美忘録

羅列です

10選+αで語る2018年ボカロシーン

あけましておめでとうございます、因果です。2019年は洗剤を切らさないよう頑張っていくことを目標にしました。あとはちゃんと単位を取る。

 

さて、2018年のボカロシーンも語るに尽きぬ激動の一年だったと言って過言ではないでしょう。そこで私の10選や話題曲を挙げながら2018年という一年を私の解釈の下で振り返ってみることにします。

 

あらゆる方面から色んなものを引用してくるスタイルは私が敬愛してやまないしろばなさん(@banaxie)氏リスペクトです。氏のブログを貼っておきますので当記事とも併せて是非読んで頂きたい。


shirobanasankaku.hatenablog.com

 

それ単体として存在しているように見える楽曲たちが体系的な知識というフィルターを通すことによって実は裏でつながっていたことが判明する、そういうカタルシスを心ゆくまで享受できる「気持ちイイ」ブログです。

 

さてそろそろ本題に入りましょう。

 

 

 

①頑張るしかないらしい/ぷにまる

ぷにまるの破壊的応援歌。はじめは軽快でポップな曲調だが、それがノイズやビープ音などによって徐々に歪められていき、終いには「だからファイト私!頑張るしかないらしい」という呪文めいた鼓舞をただ延々と繰り返す狂気空間が現前する一曲。

 

「行き過ぎた鼓舞がかえって自分を苦しめる」というのはアイロニーの手法としてはかなり使い古されたものであるが、ぷにまるはその先に潜む更なる社会の暗部を突く。

 

平成ももう終わるが、依然として息の詰まるような社会問題が日々取り沙汰されている。2020年東京オリンピックにおける人材の買い叩きや、先日発表された「ブラック企業大賞」で三菱電機が見事大賞を受賞したニュースなどは読者諸君の記憶にも新しいだろう。

 

このような大規模構造の中においては個人、つまり「私」はあまりにも無力である。独力では悪徳企業を崩壊に追い込むことも、男女平等を達成することもできないのだ。労働組合や#MeToo運動の存在こそがまさにそれを決定的に裏付けている。

 

だからこそこの無力で矮小な「私」は今日も社会の要請に従って仕方なく頑張らざるを得ない。そこに決して本心からの自発性はないのだ。「頑張りたくはないけど、でも頑張らないといけないから頑張っている」のである。そしてこの重層的にねじれた心理を、面従腹背の反骨精神を、うまく一言で言い表したものこそが「頑張るしかないらしい」というフレーズなのだ。

 

変わるべきは社会なのか、それとも「私」たちなのか。『頑張るしかないらしい』はそんなフェータルな問いかけをリスナーに迫る。

 

②堂島交差点/夜行梅

ボカロ界隈にも徐々にヒップホップカルチャーが根付いてきたことは動画投稿数の推移やしま(@shima_10shi)氏主催「Stripeless」発の『MIKUHOP』のシリーズ化等からも分かるだろう。

 

ヒップホップを体系的なカルチャーとして成立させるものとして「サンプリング」という文化が挙げられるが、ボカロにおいてはその参照点が外部、つまり「非ボカロ曲」にある場合が多く、「ミックホップ(ボカロにおけるヒップホップ楽曲の総称)」をシリアルに語ることはきわめて困難だった。

 

しかし遂に出た。参照点がボカロ曲に存在するボカロ曲が。それこそがこの『堂島交差点』。

 

参照曲はDixie Flatline黎明期の名曲『東雲スクランブル』。選曲が渋すぎる。

 

ちなみにDixieの投稿者コメント曰く「モデルは渋谷スクランブル交差点」、つまり東雲スクランブル=渋谷スクランブル交差点とのこと。次に『堂島交差点』について調べてみると、これはどうも大阪梅田にある同名の交差点のことらしい。東京渋谷と大阪梅田。オタクはこういうさりげない対比に弱いのである。

かなり大胆な大ネタで、初音ミクが「uhh baby」と思いきり歌唱しているサビ冒頭部分がほぼそのまま使用されている。聴けば分かるがマジでそのまんまである。

 

今年7月には4年ぶりのアップデートとなる「VOCALOID5」が発売されDTM界隈が大いに沸き上がったが、これによって初音ミク発売当初より幾度となく議論の俎上に上げられ続けてきた「初音ミクは楽器か?歌姫か?」論争も再興した。

mitchie-m.com

『堂島交差点』におけるこの大胆なサンプリングは、後者(初音ミクは歌姫である)を否定することなく、なおかつ前者(初音ミクは楽器である)の可能性を押し広げる宥和的アンサーであったと私は考える。

 

私は常々、音声合成技術の飛躍的な進歩がいつかボカロと人間の境界を完全に破壊し、その結果ボカロはかえって衰退するのではないか、という一抹の危惧を抱いている。そもそもこのサンプリングを面白いと感覚できるのも私がボカロの不完全性に魅せられているゆえのことだろうし。

 

ボカロはこれから果たしてどこへ向かっていくのか。これからもあくまでボカロとして振る舞い続けるのか、あるいは境界線を越えて人間になるのか、はたまたそれ以外か。この曲を聴きながらその行く末を見届けたい。

 

③ANIMAる/梅とら

音圧とセンシュアルなリリックに定評がある梅とらだが、今回はアレンジ、調声、MIXにギガPを迎えている。特に調声の面ではボカロの電子音的な特徴は残しつつも人間のようなブレス音を再現するなど、ギガPの「ボカロならでは」を追求する姿勢が多分に窺える。そしてそれは2か月後に投稿される『劣等上等』として結実する。

また、梅とらのリリックセンスも年々上昇の一途を見せており、はじめは露悪的だったエロスが豊穣な語彙と言い回しの中に沈潜するようになったため幾分耳触りのよいものとなった。内包するエロスの量そのものに変化はないが、これならお母さんの前で流してもギリギリ気まずくならずに済みそうだ。

 

思想家の九鬼周造は主著『「いき」の構造』において「媚態」とはゼノンの「アキレスと亀のパラドクス」にみられるような、「達せそうで達せない状態が開示する価値」のことであると述べているが、昨今の梅とらのリリックメイキングはまさに媚態的と称賛するに相応しいものなのではないか。

「いき」の構造 他二篇 (岩波文庫)

「いき」の構造 他二篇 (岩波文庫)

 

 昨今、世間ではあいみょん、ボカロ界隈に限ってはカンザキイオリなどの、シンガーソングライター的側面の強いアーティストが衆目を集めている。これらのアーティストに共通するのは、彼らが剥き出しの感情をそのまま歌に込めている、ということである。

 

剥き出しの感情というのは往々にして剥き出しの言葉、つまり「強い言葉」によって表現されるものだが、この「強い言葉」というのは、それ以外の「弱い言葉(便宜上こう表現する)」の存在との相対上にのみその価値が表れる(逆もまた然りだ)。つまり、「強い言葉」、あるいは「弱い言葉」というのは、それに対応する言葉の存在によって規定されている。

 

これは、例えば少年漫画で主人公が毎回最終奥義を使って敵を倒していたら次第にそれを最終奥義と感じなくなってくるのと同じだ。緩急がなさすぎると我々はどこにパンチラインがあるのか分からなくなってしまうのである。あいみょんでは『貴方解剖純愛歌』、カンザキイオリでは『命に嫌われている』がその好例だろう。

 

しかしあいみょんやカンザキイオリの人気ぶりからも窺えるように、こういった「剥き出しであること」を礼賛する層はむしろマジョリティーである。だからこそ私は、そういった流れに逆らい、ただ媚態の境地を目指し己を研鑽する梅とらの姿勢を全面的に支持していきたい。

 

④りんご/目赤くなる

ふつう、「夢」というと何か輪郭が欠如したアブストラクトな情景が連想されがちである。事実、「夢」でシソーラス検索をかけると案の定「幻覚」あるいは「まやかし」といった語句がヒットする。このことからも「夢」というものの漠然性はある程度人口に膾炙しているといえるだろう。

 

しかしこの等式は意外にも絶対ではない。というのも、「夢」というものは実際には部分的に薄気味の悪いほどのディテールを持つことがあるからである。精神科医カール・ユングは自著『宗教学辞典』において、「夢には意識的洞察よりも優れた知慧がある」のだと述べた。つまり、我々が普段はたらかせている意識の方が、意識が捉えた情景よりもむしろアブストラクトだというのだ。

 

確かに「その支離滅裂さから夢と判断することはできても細部にリアリティーがありすぎて現実と見紛ってしまいそうになった」、などという経験はいくらでもある。この前など夢の中で用を足したのを現実と勘違いし危うく人間としての尊厳を失うところだった。一見すると途方もなく思えるユングの主張だが、実経験に照らし合わせてみればそれなりの妥当性を持つのではないか。

 

氏の『りんご』もまさにユング的「夢」のような世界観を持つ不思議な一曲だ。音像は終始ぼやけ、初音ミクの声もふにゃふにゃとしているが、時折その微睡みを破壊するように歪んだ不協和音が差し込まれる。しかもそこに何の法則性・連続性もない。夢という現象の本義をここまでリアルに追体験できる音楽というのはそうそうお目にかかれるものではないだろう。

 

⑤キャンディーポイズン/RUBY-CATMAN

今年度で一番「騙された!」と舌を巻いた一曲。

 

イントロからBメロまではいわゆる「ボカロっぽい」と形容(あるいは揶揄!)されるようなハイテンポかつキッチュな歌詞のノせ方が続く。そのコテコテさといったらサビでも同様の流れが続くことを予期させるに十分なほどである。

 

しかし意外なことに、サビはそれに反し一切小手先のテクニックがない王道の4つ打ちテクノポップが展開される。予期を完全に裏切られ、ここでリスナーは初めて「やられた!」と気づくわけだ。「こういう曲は往々にしてこういう展開を辿る」といった具合に、VOCALOID楽曲の文脈をよく理解し、自身の中でそれを体系化している者であればあるほど、この「外し」はフェータルに刺さる。いわば「メタ・ヘヴィーリスナー」な一曲なのである。

 

さらに驚くべきはRUBY-CATMANがこれらを意図的にやっているかもしれないということである。それを裏付けるのがアウトロのスキャットパート。百聞は一聴にしかずということで実際に聴いて頂ければ理解いただけると思うが、メッッッチャクチャ『ネトゲ廃人シュプレヒコール』の間奏に似ている。

ネトゲ廃人シュプレヒコール』といえばボカロ黎明期〜全盛期(千本桜期)の時代の中で熱狂的な支持を受けた伝説入り(100万再生超え)楽曲のひとつであり、古参ファンにとってはこの曲が思い出深い者も多い。

 

それを半ばサンプリング的に2018年の自曲の中に組み込むというのは「私は過去の蓄積の上に自身を花開かせている」という氏の意思表明に他ならないのではないか。「メタ・ヘヴィーリスナー」などという芸当が可能なのも、過去の文脈への精密なリサーチがあってこそのものなのだと推測できる。ボカロ慣れしているからこそ聴きたい一曲だ。

 

⑥鬼/Jille.Starz

 例えば、有名な資産家が「世の中金じゃない」と言っていたら、高卒の労働者が「学歴なんか何の役にも立たない」と言っていたら、あなたはどう思うだろうか。私なら「お前が言うな」とでも罵言を飛ばすだろうが、こればかりは本当に人それぞれである。私のように立腹する者もあれば「あなたこそそれを言うことのできる立場だ!」と逆に感激する者もあるだろう。しかしどちらにせよ通底するのは「行為者のバックグラウンドが考慮される」という点である。そして受け手が「行為」と「行為者のバックグラウンド」があまりにも食い違うと認識した場合、その「行為」は受け手の生活の中において「耳障りなノイズ」でしかなくなってしまうのだ。当時中学生という若さで残忍な連続殺傷事件を起こした、通称「少年A」が出所後に自伝を出版した際に「犯罪者が偉そうに高説を垂れるな」という苛烈な世論に晒されたことなどが良い例だろう。

 

この無意識的なバイアスを自分の中から排除することは非常に困難であるが、これを軽減してくれる濾過装置はある程度存在する。音楽におけるそれが「ボーカロイド」だ。ボカロにはオタクが作り上げたかりそめの設定(例えば初音ミクならネギが好きとか一人称が「僕」とか)は点在するが、正史と呼ぶべき普遍的なバックグラウンドは存在しない。この無機質さこそがボカロを濾過装置たらしめる最大の要因である。バックグラウンドがないということは、上記したような「~~のくせに」という対人間的な感情が喚起されないということであり、つまり、人間が歌っていたらなんかムカつくリリックも、ボカロが歌えば何とも思わずに済む可能性があるということである。

 

『鬼』はボカロのこういった可能性がこの上なく有効活用されたヒップホップナンバーだ。「上を見るよりもまず鏡/それより大事なのは中身/真似じゃねえんだよ Not WANNABE/Jille.’s Wonder RAP 既に新たなる SCENE」などという歌詞は人間が歌おうものなら暑っ苦しくてかなわないが、バックグラウンドを持たないGUMIならその暑苦しさが幾分軽減される。Jille本人もそのシステムを理解しているからこそ、やや踏み込んだ過激な表現を敢えて曲中に取り入れているのではないか。

 

また、『鬼』はGUMIの輪郭あるハキハキとした発音も相まって、ライムが本当に気持ち良い。「LもRもギターギター/そんなサウンド飽きた飽きたー」あたりは殊に「i」の発音が際立つGUMIだからこそ映えるフレーズだろう。Taskの『キドアイラク』でもそうだったが、ラップ楽曲におけるGUMIの可能性は計り知れないと思う。2019年はJille.Starzを旗振り役にGUMI×ラップがもっと流行ってほしい。マジで。ガチで。

 

⑦サイコ/松傘

『エイリアン・エイリアン・エイリアン』や『ミックホップのはらわた』などで知られるボカロヒップホップシーンの雄こと松傘のTrapナンバー。曲名の元ネタはもちろん鬼才アルフレッド・ヒッチコックの代表作『サイコ(1960)』。

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作中ではシャワーを浴びていたヒロインが突然何者かの襲撃に遭遇し命を落とすが、リリックはその際の彼女の心情を代弁するものだろう。「誰か来て」「殺さないで」というあまりにもなフレーズが事の切迫さを物語っている。

 

しかしリリックの緊迫性に反してトラックはトロピカルかつピースフル。よもやこの中で一人の女性の命が奪われていようとは微塵も想像もできない。「どれほど悪辣な事件が起きようとそんなことは差し置いて世界は回り続ける」という世の中の無情がアイロニカルに、かつセンス良く叙述された珠玉の一曲だ。

 

⑧Behind The Moon/イナバの楽団

Future Bassっぽいシンセサイザーの使い方がそこはかとない宇宙感・未来感を想起させる2STEP。とりあえずカッコだけつけて「2STEP」とはカテゴライズしたもののそれの仔細な理由が説明できないのでまだまだ勉強不足だなという気持ち。AviciiやZeddの楽曲に代表されるようなド派手な展開からは一歩引いたチルさがありながらも聴く者を自身のグルーヴの中に飲み込んでいくダイナミズムを持っており、気付いたらブログを執筆しながら首を縦に振っている始末である。クラブで舞ったらすごい楽しいんじゃないだろうか。

 

彼や春野や有機酸もそうだが、ここ数年で、いわゆる、メジャーシーンからは少し外れた傍流的な音楽を作るクリエイターを受け入れる素地が出来上がり、それが実際にニコニコ動画という土俵において再生数という形で表れているという事実に、私は驚愕しながらも満悦している。

 

いち動画サイトというクローズドな空間にもかかわらずこうも多様な価値観が支持されるということは、クリエイターやユーザーが多少なり外部に自身の価値基準の参照点を持っているということであると私は考える。つまりそういった無数の参照点が集うニコニコ動画のボカロカテゴリーというのは、言うなればカルチャーが持つ重厚な歴史を一挙に学ぶことができる最高の教材なのではないかということだ。

 

ボーカロイドというミクロを覗くだけで、同時に音楽全般というマクロをも獲得できうるのである。実際に私はボーカロイドを足掛かりに様々の音楽に触れるようになったし、ボーカロイドによってあらゆる音楽に対する許容力を高めた。もしかすると今現在ボカロネイティブと揶揄交じりに呼ばれている層の方がバイアスなく色々な音楽に向き合えるポテンシャルを秘めているかもしれない。

 

ただし「ボカロのみに安住する」という一見尊大な意思表明に見える怠慢を続けている限り、これはどこまでいっても「可能性」でしかない。何かを語るリスナーであろうとするならば、参照点そのものに肉薄するくらいの最低限の努力はしたいものである。自戒も込めて。

 

⑨00/Puhyuneco

正直Puhyunecoについては去年散々語ったのでもうこれ以上何も言いたくないんですが、それでも今年もやってくれやがったので取り上げざるを得なくなってしまった。

 

nikoniko390831.hatenablog.com

 言うなればPuhyunecoはボーカロイドにおける存在的危うさそのものである。「ボーカロイドとは何か」という根源的な命題に対して、誰しもが口ごもり、遠回りし、終いには何も言い得ずに飲み込んできたという無力感の歴史の集積が彼なのだ。しかしこれはむしろ僥倖でさえある。なぜなら、この無力感がなければこの才能は生まれてこなかっただろうから。これほどまでに皮肉な逆説が他にあるだろうか。ただ無味恬淡と、しかしそれは「感情がない」と形容するよりかは「何かに覆われていて感情が見えない」とするほうがしっくりくるような危うい様子でリリックをなぞるPuhyunecoの初音ミクは、他のどんなに調教された初音ミクよりもアクチュアルだ。宗教における根本体験のように、私はこの時はじめて、初音ミクに出会ったのである。

 

”死んだ後で きみが好きなんて

伝えても遅い だから

わたしは透明な 翼になろうか

翼になろうか”

 

⑩日暮らし/キツヅエ

2018年の個人的最優秀賞である。ボカロフォークはまだまだカルティベイトされていないジャンルだと思うのでこの曲を機に流行ってほしい。マジで。

 

夏場、窓の桟に座り込んで夕間暮れを眺めていると感傷のひとつやふたつ思い浮かんでしまうのが人間というものである。それは本当に瑣末なことなのだけれど、じわじわと西の空を焼くオレンジと、そこにぽつんと響くひぐらしの独唱に絆されて気付けば涙が頬を伝っている…。

 

キツヅエが秀逸なのはその言語感覚である。はっぴいえんど吉田拓郎台風クラブがそうだったように、キツヅエは日常のことばのみで情景を巧みに表現している。そこには回りくどいレトリックも晦渋難解な語句も一切ない。日常のことばによる暖かな原風景のみがある。

 

"笑えない言葉が ちいさな日々の隙間で

ずっと消えないでいて わざと埃を払ったよ

誰もいない街角に もういいよ がこだまして

かくれ場所は知っているような気がして"

 

また、実写のMVもこの曲の叙情性をさらに高めるものとして格別の価値を発揮している。場所は京都?らしい。行ってみたいな。

 

そういえば去年は実写MVもアツかった気がする。平田義久、cat nap、アメリカ民謡研究会、青屋夏生、Guiano、*Lunaといった名だたるボカロPの実写MVをランキングで幾度となく見かけた。2007年末ごろからボカロの萌えキャラクターという属性が薄れ、アイドルポップ以外の楽曲が流行るようになったのと同様に、2018年は「ボーカロイド」という記号さえ消すことで、「ボーカロイド」というある種のスティグマが閉ざしていた扉を開けようという試みがなされていたように感じる。

 

 

 

さて、これでやっと私の2018年は晴れて幕を閉じることができるわけです。とはいえもう既に2019年の幕が上がってしまっているので私も急いでその壇上へと駆け上がることにしましょう。

 

それでは皆様、今年度もよきボカロライフを!