美忘録

羅列です

必然性なきVOCALOIDはVOCALOIDたりえない

映画、文学、音楽。それがどのような形態をとるにせよ、作品にはすべからく必然性が込められるべきだと私は考えています。というのも、そもそも作品という概念の定立根拠として、必然性は不可避的に存在するからです。必然性がなければ作品でないといっても過言ではないでしょう。

 

藪から棒に「必然性」なんて言われても・・・という指摘もごもっともなのではじめに例え話。ここにとある私立探偵がとある怪奇事件に挑み、順当に解決の糸口を見つけていくサスペンス小説があるとします。現場に残されたわずかな情報を頼りに、私立探偵は持ち前の智慧と正義感を用いて少しずつ犯人に近づいていく、みたいなよくある小説です。

 

しかし、もしその合間に無意味な(=必然性のない)シークエンスが挟まれていたら皆さんはどうしますか?(それはたとえば、私立探偵の好きなAV女優について何千文字ぶんもの紙幅が割かれているとか、本筋とは何のかかわりもない中年男性の生き様が仔細に考察されているとか、そういうものです)

 

たぶん多くの方がそこに何らかの意義を見出そうとするでしょう。そしてどう思索を練っても意義が見出されないことがわかればひどく当惑することでしょう。

 

レトリカルな言い方にはなりますが、投げられたボールは必ずどこかでグローブに収まらなければなりません。あるいは物語というグラウンドの内側においてはどこにも着地しないにしても、その外側に存在する誰か/何かにいつか必ず直撃しなければなりません。そうしなければ作品というゲームは成立しないからです。私立探偵の性的嗜好は事件解決の方法論に結びつかなければならないし、中年男性は何らかの形で事件に介入しなければならないのです。

 

つまり我々受け手は作品という構造物に対して、(それがアプリオリであるかアポステリオリであるかは本題から外れるため今回は言及しませんが、)無意識のうちに意義、つまり必然性を要求しているのです。(もし必然性がなければ受け手の方でそれを生み出そうとさえします。)これはあらゆる作品にパラフレーズが可能な定式でしょう。この定式の外にあり、なおかつある程度広範なコンセンサスをもって立派に作品と名指されるものなどたぶん存在しないと思います。それは意味の欠落した無意味の集積でしかありません。

 

さて、以上を踏まえたうえで、今回はVOCALOIDに対して私が抱いているある危惧についてお話ししたいと思います。

 

それはつまり上述したような必然性にかかわる問題です。「VOCALOIDである必然性」という問題です。

 

VOCALOIDというコンテンツは依然として劇的な変化を続けています。コンテンツが興隆する場としての地位を占めていたニコニコ動画は今では諸動画サイトの中のワンオブゼムに落ち着き、単なる傍流であったはずのYouTubeやビリビリ動画が日に日にドミナンスを強めています。ニコニコ動画では数万再生にとどまっている楽曲がYouTubeやビリビリ動画では何百万回も再生されるというようないわゆる露骨な逆転現象も起きています。

 

これと並行して、技巧的な面においてもVOCALOIDはめざましい進化を遂げ続けているといえます。2019年現在も定期的なライブラリアップデートが続いていることがそれを端的に示していますし、また、VOICEROID実況、「無限にホメてくれる桜乃そら」や「アカリがやってきたぞっ!」といったGYARIによるポエトリーリーディング的楽曲、あるいは傘村トータの流行なども調声技術の向上によってリリックが聞き取りやすくなったことによるところが大きいでしょう。

 

また、ポストVOCALOIDアーティストの出現も無視できない側面です。14年ごろ以降、米津玄師(彼自身はそこまで「ポストVOCALOID的」ではないと思いますが)を嚆矢に、VOCALOID的文脈をもったさまざまなアーティストがポップシーンに出現しました。ヨルシカ、ずっと真夜中でいいのに、神様、僕は気づいてしまったなんかがその好例でしょう。ハイテンポでキッチュサウンド、過度にアブストラクトあるいは過度にエモーショナルなリリックはもともとVOCALOIDに特有だった要素です。ニコニコ動画という箱庭の中で完結していたガラパゴス的コンテンツが今やメジャーシーンとインタラクティブに関わりあうまでに巨大化したのです。彼らポストVOCALOIDアーティストはいわばそのメルクマールというわけです。

 

さて、上述の通りさまざまな形態でさまざまな局面へと開かれつつあるVOCALOIDですが、果たしてこの前進が行き着く先はどこなのでしょうか。

 

活動領域が拡大し、声がクリアになり、ポップ音楽との境界が消えていく……確かにこれは不断なる変化、つまり前進です。

 

しかしよくよく考えてみてください。いつかVOCALOIDと人間の聞き分けがつかない臨界に達したとき、つまりVOCALOIDと人間の間に完全な互換性が確立されたとき、そこには果たして「VOCALOIDである意味」は存在するのでしょうか。もしそれがないのなら、それはもうVOCALOIDであるとさえいえないのではないでしょうか。必然性なきVOCALOIDVOCALOIDたりえないのではないでしょうか。そんなことを考えます。

 

VOCALOIDが好きではない知人にこう聞かれたことがあります。「それ、人間が歌うんじゃダメなの?」。

 

これは単純明快でありながら問題の中核を抉る非常に鋭い指摘だと思います。我々はこれに対して明確な理論武装をしなければいけません。そうでなければVOCALOIDが歩んできたこの10余年の軌跡は無意味の荒野で惨めに朽ち果てるのみです。VOCALOIDはいま、死という彼岸に向かって必死にオールを漕ぎ続けているのかもしれません。

 

少しだけ歴史を回顧してみましょう。

 

07年ごろの黎明期においてはVOCALOIDは萌えでパッケージされた物珍しいギークアイテムに過ぎませんでした。しかしまさにこの珍品性こそが、必然性の問題を先送りにしつつVOCALOIDというカルチャーを周知させるという芸当を可能にせしめたのです。

 

(しかし、今になって振り返ってみれば、この頃に流行した「恋するVOC@LOID」や「えれくとりっく・えんじぇぅ」といったキャラソン的楽曲は初音ミクという存在そのものに言及していたという点において後の主流的楽曲よりもむしろ「VOCALOIDである必然性」に肉薄していたかもしれません。)

 

その後、萌えキャラクター「初音ミク」を主題としない「メルト」や「celluloid」といった楽曲を通じて萌えによって糊塗された偽りの仮面が剥がされ、いよいよVOCALOIDである必然性についての問題が取り沙汰されるようになるかと思いきや、今度はVOCALOIDがインターネットを取り巻く一大ムーブメントにまで膨張し、VOCALOIDである必然性などという入り組んだ存在論に向き合わずとも、言うなれば「VOCALOIDを起用していることそのものがVOCALOIDである意義である」という詭弁的/刹那的トートロジーさえあれば十分になってしまったのです。事実、この時期はEXIT TUNESをはじめとした各種レーベルがVOCALOIDの楽曲だけを収録したアルバムを次から次へと世に送り出していました。07年発表のくちばしP「私の時間」において初音ミクが自己言及的に歌い上げた「オリコン1位も遠くないかもね」が実際にリアライズしたほどです。こういう言説が手放しに受け入れられるくらいに当時のVOCALOIDには勢いがあったわけです。

 

しかし往々にしてバブルは弾けるもの。不動産価値が急落するように、14年ごろを境にVOCALOIDの勢いはぱたりと止んでしまいました。この時期において、VOCALOIDの起用がVOCALOIDである必然性とそのままイコールで結びつくという構図が幻想であったことが白日の下に晒されてしまったという感じがあります。

 

それを如実に示すのが上述したようなポストVOCALOID的アーティストのメジャー進出でしょう。ハチ、ナブナ、バルーンetc...

 

彼らは、そう明言はしなくとも、自身が音楽という営為を続けるにあたって、VOCALOID以外の選択肢を見つけたのだと言えます。(和田たけあきや平田義久はこれを「踏み台」と呼んでいます。以下リンク)

togetter.com

natalie.mu

 

この現象はつまり、「VOCALOIDは代替可能なものである」という言明であり、VOCALOIDが当初より本源的に抱えていた「VOCALOIDである必然性」に対するひとつのアンサーなのではないかと私は考えます。彼らにとっては、VOCALOIDとは、言い方は悪いですが、数あるものの中のひとつなのです。簡単に言えば、「VOCALOIDである必然性などそもそも不要なのだ」ということです。

 

私はこの趨勢を、VOCALOIDが不断の変貌を遂げている証拠として誇らしく思う反面、「VOCALOID”を”聴くリスナー」としては何としても反駁していかなければならないと考えます。具体的に言えば、我々はVOCALOIDに対してVOCALOIDである意味をもっと付与していかなければなりません。「作り手は往々にしてVOCALOIDである必然性が必要不可欠であると考えている」と思い込むことをやめ、我々受け手の方がその必然性を創出していなければなりません。そうでなければ、日々人間の音楽との互換性を強めていく、つまり同化しつつあるVOCALOIDという音楽カルチャーを、ゆくゆくは人間の音楽と峻別できなくなります。その地平において発せられる「僕/私はVOCALOIDが好きです」という言葉は、果たして誰かを強く引きつけるだけの訴求力があるでしょうか。

 

私はこれからも胸を張って「VOCALOIDが好き」と言い続けたいです。そのためにはVOCALOIDである必然性が振り出されなければならないのです。

 

それをやるのは、他の誰でもない、そうであってほしいと願う我々一人ひとりなのではないでしょうか。