美忘録

羅列です

VOCALOIDにおける作り手/受け手の関係

VOCALOID界隈、殊にリスナー界隈においては以下のような議論が頻繁に巻き起こる。それは、作り手/受け手がそれぞれどう振る舞うべきかについての議論である。これについて作り手/受け手がそれぞれの立場から喧々諤々と意見を鍔迫り合わせる様子は界隈にいる人間にとってはもはやお馴染みの光景だろう。

 

そもそもなぜこのような事態が起きるのか。私はここにVOCALOID音楽(これは「同人音楽」まで定義を広げても構わないかもしれない)における作り手/受け手関係の特異性を見た。今回はそれについてつらつらと記述しようと思う。

 

VOCALOID音楽はインターネットに根を下ろしながら成長を遂げてきた音楽である。従ってこれに対置すべきはインターネット以前の音楽だろう。そこでまずはインターネット以前の音楽の特徴について記述することで、結果的にVOCALOID音楽の特異性を炙り出していこうと思う。

 

インターネット以前の音楽における作り手/受け手の構造はインタラクティビティが決定的に欠如している。「作り手→受け手」の構図は存在したが、「受け手→作り手」の構図はそもそも成立しにくかった。

 

これはひとえに作り手と受け手が平等な状態で対峙できるステージが存在しなかったことが原因だ。作り手はいつ何時でも自分自身を音楽によって表現できた一方で、受け手はコールや拍手といった記号的応答、あるいはファンレターやプレゼントといったメタ階層の低い手段による意思表示しかできず、作り手/受け手の関係がフラットで相互的なものだったとは言い難い。

 

また、インタラクティビティが欠如することで作り手の素性はブラックボックス化される。作り手は自分自身を自由に表現できたため、そうしようとさえ企図すれば簡単に自らを秘匿できたのだ。こうなると、作り手への愛と知識欲が溜まりに溜まった受け手の感情は最終的には神性を帯びたイデア的作り手像を自らの内面に構築する。テレビにほとんど出演しないアーティストが受け手の想像力によって過剰なまでに祭り上げられていたのがその好例だ。

 

弥生時代に神事以外では決して外部と接触しなかった卑弥呼や城柵と監視カメラに囲まれ外敵を拒む皇居に住んでいる天皇などが信仰や尊敬を集めている例にからも分かるように、秘匿化された存在に何か深遠なるもの、神性を見出してしまうというのは今も昔も変わらない普遍的な現象なのだろう。

 

受け手が作り手に神性を見出す流れは、言うなれば受け手が作り手に対してフラットな関係であろうとする営為を放棄したということであり、これは「受け手→作り手」の構図の実現可能性をさらに低めていく要因となった。

 

このように、インターネット以前の音楽では、受け手は作り手に従属する形で存在している側面が強かったのである。

 

しかし、インターネットがユビキタスに広がっていくにつれ、この構図は揺らぎを見せはじめた。

 

殊にTwitter時代の到来は従来までの作り手/受け手の構造を根本から変えた。Twitterにおいてはどんなに著名な人間でもどんなに矮小な人間でも同じフィールドに立て、しかも相手の主張に対してほぼノータイムでレスポンスを返すことができる。これにより作り手と受け手の距離は従来に比べ大幅に縮まった。これにより両者間に一定のインタラクティビティが担保されるようになったのだ。

 

また、Twitterでは、瑣末な情報を表面化させる行為が許容されており(というかそもそもそういった些事の集積こそがTwitterの本質だと思うが)、例えば超がつくほどの有名人が「タンスの角に小指ぶつけた」などと呟いても誰もそれを咎めない。それどころか、「あぁ、この人も俺と同じ人間なのだな」という安心感さえもたらす。

 

そしてこのTwitterの特性は、先述した「作り手の神性」を完膚なきまでに破壊する。受け手の想像力が都合よく補完していた行間を本人の方が先に埋めてしまうのだから、そこに神性を見出すことが困難になるのは至極当然だ。

 

以上から、インターネット以前の作り手/受け手の関係はSNS(主にTwitter)の台頭によりほぼ完全に相互的なものへと変容した。(「ほぼ」と記述したのは、上記を見越して意図的にSNSを運用しない作り手がまだそれなりにいることを考慮したからである。)

 

VOCALOID音楽はまさにこの相互性の時代に生を受けた音楽である。大抵の作り手はTwitterを運用しており、受け手と活発にコミュニケーションを取っている者も多い。

 

『天ノ弱』で有名な164や『ネトゲ廃人シュプレヒコール』で有名なさつき が てんこもりなどは自分のことをフォローしてきた受け手をほぼフォローバックしている。また、『私は演者です』のヒッキーPは、メインアカウントとは別に、リスナーと交流するためのラックスアカウントを所有している。これらは作り手と受け手の関係を作り手側からフラットなものにしていこうという意思の表れとも取れるだろう。

 

VOCALOID音楽では、作り手/受け手が相互的に作用し合う関係の中にある。だからこそ、こうして互いの立ち位置について議論する余地も生まれてくる。「作り手かくあるべし」「受け手はもっとああしろ」といった議論が絶えないのは、まさに二者間に相互性が存在することを象徴するものなのだ。

 

 

 

 

 

以下はここ数日で巻き起こった作り手/受け手の関係性についての議論に対しての私見である。暇があれば読んで頂けると幸いだ。

 

二者間の関係が相互化している場合が圧倒的に多いVOCALOID音楽においては、作り手は従来以上に受け手の方を真摯に見据えなければ、衆目を集めることはきわめて難しいだろう。というのも、受け手が勝手に行間を埋めたり神性を見出して無条件に礼賛してくれたりする構図はTwitter時代の今となってはもはや成立しないからである。

 

従って、きちんと時流を読み、文脈を踏まえた者だけが「人気者」になれるのだ。それさえ怠り好きなことをやるだけで栄光が掴めると思い込むのはよっぽどのカリスマ性を備えた天才か、もしくは真性のバカだけだろう。

 

好き勝手やること自体はまた別ベクトルの価値を持つ営為だとは思うが、それで想定以下の反響しか得られなかった場合に受け手を非難するのは少々エゴが強すぎるのではと感じる。

 

とはいえ、これらは我々受け手にも通ずる部分がある。目の前に現前する好きなものだけで満足し、それ以上何もアクションを起こさないのは、常に新たな極地へと邁進し続けている作り手たちに対して大変不誠実である。曲を掘るなり宣伝するなり感性の幅を広げるなりできることはいくらでもあるはずだ。

 

どっちつかずな結びとなってしまったが、しかしこれは決して日和見ではない。どちらかが動くだけではシーン全体としては何も進展しないというのは純然たる事実である。だからこそ、どちらもが相手を真摯に見据えることが何よりも重要不可欠なのだ。我々の関係は今まさに"相互的"なのだから。