美忘録

羅列です

10選+αで語る2018年ボカロシーン

あけましておめでとうございます、因果です。2019年は洗剤を切らさないよう頑張っていくことを目標にしました。あとはちゃんと単位を取る。

 

さて、2018年のボカロシーンも語るに尽きぬ激動の一年だったと言って過言ではないでしょう。そこで私の10選や話題曲を挙げながら2018年という一年を私の解釈の下で振り返ってみることにします。

 

あらゆる方面から色んなものを引用してくるスタイルは私が敬愛してやまないしろばなさん(@banaxie)氏リスペクトです。氏のブログを貼っておきますので当記事とも併せて是非読んで頂きたい。


shirobanasankaku.hatenablog.com

 

それ単体として存在しているように見える楽曲たちが体系的な知識というフィルターを通すことによって実は裏でつながっていたことが判明する、そういうカタルシスを心ゆくまで享受できる「気持ちイイ」ブログです。

 

さてそろそろ本題に入りましょう。

 

 

 

①頑張るしかないらしい/ぷにまる

ぷにまるの破壊的応援歌。はじめは軽快でポップな曲調だが、それがノイズやビープ音などによって徐々に歪められていき、終いには「だからファイト私!頑張るしかないらしい」という呪文めいた鼓舞をただ延々と繰り返す狂気空間が現前する一曲。

 

「行き過ぎた鼓舞がかえって自分を苦しめる」というのはアイロニーの手法としてはかなり使い古されたものであるが、ぷにまるはその先に潜む更なる社会の暗部を突く。

 

平成ももう終わるが、依然として息の詰まるような社会問題が日々取り沙汰されている。2020年東京オリンピックにおける人材の買い叩きや、先日発表された「ブラック企業大賞」で三菱電機が見事大賞を受賞したニュースなどは読者諸君の記憶にも新しいだろう。

 

このような大規模構造の中においては個人、つまり「私」はあまりにも無力である。独力では悪徳企業を崩壊に追い込むことも、男女平等を達成することもできないのだ。労働組合や#MeToo運動の存在こそがまさにそれを決定的に裏付けている。

 

だからこそこの無力で矮小な「私」は今日も社会の要請に従って仕方なく頑張らざるを得ない。そこに決して本心からの自発性はないのだ。「頑張りたくはないけど、でも頑張らないといけないから頑張っている」のである。そしてこの重層的にねじれた心理を、面従腹背の反骨精神を、うまく一言で言い表したものこそが「頑張るしかないらしい」というフレーズなのだ。

 

変わるべきは社会なのか、それとも「私」たちなのか。『頑張るしかないらしい』はそんなフェータルな問いかけをリスナーに迫る。

 

②堂島交差点/夜行梅

ボカロ界隈にも徐々にヒップホップカルチャーが根付いてきたことは動画投稿数の推移やしま(@shima_10shi)氏主催「Stripeless」発の『MIKUHOP』のシリーズ化等からも分かるだろう。

 

ヒップホップを体系的なカルチャーとして成立させるものとして「サンプリング」という文化が挙げられるが、ボカロにおいてはその参照点が外部、つまり「非ボカロ曲」にある場合が多く、「ミックホップ(ボカロにおけるヒップホップ楽曲の総称)」をシリアルに語ることはきわめて困難だった。

 

しかし遂に出た。参照点がボカロ曲に存在するボカロ曲が。それこそがこの『堂島交差点』。

 

参照曲はDixie Flatline黎明期の名曲『東雲スクランブル』。選曲が渋すぎる。

 

ちなみにDixieの投稿者コメント曰く「モデルは渋谷スクランブル交差点」、つまり東雲スクランブル=渋谷スクランブル交差点とのこと。次に『堂島交差点』について調べてみると、これはどうも大阪梅田にある同名の交差点のことらしい。東京渋谷と大阪梅田。オタクはこういうさりげない対比に弱いのである。

かなり大胆な大ネタで、初音ミクが「uhh baby」と思いきり歌唱しているサビ冒頭部分がほぼそのまま使用されている。聴けば分かるがマジでそのまんまである。

 

今年7月には4年ぶりのアップデートとなる「VOCALOID5」が発売されDTM界隈が大いに沸き上がったが、これによって初音ミク発売当初より幾度となく議論の俎上に上げられ続けてきた「初音ミクは楽器か?歌姫か?」論争も再興した。

mitchie-m.com

『堂島交差点』におけるこの大胆なサンプリングは、後者(初音ミクは歌姫である)を否定することなく、なおかつ前者(初音ミクは楽器である)の可能性を押し広げる宥和的アンサーであったと私は考える。

 

私は常々、音声合成技術の飛躍的な進歩がいつかボカロと人間の境界を完全に破壊し、その結果ボカロはかえって衰退するのではないか、という一抹の危惧を抱いている。そもそもこのサンプリングを面白いと感覚できるのも私がボカロの不完全性に魅せられているゆえのことだろうし。

 

ボカロはこれから果たしてどこへ向かっていくのか。これからもあくまでボカロとして振る舞い続けるのか、あるいは境界線を越えて人間になるのか、はたまたそれ以外か。この曲を聴きながらその行く末を見届けたい。

 

③ANIMAる/梅とら

音圧とセンシュアルなリリックに定評がある梅とらだが、今回はアレンジ、調声、MIXにギガPを迎えている。特に調声の面ではボカロの電子音的な特徴は残しつつも人間のようなブレス音を再現するなど、ギガPの「ボカロならでは」を追求する姿勢が多分に窺える。そしてそれは2か月後に投稿される『劣等上等』として結実する。

また、梅とらのリリックセンスも年々上昇の一途を見せており、はじめは露悪的だったエロスが豊穣な語彙と言い回しの中に沈潜するようになったため幾分耳触りのよいものとなった。内包するエロスの量そのものに変化はないが、これならお母さんの前で流してもギリギリ気まずくならずに済みそうだ。

 

思想家の九鬼周造は主著『「いき」の構造』において「媚態」とはゼノンの「アキレスと亀のパラドクス」にみられるような、「達せそうで達せない状態が開示する価値」のことであると述べているが、昨今の梅とらのリリックメイキングはまさに媚態的と称賛するに相応しいものなのではないか。

「いき」の構造 他二篇 (岩波文庫)

「いき」の構造 他二篇 (岩波文庫)

 

 昨今、世間ではあいみょん、ボカロ界隈に限ってはカンザキイオリなどの、シンガーソングライター的側面の強いアーティストが衆目を集めている。これらのアーティストに共通するのは、彼らが剥き出しの感情をそのまま歌に込めている、ということである。

 

剥き出しの感情というのは往々にして剥き出しの言葉、つまり「強い言葉」によって表現されるものだが、この「強い言葉」というのは、それ以外の「弱い言葉(便宜上こう表現する)」の存在との相対上にのみその価値が表れる(逆もまた然りだ)。つまり、「強い言葉」、あるいは「弱い言葉」というのは、それに対応する言葉の存在によって規定されている。

 

これは、例えば少年漫画で主人公が毎回最終奥義を使って敵を倒していたら次第にそれを最終奥義と感じなくなってくるのと同じだ。緩急がなさすぎると我々はどこにパンチラインがあるのか分からなくなってしまうのである。あいみょんでは『貴方解剖純愛歌』、カンザキイオリでは『命に嫌われている』がその好例だろう。

 

しかしあいみょんやカンザキイオリの人気ぶりからも窺えるように、こういった「剥き出しであること」を礼賛する層はむしろマジョリティーである。だからこそ私は、そういった流れに逆らい、ただ媚態の境地を目指し己を研鑽する梅とらの姿勢を全面的に支持していきたい。

 

④りんご/目赤くなる

ふつう、「夢」というと何か輪郭が欠如したアブストラクトな情景が連想されがちである。事実、「夢」でシソーラス検索をかけると案の定「幻覚」あるいは「まやかし」といった語句がヒットする。このことからも「夢」というものの漠然性はある程度人口に膾炙しているといえるだろう。

 

しかしこの等式は意外にも絶対ではない。というのも、「夢」というものは実際には部分的に薄気味の悪いほどのディテールを持つことがあるからである。精神科医カール・ユングは自著『宗教学辞典』において、「夢には意識的洞察よりも優れた知慧がある」のだと述べた。つまり、我々が普段はたらかせている意識の方が、意識が捉えた情景よりもむしろアブストラクトだというのだ。

 

確かに「その支離滅裂さから夢と判断することはできても細部にリアリティーがありすぎて現実と見紛ってしまいそうになった」、などという経験はいくらでもある。この前など夢の中で用を足したのを現実と勘違いし危うく人間としての尊厳を失うところだった。一見すると途方もなく思えるユングの主張だが、実経験に照らし合わせてみればそれなりの妥当性を持つのではないか。

 

氏の『りんご』もまさにユング的「夢」のような世界観を持つ不思議な一曲だ。音像は終始ぼやけ、初音ミクの声もふにゃふにゃとしているが、時折その微睡みを破壊するように歪んだ不協和音が差し込まれる。しかもそこに何の法則性・連続性もない。夢という現象の本義をここまでリアルに追体験できる音楽というのはそうそうお目にかかれるものではないだろう。

 

⑤キャンディーポイズン/RUBY-CATMAN

今年度で一番「騙された!」と舌を巻いた一曲。

 

イントロからBメロまではいわゆる「ボカロっぽい」と形容(あるいは揶揄!)されるようなハイテンポかつキッチュな歌詞のノせ方が続く。そのコテコテさといったらサビでも同様の流れが続くことを予期させるに十分なほどである。

 

しかし意外なことに、サビはそれに反し一切小手先のテクニックがない王道の4つ打ちテクノポップが展開される。予期を完全に裏切られ、ここでリスナーは初めて「やられた!」と気づくわけだ。「こういう曲は往々にしてこういう展開を辿る」といった具合に、VOCALOID楽曲の文脈をよく理解し、自身の中でそれを体系化している者であればあるほど、この「外し」はフェータルに刺さる。いわば「メタ・ヘヴィーリスナー」な一曲なのである。

 

さらに驚くべきはRUBY-CATMANがこれらを意図的にやっているかもしれないということである。それを裏付けるのがアウトロのスキャットパート。百聞は一聴にしかずということで実際に聴いて頂ければ理解いただけると思うが、メッッッチャクチャ『ネトゲ廃人シュプレヒコール』の間奏に似ている。

ネトゲ廃人シュプレヒコール』といえばボカロ黎明期〜全盛期(千本桜期)の時代の中で熱狂的な支持を受けた伝説入り(100万再生超え)楽曲のひとつであり、古参ファンにとってはこの曲が思い出深い者も多い。

 

それを半ばサンプリング的に2018年の自曲の中に組み込むというのは「私は過去の蓄積の上に自身を花開かせている」という氏の意思表明に他ならないのではないか。「メタ・ヘヴィーリスナー」などという芸当が可能なのも、過去の文脈への精密なリサーチがあってこそのものなのだと推測できる。ボカロ慣れしているからこそ聴きたい一曲だ。

 

⑥鬼/Jille.Starz

 例えば、有名な資産家が「世の中金じゃない」と言っていたら、高卒の労働者が「学歴なんか何の役にも立たない」と言っていたら、あなたはどう思うだろうか。私なら「お前が言うな」とでも罵言を飛ばすだろうが、こればかりは本当に人それぞれである。私のように立腹する者もあれば「あなたこそそれを言うことのできる立場だ!」と逆に感激する者もあるだろう。しかしどちらにせよ通底するのは「行為者のバックグラウンドが考慮される」という点である。そして受け手が「行為」と「行為者のバックグラウンド」があまりにも食い違うと認識した場合、その「行為」は受け手の生活の中において「耳障りなノイズ」でしかなくなってしまうのだ。当時中学生という若さで残忍な連続殺傷事件を起こした、通称「少年A」が出所後に自伝を出版した際に「犯罪者が偉そうに高説を垂れるな」という苛烈な世論に晒されたことなどが良い例だろう。

 

この無意識的なバイアスを自分の中から排除することは非常に困難であるが、これを軽減してくれる濾過装置はある程度存在する。音楽におけるそれが「ボーカロイド」だ。ボカロにはオタクが作り上げたかりそめの設定(例えば初音ミクならネギが好きとか一人称が「僕」とか)は点在するが、正史と呼ぶべき普遍的なバックグラウンドは存在しない。この無機質さこそがボカロを濾過装置たらしめる最大の要因である。バックグラウンドがないということは、上記したような「~~のくせに」という対人間的な感情が喚起されないということであり、つまり、人間が歌っていたらなんかムカつくリリックも、ボカロが歌えば何とも思わずに済む可能性があるということである。

 

『鬼』はボカロのこういった可能性がこの上なく有効活用されたヒップホップナンバーだ。「上を見るよりもまず鏡/それより大事なのは中身/真似じゃねえんだよ Not WANNABE/Jille.’s Wonder RAP 既に新たなる SCENE」などという歌詞は人間が歌おうものなら暑っ苦しくてかなわないが、バックグラウンドを持たないGUMIならその暑苦しさが幾分軽減される。Jille本人もそのシステムを理解しているからこそ、やや踏み込んだ過激な表現を敢えて曲中に取り入れているのではないか。

 

また、『鬼』はGUMIの輪郭あるハキハキとした発音も相まって、ライムが本当に気持ち良い。「LもRもギターギター/そんなサウンド飽きた飽きたー」あたりは殊に「i」の発音が際立つGUMIだからこそ映えるフレーズだろう。Taskの『キドアイラク』でもそうだったが、ラップ楽曲におけるGUMIの可能性は計り知れないと思う。2019年はJille.Starzを旗振り役にGUMI×ラップがもっと流行ってほしい。マジで。ガチで。

 

⑦サイコ/松傘

『エイリアン・エイリアン・エイリアン』や『ミックホップのはらわた』などで知られるボカロヒップホップシーンの雄こと松傘のTrapナンバー。曲名の元ネタはもちろん鬼才アルフレッド・ヒッチコックの代表作『サイコ(1960)』。

サイコ [Blu-ray]

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作中ではシャワーを浴びていたヒロインが突然何者かの襲撃に遭遇し命を落とすが、リリックはその際の彼女の心情を代弁するものだろう。「誰か来て」「殺さないで」というあまりにもなフレーズが事の切迫さを物語っている。

 

しかしリリックの緊迫性に反してトラックはトロピカルかつピースフル。よもやこの中で一人の女性の命が奪われていようとは微塵も想像もできない。「どれほど悪辣な事件が起きようとそんなことは差し置いて世界は回り続ける」という世の中の無情がアイロニカルに、かつセンス良く叙述された珠玉の一曲だ。

 

⑧Behind The Moon/イナバの楽団

Future Bassっぽいシンセサイザーの使い方がそこはかとない宇宙感・未来感を想起させる2STEP。とりあえずカッコだけつけて「2STEP」とはカテゴライズしたもののそれの仔細な理由が説明できないのでまだまだ勉強不足だなという気持ち。AviciiやZeddの楽曲に代表されるようなド派手な展開からは一歩引いたチルさがありながらも聴く者を自身のグルーヴの中に飲み込んでいくダイナミズムを持っており、気付いたらブログを執筆しながら首を縦に振っている始末である。クラブで舞ったらすごい楽しいんじゃないだろうか。

 

彼や春野や有機酸もそうだが、ここ数年で、いわゆる、メジャーシーンからは少し外れた傍流的な音楽を作るクリエイターを受け入れる素地が出来上がり、それが実際にニコニコ動画という土俵において再生数という形で表れているという事実に、私は驚愕しながらも満悦している。

 

いち動画サイトというクローズドな空間にもかかわらずこうも多様な価値観が支持されるということは、クリエイターやユーザーが多少なり外部に自身の価値基準の参照点を持っているということであると私は考える。つまりそういった無数の参照点が集うニコニコ動画のボカロカテゴリーというのは、言うなればカルチャーが持つ重厚な歴史を一挙に学ぶことができる最高の教材なのではないかということだ。

 

ボーカロイドというミクロを覗くだけで、同時に音楽全般というマクロをも獲得できうるのである。実際に私はボーカロイドを足掛かりに様々の音楽に触れるようになったし、ボーカロイドによってあらゆる音楽に対する許容力を高めた。もしかすると今現在ボカロネイティブと揶揄交じりに呼ばれている層の方がバイアスなく色々な音楽に向き合えるポテンシャルを秘めているかもしれない。

 

ただし「ボカロのみに安住する」という一見尊大な意思表明に見える怠慢を続けている限り、これはどこまでいっても「可能性」でしかない。何かを語るリスナーであろうとするならば、参照点そのものに肉薄するくらいの最低限の努力はしたいものである。自戒も込めて。

 

⑨00/Puhyuneco

正直Puhyunecoについては去年散々語ったのでもうこれ以上何も言いたくないんですが、それでも今年もやってくれやがったので取り上げざるを得なくなってしまった。

 

nikoniko390831.hatenablog.com

 言うなればPuhyunecoはボーカロイドにおける存在的危うさそのものである。「ボーカロイドとは何か」という根源的な命題に対して、誰しもが口ごもり、遠回りし、終いには何も言い得ずに飲み込んできたという無力感の歴史の集積が彼なのだ。しかしこれはむしろ僥倖でさえある。なぜなら、この無力感がなければこの才能は生まれてこなかっただろうから。これほどまでに皮肉な逆説が他にあるだろうか。ただ無味恬淡と、しかしそれは「感情がない」と形容するよりかは「何かに覆われていて感情が見えない」とするほうがしっくりくるような危うい様子でリリックをなぞるPuhyunecoの初音ミクは、他のどんなに調教された初音ミクよりもアクチュアルだ。宗教における根本体験のように、私はこの時はじめて、初音ミクに出会ったのである。

 

”死んだ後で きみが好きなんて

伝えても遅い だから

わたしは透明な 翼になろうか

翼になろうか”

 

⑩日暮らし/キツヅエ

2018年の個人的最優秀賞である。ボカロフォークはまだまだカルティベイトされていないジャンルだと思うのでこの曲を機に流行ってほしい。マジで。

 

夏場、窓の桟に座り込んで夕間暮れを眺めていると感傷のひとつやふたつ思い浮かんでしまうのが人間というものである。それは本当に瑣末なことなのだけれど、じわじわと西の空を焼くオレンジと、そこにぽつんと響くひぐらしの独唱に絆されて気付けば涙が頬を伝っている…。

 

キツヅエが秀逸なのはその言語感覚である。はっぴいえんど吉田拓郎台風クラブがそうだったように、キツヅエは日常のことばのみで情景を巧みに表現している。そこには回りくどいレトリックも晦渋難解な語句も一切ない。日常のことばによる暖かな原風景のみがある。

 

"笑えない言葉が ちいさな日々の隙間で

ずっと消えないでいて わざと埃を払ったよ

誰もいない街角に もういいよ がこだまして

かくれ場所は知っているような気がして"

 

また、実写のMVもこの曲の叙情性をさらに高めるものとして格別の価値を発揮している。場所は京都?らしい。行ってみたいな。

 

そういえば去年は実写MVもアツかった気がする。平田義久、cat nap、アメリカ民謡研究会、青屋夏生、Guiano、*Lunaといった名だたるボカロPの実写MVをランキングで幾度となく見かけた。2007年末ごろからボカロの萌えキャラクターという属性が薄れ、アイドルポップ以外の楽曲が流行るようになったのと同様に、2018年は「ボーカロイド」という記号さえ消すことで、「ボーカロイド」というある種のスティグマが閉ざしていた扉を開けようという試みがなされていたように感じる。

 

 

 

さて、これでやっと私の2018年は晴れて幕を閉じることができるわけです。とはいえもう既に2019年の幕が上がってしまっているので私も急いでその壇上へと駆け上がることにしましょう。

 

それでは皆様、今年度もよきボカロライフを!

ブログ書いてないブログ/ゲロ吐きました

全然ブログ書いてない。


恐ろしいくらい書いてない。


「nikoniko390831さん、そろそろ○○(記事名)を書いてから一年が経ちます」という通知がたくさん来て怖くなっちゃった。去年はいっぱい書いてたんだなと思った。


年末は今年度のボカロ10選についての記事とか書くので暇な人は読んでください。


今日は本当に書くことがないので一昨日すごいいっぱいゲロを吐いたことについていやらしいくらい詳しく書きます。


22時ごろ。バイトとサークルの作業を終え空腹に耐えかねた私はラーメン二郎新宿小滝橋通り店に行って小ラーメンのニンニクアブラを食べた。久しぶりに食べたがやはりここはブタがホロホロしており胃や舌への殺意が少ない。口が臭いと思ったのでミンティアの一番辛いやつを食べて帰宅。


23時ごろ。ラインで通話しながら溜まった作業を片付ける。このくらいから胃に違和感を覚えはじめる。通話相手に「大丈夫?」と心配されたので元気いっぱい「ちんぽ」と答える。


0時ごろ。寮の友人と一緒に共同風呂に向かう。廊下に揚げ物の匂いが充満しており入寮以来一番強い殺意を覚える。胃の重さに足をよろつかせながらもなんとか湯船に浸かる。熱湯に使っている間だけは痛みが和らいだ。しかし湯船を出ると途端に体調が悪くなったため友人に「金は払うから吐き気止めを買って来てほしい」とだけ伝言を残し即座に自室に戻る。


1時ごろ。死を覚悟。走馬灯が回り小学生の時にトイレを破壊した記憶や川べりの意思を全部川に落とした思い出が去来する。記憶の濁流をアレゴリーするかのように胃の最奥から汚物のストリームがノックアップしてくるのを感じ、トイレに走る。しかし走り過ぎると途中で吐きそうだったため数回立ち止まりながらトイレに駆け込む。


便器に顔を突っ込むと案の定喉のあたりで待機していた胃の内容物が一挙に溢れ出した。すげえ、これがゲロか。俺の好きな漫画は大体可愛い女の子がゲロを吐くが、ゲロってこんなに苦しいんだなと申し訳ない気持ちになった。吐き終わったゲロを見るとそこには数時間前私が注文したラーメンがその形のままで広がっており、この瞬間、3階トイレ2号室はラーメン二郎新宿小滝橋通り店になった。食べ物はもっとよく噛んで食べよう。


1時半ごろ。お使いを頼んでいた友人が吐き気止めを買ってくる。もうおせーよとは言えないので「ありがとう」とだけ返事をし、一応服用した。粉薬は苦いからやだね。


2時ごろ。苦しみながらも就寝。


3時ごろ。突然目が覚める。と同時に猛烈な吐き気。これだから粉薬はッ!即トイレ、&ゲロ。1日に2回も吐くのはすごい珍しい。思わず吐いたゲロを1分間くらい凝視しました。


4時ごろ。寝る。


翌朝。頭が痛い。


昼。無為に耐えきれずデヴィッドリンチのDUNE砂の惑星を見る。つまらなすぎるし体もだるいので寝る。


夜。ゼリーとバナナを食べた後でバファリンを飲む。全部治る。


〜おわり〜


みんなもゲロや食べ過ぎには気をつけよう。

"ダサくない"ボカロ曲15選

お久しぶりです。因果です。

 

突然だが、ボカロはダサい。

 

ちょっと言い過ぎたかもしれない。ニュアンスとしては「ボカロはダサい曲が多い」の方が近いかもしれない。

 

「ダサい」という言葉があまりにもバズワードすぎるのでここで本ブログにおける「ダサい」の定義を簡単にまとめておこう。以下の3点である。

 

・高速BPM

・音が雑多すぎる

・歌詞が現実離れしすぎているor直接的すぎる

 

俗に「人気曲」と呼ばれているボカロ曲には以上の3点を見事に全て網羅しきっているものが多い。「ボカロって同じような曲ばっかじゃん?」といった内容の揶揄がよくぶつけられる理由もここにおるのではないかと私は考える。

 

しかしかといって私は決してそれらの曲が劣っているのだと言いたいわけではない。

 

今回私がこのような苛烈な言い方をしてまで伝えたいのは、上記の条件を満たす音楽を好まない人々、つまり一般的なボカロファンとは価値基準が異なる人々が、それらの曲だけを聴いて「ボカロってダメなんだなぁ」と思ってしまうことは少々早計なんじゃないか?ということである。

 

そこで今回は「ダサくない(と私が感じた)ボカロ曲」をいくつか紹介させていただこうと思う。また、その曲を選んだ理由も付記するので暇だったらそちらも併せて読んで頂けると幸いである。

 

あ、あと初音ミク11周年おめでとうございます。

 

①つまらない葬式/マスターvation

アナクロに響くギターが彩るポップ・レクイエム。いつも思うけどP名が酷すぎる。

 

リリックメイキングの過程において最も困難を極める要因の一つに、独白と俯瞰の使い分けが挙げられる。これが両極端に振り切れていると、歌詞の向こうに強烈な自我を感じる、あるいは逆に全く感じないため、実感覚から乖離した歪な印象を受け、「なんかキモいな・・・」と感じてしまう。

 

一概に言えることではないかもしれないが、俗に「人気」とされるボカロ曲には特にこの傾向が多い気がする。前者に傾倒したものがカンザキイオリの『命に嫌われている』やNeruの『再教育』などで、後者に傾倒したものが日向電工の『ブリキノダンス』やトーマの『バビロン』などだろう。まぁ挙げれば枚挙に暇がない。

 

その点においてこの曲は非常に秀逸であるといえる。「葬式」という題材は人間固有のイニシエーションであるがゆえにエモーションの発露として機能しやすく、上述した「強烈な自我を感じる」状態に陥りやすのだが、このPはそこに俯瞰的ーつまり建前的なー視点を織り交ぜることで、バランスの取れた歌詞世界を構築することに成功している。だからこそ時折顔を見せる「本音」がリアリティを帯びて響く。

 

②あいのうた/haruna808

夜の中央線、70億分の1の日常。

 

だいたい①と理由同じ。俯瞰と独白の間をゆったりと反復するような、さながら帰りの電車の微睡みのような、輪郭のない歌詞が特徴。

 

haruna808はリリックもさることながらサウンドも一級品。夜を紡ぎ出す電子ピアノの優しい旋律、感情の起伏に合わせ転変するリズム。キック音はさながら電車のジョイント音のよう。リリックが内面についての描写に徹している一方でサウンドは外面についての描写に徹しているのだ。

 

そしてこの役割分化が総体としての「曲」に立体性を付与する。この曲を聴いていると感じる柔らかな没入感はまさにこの立体性によって生まれている。

 

ここでは省略させていただくが、これが気に入ったら氏の『Haruna』もぜひ聴いてほしい。スゲー良いので。

 

③sleepy dance/temporu

全編9分の超大作。広義ではハウステクノにカテゴライズされそうだが、それよりかは先鋭性が強い。

 

全ての音が終盤のカタルシスに奉仕していながら、奉仕している音それ単体にも一切の抜かりがないのだ。

 

この曲は、「ABメロ→サビ→ABメロ→サビ→Cメロ→サビ」のようなよくあるシーケンスではなく、完全に「静→動」という二項において2分割されているため、前者のような手っ取り早く消費(=カタルシスを享受)できる音楽以上に、技巧的な外連味が求められる。

 

しかし『sleepy dance』はこの課題を難なく突破している。映画の場面が切り替わるように二転三転するアトモスフィアは聴く者の意識をグッと自身の中に引き込んでいき、4拍子のトランス的なうねりの渦中へとゆっくり沈潜させていく。多分「トリップする」というのはこういうのを指すんだろう。

 

そしてうねりと自我が完全に同化しきった臨界点に達したまさにその時、静が動へと逆転し、微睡みの中に憩っていた自我は突如その外へと突き放され、ここにおいてマゾヒスティックな快楽の達成、つまりカタルシスが生じる。それも極上の。

 

映画かよ・・・(2回目)

 

しかもこれらの精神作用は全てtemporuの思惑の範疇内なのだから恐ろしい。

 

④L'azur/Treow(逆衝動P)

Treowの作る音楽は冷たい。それは「冷酷」とか「冷徹」といったものではなく、温度的な、「cold」の意味において冷たい。それはまるで永久凍土の氷柱のように一切の不純物を含まない冷たさである。

 

こう感じる理由は、やはり彼の音楽における「初音ミク」の存在態にあるだろう。彼においてはボーカルとしての「初音ミク」が存在しない。そこにはべ―スやドラムといった諸楽器と並列して「歌詞」という名の音素を紡ぎ出す、果てしなく楽器としての初音ミクがあるばかりなのだ。

 

つまり彼の音楽は、リリックがありながらインストゥルメンタルであるという捻れた構造を持っているのである。

 

この捻れた構造を成立させるべく、リリックも一切「人間」を感じさせないようになっている。かといって日向電工のように無意味に難解な単語をただひたすらに羅列するような露骨なダサさもなく、あくまで「私秘性の強い現代詩」くらいの体裁は整っている。歌詞のダサさに対してセンシティブな感性をお持ちの方々も、彼の曲を聴いて嫌な鳥肌が立つことはないだろう。

 

『L'azur』もその例に漏れない。キラリ輝く氷晶のような冷たい音楽を是非心ゆくまで楽しんでほしい。

 

⑤違います/目赤くなる

初音ミクは今まで様々なものと声を交えてきた。同じVOCALOIDである鏡音リン・レン巡音ルカをはじめ、softalk(ゆっくり)や歌い手など、その組み合わせは枚挙に暇がない。

 

本曲においてその相手役を務めるのは、iPhoneの音声ガイドツール「Siri」。イノセンス論を中心に初音ミク存在論が活発に論じられていた2017年当時のシーンにおいてこういうカップリングが登場するのはある意味必然と言えるかもしれない。(イノセンス論については私の過去のブログを参照していただきたい。暇な方は是非…)

 

この曲においては初音ミクとSiriの「会話的非会話」が延々と繰り返される。

 

会話的非会話とは、言うなれば文脈を共有しているようで全くしていないモノローグ同士のぶつかり合いのことである。

 

曲の初めこそは初音ミクがSiriに語りかけ、Siriがそれに応答するという対話の構図が展開されるが、次第に互いの問答の焦点はズレていき、最後には「語りかけ」「応答」だと思っていたものが単なる独言の連続だったという何とも滑稽なオチがつく。

 

それはまるで横溢する初音ミク存在論者たちに対して「お前ら本当に初音ミクについて知ってんの?」と疑問を投げかけているかのように痛切に響く。

 

諧謔味溢れる表層と皮肉に満ちた深層の二面性を持つ非常に「厚い」一曲だ。

 

⑥Mictronica/Kiichi(なんとかP)

Kiichiはエレクトロニカ、ポストロック系統の楽曲を得意とし、黎明期から投稿活動を続けている古参P。

 

サウンドに関しては先述のTreowに類似している部分もあるが、Treowのような冷たさはなく、むしろエモーショナルであると形容できよう。リバーブがかった初音ミクの歌声、無限に反復されるフレーズ、白昼夢の中を彷徨うようにぼやけた主観的なリリック。彼の音楽は、今ここにありながら、どこか遠くで寂寞と響いている。

 

ここでは『Mictronica』を紹介したが、この他にも『置いてけぼりの時間』、『プラスチック・ガール』なども非常に秀逸である。

 

⑦キーウィ/ATOLS

ボカロシーンにおいてはきくお、回転楕円体、ばぶちゃんと並んで「電ドラ四天王」と称されるATOLS。ノイズやビープのようなギミックを飛び道具的に多用するのではなく、知識や経験に裏打ちされた技術に基づいて理路整然とそれらを用いることによって質の高い電子ドラッグを作曲している。

 

『キーウィ』という曲名の通り、キーウィの歌。いや、本当にそれ以上でもそれ以下でもない。そこに何らかの寓意があるのかないのかいまいち分からない絶妙な歌詞がクセになる。ちなみに氏の『MIKU DET EP』収録のLONG VERSIONは7分くらいある。しかし完全版とかではなくあくまでロングバージョンなのでニコニコに投稿された2分半の原曲もれっきとした完成品である、ということだけは言っておこう。

 

フォッサマグナ/baboo

よれよれとした楽器隊にこれまたリバーブがかった初音ミクのふにゃふにゃした声が乗っかった脱力系ロック(?)ナンバー。やる気はないがやけに耳に残るイントロのギターリフが印象的。

 

二転三転とリズムが変化するが、気だるげな雰囲気だけは徹頭徹尾変化しない。まるでぐわんぐわんと左右に触れながらも決して転倒はしない、やじろべえを見ているような、何とも不思議な気分になる。

 

また、口語的な文体でありながらどこか少し日常生活の域を出た変な言い回しが出てくるリリックが大変クセになる。こういった感じの曲が気に入った方は是非「VOCALOIDよれよれ曲リンク」で検索してほしい。腐るほど出てくるから。

 

⑨日暮らし/キツヅエ

アコースティックギターの優しげな音色が夕刻の暗がりにこだまするようなフォークナンバー

 

平たく言えば「失恋ソング」なのだが、言葉選びのセンスが群を抜いている。「野良猫は笑っている」「ちいさな日々のすき間で」といった詩的な表現と「君に会いたい」「君とココアが飲みたい」といった直情的な表現が混じり合い、心内環境の不安定さが巧みに描き出されている。

 

そして感情が臨界点に達したところでふと外で鳴くヒグラシに気が付き、どんなに大きな悩みや葛藤も外から見れば些末な出来事に過ぎないのだなぁという諦観に辿り着く、という何とも切ないオチが付く。

 

また、曲の時間的な経過に伴って音素が増えていく点も大変にエモーショナルでよい。リリックという観点だけなら今回のブログで紹介した中でもずば抜けて素晴らしいといえよう。

 

⑩この夏のすべて/平田義久

ボカロ音楽がなんとなく疎遠なものに感じる原因はいくつもあるが、その中でも「実感覚から著しく乖離している」というのはその中でも大きなウェイトを占めるだろう。そしてこの実感覚を規定するのが「固有名詞」である。たとえば「二次元ドリームフィーバー」だとか「ダンスロボットダンス」といったものは、どんなにインパクトはあっても、それらが我々の日常生活に登場することはないため、自身の頭の中でそれを適切に想起することができない。聴いている途中で「ん?」という急ブレーキがかかってしまうのである。この不快なタイムラグ、つんのめるような感覚が精神的な疎遠さを生み出しているのだ。

 

その一方で平田義久の音楽はいつも日常のすぐ近くにある。「祭りばやし」「路面電車」「風鈴」「金魚」・・・。どれも全て我々の手が届くところに存在する固有名詞だ。これらはすんなりと頭の中で処理できるため上記のようなタイムラグが発生しない。

 

さらに、彼は固有名詞が連なりすぎるとかえって実感覚が消滅してしまうということも考慮しており、適宜意図的な曖昧さ(「あの海」、「この夏」といった指示語を含んだ表現など)を演出することでちょうどよいバランスを保たせている。このバランス感覚はひとえに氏の知識と経験に裏打ちされた構造的なものであり、その一見質素に思える歌詞の向こうには、深遠なる音楽史の平野がどこまでも無辺に広がっている。

 

あえて『この夏のすべて』を選んだのは、そりゃもう時期的にピッタリだからである。海か?山か?プールか?いやまずは平田。

 

⑪玉葱/ピノキオP

今もシーンの牽引役として絶大な人気を誇るピノキオPのアイロニックな初期ロックナンバー

 

アイロニーというのは表現の過激さがそのままアイロニーとしての完成度に直結するものでは決してない。たとえ表明したい立場は一緒でも、その過程において言葉選びを間違えればそれは途端に陳腐化する。これはもはやアイロニーですらない、言うなれば「中学生の屁理屈」みたいなものだ。

 

このようにアイロニーとは高度なセンスが要求される至極難儀なレトリックなのだが、ピノキオPは基本的にこの「言葉選び」が上手い。ギリギリ失笑を買わないラインを知っているし、そこに最大限肉薄していけるような豊富な語彙も備わっている。

 

その完成形ともいえる一曲がまさにこの『玉葱』なのである。

 

「涙は全部が玉葱のせい」から始まる数多の偏見が巡り巡って自分に突き刺さるさまを、面白おかしく、しかしどこかもの悲しく描いた傑作。

 

⑫スーパーワールド/江戸川の水

新進気鋭のボカロP、江戸川の水による脱力系テクノ。

 

ボカロの技術面における進化はめざましいものであり、その発声は人間それと遜色のないレベルにまでエンハンスされつつある。それに付随して新たなライブラリも続々登場し、まさにボカロダイバーシティ時代が現前しているが、この曲において何度も試行される「全く同じリリックを全く同じ発音で繰り返す」技法はVOCALOIDの機械性を殊更に強めるもので、「ライブラリや発声パターンの多様化」というボカロの技術的進化の流れに完全に逆行している。

 

だが、こうすることによってダイバーシティの生み出した複雑な構造の木々をかき分けていくことは、その深奥に眠る「初音ミクとは何か?」という根底的なアイデンティティ問題に立ち返る契機になるのではないかと私は考える。

 

コンテンツというものは、極端な二者の間を一定のスパンで往復する場合が非常に多い。近年、初音ミクについての根本的な存在論が方々で唱えられているのは、ボカロというコンテンツが多様化という一つの臨界点を迎えたからこそなのかもしれない。

 

⑬celluloid/baker

初音ミクというキャラクターコンテンツとしての側面が強かったボーカロイド音楽を、他の諸音楽に劣らぬ一カテゴリにまで押し上げる嚆矢となった黎明期の名曲。上述のharuna808といい彼といい、2007年のボカロ界隈は実直なアングラ感があってよい。

 

セルロイドとは加工が容易な合成樹脂のことで、20世紀にはこの素材を応用した玩具としてセルロイド人形が大量に生産された。しかし、セルロイドは燃えやすい、耐久性が低いといった理由から次第に使われなくなり、歴史の闇の中に静かに消えていった。

 

この曲のリリックもそんなセルロイドのように、か細く切ない。しかしそれでも朝を待ち続ける詩中の彼のひた向きさにホロリとした気分にさせられる。

 

アイドル一辺倒だった初音ミクというコンテンツの新たなる一面を開拓した珠玉の名曲だ。

 

⑭(spilled 4 mitutes from)Liquid Metal/ハイネケンP

黎明期からコンスタントに投稿を続けている古参Pの一人。水の中を揺蕩うような浮遊感のあるエレクトロニカを得意とする。よくyahyelっぽいというコメントをよく見かける。

 

上述したATOLSほどの毒はないが、こちらもまさに聴くドラッグと形容して相違ない。リリックも真夜中に見る夢のようにフレーズごとの相関性がなく、サウンドの波に乗ってあっちへこっちへゆらゆらと漂流している。クラブとかでユラユラするのが好きな方は多分気に入ると思う。

 

今回はLiquid Metalを紹介したが、彼の真髄はアルバムを通して聴くことによって発揮される。少しでもピンと来たなら是非『Electric&Sleeping』と『Flowers』を聴いてほしい。

 

nikoniko390831.hatenablog.com

 

 

⑮walk around/chet_brocker

chet_brockerはとにかくベースラインが気持ちよい。「気持ちよい」とはいってもそれはスラップが早いというような、刹那的な音の快楽を満たしてくれるという点によるものでは決してない。あくまでドラムと電子オルガンの音響を最大限有効化してくれるような、言うなれば寿司におけるワサビのような役割を果たしている。こういうさりげなさ、イイですよね・・・

 

リリックはほぼ聞き取れないが、多分彼は初音ミクを音素のひとつくらいにしか捉えていないのだろう。サブのオルガン程度の存在感しか主張してこないのである。しかしこれはまさに合成音声ソフトの特徴を最大限活かした「ボカロならでは」のテクニックである。インストゥルメンタルとして聴くのが一番おすすめである。

 

 

 

 

 

とまぁたくさん紹介したがこれでもメチャクチャ絞りに絞ったのでそこそこ洗練されたリストが完成したという自負がある。是非多くの方に聴いていただきたい。

 

それではまたどこかで。

バイト バイト バイト

高2の頃にコンビニバイトで精魂尽き果てるまで使役された過去から長らくバイトを控えていた俺。しかし、金を口座から下ろすたびに残高表示を見ないように目を瞑る日々がそれはもう惨めでたまらなかったのでそろそろ働くかと思い立ち、バイトを探すことにした。

 

バイトの募集などそれこそ星の数ほどあるが、しかしだからこそその中から宝玉を探し出すのはまさに至難の技といえよう。一歩間違えればマネジメント能力ゼロのクソ店長と共感能力ゼロのクソ客の地獄万力に挟まれて健全な精神が粉々のミンチになってしまう

 

そこで俺は過去の経験を生かし「こんなバイトは可及的速やかにやめよう!」リストを作成した。是非これからバイトを始める人も参考にしてほしい。

 

・店舗が繁華街、レジャー施設、ライブ会場、高速道路(PA)に面している

・アクティブの従業員が10人未満

・深夜も営業している

・週3が最低条件

・店長がクソ

・店長が全く仕事をしない

・店長が高偏差値高校→Fラン大学という経歴を持っている

・店長が12時出勤の18時退社

・店長が事務室に引きこもって艦隊これくしょんをしている

・店長が大学の序列に詳しい

・店長が高校模試のシステムに詳しい

・店長がデブ

・店長がバカ

・店長がバイトリーダーの買ってきた椅子を数日中に破壊する

 

以上の事項に抵触しないことが健全なバイト生活を送るための最低条件である。しかし、ここでこういった質問が噴出するかもしれない。「時給についての言及がないやん!」と。

 

うんまぁ・・・確かに時給もバイトを選ぶ上での重要な判断基準の一つかもしれない。しかしここだけを頼りにバイトを始めると思わぬ誤算に足を取られる可能性がある。

 

俺がなぜコンビニなんかで働いていたかというのも、ひとえにその時給の高さにあった。なんと850円/hという超高時給(長野県における850円は東京における1200~1300円に匹敵する)。私は850円という甘い響きにまんまとおびき寄せられ、見事地獄の一年間を過ごすこととなった。

 

コンビニというのはとにかく仕事が多い。レジ打ちだけではとてもではないが店を回せない。商品の陳列、フライヤーの調理、店内の清掃、つまみ食い、収支の確認、宅急便の引渡、クレーム処理、つまみ食い、ゴミ捨て、(ウチは無かったが)トイレ掃除、店外での呼び込み、つまみ食い、電話対応など、挙げれば枚挙に暇がない。

 

よく「コンビニバイトは慣れてくるとだんだん『シャッセ~』とか『ッエ~~~』とか言うようになる」みたいなネタコピペを見かけるが、あれは決して笑い事ではない。

 

あれは債務の蓄積や極悪非道な底辺客の襲来によって楽しかった日々の思い出や人との温かい関わりを忘れてしまった、いわばコンビニバイトたちの悲痛な叫び声なのである

 

もしこの声が聞こえたら、そっと何も買わずに店を出るか、買うとしてもいちいちレジ打ちについて文句を言わないであげよう。あとポイントカードは会計前に出さないと殺すからな。「あ~やっぱありました~」じゃねぇんだよ、陰毛毟るぞ。そこのお前も「トイレだけ使うのは申し訳ないから」とか言ってガム買ってくのやめろ。トイレだけ使ってさっさと出てけ。

 

このように、時給だけでバイトを選ぶとロクなことにならない。確かに中には高時給高優遇の超優良バイトもあるだろうが、それも全体からすればごく一部である。そもそも蓋を開けるまで職場の内実なんか分かんねーよバーカ

 

バイトを探すこと約半日。やっぱり俺には無職が一番かなと考えていたところに思わぬニュースが入ってきた。

 

私は寮に住んでいるのだが、なんとウチの寮生だけで回しているという中華屋が高円寺内にあるというのだ。しかも業務は配膳・洗い物・レジのみ。そのうえ17時~22時までというちょうどよいシフト。時給も約1000円で申し分ない。マジで天が味方したとしか思えない。

 

早速俺は研修に入ってみた。そこで俺は衝撃の光景を目の当たりにする・・・・・・!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

・・・・・・・客が来ない

 

 

 

客が来ないのだ。

 

 

 

いくら待てど客が来ない

 

 

 

携帯をいじってても友達と喋ってても、

 

 

 

全く客が来ない

 

 

 

え?ここマジで高円寺?とビビるくらい客が来ない

 

 

 

しかし俺は客という存在がこの世で一番面倒臭くて嫌いなのでこれ以上嬉しいことはない。

 

この店が一体月にいくら儲けているのか、店長が果たして本当に健康で文化的な最低限度の生活を営めているのか、色々気にかかることはあるが、それはそうとしてマジで快適な職場である。

 

この前は、あまりにも暇だったので店長と談話していたら、店長がおもむろにビンのようなものを取り出し、グビグビと飲み始めた

 

そのビンに刻まれていた文字はーーーーー

 

 

 

 

 

 

 

 

ーーーーージャイアン・・・・・・

 

 

 

 

 

そう・・・

 

 

 

 

 

・・・焼酎である・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ーーーーー俺はここで働くことを決めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

灯台下暗しということわざが示すように、素晴らしいバイトというのもまた案外自分の近くに転がっているものなのかもしれない。

 

よし働くぞ、俺はここで一生懸命働くぞ。

 

6月は2回もシフトに入ります。

 

俺はすごいんだ。

 

みんなもいいバイトを見つけていい人生を送ろう!おわり!

VOCALOIDにおける作り手/受け手の関係

VOCALOID界隈、殊にリスナー界隈においては以下のような議論が頻繁に巻き起こる。それは、作り手/受け手がそれぞれどう振る舞うべきかについての議論である。これについて作り手/受け手がそれぞれの立場から喧々諤々と意見を鍔迫り合わせる様子は界隈にいる人間にとってはもはやお馴染みの光景だろう。

 

そもそもなぜこのような事態が起きるのか。私はここにVOCALOID音楽(これは「同人音楽」まで定義を広げても構わないかもしれない)における作り手/受け手関係の特異性を見た。今回はそれについてつらつらと記述しようと思う。

 

VOCALOID音楽はインターネットに根を下ろしながら成長を遂げてきた音楽である。従ってこれに対置すべきはインターネット以前の音楽だろう。そこでまずはインターネット以前の音楽の特徴について記述することで、結果的にVOCALOID音楽の特異性を炙り出していこうと思う。

 

インターネット以前の音楽における作り手/受け手の構造はインタラクティビティが決定的に欠如している。「作り手→受け手」の構図は存在したが、「受け手→作り手」の構図はそもそも成立しにくかった。

 

これはひとえに作り手と受け手が平等な状態で対峙できるステージが存在しなかったことが原因だ。作り手はいつ何時でも自分自身を音楽によって表現できた一方で、受け手はコールや拍手といった記号的応答、あるいはファンレターやプレゼントといったメタ階層の低い手段による意思表示しかできず、作り手/受け手の関係がフラットで相互的なものだったとは言い難い。

 

また、インタラクティビティが欠如することで作り手の素性はブラックボックス化される。作り手は自分自身を自由に表現できたため、そうしようとさえ企図すれば簡単に自らを秘匿できたのだ。こうなると、作り手への愛と知識欲が溜まりに溜まった受け手の感情は最終的には神性を帯びたイデア的作り手像を自らの内面に構築する。テレビにほとんど出演しないアーティストが受け手の想像力によって過剰なまでに祭り上げられていたのがその好例だ。

 

弥生時代に神事以外では決して外部と接触しなかった卑弥呼や城柵と監視カメラに囲まれ外敵を拒む皇居に住んでいる天皇などが信仰や尊敬を集めている例にからも分かるように、秘匿化された存在に何か深遠なるもの、神性を見出してしまうというのは今も昔も変わらない普遍的な現象なのだろう。

 

受け手が作り手に神性を見出す流れは、言うなれば受け手が作り手に対してフラットな関係であろうとする営為を放棄したということであり、これは「受け手→作り手」の構図の実現可能性をさらに低めていく要因となった。

 

このように、インターネット以前の音楽では、受け手は作り手に従属する形で存在している側面が強かったのである。

 

しかし、インターネットがユビキタスに広がっていくにつれ、この構図は揺らぎを見せはじめた。

 

殊にTwitter時代の到来は従来までの作り手/受け手の構造を根本から変えた。Twitterにおいてはどんなに著名な人間でもどんなに矮小な人間でも同じフィールドに立て、しかも相手の主張に対してほぼノータイムでレスポンスを返すことができる。これにより作り手と受け手の距離は従来に比べ大幅に縮まった。これにより両者間に一定のインタラクティビティが担保されるようになったのだ。

 

また、Twitterでは、瑣末な情報を表面化させる行為が許容されており(というかそもそもそういった些事の集積こそがTwitterの本質だと思うが)、例えば超がつくほどの有名人が「タンスの角に小指ぶつけた」などと呟いても誰もそれを咎めない。それどころか、「あぁ、この人も俺と同じ人間なのだな」という安心感さえもたらす。

 

そしてこのTwitterの特性は、先述した「作り手の神性」を完膚なきまでに破壊する。受け手の想像力が都合よく補完していた行間を本人の方が先に埋めてしまうのだから、そこに神性を見出すことが困難になるのは至極当然だ。

 

以上から、インターネット以前の作り手/受け手の関係はSNS(主にTwitter)の台頭によりほぼ完全に相互的なものへと変容した。(「ほぼ」と記述したのは、上記を見越して意図的にSNSを運用しない作り手がまだそれなりにいることを考慮したからである。)

 

VOCALOID音楽はまさにこの相互性の時代に生を受けた音楽である。大抵の作り手はTwitterを運用しており、受け手と活発にコミュニケーションを取っている者も多い。

 

『天ノ弱』で有名な164や『ネトゲ廃人シュプレヒコール』で有名なさつき が てんこもりなどは自分のことをフォローしてきた受け手をほぼフォローバックしている。また、『私は演者です』のヒッキーPは、メインアカウントとは別に、リスナーと交流するためのラックスアカウントを所有している。これらは作り手と受け手の関係を作り手側からフラットなものにしていこうという意思の表れとも取れるだろう。

 

VOCALOID音楽では、作り手/受け手が相互的に作用し合う関係の中にある。だからこそ、こうして互いの立ち位置について議論する余地も生まれてくる。「作り手かくあるべし」「受け手はもっとああしろ」といった議論が絶えないのは、まさに二者間に相互性が存在することを象徴するものなのだ。

 

 

 

 

 

以下はここ数日で巻き起こった作り手/受け手の関係性についての議論に対しての私見である。暇があれば読んで頂けると幸いだ。

 

二者間の関係が相互化している場合が圧倒的に多いVOCALOID音楽においては、作り手は従来以上に受け手の方を真摯に見据えなければ、衆目を集めることはきわめて難しいだろう。というのも、受け手が勝手に行間を埋めたり神性を見出して無条件に礼賛してくれたりする構図はTwitter時代の今となってはもはや成立しないからである。

 

従って、きちんと時流を読み、文脈を踏まえた者だけが「人気者」になれるのだ。それさえ怠り好きなことをやるだけで栄光が掴めると思い込むのはよっぽどのカリスマ性を備えた天才か、もしくは真性のバカだけだろう。

 

好き勝手やること自体はまた別ベクトルの価値を持つ営為だとは思うが、それで想定以下の反響しか得られなかった場合に受け手を非難するのは少々エゴが強すぎるのではと感じる。

 

とはいえ、これらは我々受け手にも通ずる部分がある。目の前に現前する好きなものだけで満足し、それ以上何もアクションを起こさないのは、常に新たな極地へと邁進し続けている作り手たちに対して大変不誠実である。曲を掘るなり宣伝するなり感性の幅を広げるなりできることはいくらでもあるはずだ。

 

どっちつかずな結びとなってしまったが、しかしこれは決して日和見ではない。どちらかが動くだけではシーン全体としては何も進展しないというのは純然たる事実である。だからこそ、どちらもが相手を真摯に見据えることが何よりも重要不可欠なのだ。我々の関係は今まさに"相互的"なのだから。

東京極貧紀行〜浅草・スカイツリー編〜

春先、私はふと旅に出たくなり、東京の格安スポットについて検索をかけた。

 

しかしヒットしたのは関東の暇そうな大学生の「格安で行ける東京の名スポット!」みたいなブログ。それを見た私は思わず血反吐を吐いた。

 

1000円以内で食べられる格安ランチ!」じゃねぇんだよボケ。はっ倒すぞ。小田急の準急で新百合ヶ丘まで拉致されろ。

 

インスタグラムに投稿できる!」じゃねぇんだよブス。ぶっ飛ばすぞ。中央線の通勤快速で三鷹まで拉致されろ。

 

こういう大学生の言う「安い名スポット」というのは往々にして「最低限ブランド化されている」ことが暗黙の了解として含意されており、従って「最安」ではない。「安く済ませたい!でもインスタには載せたい!」という強欲セルフィッシュな自意識がこのような中途半端なクソブログを生み出してしまうのだ。合計3000円もかかるくせに「格安」なんて銘打つんじゃねえよバーーーーーカ!!!死ね!!!

 

上述した現状を打破し、真の「最安」を提供すべく、私は自意識の壁を乗り越え、ただひたすらに安い場所、安い飯、安いルートを模索した。そう、これこそがホンモノの「"最安"スポット」である。刮目して見よ。

 

 

第1回『浅草・東京スカイツリー

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交通費:0円

食費:400円

合計:400円

 

えっ!?こんなオシャレな観光地にこの値段で!?と思う方は多いだろう。しかしある手段を使えば本当にたったの400円でこのランドマークを楽しみ尽くせるのだ。

 

まず用意するのは何と言ってもコレ。

 

 

 

 

 

 

 

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自     転     車     。

 

コレは以降のスポットでも頻用される必須アイテムなので是非とも手に入れておきたい。メルカリでだいたい数千円程度で買えるが、それでも高いと思ったらウインズ浅草前あたりの自転車放置区域からパクってくるのもアリだろう。

 

アチェン?んなもん要らねーよ関東平野舐めんな。

 

さて、この自転車でどうやって浅草やスカイツリーまで行くかというと…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

…漕ぐのである。

 

ただひたすらペダルを漕ぐのである。

 

特別なことなど何一つない。漕げ

 

疲れるからヤダ」じゃねぇ、漕げ

 

漕げばいつか着く。漕げ

 

23区内なら一番遠いところからでも距離はたったの20kmしかない。つまり自転車があれば遅くとも2時間程度で浅草やスカイツリーまで到着してしまうのだ。もちろん交通費はゼロ。そのうえ地球と健康にも優しい。いいことしかない。

 

だが20kmも自転車を漕げば当然腹は減る。しかし浅草は右も左も金銭感覚の狂った金持ち外国人観光客ばかりなので、彼らから少しでも多く利益を貪ろうとあらゆる飯屋のレートがはね上がっている。

 

600余円の白饅頭を安い安いと叩き売るのが果たしてグローバリズムの正しい在り方なのか。下町人情(笑)の閉鎖性がこういうところに垣間見えますよね。

 

しかしそんな非情なる観光客ビジネスの裏、頭のおかしい値段で良質な食物を提供してくれる牛串屋がギャンブル狂収容施設・ウインズ浅草の近くにあった。その名は『丸十精肉店』。

 

チェーンじゃねーか殺すぞボケと突っ込まれるかもしれないが、ここの串焼きを頬張りながら浅草の街をブラブラするのは正直かなり乙だし、無駄に高額な個人店で微妙な飯を食らうより5億倍はマシなので敢えて紹介させてもらう。

 

丸十精肉店といえば牛串だが、この旅で買うのは牛串ではない。牛串は600円もかかるのでいかんせんコスパが悪いのだ。

 

そこで代わりに買うのは鶏皮串(200円)×2である。鶏皮串200円って普通じゃね?などと思うなかれ。とにかくここの串はデカい。f:id:nikoniko390831:20180208071224j:image

2本も食べれば十分腹の足しになるだろう。こうして帰りの自転車も元気満々で漕げるというわけである。

 

腹も膨れたところでそろそろスカイツリーを見てみよう。しかしスカイツリーの綺麗な写真が撮りたいだけなら正直浅草寺からでもその全体がはっきりと見えるので、わざわざツリーの根元まで行く必要はないかもしれない。f:id:nikoniko390831:20180208180123j:image

そして仮に根元まで行くとしても、もちろん自転車を使う。東武伊勢崎線?都営浅草線?知りませんね。

 

隅田川を越えるといよいよ天を衝くスカイツリーの御姿が並ならぬダイナミズムを持って現前する。行ってみれば分かると思うがスカイツリーってメチャクチャデカいんですよね。さすが都庁からも池袋駅からも高尾山山頂からもその全貌を視認できるだけはある。とはいえあまり近づきすぎるとカメラに収まらなくなるので注意が必要。

 

また、どうでもいい豆知識だが、スカイツリー午前0時を回ると消灯される。綺麗な写真を撮るなら午前0時までだろう。消灯後は観光地チックな華々しさも完全に消失し、ただただ無機質な巨影が下町の深夜を不気味に支配する。巨大建造物フォビアの人にとっては卒倒不可避の気味の悪さだろう。

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さて、スカイツリーも十分堪能した頃だしそろそろ浅草に戻ろう。なぜならまだ浅草には面白スポットが残っているからだ。

 

辿り着いたのは東京メトロ銀座線浅草駅。は?ここまできて地下鉄で帰んのかよ殺すぞと思うかもしれないが落ち着いて欲しい。

 

ここで紹介するのは銀座線浅草駅の周辺にこじんまりと佇む場末スポット『浅草地下商店街』である。

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近代化された浅草駅改札からほど近い路地にこんな潰れかけのバラック商店街があること自体不思議だが、こういう実利性が全く欠如したわけのわからん機構が「だって浅草だから」の一言で許容されてしまうのが浅草の魅力といえよう。

 

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こういう日本語が怪しげな国際料理系の個人店が多いのも浅草クオリティ。ちなみにこの店は蕎麦を300円で提供してくれる。味の方は…うん、まぁ…

 

これで浅草・スカイツリー周辺の文化についてはほぼ知ることができたも同然。どうだ、本当に400円で済んでしまっただろう。

 

深夜帯なら無人仲見世通りを自転車で爆走しながら帰路につくこともできる。昼間はあれだけ胡散臭い観光客でごった返す通りがこれほどまでに静まり返るとは何とも不思議なものである。

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さぁ君も400円だけ持って今すぐ浅草に繰り出そう。こんな場所で何万も費やしている愚鈍な観光客どもを鼻で笑おう。貧乏人万歳

 

10選+αで語る2017年ボカロシーン

あけましておめでとうございます、現存在の皆さん。因果です。

 

2017年のボカロシーンも本当にいろいろなことがありましたので、10選の紹介を交えつつ2017年という潮流を断片的に振り返ってみたいと思います。例によってものすごい長いので部屋の隅で三角座りをする以外やることがない時などにお読みいただけると幸いです。

 

光合成/こじろー

私が思うに、2017年は更にv flowerが成長を遂げた年であったと思う。

v flowerといえばそのハキハキとした発音。彼女のヒットこそが「歌詞が聞き取りにくいのがボカロ」という見解が今となってはいかにアナクロニズム甚だしい誤謬であるかを端的に示していると言っても過言ではない。

ではなぜ彼女は最近になって突如流行り始めたのか?これを単なる偶然、巡り合わせと結論付けることも可能かもしれないが、私はここにある仮説を見出している。

それは、彼女のヒットこそがボカロ最盛期(11~13年)的画一性超克の象徴なのではないかというものだ。

最盛期に衆目を集めた楽曲に通底する音楽的特徴を述べるとだいたい以下のようになる。「高速BPM」、「サビ至上主義」、「難解(そうな)歌詞」。それが悪いことだとは一概には言えないが、この時期までのボカロ音楽は界隈全体が実体を持たないバブル的熱気のようなものに支配されており、誰も彼もがそれに陶酔しきっていた節がある。しかし14~15年になるとその熱、もとい幻想も徐々に冷め、寄る辺を失う不安からこの時期を「暗黒期」だの「衰退期」だの(本文では以降統一して「暗黒期」と形容する)と呼称する者も現れた。かくいう私もそろそろヤベーかもなとは思っていた。

かの哲学者リオタールは近世以降のもはや普遍性という支柱を持たなくなった思想潮流を「大きな物語の終焉」だと述べたが、まさに暗黒期のボカロシーンはこの流れを完璧なまでになぞっていたようだった。

しかしボカロ音楽はここで安易な消極的ニヒリズムに陥り続けることはなかった。多くの作り手受け手が「ボカロは死んだ」と嘆き界隈を立ち去る傍ら、それでも依然としてこの界隈に夢を抱き続ける変わり者たちが、また「大きな物語」なき時代だからこそ俺が一山当ててやろうと意気込み飛び込んできたニューフェイスたちが、焼け野原の上で自由に試行錯誤を繰り返していたのだ。そんな彼らの試行錯誤の末に見出された一つの可能性がまさにv flowerだろう。

先述したように、v flowerといえばそのハキハキとした聞き取りやすい発声であるが、これは実は最盛期においては軽視されがちであった音楽的要素をことさらに強調するものである。それは歌詞である。

あまりこういった主観性が強すぎる主張はしない方が良いのだろうけど、それでも敢えて言わせてもらおう。最盛期において主に人気を集めていた曲の歌詞は、正直ダサい。肥大化した自我に語彙が追い付いていない感じはまさに「中二病的」と形容できよう。具体例を挙げろと言われてもどれを挙げようか迷うレベルでほぼほぼダサい。酷い。『カゲロウデイズ』・・・?『人生リセットボタン』・・・?ウッ頭が・・・

今思えばなぜこんなダサい歌詞の曲がこんなに流行ったのかと思うが、当時の「熱気」や高速BPM曲の圧倒的人気やライブラリの発音の発展途上具合など多重的な要因が重なり、そもそも歌詞という要素に意識が向きにくかったのだろうと推測できる。しかしそういった土壌が全て崩壊した暗黒期に入ると、今までは潜在していた「ダサさ」が一気に表面化し、ボカロシーンは否応なしに「歌詞」という大きな壁に対峙しなければならなくなった

こうして歌詞に対する意識が変容しつつあった時期にちょうど発売されたのがv flowerというライブラリである。まさにシンクロニシティ。そして数年の吟味を経たのち、v flowerは見事ボカロシーンの第一線を走る人気ライブラリに化けた。それが2016年の出来事である。しかし2016年時点では、v flowerの主たるクリエイターがバルーンに限られていたこともあり、v flowerに魅力があるのか単にバルーンに需要があるのか判別がつかなかったが、2017年に入ると新旧問わず多くのクリエイターがv flowerを起用した曲で注目を集めた。『ローファイ・タイムズ/しーくん』や『超常現象/ろくろ』等がその好例だろう。こうしてv flowerは、一過性のミーム的な持ち上がりによって流行ったのではなく、最盛期から暗黒期へ移行した際に炙り出された「歌詞」の問題に対するソリューションとなり得るものとして流行るべくして流行ったライブラリであることが証明された。・・・と私は考えている。

この『光合成』もそんな時代性の中に生まれた一曲である。サウンドこそ最盛期においても散見された「ザ・軽音部」といった趣だが、やはり歌詞が最盛期のそれに比べ精緻に、かつセンス良く組み上げられている。「光合成」という自然現象に現実の人間関係をなぞらえさせながら、「水」「細胞」「呼吸」といった語彙でそれらを表現したトリッキーな一曲だ。『ユクエシレズ』だけではない、こじろーの"真価"、いや"進化"がこの曲にはある

 

②またねがあれば/risou

これも上記した「歌詞」に対する認識変化を如実に表す一曲である。正直サウンドやメロディの面に関して言えばこの曲はあまり好みではないのだが、それを差し引いても有り余る歌詞の洗練性に魅せられ、10選入りさせざるを得なくなった。

恋愛が主題化された曲というのは往々にして恋愛の綺麗な部分ばかりを取り上げがちだが、このような完璧主義は曲を我々の共感のはるか外へと放り投げてしまうことが多い。

その点この曲は生活感に満ち満ちている我々の感覚にやたら「近い」

 

"だらしない寝顔 片っ方を探す靴下

絶対言わない「ありがとう」 たまにくれる花の束"

 

この曲の中には「イデア化された「彼氏」という虚像」は存在せず、そこには優しいけどちょっとだらしない、何の変哲もない「普通の彼氏」がいる。そしてそんな彼にフラれたのも、決して「どこかの誰か」などではなく、「この曲の中のこの女性」。この実名性こそがリアリティーをさらに深みをもって演出し、我々が共感できる余地をさらに広めてくれる。「狭義化することでかえって共感の幅が広がる」という逆説に目を向け、それをうまく歌詞として表出させたrisouの手腕にただただ脱帽である。

え?お前が恋愛を語るなって?いや、勘弁してください・・・ホントに・・・許して・・・

 

③summer history/歩く人

クラブでかかったら踊っちゃうタイプのゴリゴリ系テクノポップ。ゴリゴリ系とは言ってもEDMのようなド派手な感じではなく、むしろゴリゴリな部分(動)とそれ以外の部分(静)を明確に分け、それを的確な位置に配置したような打算的で偏差値高めの一曲。テクノ文脈には全く詳しくないのでテキトーなことばかり言うと親族を皆殺しにされそうなのでここら辺にしておこうと思うが、それでも漠然と「最近っぽいサウンドだなぁ」と感じる。ポストEDM的というか。何にせよボカロテクノ界隈の今を語るうえで彼の存在を度外視することはできないだろう。

あんまり関係ないが歩く人の1stアルバムである『qinema』が委託販売中なのでまだ購入していない方はぜひ購入してみてはいかがか。もちろんこの曲も高音質で収録されている。早く購入して2017年ボカロ文脈全理解マンになろう。

 

④I Wanna Be Reborn/藍緑P

お洒落でキャッチ―なR&B。曲名の直訳は「生まれ変わりたい」。

サビで繰り返される「I Wanna Be Reborn」のフレーズがとにかく耳に残る。GUMIはこういった思春期の苦悩系ソングを淡々と歌い上げ、それでいてそこに一切の違和感をもたらさないから流石である。

また、R&Bというとお洒落な一方でどことなくアダルティな印象が強いが、そこはさすがニコニコ大百科の紹介文が「エレクトリックな曲を作る人物です」の一行しかない藍緑P、キラキラしたテクノポップと融和させることでそういった印象を抑えることに成功している。一口に「お洒落」といってもそこには数多の技巧が凝らされているのだ。そう考えると、ニコニコのタグはもう少し細分化させた方がいいんじゃないかとも思ったりする。

 

⑤春の化身/かしこ。

春の午後に聴きたいふわっとした一曲。女子高生のとある逡巡を綴ったロックナンバーである。

注目すべきはそのヨレッヨレな歌詞。

 

"春の化身 とある分身 今のあたし 瞬間ヒロイン

期末ないし あれもないし 思春期 生命体

春の化身 あなたが好き 「あたしの部屋にも来てほしい」

あのゲーム クリアしたいし レベル上げむずいの 超むずぃ"

 

「化身」「分身」「あたし」や「瞬間ヒロイン」「思春期生命体」で韻を踏んでラップ的な挙動を見せたかと思いきや「むずいの」でその流れを完全に破壊。抽象的な概念・言葉ばかりを弄んでいるかと思いきや突如飛び出る「あなたが好き」。「あたし」なのか「私」なのか定まらない一人称。ああもどかしい隔靴掻痒!

しかしよく考えてみてほしい。この、いい感じのところで意図的に「ずらす」歌詞、まさに多感な女子高生のメタファーなのではないだろうか。表向きは勝手気ままでテキトー、飽きたらすぐやめる。しかしそれでいて内心は「手を繋ぎたい」「もう無理ぃ」と大パニックに陥っていて、結局「あなた」のことしか考えられない、そんな存在。なんだお前、メッチャ愛おしいな。

これぞ萌えである。凡百の萌えソングを歌詞だけでボコボコにできそうな程度には破壊力を備えた2017年ボカロシーン屈指の萌え曲である。

浮ついた歌詞もさることながら初音ミクのリバーブがかった調教も春のまどろみを巧く演出している。

 

 ⑥夏が零れてゆく/かりく

①あたりで散々全盛期的な音作りにアイロニーをぶつけておいてこんなことを言うと憤慨されるだろうけど、やっぱりサビは大事だと思う。サビの強さは曲の強さである

クワガタPあたりを彷彿とさせるエモロックバラードにナブナ的レトリックを加味したいいとこ取りの良曲。しかし単なる二者の安易なハイブリッドに終始するのではなく、感傷的に唸るギターの残響に理性的な電子オルガンの音色が付随するようなバランスの良さや、個人的にはナブナよりさらに落ち着いているように感じる歌詞など細部で差別化を図っており、クリエイターの確かなプライドを感じざるを得ない。

 

"潮風通り過ぎる 君の背中

砂浜に映った その影は朧

波の音は静かに 夏を運び

水面を染める 落日の朱"

 

夏と夕暮れとノスタルジーはやっぱり相性が良いなと改めて思った。

 

現象学/shima

フッサールだと思った?残念!宮沢賢治でした!なポストロック。

歌詞のベースになっているのは宮沢賢治の詩集『春と修羅』。なるほど読後ならなんとなく歌詞が理解できる気がする。このような小説に明確なリスペクト元を持つ曲は『9'ON/PIROPARU』や『little traveler/ジミーサムP』を筆頭に今までも多くみられたが、それでもこういった先鋭的な解釈は珍しい。

宮沢賢治の作品といえばエモーショナルでどこか現実離れした世界主義的世界観であるが、彼自身の人生はといえば、これがかなり壮絶なもので、30代の頃、農作業の指導中に高熱で卒倒してからは苦しい病臥生活を送り続けることとなり、37歳でその短い生涯を閉じるというものであった。

以上を踏まえるとこの曲に対する認識も大きく変容を遂げる。サウンドを支配するベースの低音はまるで宮沢賢治の壮絶な人生をなぞらえるかのように重苦しく響き、一切のブレスも許さず淡々と紡ぎ出され続けるリリックは彼の人生の短さを寓意しているようではないか。エモーい!

著作権意識がインターネットにも広く普及し、リスペクトとパクリの境界線が曖昧なままで規制ばかりが強まりつつある21世紀という時代性の中、「これはリスペクトだ」と臆面もなく主張する作品を発表する行為は、相当の気概を要する一方で、確かな意義がある。

つげ義春リスペクトとかやってくれねぇかな誰か。

 

⑧キミの全てを見せてよ/Omoi

ここまでレビューを書いてきて思ったことが一つある。疲れた。私は元来聡明な人間ではないので長文を書くと脳がひどく疲弊してしまうのだ。これは耳に関しても言えることで、ハイブロウで偏差値高めの曲ばかりを聴いているとやはりどうしても耳が疲れてしまう。だからこそ、たまにはこういうパワフルで前向きな曲が聴きたくなるのだ。

私はここまでの文章で、また、去年あたりに書いた記事で、暗黒期以降のボカロシーンは「大きな物語」を失ったことでかえって進歩を見せたという旨の話を展開してきたが、しかしその「進歩」というのは、完全に全方向へと散逸したものではなく、ある程度方向性がまとまったものであったと私は考える。

 

端的に言って、ボカロは暗黒期以降「落ち着いた」方面へと向かっている。それは音に関しても歌詞に関しても言える。最盛期がワイワイガヤガヤ系ばかりだった反動もあってか、最近では俗に「チルい」などと形容されるような「冷めた」感じの曲が増えたのだ。具体的なクリエイター名を挙げるなら有機酸、歩く人、ぬゆりあたりだろうか。決してこの傾向が好ましくないと言っているわけではないが、投稿されるボカロ曲の表出的な意味での温度が低下したのは事実である。私はなんだかシーン全体が大人になってしまったかような錯覚を感じた。半ば自分らで「大きな物語」手放しておいて、いざそれが失われると寂しくなってしまうとは何とも勝手なことである。しかし今の雰囲気が嫌いなわけでは決してないし・・・うーん困った。

しかしOmoiはこの絶望的なアンビバレンスを快刀乱麻を断つかのごとくものの見事に解決してくれた。言うなれば彼/彼女は「最盛期の音を2017年の文脈で鳴らすクリエイター」なのだ。

聴けば分かると思うが、この曲といえば、というかOmoiの曲といえば、その圧倒的な「音圧」である。そしてこの音圧を可能にしているのがシンセサイザーである。こういった感じのシンセの鳴り方は最盛期のポップアイコンことkemuを彷彿とさせる。シンセサイザーは最盛期の象徴的なアイテムであると言っても過言ではないかもしれない。

しかしOmoiはkemuとは決定的に異質なものなのである。そう、Omoiは2017年の文脈を把握しているのだ。

先ほど「暗黒期以降のボカロシーンは落ち着いた」と述べたが、Omoiはここに目を向けた。周囲が落ち着いた曲ばかりだということを知っていたからこそ、「たまには騒がしい曲も聴きたい」というニッチな需要をうまく突くことができたのだろう。彼/彼女は2017年がどのような年なのかをはっきり知ったうえで、確たる自信を持って楽曲を発表していたのだ。なんと打算的なことか。そしてこの目論見は見事的中し、『テオ』は今ではミリオン間近の大人気曲である。

そんな彼/彼女の曲の中でもとりわけパワーに溢れているのがこの『キミの全てを見せてよ』である。サウンドはもちろんのこと、歌詞もすこぶるエネルギッシュで、特にサビの「キミの全てを見せてよ!」のリフレインは嫌なことの蓄積ですっかりすり減ってしまった精神を下から突き上げるように鼓舞してくれる。

こういう歌詞は人間のアーティストだとWANIMAあたりが歌うのだろうと推察できるが、人間である彼らに「キミの全てを見せてよ!」なんて迫られたらとてもじゃないが暑苦しい。疲労がさらに増すだけである。こういうのはボカロに歌わせるからこそすんなりと受け入れられるのだろう。この考え方は後述する「イノセンス」の概念にも通じる部分があるので心の片隅にでも留めておいていただけると幸いである。

 

⑨耳なりはフェンダーローズ/MSSサウンドシステム

最盛期という幻想の終焉がもたらしたのは何も作り手受け手の内省だけではない。忌々しい普遍性が瓦解したおかげで今まであまり動きがなかったジャンルが大きく躍動し始めた。その一例がヒップホップだろう。

暗黒期以降は松傘、mayrock、でんの子P、空海月あたりを筆頭に、様々な技巧が凝らされたユニークなヒップホップナンバーが数多投稿された。また、音楽のダウンロード販売サイトである「Bandcamp」ではヒップホップをテーマにしたアルバム「MIKUHOP LP」シリーズがstripelessより発売され、大いに注目を浴びた。

ヒップホップの醍醐味は「編集」にある。例えば、日本語ラップの金字塔『証言/LAMP EYE』のトラックは1964年のシドニー・ルメット監督作品『恐怖との遭遇』のサントラ盤に収録されていた『Who Needs Forever』をMIXしたものである。

そしてさらにそれを初音ミクで試行したのが2015年の『初音ミクの証言/松傘ほか』である。

このように、ヒップホップでは、他の音楽ジャンル以上に「既知から未知を導出する運動」、つまり「編集」が行われている。あらゆる種類の音楽が横溢し、もはやこの世界には真の意味での新規性などは存在しないとさえ言われる現代だが、ヒップホップはこの「新規性のなさ」という限界をむしろ肯定的に捉え、それならば、わざわざ全く新しいものを作ろうとなどせずに既にあるものを巧くくっつけたり磨いたりして結果的に新しいものを生み出せばいいのではないかと考えたのだ。なんて前向きなジャンルなんだ・・・

さて、この『耳なりはフェンダーローズ』もまた「編集」がうまく活かされた名曲である。これについては鈴木O氏が自身のブログで私の言いたいことを全部代弁してくださったので正直私の出る幕はないような気もする。以下引用。

 あまりに名曲です。元ネタはファラオ・サンダースの You've Got To Have Freedom。大ネタでかつまんま使い。曲中のいくつかの部分をサンプリングして繋ぎ合わせていますが、手の込んだ編集は行われていません。初音ミクの歌うメロディに関してもサンプリング元のフレーズをほぼそのまま使ったようなものです。これは安易さから来るものとも取れますが、それ以上に勇気のいる選択です。オリジナリティや作家性といったものへの拘泥はしばしば過剰な自己主張を生み、作品の心地よさ捻じ曲げてしまいます。大好きな曲をサンプリングして作った上出来なトラックに「個性的な」メロディを乗せようとして台無しにしてしまう……これはわたしにも経験があることです。しかしMSSサウンドシステムはそうはしませんでした。あくまで素直にメロディをのせたのです。作家が自らのエゴを適切に管理し作品へ奉仕することが、この作品のよさに貢献しています。ではこの作品にサウンド面での作家の自己主張はないのかというともちろんそんなことはなく、むしろ特大で鳴り響いています。すばらしいドラムの音が。

https://note.mu/suzuki0/n/n3c3ee2f43fad

 このように、『耳なりはフェンダーローズ』においては、「編集」がもはや「要素」ではなく「全体」にまで拡大化している。つまり曲のほとんどの部分が既存曲のサンプリングなのだ。引用部分でも触れられているが、まさにこの「自我の薄さ」もまた後述する「イノセンス」の概念にちょうど合致する。「イノセンス」は2017年中頃にTwitterを中心に広がっていった概念だが、これももしかするとヒップホップの精神性が下地になっているのかもしれない。

 

⑩アイドル/puhyuneco

イノセンスイノセンス言われても何のことだか分かんねーよバカという方が多いだろうからキュウ氏のブログを引用しておこうと思う。これを読んでおけばなんとなく「イノセンス」の何たるかが把捉できるのではないだろうか。

ではまず、イノセンスの言葉の意味からアプローチしていきたいと思います。
イノセンスは日本語では無垢、無邪気などと訳されます。
このことから簡単に解釈すると、例えばモテたいとか、人気者になりたいなどといった世俗的な欲望を排したことを指していると考えられます。
そうすることによって本当に伝えたい感情をフォーカスした音楽が「イノセンスがある」と呼ばれていると言えるでしょう。

 

(中略)

 

元々、無垢を表現するための手法として、心の無いものに頼る手法が存在しました。
そして方法論として、当事者では無い声(特に子供の声)を用いる、あるいは声を加工する、などが存在していました。
それから技術は発達し、そこに新たな心のないものである機械を用いる手法が台頭してきます。
ところが機械による声が存在しなかったため、機械によるイノセンスのある歌ものを表現することが出来ませんでした。
それを可能にする最後のピースであり、しかも当事者では無い声として用いることが出来る、それがボーカロイドであると言えるでしょう。

https://note.mu/rooftopstar/n/nbf5d12b2bdd6

つまり「イノセンス」とは作り手の感情が完全に純化(=無垢化)されたボーカロイド音楽のことを指すのである。とはいえ、「イノセンス」自体がかなり扱いにくいバズワードであるため、「である」と言い切ることはできないかもしれないが。

しかしここで疑問が一つ。それは、ボーカロイド自体は2007年から存在していたのになぜ「イノセンス」の概念が提唱されるようになったのは2017年に入ってからなのかというものである。

ここからは勝手な持論だが、私はこの「イノセンス」の概念が誕生したことにも①で述べたような最盛期的「大きな物語」の喪失が密接に関わっているのではないかと考えている。

再三同じことを言っている気がするが、最盛期の「大きな物語」の熱気はボカロシーンに潜む諸問題を曖昧化させていた。これについて、①では歌詞の例を挙げたが、問題はそれ以外にもある。その中で「イノセンス」へと直接結びつくのが「敢えてボカロに歌わせることの意味」という問題である。

最盛期までのボーカロイド文脈では、ボカロという技術の目新しさゆえ「ボカロであること」自体が新規性を帯びたものであり、従ってわざわざ「ボカロに歌わせる意味」など考えなくても、曲を発表さえすればそれは必然性を伴って「新しいもの」であったのだ。しかしこの実体なき熱気が終焉を迎え、ボカロが「世の中に存在する音楽のうちの一つのカテゴリ」へと収斂した時、つまり、ボカロがボカロであるがゆえの特別性を喪失した時、ボカロ音楽は遂に己のアイデンティティを獲得できなければ他の無数に存在する音楽の中に埋没してしまうという窮地的局面へと突き当たってしまったのである。そしてここで改めて「敢えてボカロに歌わせることの意味」というビッグイシューが浮かび上がってきたのだ。

これについては多くの人間が頭を抱えた。ある者は前衛音楽に傾倒し、ある者はブログを書き、またある者は界隈から去った。まさに過渡期だったと思う。

しかし苦節約数年を経、2017年、遂にある一つのアンサーが誕生した。それが「イノセンス」だ。

イノセンス」には絶対に人間が介入できない。なぜなら人間は人間でしかないからてまある。いくら人間の声のピッチを機材で弄っても、それは「人間を引き延ばしたもの」に過ぎない。従ってそこに「イノセンスっぽさ」はあったとしても、それはどこまでも疑似的なものなのだ。ボカロだからこそ純粋な「イノセンス」たり得るのである。イノセンス」はまさにボカロシーンが苦悩の果てに遂にたどり着いた一つの境地だと言えよう。これを喜ばずして何に喜ぼうか。

『アイドル』はそんな「イノセンス」の発端となった、いわば全ての起点である。

前衛とポップの狭間をふらふらと揺れ動くようなサウンド、感情の見えない無機質な絵、そして他の追随を許さぬ圧倒的なまでに抒情的な歌詞。どこを取っても圧巻の一言である。

 

"動物と人間のあいだで きみが好きって そんな青春

コンクリートに埋まるさよなら

ふり返ったら咲いてたらいいな って

 

初恋でとなり同士、一言もしゃべらないまま

夏休み、部活帰りに きみとばったり 夕立のなか

 

夕立のなか。

 

偶然アイドル 偶然にアイドル"

 

曲単体としても、界隈に与えた影響の大きさとしても、間違いなく2017年で随一の最高傑作であると言えよう。是非聴いていただきたい。

 

⑪翼のない天使/平田義久

なぜ11曲目?と思うかもしれないがまぁ落ち着いて欲しい。

私は愚かなので12月下旬には既に「2017年10選」をTwitteで公開してしまっていた。さすがにあと数日で私の心を射抜くような曲が出てくることはないだろうと。しかしこれはあまりに軽率愚盲な行動であった。まさか12月のしかも27日にこんなヤバいものが投稿されるとは夢にも思わなかった。来年からは年が明けてから10選を公開するようにしたい。

この曲で注目すべきはやはり初音ミクの調声である。はきはきしており抑揚のついた有機的な響きはどこかにおPを彷彿とさせる。日の照る海辺の輪郭線のない情景を克明に表現したエモーショナルな歌詞は我々を夏へと誘う。レゲエはダサいというパラダイムを覆すほどの熱量を持った年末の快作である。

やっぱ冬より夏の方が好きかもしれない。夏には逆のこと言ってると思うけど。

 

まとめ

2017年は初音ミク10周年ということもあり、多くの人々がボカロシーンに横たわる諸問題について「反省」した年であったように感じた。また、kemu、ハチ、wowakaといった最盛期の大物Pが次々に復活し「王の帰還」だのと散々持て囃されたのも記憶に新しい。これについては私の過去の記事でちょいちょい触れてきたので気になった方は読んで頂けると幸いである。

 

 

 

記事を書いていて改めて思ったが、やはりボカロはどこまで追っても面白い。2018年もどんな出来事が巻き起こるのか相変わらず目が離せない。私もボカロについてのブログを執筆することで少しでも界隈に寄与出来たら嬉しいと思うばかりである。

 

それでは皆さん、今年度も良きボカロライフを。