当にいろいろなことがありましたので、10選の紹介を交えつつ2017年という潮流を断片的に振り返ってみたいと思います。例によってものすごい長いので部屋の隅で三角座りをする以外やることがない時などにお読みいただけると幸いです。

 

光合成/こじろー

私が思うに、2017年は更にv flowerが成長を遂げた年であったと思う。

v flowerといえばそのハキハキとした発音。彼女のヒットこそが「歌詞が聞き取りにくいのがボカロ」という見解が今となってはいかにアナクロニズム甚だしい誤謬であるかを端的に示していると言っても過言ではない。

ではなぜ彼女は最近になって突如流行り始めたのか?これを単なる偶然、巡り合わせと結論付けることも可能かもしれないが、私はここにある仮説を見出している。

それは、彼女のヒットこそがボカロ最盛期(11~13年)的画一性超克の象徴なのではないかというものだ。

最盛期に衆目を集めた楽曲に通底する音楽的特徴を述べるとだいたい以下のようになる。「高速BPM」、「サビ至上主義」、「難解(そうな)歌詞」。それが悪いことだとは一概には言えないが、この時期までのボカロ音楽は界隈全体が実体を持たないバブル的熱気のようなものに支配されており、誰も彼もがそれに陶酔しきっていた節がある。しかし14~15年になるとその熱、もとい幻想も徐々に冷め、寄る辺を失う不安からこの時期を「暗黒期」だの「衰退期」だの(本文では以降統一して「暗黒期」と形容する)と呼称する者も現れた。かくいう私もそろそろヤベーかもなとは思っていた。

かの哲学者リオタールは近世以降のもはや普遍性という支柱を持たなくなった思想潮流を「大きな物語の終焉」だと述べたが、まさに暗黒期のボカロシーンはこの流れを完璧なまでになぞっていたようだった。

しかしボカロ音楽はここで安易な消極的ニヒリズムに陥り続けることはなかった。多くの作り手受け手が「ボカロは死んだ」と嘆き界隈を立ち去る傍ら、それでも依然としてこの界隈に夢を抱き続ける変わり者たちが、また「大きな物語」なき時代だからこそ俺が一山当ててやろうと意気込み飛び込んできたニューフェイスたちが、焼け野原の上で自由に試行錯誤を繰り返していたのだ。そんな彼らの試行錯誤の末に見出された一つの可能性がまさにv flowerだろう。

先述したように、v flowerといえばそのハキハキとした聞き取りやすい発声であるが、これは実は最盛期においては軽視されがちであった音楽的要素をことさらに強調するものである。それは歌詞である。

あまりこういった主観性が強すぎる主張はしない方が良いのだろうけど、それでも敢えて言わせてもらおう。最盛期において主に人気を集めていた曲の歌詞は、正直ダサい。肥大化した自我に語彙が追い付いていない感じはまさに「中二病的」と形容できよう。具体例を挙げろと言われてもどれを挙げようか迷うレベルでほぼほぼダサい。酷い。『カゲロウデイズ』・・・?『人生リセットボタン』・・・?ウッ頭が・・・

今思えばなぜこんなダサい歌詞の曲がこんなに流行ったのかと思うが、当時の「熱気」や高速BPM曲の圧倒的人気やライブラリの発音の発展途上具合など多重的な要因が重なり、そもそも歌詞という要素に意識が向きにくかったのだろうと推測できる。しかしそういった土壌が全て崩壊した暗黒期に入ると、今までは潜在していた「ダサさ」が一気に表面化し、ボカロシーンは否応なしに「歌詞」という大きな壁に対峙しなければならなくなった

こうして歌詞に対する意識が変容しつつあった時期にちょうど発売されたのがv flowerというライブラリである。まさにシンクロニシティ。そして数年の吟味を経たのち、v flowerは見事ボカロシーンの第一線を走る人気ライブラリに化けた。それが2016年の出来事である。しかし2016年時点では、v flowerの主たるクリエイターがバルーンに限られていたこともあり、v flowerに魅力があるのか単にバルーンに需要があるのか判別がつかなかったが、2017年に入ると新旧問わず多くのクリエイターがv flowerを起用した曲で注目を集めた。『ローファイ・タイムズ/しーくん』や『超常現象/ろくろ』等がその好例だろう。こうしてv flowerは、一過性のミーム的な持ち上がりによって流行ったのではなく、最盛期から暗黒期へ移行した際に炙り出された「歌詞」の問題に対するソリューションとなり得るものとして流行るべくして流行ったライブラリであることが証明された。・・・と私は考えている。

この『光合成』もそんな時代性の中に生まれた一曲である。サウンドこそ最盛期においても散見された「ザ・軽音部」といった趣だが、やはり歌詞が最盛期のそれに比べ精緻に、かつセンス良く組み上げられている。「光合成」という自然現象に現実の人間関係をなぞらえさせながら、「水」「細胞」「呼吸」といった語彙でそれらを表現したトリッキーな一曲だ。『ユクエシレズ』だけではない、こじろーの"真価"、いや"進化"がこの曲にはある

 

②またねがあれば/risou

これも上記した「歌詞」に対する認識変化を如実に表す一曲である。正直サウンドやメロディの面に関して言えばこの曲はあまり好みではないのだが、それを差し引いても有り余る歌詞の洗練性に魅せられ、10選入りさせざるを得なくなった。

恋愛が主題化された曲というのは往々にして恋愛の綺麗な部分ばかりを取り上げがちだが、このような完璧主義は曲を我々の共感のはるか外へと放り投げてしまうことが多い。

その点この曲は生活感に満ち満ちている我々の感覚にやたら「近い」

 

"だらしない寝顔 片っ方を探す靴下

絶対言わない「ありがとう」 たまにくれる花の束"

 

この曲の中には「イデア化された「彼氏」という虚像」は存在せず、そこには優しいけどちょっとだらしない、何の変哲もない「普通の彼氏」がいる。そしてそんな彼にフラれたのも、決して「どこかの誰か」などではなく、「この曲の中のこの女性」。この実名性こそがリアリティーをさらに深みをもって演出し、我々が共感できる余地をさらに広めてくれる。「狭義化することでかえって共感の幅が広がる」という逆説に目を向け、それをうまく歌詞として表出させたrisouの手腕にただただ脱帽である。

え?お前が恋愛を語るなって?いや、勘弁してください・・・ホントに・・・許して・・・

 

③summer history/歩く人

クラブでかかったら踊っちゃうタイプのゴリゴリ系テクノポップ。ゴリゴリ系とは言ってもEDMのようなド派手な感じではなく、むしろゴリゴリな部分(動)とそれ以外の部分(静)を明確に分け、それを的確な位置に配置したような打算的で偏差値高めの一曲。テクノ文脈には全く詳しくないのでテキトーなことばかり言うと親族を皆殺しにされそうなのでここら辺にしておこうと思うが、それでも漠然と「最近っぽいサウンドだなぁ」と感じる。ポストEDM的というか。何にせよボカロテクノ界隈の今を語るうえで彼の存在を度外視することはできないだろう。

あんまり関係ないが歩く人の1stアルバムである『qinema』が委託販売中なのでまだ購入していない方はぜひ購入してみてはいかがか。もちろんこの曲も高音質で収録されている。早く購入して2017年ボカロ文脈全理解マンになろう。

 

④I Wanna Be Reborn/藍緑P

お洒落でキャッチ―なR&B。曲名の直訳は「生まれ変わりたい」。

サビで繰り返される「I Wanna Be Reborn」のフレーズがとにかく耳に残る。GUMIはこういった思春期の苦悩系ソングを淡々と歌い上げ、それでいてそこに一切の違和感をもたらさないから流石である。

また、R&Bというとお洒落な一方でどことなくアダルティな印象が強いが、そこはさすがニコニコ大百科の紹介文が「エレクトリックな曲を作る人物です」の一行しかない藍緑P、キラキラしたテクノポップと融和させることでそういった印象を抑えることに成功している。一口に「お洒落」といってもそこには数多の技巧が凝らされているのだ。そう考えると、ニコニコのタグはもう少し細分化させた方がいいんじゃないかとも思ったりする。

 

⑤春の化身/かしこ。

春の午後に聴きたいふわっとした一曲。女子高生のとある逡巡を綴ったロックナンバーである。

注目すべきはそのヨレッヨレな歌詞。

 

"春の化身 とある分身 今のあたし 瞬間ヒロイン

期末ないし あれもないし 思春期 生命体

春の化身 あなたが好き 「あたしの部屋にも来てほしい」

あのゲーム クリアしたいし レベル上げむずいの 超むずぃ"

 

「化身」「分身」「あたし」や「瞬間ヒロイン」「思春期生命体」で韻を踏んでラップ的な挙動を見せたかと思いきや「むずいの」でその流れを完全に破壊。抽象的な概念・言葉ばかりを弄んでいるかと思いきや突如飛び出る「あなたが好き」。「あたし」なのか「私」なのか定まらない一人称。ああもどかしい隔靴掻痒!

しかしよく考えてみてほしい。この、いい感じのところで意図的に「ずらす」歌詞、まさに多感な女子高生のメタファーなのではないだろうか。表向きは勝手気ままでテキトー、飽きたらすぐやめる。しかしそれでいて内心は「手を繋ぎたい」「もう無理ぃ」と大パニックに陥っていて、結局「あなた」のことしか考えられない、そんな存在。なんだお前、メッチャ愛おしいな。

これぞ萌えである。凡百の萌えソングを歌詞だけでボコボコにできそうな程度には破壊力を備えた2017年ボカロシーン屈指の萌え曲である。

浮ついた歌詞もさることながら初音ミクのリバーブがかった調教も春のまどろみを巧く演出している。

 

 ⑥夏が零れてゆく/かりく

①あたりで散々全盛期的な音作りにアイロニーをぶつけておいてこんなことを言うと憤慨されるだろうけど、やっぱりサビは大事だと思う。サビの強さは曲の強さである

クワガタPあたりを彷彿とさせるエモロックバラードにナブナ的レトリックを加味したいいとこ取りの良曲。しかし単なる二者の安易なハイブリッドに終始するのではなく、感傷的に唸るギターの残響に理性的な電子オルガンの音色が付随するようなバランスの良さや、個人的にはナブナよりさらに落ち着いているように感じる歌詞など細部で差別化を図っており、クリエイターの確かなプライドを感じざるを得ない。

 

"潮風通り過ぎる 君の背中

砂浜に映った その影は朧

波の音は静かに 夏を運び

水面を染める 落日の朱"

 

夏と夕暮れとノスタルジーはやっぱり相性が良いなと改めて思った。

 

現象学/shima

フッサールだと思った?残念!宮沢賢治でした!なポストロック。

歌詞のベースになっているのは宮沢賢治の詩集『春と修羅』。なるほど読後ならなんとなく歌詞が理解できる気がする。このような小説に明確なリスペクト元を持つ曲は『9'ON/PIROPARU』や『little traveler/ジミーサムP』を筆頭に今までも多くみられたが、それでもこういった先鋭的な解釈は珍しい。

宮沢賢治の作品といえばエモーショナルでどこか現実離れした世界主義的世界観であるが、彼自身の人生はといえば、これがかなり壮絶なもので、30代の頃、農作業の指導中に高熱で卒倒してからは苦しい病臥生活を送り続けることとなり、37歳でその短い生涯を閉じるというものであった。

以上を踏まえるとこの曲に対する認識も大きく変容を遂げる。サウンドを支配するベースの低音はまるで宮沢賢治の壮絶な人生をなぞらえるかのように重苦しく響き、一切のブレスも許さず淡々と紡ぎ出され続けるリリックは彼の人生の短さを寓意しているようではないか。エモーい!

著作権意識がインターネットにも広く普及し、リスペクトとパクリの境界線が曖昧なままで規制ばかりが強まりつつある21世紀という時代性の中、「これはリスペクトだ」と臆面もなく主張する作品を発表する行為は、相当の気概を要する一方で、確かな意義がある。

つげ義春リスペクトとかやってくれねぇかな誰か。

 

⑧キミの全てを見せてよ/Omoi

ここまでレビューを書いてきて思ったことが一つある。疲れた。私は元来聡明な人間ではないので長文を書くと脳がひどく疲弊してしまうのだ。これは耳に関しても言えることで、ハイブロウで偏差値高めの曲ばかりを聴いているとやはりどうしても耳が疲れてしまう。だからこそ、たまにはこういうパワフルで前向きな曲が聴きたくなるのだ。

私はここまでの文章で、また、去年あたりに書いた記事で、暗黒期以降のボカロシーンは「大きな物語」を失ったことでかえって進歩を見せたという旨の話を展開してきたが、しかしその「進歩」というのは、完全に全方向へと散逸したものではなく、ある程度方向性がまとまったものであったと私は考える。

 

端的に言って、ボカロは暗黒期以降「落ち着いた」方面へと向かっている。それは音に関しても歌詞に関しても言える。最盛期がワイワイガヤガヤ系ばかりだった反動もあってか、最近では俗に「チルい」などと形容されるような「冷めた」感じの曲が増えたのだ。具体的なクリエイター名を挙げるなら有機酸、歩く人、ぬゆりあたりだろうか。決してこの傾向が好ましくないと言っているわけではないが、投稿されるボカロ曲の表出的な意味での温度が低下したのは事実である。私はなんだかシーン全体が大人になってしまったかような錯覚を感じた。半ば自分らで「大きな物語」手放しておいて、いざそれが失われると寂しくなってしまうとは何とも勝手なことである。しかし今の雰囲気が嫌いなわけでは決してないし・・・うーん困った。

しかしOmoiはこの絶望的なアンビバレンスを快刀乱麻を断つかのごとくものの見事に解決してくれた。言うなれば彼/彼女は「最盛期の音を2017年の文脈で鳴らすクリエイター」なのだ。

聴けば分かると思うが、この曲といえば、というかOmoiの曲といえば、その圧倒的な「音圧」である。そしてこの音圧を可能にしているのがシンセサイザーである。こういった感じのシンセの鳴り方は最盛期のポップアイコンことkemuを彷彿とさせる。シンセサイザーは最盛期の象徴的なアイテムであると言っても過言ではないかもしれない。

しかしOmoiはkemuとは決定的に異質なものなのである。そう、Omoiは2017年の文脈を把握しているのだ。

先ほど「暗黒期以降のボカロシーンは落ち着いた」と述べたが、Omoiはここに目を向けた。周囲が落ち着いた曲ばかりだということを知っていたからこそ、「たまには騒がしい曲も聴きたい」というニッチな需要をうまく突くことができたのだろう。彼/彼女は2017年がどのような年なのかをはっきり知ったうえで、確たる自信を持って楽曲を発表していたのだ。なんと打算的なことか。そしてこの目論見は見事的中し、『テオ』は今ではミリオン間近の大人気曲である。

そんな彼/彼女の曲の中でもとりわけパワーに溢れているのがこの『キミの全てを見せてよ』である。サウンドはもちろんのこと、歌詞もすこぶるエネルギッシュで、特にサビの「キミの全てを見せてよ!」のリフレインは嫌なことの蓄積ですっかりすり減ってしまった精神を下から突き上げるように鼓舞してくれる。

こういう歌詞は人間のアーティストだとWANIMAあたりが歌うのだろうと推察できるが、人間である彼らに「キミの全てを見せてよ!」なんて迫られたらとてもじゃないが暑苦しい。疲労がさらに増すだけである。こういうのはボカロに歌わせるからこそすんなりと受け入れられるのだろう。この考え方は後述する「イノセンス」の概念にも通じる部分があるので心の片隅にでも留めておいていただけると幸いである。

 

⑨耳なりはフェンダーローズ/MSSサウンドシステム

最盛期という幻想の終焉がもたらしたのは何も作り手受け手の内省だけではない。忌々しい普遍性が瓦解したおかげで今まであまり動きがなかったジャンルが大きく躍動し始めた。その一例がヒップホップだろう。

暗黒期以降は松傘、mayrock、でんの子P、空海月あたりを筆頭に、様々な技巧が凝らされたユニークなヒップホップナンバーが数多投稿された。また、音楽のダウンロード販売サイトである「Bandcamp」ではヒップホップをテーマにしたアルバム「MIKUHOP LP」シリーズがstripelessより発売され、大いに注目を浴びた。

ヒップホップの醍醐味は「編集」にある。例えば、日本語ラップの金字塔『証言/LAMP EYE』のトラックは1964年のシドニー・ルメット監督作品『恐怖との遭遇』のサントラ盤に収録されていた『Who Needs Forever』をMIXしたものである。

そしてさらにそれを初音ミクで試行したのが2015年の『初音ミクの証言/松傘ほか』である。

このように、ヒップホップでは、他の音楽ジャンル以上に「既知から未知を導出する運動」、つまり「編集」が行われている。あらゆる種類の音楽が横溢し、もはやこの世界には真の意味での新規性などは存在しないとさえ言われる現代だが、ヒップホップはこの「新規性のなさ」という限界をむしろ肯定的に捉え、それならば、わざわざ全く新しいものを作ろうとなどせずに既にあるものを巧くくっつけたり磨いたりして結果的に新しいものを生み出せばいいのではないかと考えたのだ。なんて前向きなジャンルなんだ・・・

さて、この『耳なりはフェンダーローズ』もまた「編集」がうまく活かされた名曲である。これについては鈴木O氏が自身のブログで私の言いたいことを全部代弁してくださったので正直私の出る幕はないような気もする。以下引用。

 あまりに名曲です。元ネタはファラオ・サンダースの You've Got To Have Freedom。大ネタでかつまんま使い。曲中のいくつかの部分をサンプリングして繋ぎ合わせていますが、手の込んだ編集は行われていません。初音ミクの歌うメロディに関してもサンプリング元のフレーズをほぼそのまま使ったようなものです。これは安易さから来るものとも取れますが、それ以上に勇気のいる選択です。オリジナリティや作家性といったものへの拘泥はしばしば過剰な自己主張を生み、作品の心地よさ捻じ曲げてしまいます。大好きな曲をサンプリングして作った上出来なトラックに「個性的な」メロディを乗せようとして台無しにしてしまう……これはわたしにも経験があることです。しかしMSSサウンドシステムはそうはしませんでした。あくまで素直にメロディをのせたのです。作家が自らのエゴを適切に管理し作品へ奉仕することが、この作品のよさに貢献しています。ではこの作品にサウンド面での作家の自己主張はないのかというともちろんそんなことはなく、むしろ特大で鳴り響いています。すばらしいドラムの音が。

https://note.mu/suzuki0/n/n3c3ee2f43fad

 このように、『耳なりはフェンダーローズ』においては、「編集」がもはや「要素」ではなく「全体」にまで拡大化している。つまり曲のほとんどの部分が既存曲のサンプリングなのだ。引用部分でも触れられているが、まさにこの「自我の薄さ」もまた後述する「イノセンス」の概念にちょうど合致する。「イノセンス」は2017年中頃にTwitterを中心に広がっていった概念だが、これももしかするとヒップホップの精神性が下地になっているのかもしれない。

 

⑩アイドル/puhyuneco

イノセンスイノセンス言われても何のことだか分かんねーよバカという方が多いだろうからキュウ氏のブログを引用しておこうと思う。これを読んでおけばなんとなく「イノセンス」の何たるかが把捉できるのではないだろうか。

ではまず、イノセンスの言葉の意味からアプローチしていきたいと思います。
イノセンスは日本語では無垢、無邪気などと訳されます。
このことから簡単に解釈すると、例えばモテたいとか、人気者になりたいなどといった世俗的な欲望を排したことを指していると考えられます。
そうすることによって本当に伝えたい感情をフォーカスした音楽が「イノセンスがある」と呼ばれていると言えるでしょう。

 

(中略)

 

元々、無垢を表現するための手法として、心の無いものに頼る手法が存在しました。
そして方法論として、当事者では無い声(特に子供の声)を用いる、あるいは声を加工する、などが存在していました。
それから技術は発達し、そこに新たな心のないものである機械を用いる手法が台頭してきます。
ところが機械による声が存在しなかったため、機械によるイノセンスのある歌ものを表現することが出来ませんでした。
それを可能にする最後のピースであり、しかも当事者では無い声として用いることが出来る、それがボーカロイドであると言えるでしょう。

https://note.mu/rooftopstar/n/nbf5d12b2bdd6

つまり「イノセンス」とは作り手の感情が完全に純化(=無垢化)されたボーカロイド音楽のことを指すのである。とはいえ、「イノセンス」自体がかなり扱いにくいバズワードであるため、「である」と言い切ることはできないかもしれないが。

しかしここで疑問が一つ。それは、ボーカロイド自体は2007年から存在していたのになぜ「イノセンス」の概念が提唱されるようになったのは2017年に入ってからなのかというものである。

ここからは勝手な持論だが、私はこの「イノセンス」の概念が誕生したことにも①で述べたような最盛期的「大きな物語」の喪失が密接に関わっているのではないかと考えている。

再三同じことを言っている気がするが、最盛期の「大きな物語」の熱気はボカロシーンに潜む諸問題を曖昧化させていた。これについて、①では歌詞の例を挙げたが、問題はそれ以外にもある。その中で「イノセンス」へと直接結びつくのが「敢えてボカロに歌わせることの意味」という問題である。

最盛期までのボーカロイド文脈では、ボカロという技術の目新しさゆえ「ボカロであること」自体が新規性を帯びたものであり、従ってわざわざ「ボカロに歌わせる意味」など考えなくても、曲を発表さえすればそれは必然性を伴って「新しいもの」であったのだ。しかしこの実体なき熱気が終焉を迎え、ボカロが「世の中に存在する音楽のうちの一つのカテゴリ」へと収斂した時、つまり、ボカロがボカロであるがゆえの特別性を喪失した時、ボカロ音楽は遂に己のアイデンティティを獲得できなければ他の無数に存在する音楽の中に埋没してしまうという窮地的局面へと突き当たってしまったのである。そしてここで改めて「敢えてボカロに歌わせることの意味」というビッグイシューが浮かび上がってきたのだ。

これについては多くの人間が頭を抱えた。ある者は前衛音楽に傾倒し、ある者はブログを書き、またある者は界隈から去った。まさに過渡期だったと思う。

しかし苦節約数年を経、2017年、遂にある一つのアンサーが誕生した。それが「イノセンス」だ。

イノセンス」には絶対に人間が介入できない。なぜなら人間は人間でしかないからてまある。いくら人間の声のピッチを機材で弄っても、それは「人間を引き延ばしたもの」に過ぎない。従ってそこに「イノセンスっぽさ」はあったとしても、それはどこまでも疑似的なものなのだ。ボカロだからこそ純粋な「イノセンス」たり得るのである。イノセンス」はまさにボカロシーンが苦悩の果てに遂にたどり着いた一つの境地だと言えよう。これを喜ばずして何に喜ぼうか。

『アイドル』はそんな「イノセンス」の発端となった、いわば全ての起点である。

前衛とポップの狭間をふらふらと揺れ動くようなサウンド、感情の見えない無機質な絵、そして他の追随を許さぬ圧倒的なまでに抒情的な歌詞。どこを取っても圧巻の一言である。

 

"動物と人間のあいだで きみが好きって そんな青春

コンクリートに埋まるさよなら

ふり返ったら咲いてたらいいな って

 

初恋でとなり同士、一言もしゃべらないまま

夏休み、部活帰りに きみとばったり 夕立のなか

 

夕立のなか。

 

偶然アイドル 偶然にアイドル"

 

曲単体としても、界隈に与えた影響の大きさとしても、間違いなく2017年で随一の最高傑作であると言えよう。是非聴いていただきたい。

 

⑪翼のない天使/平田義久

なぜ11曲目?と思うかもしれないがまぁ落ち着いて欲しい。

私は愚かなので12月下旬には既に「2017年10選」をTwitteで公開してしまっていた。さすがにあと数日で私の心を射抜くような曲が出てくることはないだろうと。しかしこれはあまりに軽率愚盲な行動であった。まさか12月のしかも27日にこんなヤバいものが投稿されるとは夢にも思わなかった。来年からは年が明けてから10選を公開するようにしたい。

この曲で注目すべきはやはり初音ミクの調声である。はきはきしており抑揚のついた有機的な響きはどこかにおPを彷彿とさせる。日の照る海辺の輪郭線のない情景を克明に表現したエモーショナルな歌詞は我々を夏へと誘う。レゲエはダサいというパラダイムを覆すほどの熱量を持った年末の快作である。

やっぱ冬より夏の方が好きかもしれない。夏には逆のこと言ってると思うけど。

 

まとめ

2017年は初音ミク10周年ということもあり、多くの人々がボカロシーンに横たわる諸問題について「反省」した年であったように感じた。また、kemu、ハチ、wowakaといった最盛期の大物Pが次々に復活し「王の帰還」だのと散々持て囃されたのも記憶に新しい。これについては私の過去の記事でちょいちょい触れてきたので気になった方は読んで頂けると幸いである。

 

 

 

記事を書いていて改めて思ったが、やはりボカロはどこまで追っても面白い。2018年もどんな出来事が巻き起こるのか相変わらず目が離せない。私もボカロについてのブログを執筆することで少しでも界隈に寄与出来たら嬉しいと思うばかりである。

 

それでは皆さん、今年度も良きボカロライフを。