喪失ヶ浜の午後
車窓に覗く景色を意味のある形象として捉えられるようになりつつある。私はドコモタワーだとか都庁だとかスクランブルスクエアだとかいった高層建築がいつの間にか平べったい公営住宅にすり替わっていることに気がついた。
茫漠とした旅情が俺は今からどこどこに行くんだ、という確信へと凝固する一方で、ビルやネオンの織り成す猥雑な摩天楼はその影を遠くひそめていく。私はふとテーブルゲームのチェスを連想した。局面が進展するごとに私の精神は徐々に研ぎ澄まされていくのに、それと反比例するように盤上の駒は減少する。緻密なストラテジーとタクティクスが私の頭の中に組み上がる頃には、ゲームは既にチェックメイトの断崖をふらついている。私にとってチェスとはそういうゲームであり、それは今私が直面している現状に似ている気がした。なんだかとてもむず痒い。必死で捕まえた蝶々が握り拳の中で死んでいるような。
そういえばスクランブルスクエアはどこにあるどんな建物だっただろうか。窓外に果てしなく広がる田園を見やりながら、私は北に遠く隔たった都区部の風景についてあてもない思索を広げた。しかしそれが具体的な像を結ぶことは終ぞなかった。
藤沢駅で江ノ電に乗り換えるとスニーカーがガサガサという摩擦音を立てた。サーフボードや水着に付着したまま乾燥した由比ヶ浜やら七里ヶ浜やらの砂粒が車内の床に堆積しているらしい。そのうちこの電車も何らかの浜になってしまうのかもしれない。江ノ島電鉄ヶ浜。少し語呂は悪いが新しいアピールポイントの一つにはなるだろう。私は身体にこびりついた架空の砂をポンポンと払いのけ、湘南海岸公園駅で電車を降りた。昼下がりの直射日光が明色に統一された家屋によってのびのびと反射されている。街全体が世界平和を象徴しているようだ。しかしそれは同時に、現実からかけ離れた場所にある間抜けな異界のようでもあった。視線を下げると急坂の先から懐かしいシルエットがこちらへ向かってくるのが見えた。私は小さく手を振った。
「今何してるの?」
私は彼女にそう尋ねた。彼女の視線は窓外の太平洋にぽつんと浮かぶ江の島に向けられているようだった。
「コンビニ」
「コンビニ?」
「そう」
「それはコンビニで働いているっていうこと?」
彼女は冷めたエスプレッソを啜ってソーサーに戻すと、溜息をついて小さく頷いた。木製の低いテーブルの上に空白が舞い降りた。彼女の視線を追うように、私も外の景色を眺めてみた。それ以外にできることもなかった。高校生くらいの集団がサッカーボールを抱えながら海の方へ駆けていく。サラリーマンが公園のベンチで昼寝をしている。サザンオールスターズだかビーチボーイズだかアジアンカンフージェネレーションだかを爆音でかけながら134をオープンカーが走っている。
その後もとりとめもない会話が無数に湧き上がっては蒸気のように消えていった。
「……だったの?」
「まあ」
「……じゃない?」
「確かに」
「……だよね?」
「あるいは」
私は簡易な受付ロボットみたいな受け答えばかりの彼女にいくぶん苛立ちを覚えていたのかもしれない(あるいは彼女の住むこの街そのものに)。感情は思慮のフィルターを介さぬまま剥き出しの言葉となって飛び出した。
「本題に入るけどさ、どうして君みたいに素晴らしい物書きがこんな街で、しかもコンビニなんかで働く必要がある?」
彼女は才気溢れる小説家だった。少なくとも私と生活を共にしていた頃までは。いくつかの名誉ある文学賞を受賞していたし、自称ファンだの自称マスコミだの自称編集者だのから送られるぶ厚いラブコールが毎日のようにポストを圧迫する輝かしい時代すらあった。しかしある時を境に彼女はパタリと小説を書かなくなってしまった。そしてそれに踵を接するように我々の関係も終焉を迎えた。いや、「踵を接する」という表現は適当ではないかもしれない。どちらが先でどちらが後なのか、私にはその因果関係がわからない。彼女はある日突然、私の前から消えた。「私は海が見たい」。机の上には粗末な書き置きだけが残っていた。
私は小説家が働くコンビニについて想像してみた。そこでは美しい言葉や思想が次々と高温の油で揚げられ、けばけばしいポップと共に什器の中で陳列させられていた。彼女にとってそれは明らかに正しくないことのように思えた。彼女は小説を書くべきだ。こんなところでコンビニの店員なんかやっている場合じゃない。
しばしの沈黙を破り彼女が返答した。
「あのね、鎌倉や湘南はディズニーランドじゃないの」
私は彼女が何を言いたいのか理解できなかった。それは先の私の質問に対する応答にはなっていないように思えた。それを察したように彼女は付け足した。
「ここには生活がある。有機的な人間が有機的な生活を送っている。何もかも表面しかないレジャーランドとは違う」
「そんなことなら知ってるよ。鎌倉も湘南も神奈川が誇る立派な大都市圏だ、間違いなく」
「何にもわかってない」
「わかってるとも」私は窓外を指差した。「あれ見て、あの島。江の島だ」
「それが何?」
「今日もあそこは観光客で溢れかえっているに違いない。それを横目に地元の元気な金髪の兄ちゃんたちが『あの都会野郎ども、牡蠣の食べ方すらなっちゃねえ』『レンタカーなんかで来やがってよ』なんてゲラゲラ談笑する。日焼けした近所の子供が自転車でやってきて芝生の上で寝てる。サッカーボールを枕にしてさ。それをタンクトップのオッサンが『早く帰れよ』なんて追い払う。カモメが鳴く。ヨットが呑気に浮かぶ。シーキャンドルが夕焼けを照り返す。それがこの街の生活だ」
しばしの沈黙があった。行き場を失った熱を排気するように彼女が大きく溜息をついた。私はいったい何度溜息をつかれればいいのだろう。
「私ね、この前死んじまえって言われたの」
「誰に?」
「知らない。コンビニにやってくる人間がみんな胸にネームプレートでも貼っといてくれるっていうんなら話は別だけど」
「どうして君がそんなことを言われなきゃならない?」
「誰が何を考えてるかなんて私にいちいちわかるわけないでしょ。それともあなたにはこの世界がフキダシだらけのマンガにでも見えてるわけ?」
私は何か彼女に反論することができたと思う。しかし実際にはできなかった。
日が傾いてきた。木々の黒々とした影が剥き出しの崖に突き刺さり、オレンジ色の血が辺り一面を浸している。早く帰れ、街はそう言っているようだった。そして彼女もまた街の一部だった。私はすっと立ち上がり、バーバリーのチェスターコートを羽織った。彼女が私の方を見た。あくまで動く物体に対する動物的反射として。私は迷いに迷ってからおずおずと口を開いた。
「ここへ来るとき、チェスのことを考えていた」
「チェス?」
「電車でどこか遠くに向かうとき、俺は建造物を見るようにしている。建造物の増減っていうのは変化の指標としてきわめて有用だから」
彼女はじっと私のほうを見ていた。壁でも眺めるみたいに。私は続けた。
「だけどなんていうのかな、そういう風景の見方っていうのは出発してからしばらく経たないとできないものなんだ。そしてできるようになった頃には旅が終わっている。チェスも同じだ。盤面が見えてくる頃にはゲームが終わっている」
彼女はいつの間にか俯いており、私が喋り終えてもしばらくの間黙っていた。
私は彼女の動作についていくぶん博学になっていた。思うに、そろそろ溜息でもつかれるような気がする。
「はあ」
ほらやっぱり。
「それはあなたにとってのチェスでしょ?」彼女は暮れなずむビーチを見下ろしながら言った。
「どういうこと?」
「本物のチェスプレイヤーは常に盤面が見えているものなの。始まりから終わりまですべて。そして見えなければ容赦なく失う。当たり前のことじゃない」
私は彼女の言葉を心の中で反芻しながら湘南新宿ラインで東京に戻った。深く考え詰めすぎたのか、気が付いた頃には新宿の摩天楼が窓外を満たしていた。私は総武線に乗り換え、東中野駅で電車を降りた。すこぶる疲弊していた。そういえば一日を通してコーヒーしか口にしていない。料理を作る気さえ起きない。私は駅前のコンビニに立ち寄って夕飯を買うことにした。
カップ麺とサラダチキンとほうじ茶をレジへ持っていくと、禿げかけた中年の店員が心底面倒臭そうにそれらをバーコードリーダーにかけた。
「ポイントカードありますか」
中年の店員は呪文でも唱えるように私にそう尋ねた。私は「あります」と言って財布の中を物色した。しかし、カードはどこにも見当たらなかった。私の財布のカードポケットはひょっとして四次元にでも繋がってしまったのだろうか?
「すみません、やっぱいいです」
結局私は40秒近くもレジの前であたふたしてしまった。とっくにすべてのバーコードを読み込み終えていた中年の店員は、腐りきった生ゴミでも扱うような手つきでレジ袋を突き出した。私はしずしずとそれを受け取ると、少しばかりの罪悪感を抱えながら彼に踵を返した。
「死んじまえ」
そのとき背後から聞こえたそれは、決して幻聴などではなかったと思う。仮にそうであったとして、聞こえたと思えたことは私にとって否定しがたい事実だった。私は自分の中で何かが崩れ去るような心境を抱えたままコンビニを後にした。
それから私は自分が既に失ってしまったもののことを想った。それらは二度と私のもとには戻ってはこないだろう。失ったことに気がついた頃にはすべてが終わっている。思えばいつもそうだった。
「見えなければ容赦なく失う」
誰かがそう言った。
夕焼けの赤は既に稜線ぎりぎりまで追い詰められていた。