美忘録

羅列です

好きな映画の中から50本くらい紹介する

色んなサブスクに加入しているものの見たい映画を探すのが一番面倒臭い、という話をよく聞くので、備忘録も兼ねて好きな映画の中から50本くらい適当に紹介しようと思います。

 

 

1.ソナチネ北野武、1993)

ヤクザ映画の終着駅といえる映画。孤独をその本懐とするヤクザ的ヒロイズムと、他者なくして人は生きられないという人間の根本性質。このアンビバレンスは死によってのみ解決されうる。70年代東映実録路線あたりから既に垣間見えていたヤクザ映画の矛盾を、北野武は容赦なく真っ向から描き切ってしまった。遠巻きに映し出される真っ白な沖縄の砂浜はこの世ならざる異界そのものであり、そこでは児戯も殺戮も等しく虚無へと還元されてゆく。自分の額に銃口を向ける村川の笑顔は、たぶん本物の安堵だったんだろうな。北野は本作以降も幾本かのヤクザ映画を撮っているが、どれも趣味的なオマージュか、あるいは自作のセルフパロディばかりだ。おそらく北野は本作にてヤクザ映画というジャンルそのものを殺してしまったんだと思う。それはそうと『BROTHER』で黒人の泣き顔をアップの長回しで捉えたラストカットとか、『アウトレイジ』の気持ちいいくらい深作欣二リスペクトな作風とかもホントに素晴らしいんですよね・・・

 

2.老人Z(北久保弘之、1991)

暴走した老人介護マシーンが街をメチャクチャにしながら鎌倉に向かう話。あっけらかんとしたSFコメディの狭間にちらほらと少子化社会の憂鬱が顔を覗かせるのだが、その塩梅が絶妙。ボソボソ何言ってるかわからない『攻殻機動隊』より個人的にはこっちのほうが近未来社会派活劇として好感が持てる。沖浦啓之松本憲生黄瀬和哉今敏鶴巻和哉など作画オタクにとっては神にも等しい名アニメーターが揃い踏みしており、ただ画面を眺めているだけでも楽しい。江口寿史のキャラクターデザインはいつ見ても古めかしいのにいつまでもダサくならないから不思議だ。主人公の女が履いてる靴もNIKEのCortezだし。大友克洋が関わった『AKIRA』以外のアニメ映画といえば『MEMORIES』や『迷宮物語』もなかなかの出来だ。りんたろうと組んだ『メトロポリス』もいいよね。

 

3.オンリー・ゴッドニコラス・ウィンディング・レフン、2013)

アレハンドロ・ホドロフスキーに捧ぐ」という物騒な献辞から始まるニコラス・ウィンディング・レフンのバイオレンスドラマ。アジアという空間は長いこと西洋諸国によるサイバーパンクオリエンタリズムの消費対象とされてきたわけだが、本作にはそれに一矢報いる批評性がある。ただまあ結局本作もまた「西洋人」が「タイ王国」で撮っているという点では数多のサイバーパンク映画と大差がないわけで、リドリー・スコットの『ブラック・レイン』と何が違うんだよと言われたらちょっと困る。それはそうと赤子の手を捻るように西洋人を惨殺していくタイ武術のジジイは本当にカッコいい。こういう映画がタイ本土から出てくるようになると嬉しい。香港ニューウェーブ、台湾ニューシネマのような運動がタイでも起こりますように。

 

4.父、帰るアンドレイ・ズビャギンツェフ、2003)

平和な母子家庭のもとに突如帰ってきた「父」。しかしこの「父」は人間的な、血縁的な意味での父とはえらく懸隔がある。幼い兄弟はオイディプス悲劇のような神話的緊張感のなかで「父」との距離感を縮めていくのだが・・・。『裁かれるは善人のみ』もそうだが、アンドレイ・ズビャギンツェフ監督は、ロシアの厳しい宗教意識に基づいた節制性をうまいことサスペンスに活かしている。ともすれば退屈なアート映画に落ちぶれてしまいかねないところを、常にギリギリの高度を維持し続けているのがまたすごい。そういう点ではグザヴィエ・ドランっぽいかも。とにかく疲れるからあんまり連続で見ないほうがいい。

 

5.恐怖の報酬(ウィリアム・フリードキン、1977)

エクソシスト』のウィリアム・フリードキンが撮り上げた大作クライムアクション・・・のふりをしたサイコホラー。報酬に目が眩んだ4人の男たちが爆薬を満載したトラックでジャングルの獣道を進んでいく。『フレンチ・コネクション』でも思ったことだけど、この人はマジでホラーしか撮れない。というか何を撮ってもホラーになる。暴風雨に見舞われたボロ橋を渡るシーンは何度見ても恐ろしい。サイケデリックなトリップシーンといい悲惨なラストといい、意外にも王道のアメリカンニューシネマといえるような気がするのだが、そういう評価をあまり見かけないのは作風がホラーに寄りすぎていたからだろうか。

 

6.バニシング・ポイント(リチャード・C・サラフィアン、1971)

個人的には『理由なき反抗』や『イージー・ライダー』よりこっちのほうが好きかも。ブルドーザーに激突してそのままカットも切り替わらないままエンドロールに突入するのがマジでいい。ジョン・カサヴェテス『フェイシズ』やマイク・ニコルズ『卒業』に並ぶくらい最高のラストシーン。「アメリカンニューシネマ」という大義名分をいいことにヒッピーカルチャーのろくでもない活動記録みたいな作品が横溢していた中、映画としての最低限の文法だけはしっかり遵守していた本作はかなり偉い。デニス・ホッパーなんかは既存の映画文法の破壊では飽き足らず映画そのものの破壊を目論見ていた節があり、その結実が『ラストムービー』なんだけど、あれはものすごく退屈だったな。

 

7.武器人間(リチャード・ラーフォースト、2013)

モキュメンタリーとホラーの融和性については『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』『REC』シリーズ等が示す通りだが、本作はそこに怪獣映画性を取り入れている。地面から、あるいは画面の外側からぼんやりと眺めていた巨獣たちが、自分と同じくらいのサイズで、自分の目の前に現れるというのは案外恐ろしいものだ。そういうものに対峙することで、フィクションというフィルターによって麻痺していた恐怖中枢が再び呼び覚まされる。まあ、ナチスロストテクノロジーを題材にしている時点でおふざけ映画であることは自明なのだが、そうであるにもかかわらずモキュメンタリーで撮影されていることにちゃんと必然性があるのが面白い。

 

8.レッド・ブロンクススタンリー・トン、1995)

物語のしょうもなさはあらゆるジャッキー映画に通底する基本構造なので無視するとして、本作はハリウッド的なダイナミズムにジャッキーのせせこましいカンフーアクションが決して見劣りしないことを高らかに証明してくれた。公園での乱闘、ビルからビルへの跳躍、ボード無しウェイクボードなど誰もが一度は見たことのあるアクションシーンが次から次へと乱れ舞う。もちろんスポーツカーに大剣を括りつけてホバーボードをぶった斬るラストシーンも最高。全米が生活習慣病に陥るくらいのハイカロリー映画だ。『香港国際警察』の村落破壊シーンが最後まで持続している感じ。本当によく死なないな、と思う。というか『サンダーアーム/龍虎兄弟』のときに死んでないのがおかしい。

 

9.波止場(エリア・カザン、1954)

エリア・カザンは今まで見た中ならこれが一番。『紳士協定』や「ハリウッド赤狩り」を経て、おそらく彼はあらゆる悪を真っ向から否定・漂白するような素朴な勧善懲悪的作風に行き詰まりを感じるようになったんじゃないかと思う。そうではなく、矛盾を矛盾のまま描画すること。なおかつそれを許容せず、ほのかに怒りと悲しみを込めたメッセージボトルとして画面の外に放流すること。『欲望という名の電車』と本作はきわめてそのあたりの調整がうまい。暴力を何よりも憎んだ男が最終的に暴力に手を染めねばならないというあまりにも悲痛な物語。

 

10.ほえる犬は噛まないポン・ジュノ、2000)

『パラサイト』のポン・ジュノの長編初監督作品。さまざまな問題意識が盲腸線のように四方八方に広がっていくスタイルがこの頃から既に確立されていたのだと思うと恐ろしい。そりゃサスペンスだろうがコメディだろうがモンスターパニックだろうが何でも撮れるよな。スリップストリーム文学ならぬスリップストリーム映画というものがあるとするならば、その旗手はポン・ジュノをおいて他にない。『殺人の追憶』なんかもすごくいい。全然関係ないけどフィクションとはいえ小型犬をちゃんと酷い目に遭わせることができるのがすごい。そのへんの容赦のなさが作品の完成度に結実している。

 

11.カイロの紫のバラウディ・アレン、1985)

主人公が映画から飛び出てきた憧れの登場人物と恋に落ちる映画。それだけなら『カラー・オブ・ハート』や『今夜、ロマンス劇場で』のようなメロドラマ映画と大差がないのだが、本作がすごいのは、映画から飛び出してきた登場人物とは別に、それを演じた俳優が同次元に存在しているということ。主人公は夢見がちな登場人物にだんだん辟易して実在の俳優のほうに鞍替えしようとするが、それによって彼女はこっぴどい仕打ちを受ける。にもかかわらず彼女はまた映画館にやってくる。何度傷付こうが裏切られようが笑顔で劇場の椅子に座って憧れの登場人物に陶酔する。ああ、これはたぶん俺たちの話なんだろうな・・・。ウディ・アレンらしい毒気のある恋愛譚だ。

 

12.LEON(リュック・ベッソン、1994)

『TAXi』とか『フィフス・エレメント』とか見た後ならわかることだが、リュック・ベッソンはマジでこの映画だけが突出している。オッサンと小娘の恋愛譚なんか加害性しかないよといえばそれまでなんだけど、こうやって丁寧に繊細に根気よくエクスキューズを重ねられると嫌悪が同情に傾斜していってしまう。マチルダがレオンの形見である植木鉢を児童養護施設の庭に埋めるシーンは本当に美しい。愛の成就と消滅の二重性を引き受けたマチルダの後姿からは、もはや子供じみた媚態は少しも感じられない。そういえば「私が欲しいのは愛か死よ」のシーンのキャプチャをアイコンやヘッダーに設定している女を最近見かけない気がする。愛か死を得られたんだろうか。

 

13.お早よう(小津安二郎、1959)

小津作品の中でも指折りにコメディチックな一本。テレビを買ってほしい兄弟の無垢な視線を通して大人社会の矛盾が滑稽に描画される。とはいえそれは「子供」という道具のピュアネスに漬け込んだ小賢しい社会的ステートメントなどでは決してない。子供たちの無垢さはちゃんと彼らの愚かさと表裏一体を成している。大人たちが無意味な会話に現を抜かす一方で、子供たちもまた他愛のない会話ボイコット運動に熱を上げるのだ。どちらにも加担せず、定位置からただ淡々と風景をスケッチする、という態度は他の小津映画と何ら変わらない。ガキ映画の世界的名匠として名高いアッバス・キアロスタミが小津に心酔する気持ちがよくわかった。『トラベラー』『友だちのうちはどこ?』『柳と風』あたりに出てくるガキたちがそのまま本作に出てきてもおかしくない。

 

14.ゆきゆきて、神軍原一男、1987)

昭和天皇パチンコ狙撃事件、天皇ポルノビラ事件等の前科を持つアナーキスト奥崎謙三に密着したドキュメンタリー映画。これほど現実離れした現実の人間をドキュメンタリーという限定性の中になんとかして押し込めてやろうという気概がまずすごいし、いっこうに押し込まれてくれる気配のない奥崎もすごい。しかし笑っていいんだか泣いていいんだか判断のつかないもどかしい温度感を保たせ続けることで受け手に否が応でも奥崎の存在を刻み付けた原一男の技量には素朴に感心してしまう。正誤の向こう側にある問題圏にリーチすることこそがドキュメンタリーの本懐だが、その点において本作は頭一つ抜けている。鬼気迫る、とはこういうことなのだなと。

 

15.プレイタイム(ジャック・タチ、1967)

ジャック・タチの作品は「超技術で蘇った無声映画」と呼ぶのが一番しっくりくる。音や会話ではなく、動きによってコメディをもたらす。ユロ氏を取り巻くナンセンスな諸運動はバスター・キートンチャールズ・チャップリンの作品にみられたそれらと同様だ。しかし画面的情報量という点では先駆者たちのそれをはるかに凌いでいる。特に夜のレストランで繰り広げられるドタバタ群像劇には一見の価値がある。食事をこぼすウェイトレス、ステージで踊るシンガー、消えかかる電光掲示板。すべてが同じ時空を共有しながら時に混じり合い、すれ違う。言語の利便性を極力節制し、視覚情報だけで人間愛を描出しようとしたジャック・タチの覚悟に胸を打たれる。

 

16.フルメタル・ジャケットスタンリー・キューブリック、1987)

ハートマン軍曹と微笑みデブと「戦争は地獄だぜ!」でたいそう有名なキューブリック製戦争映画。幻のデビュー作『恐怖と欲望』において山積していた諸問題が本作でようやく消化されたんじゃないかと思う。戦争があらゆる人間を残酷に変えてしまう、というエモーショナルな反戦映画に堕すのではなく、戦争によって炙り出された人間の恐怖と欲望の行く末をあくまで第三者として見届ける。戦争は引き金の一つに過ぎず、本当に恐ろしいのは人間なのだ、とキューブリックは言ってみせるわけだ。こういう言い方は手垢に塗れすぎていて若干気が引けるんだが、まあ、思えば『博士の異常な愛情』も『シャイニング』も『時計じかけのオレンジ』そういう話だったし。怖いのは人間。

 

17.無法松の一生稲垣浩、1958)

豪放磊落だが女にはめっぽう弱い松五郎という男が人妻への恋慕を人知れず募らせていく話。しかし彼の純粋無垢な懊悩は終ぞどこにも出口を見出せず、その肉体もろとも無窮の雪原にて絶命する。これは言うなれば葛飾=家族というセーフティネットを得られなかった車寅次郎の物語だ。おそらく山田洋次も本作を踏まえたうえで『男はつらいよ』シリーズを制作していたに違いない。それはそうと三船敏郎の演技が冴えに冴えている。三船というと『七人の侍』『椿三十郎』『用心棒』あたりの豪胆な武士としてのイメージが強いが、こういう益荒男と童貞が同居したような屈折的人物を好演できる繊細さも併せ持っているんだなあ。

 

18.ファーゴ(ジョエル・コーエン、1996)

バートン・フィンク』『オー・ブラザー!』みたいなレトリカルな作風もいいけど、コーエン兄弟の真価は小気味のいいブラックコメディにおいて最大限発揮される。軽犯罪で一儲けしようとした男たちが小さな失敗を隠蔽しようとして失敗、その失敗を隠蔽しようとしてまたまた失敗・・・といった具合に失敗が雪だるま式に膨らんで収拾がつかなくなる、というなんとも間の抜けた話。まるでギャグ漫画のような物語展開だが、男たちが犯す失敗にはどれも現実的な手触りがあるものだから笑い飛ばそうにも笑い飛ばしきれない。こうした現実との不気味な接地感をコメディ抜きで突き詰めていくと『ノーカントリー』が生まれるわけですね。

 

19.来る(中島哲也、2018)

中島哲也によるホラー映画の異色作。ホラーの不文律を最大限遵守する前半部と最大限破壊する後半部とでもはやまったく別の映画と言って差し支えないはずなのだが、「愛の不在」という裏テーマが両者をかろうじて接合している。中島哲也特有の悪ノリが実相寺昭雄の『帝都物語』的な映像演出で炸裂した後半部の異能バトルシーンは抱腹絶倒ものだ。どうでもいいけど前作『渇き』では「清純な出で立ちに不純な性格の女子高生」を演じていた小松奈々に、本作では「不純な出で立ちに清純な性格のフリーター」を演じさせているあたりに中島哲也の歪んだ性欲を感じなくもない。わかるよ、小松奈々を酷い目に遭わせたいもんな。『ディストラクション・ベイビーズ』は本当によかったな。菅田将暉さん、小松奈々さん、ご結婚おめでとうございます。

 

20.不思議惑星キン・ザ・ザゲオルギー・ダネリヤ、1986)

体制批判的なSF映画は山のように存在するが、ここまでコメディとしての態勢を崩さない作品は珍しい。マッチ棒が無類の価値を誇る異星の砂漠で、二人の地球人がどうにかして地球に帰還しようとするのだが、最初から最後まで一切の緊張感がない。敵も味方もすべてがピースフルに弛緩しきっている。しかし水面下では賄賂や盗難が横行していたり、ごく少数の権力者が市井の人々から不当な搾取を行ったりしている。現実と同じだ。異星人や小物のデザインもきわめてシュールレアリスティックで、一度見たら忘れられない。ホドロフスキーの『エル・トポ』や『ホーリー・マウンテン』を見ているときのような視覚的陶酔に浸ることができる。

 

21.しとやかな獣(川島雄三、1962)

東雲の新興住宅地に住む性根の腐った家族が織り成すブラックコメディ。カメラの移動範囲は部屋の内部だけに局限されており、家の外側を映すことはほとんどない。会話だけでも映画はじゅうぶん成立するのだという川島雄三の自信がひしひしと感じられる。当時の東雲といえば高級住宅地であり、そこに住むことは都市生活者としての大きなステータスだったという。そうした表層的な栄華に執着する家族には内面というものがなく、彼らの交わす会話は脂ぎった世俗性にまみれている。高度経済成長という強迫観念が生み出した哀しき獣たちの生態を、監視カメラのようなアングルで撮られた映像が淡々と語っていく。森田芳光家族ゲーム』等へと繋がっていく家族系ブラックコメディの金字塔だ。

 

22.てなもんやコネクション(山本政志、1990)

破天荒なスラップスティック・コメディの中に香港の危機的現況に対する真摯な眼差しが込められた山本政志の傑作。ただしのっけから香港に直接コミットするのではなく、西成・山谷といった国内の経済的暗部を経由し、同じ被虐区域としての連帯を強めたうえでようやく香港に向かう、という慎重さ。何も考えられていないようでちゃんと計算されている。日本の文芸が暗い子供部屋の隅でカスみたいなセカイ系文化に自閉していた中、グローバルな多民族国家としての日本から片時も目を逸らすことなく、自作を通じて常に融和や共生の道筋を模索していた山本政志はやっぱりすごく冷静な人なんだろうなと思う。横浜を舞台とした『ジャンクフード』や『アトランタ・ブギ』も最高なんですよね。視聴手段が限られていることだけが悲しい。

 

23.フェイシズ(ジョン・カサヴェテス、1968)

以外にもカサヴェテス作品は不慣れで、それこそ濱口竜介が『ドライブ・マイ・カー』で喝采を浴びてからようやく食指が動き始めたくらい。物語的な面白みで言えば『グロリア』とかのほうが何倍も秀でているし、即興劇という観点からも『アメリカの影』に今一歩及ばずといった感じなんだけど、ラストカットのあまりの美しさがそれら全てを補っている。もはや修復不可能なほどに関係の悪化した男女。男は階段に腰掛けながら女を足で邪魔するのだが、女はその足をヒョイと避けて去っていく。このほんの数秒足らずの小さな所作が、曖昧で捉えどころのなかった物語にこの上なく克明なピリオドを打刻している。それによって作品全体が輪郭線を帯びていく。これはもう『シックス・センス』のナイト・シャマランも驚愕の大どんでん返し映画といっていいだろう。

 

24.ロスト・イン・トランスレーションソフィア・コッポラ、2003)

仕事の関係で不本意ながら日本にやってきた若妻が、同じく無理やり日本に連れて来られた老境の映画俳優とひとときの恋に落ちるという話。日本が舞台ではあるのだが、そこにオリエンタリズムな消費の欲望は一切なく、単に居心地の悪い「異国」としての側面が強調されている。そのせいか本作はよく「日本に対するリスペクトに欠けている」といった非難に晒されているが、じゃあ逆にお前ちっとも興味が湧かない国に突然飛ばされて、ああここは○○ビルディングですね、あれは○○ストリートですね、なんて心の余裕持てるのかよ、と思う。我々にとっては見慣れた新宿西口の摩天楼も、彼女らにとってはこのうえなく不気味な巨大怪獣に他ならない。いくら生来の文化的エリートとはいえ、「フランシス・フォード・コッポラの娘」という重荷を背負いながらこれほど自由闊達に映画を撮ることのできるソフィア・コッポラはマジで精神がタフなんだなと思う。『SOMEWHERE』もよかったな。

 

25.用心棒(黒澤明、1961)

黒澤作品の中でもとりわけエンタメ色の強い作品。宿場町を分断する二つの反社会勢力の前にフラリと現れた最強の用心棒が、弁舌巧みに両陣営の間を行き来するサスペンスアクション。三船敏郎扮する用心棒は、この抗争によって最も被害を受けるのが宿場町の民衆であることを知っており、どうにかして彼らが助かる道を模索する。ハイテンポな活劇エンタメにあっても黒澤の素朴なヒューマニズムは決して後退することがない。大島渚三島由紀夫が黒澤映画を「イデオロギーがない」と嘲笑したのは有名な話だが、あらゆるイデオロギー、社会運動というものは、その根源を辿れば人民の素朴で個人的な倫理的違和感に端を発するものであるはずだ。黒澤はそのミクロな生起の瞬間に焦点を絞り続けたのだと思う。とはいえ『生きものの記録』のようなシロモノまで擁護できるかといえば、それはまあ、うん・・・

 

26.イレブン・ミニッツ(イエジー・スコリモフスキ、2015)

ビデオカメラ、監視カメラ、果ては散歩中のイヌの「目線」まで、これでもかというほど多彩な撮影媒体で記述された群像劇。カメラは世界全体に遍在し、何もかもを理解の範疇へと接収しようとする。事実、同じ11分間を生きた人々の主観を渡り歩くことによって、物語に敷設された「謎」の正体が少しずつ露わになっていく。しかしその結末はあまりにも唐突で、道理に欠けている。多種多様なカメラを通じて獲得してきたはずの真実は、実のところまったく無用のフェイクだったというわけだ。そんな空転ぶりをあざ笑うかのように、街の上空に正体不明の「黒点」が浮かび上がる。カメラの権能に疑義を呈した作品といえばミケランジェロ・アントニオーニの『欲望』(原作はコルタサル『悪魔の涎』)、マイケル・パウエル『血を吸うカメラ』などが有名だが、そういう不信感を21世紀的な映像技術を踏まえたうえで再奏したのが本作。ちなみに監督はイエジー・スコリモフスキなんだけど、代表作である『出発』や『早春(DEEP END)』とのギャップがすごい。どっちも半世紀前の作品だし。

 

27.ラスト・アクション・ヒーロージョン・マクティアナン、1993)

アーノルド・シュワルツェネッガー主演作品なら『ターミネーター2』か本作しかないだろという気持ちがある。あ、やっぱ『プレデター』も捨てがたい。本作は映画好きの少年が、シュワルツェネッガーの主演する『ジャック・スレイター4』という作品の中に入り込んでしまうという所謂メタ映画なのだが、ポストモダン文芸のような小難しい問題意識に足を取られることなく、あくまで大作娯楽アクションを貫徹しているのが素晴らしい。それでいて「フィクションとは何か」という命題にもしっかりコミットしているのだから恐れ入る。またオマージュ映画としての側面もあり、トレンチコートに身を包んだモノクロのハンフリー・ボガートベルイマン『第七の封印』に登場する悪魔など、古今東西の映画的遺構が画面上に乱れ舞う。本作のシュワルツェネッガーが、数十年の時を経て同じくオマージュ映画であるスピルバーグレディ・プレイヤー1』に登場しているのを発見したときは、ようやく歴史が受け継がれたのだな・・・と思わず感動してしまった。

 

28.生きてるものはいないのか(石井岳龍、2012)

身体が痒くなるくらいズレにズレたディスコミュニケーションが炸裂するシュールコメディ。とある大学で突然パンデミックが発生し、キャンパス内にいる者たちが次から次へと死んでいくのだが、そこにパニックホラー的な緊張感はまったくない。人々はただ困惑し、何が起きているかもわからないまま死んでいく。美しい言葉を飾り立てたり、不条理に怒号を上げたりする猶予などない。しかしだからこそ、彼らの死に様には彼ら自身の人間的性質が剥き出しのまま彫琢されている。とはいえ切ないのは、彼らが命を代価に紡ぎ出した最後の輝きを、生きている者たちがまったく受け取れていないということだ。あまりにも絶望的なすれ違いに思わず笑ってしまうんだけれど、いやまあ、コミュニケーションというのは本当に難しいですね。

 

29.フィツカラルド(ヴェルナー・ヘルツォーク、1982)

ヴェルナー・ヘルツォークヴィム・ヴェンダース『東京画』の中で、東京という街について「ここには私の撮りたいものは何もない」と言い切った。それだけならただの無害な自然回帰主義者なんだけど、この人の場合ちょっと度を超えている。アマゾンの奥地に制作スタッフを呼びつけるのもヤバいし、「蒸気船で山を越える」という途方もない脚本を本当に実行しているのもヤバい。撮影中にスタッフが次から次へと降板しまくったというのは有名な話だ。「アマゾンの奥地にオペラハウスを建てたい」という主人公の奇矯な構想は、そこに住まう人々と自然の調和の上を虚しく空転し、遂には藻屑と散り果てる。それでも過去作『アギーレ/神の怒り』のような陰惨な結末を辿らなかっただけまだ救いがある。

 

30.グッドモーニング、ベトナム(バリー・レヴィンソン、1987)

とにかくロビン・ウィリアムズ扮するDJクロンナウアーのマシンガンのような弁舌が冴えわたる戦争映画の傑作。ベトナム戦争真っただ中のサイゴンに従軍慰安DJとして呼びつけられたクロンナウアーは、近所に暮らすベトナム人の兄妹と親交を深めていく。とはいえ一見すると対等そうな両者の友好関係の背後には、侵略国アメリカと非侵略国ベトナムという巨大な不平等が横たわっている。クロンナウアーはそういった暗部からは巧みに目を背け、ベトナムの人々との交流を続けるが、戦争という巨獣のもたらす災禍を彼一人のヒューマニズムで帳消しにできるはずもなく・・・クロンナウアーが現地の人々と楽しげに野球をするラストシーンは心温まる一方で政治的な緊張感がある。

 

31.楢山節考今村昌平、1983)

山間集落のおぞましくも可笑しい因習を豪快な筆致で描き出した今村昌平の代表作。出来の悪いモンド映画のように未開文化圏の非倫理性を面白おかしく誇張するのではなく、対象と一定の距離感を保ったままリアリズム的空間を淡々と編み上げていく。ともすればふとした拍子に「そちら側」の倫理に足を取られてしまいそうにさえなる。前半はいかにも人工的で技巧に走ったようなショットが多くてヒヤヒヤするんだけど、そういう気配が物語の深化とともに次第に薄れていき、最後には神の思し召しとしか考えられないような奇跡的なショットへと結実する。演出ではカバーしきれない「偶然」をいかにモノにできるか、というのはロケ映画において最も重要な関心事の一つだが、その点において本作は白眉の出来だ。

 

32.劇場版クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ!オトナ帝国の逆襲(原恵一、2001)

どこを取っても完璧な映画は存在するかと訊かれたら内心ではこれが思い浮かんでるんだけど悔しいからあんまり言わない。物語もろとも心地良いノスタルジーの中へと沈潜していき、それから「子供」の反ノスタルジー性を原動力に一気呵成の再浮上を遂げる。そのあまりにも輪郭の整ったダイナミズムに思わず舌を巻く。原恵一は本作の次に『アッパレ!戦国大合戦』を撮ったのを最後にクレしん映画から撤退するんだけど、その翌年度の作品が『栄光のヤキニクロード』なのが最高なんですよね。吹っ切れ方に相当の覚悟がある。『時をかける少女』と並んで長回しが本来的な効果を発揮している数少ないアニメーション作品。バスでの逃走シーンが黄金期のジャッキー映画みたいで興奮する。というかクレしん映画は武術・剣術全般に対してありえないくらい解像度が高い。『暗黒タマタマ大追跡』中盤の珠由良七人衆(もちろん元ネタは『七人の侍』)の地味だが威厳のある戦闘シーンといい『カンフーボーイズ 拉麺大乱』のあからさまな『酔拳』リスペクトな修行シーンといいとにかくオマージュの質が高い。

 

33.裏窓(アルフレッド・ヒッチコック、1954)

ワンアイデア系の映画はたいていアイデアの奇特性ばかりが先走って物語や演出が窒息死しているパターンが多い。『TIME』『リベリオン』なんかがいい例だ。これらは本当につまらない。一方で本作は「部屋から一歩も出ずに事件を解決する」という素朴なワンアイデアを、豊潤なサスペンスとスリリングな演出で巧みに映像化している。自己で足の骨を折ってしまった主人公は、暇潰しに窓外の景色に目を遣る。するとどうも向かいにあるマンションの一室の様子がおかしい。そこで主人公は電話と会話だけを駆使してどうにか窓外の難事件の真相を突き止めようと奮闘する。ここでの主人公の物理的不能性は、我々受け手が映像作品に対して感じる不能性とそのまま重なる。ジェームズ・スチュアートのもどかしげな表情を通じて、受け手は技術の目まぐるしい発展がもたらした万能感を喪失し、映画という媒体の深遠さを厳粛に再認する。

 

34.ハードコア(イリヤ・ナイシュラー、2016)

全編一人称視点!FPSのような没入感!といった触れ込みで局所的な盛り上がりを見せたSFアクション映画。記憶を失い身体を部分的に改造された主人公が愛しい妻を奪還すべく街を血まみれで奔走する。GoProという不安定な撮影環境とロクな説明もなく高速で展開していく物語に悪酔いしそうになるが、それらのギミックが必然性を有したある種の伏線であることを知った瞬間に心地良い敗北感に包まれる。一人称視点であるがゆえに「顔」を持たず、受け手による自己投影を手放しに受け付ける主人公の存在形態は、言うなればどこまでも代替可能な空き箱のようなものだ。そうした透明性は、彼の正体とも密接に関わってくる。というか彼の存在そのものを表象している。物語を貫く軽率で悪趣味なノリも、今思えば誘い込まれた哀れなゲームプレイヤーを屠るためのブラフだったような気もする。ちなみに山下敦弘が本作とほとんどタイトルが同じ映画(『ハード・コア』)を撮っているのだが、そっちもまあまあ面白い。

 

35.遙かなる山の呼び声(山田洋次、1980)

高倉健の主演映画を一本だけ選べと言われたら軽率にも本作を選んでしまう気がする。『幸福の黄色いハンカチ』で共演した倍賞千恵子と再びタッグを組み、北海道の肥沃な大地を背景に哀愁漂う恋愛模様を繰り広げていく。抑制と儀礼を基調とする高倉健と、どこまでも思慮深い倍賞千恵子という組み合わせのせいか、普段の高倉健作品にも増してもどかしい距離感が持続する。離別の悲しみの中に再会の兆しが織り込まれた絶妙な温度感のラストシーンがなんとも味わい深い。ここでの高倉健の護送先が網走刑務所というのは山田洋次なりの茶目っ気なんだろうか(参照『網走番外地』)。そういえば『遙かなる山の呼び声』というタイトルもヴィクター・ヤング『シェーン』の邦題からの引用らしい。しかし全ての罪過を背負ったまま街を去るシェーンとは異なり、高倉健演じる田島には帰ってくる場所が用意されている。『無法松の一生』→『男はつらいよ』もそうだが、山田洋次は悲惨な結末を辿る過去作に幸福論的なリメイクをかけるのが好きなんだろうなと思う。

 

36.カサブランカマイケル・カーティス、1942)

ハンフリー・ボガートは生来のハードボイルドというよりはむしろフラジャイルな内面を見た目のカタさで隠匿している臆病者というイメージがある。そして本作はそのイメージを不動のものとした。「君の瞳に乾杯(”Here’s looking at you, kid.”)」などという本来であれば蕁麻疹が出てもおかしくないような言い回しがなぜだか心地よく聞こえるのは、ボギーがハードボイルド・ガイとして完璧ではないからなんじゃないかと思う。2枚しかない亡命用のチケットをさんざん悩んだ挙句に自分がかつて愛した女とその夫に譲ってしまうというボギーの選択は、もう恥ずかしくなるくらい虚勢的なカッコつけでしかないんだけど、その弱さにどうしようもなく惹かれてしまう。ビリー・ワイルダー麗しのサブリナ』でオードリー・ヘップバーンにブツブツ愚痴をこぼすボギーもいいよね。

 

37.お引越し(相米慎二、1993)

離婚の重苦しいリアリティをまだ知らない娘があの手この手で両親の復縁を目論む話。娘が奮闘すればするほど両親の仲は水面下で険悪さを強めていくのだが、娘にはその理由がわからない。「離婚」が「友達との喧嘩」と一体どう違うのか、彼女にはまだ理解ができない。それでも関係修復の困難さだけはうっすらと感じていた娘は、最後の作戦として両親を旅行に連れ出す。しかしそこで娘は近所の森の中に迷い込んでしまう。時系列の入り混じった亜空間で、娘が母や父に向かって楽しげに—しかしそれがフィクションであると明確に理解したうえで—手を振ったり語りかけたりするエンドロールは、もはやこれが本編でいいんじゃないかというほど鮮烈だ。そういえば序盤で家族が座っていた歪な三角形のテーブルは、『家族ゲーム』に出てくる異様な横幅を持ったテーブルに着想を得ているんじゃないかと思った。家族不和とテーブルの形状にはたぶん相関がある。

 

38.イリュージョニストシルヴァン・ショメ、2010)

ベルヴィル・ランデブー』のシルヴァン・ショメが『ぼくの伯父さん』のジャック・タチによる脚本をアニメ映画化した作品。『ベルヴィル』にみられたような極端に誇張的な映像表現はほとんどみられず、代わりにリアリズム的な哀愁が影を落としている。時代遅れの売れない手品師が現代社会の底流に沈み込んでいくというかなり救いようのない話で、これはひょっとしたらジャック・タチ本人の自虐なんじゃないかとも思う。となれば手品師に同伴していた女の子は要するにシネフィル的な好奇心で映画を節操なく突っつき回す我々に他ならず、最後には手品師のほうから離縁状を突き出されるというオチ。「映画に明るい未来なんかないよ」という自虐的なメッセージが、他ならぬ映画というフォーマットの上に照射されているというのがなんとも絶望的であり、同時に希望的でもある。

 

39.闇のあとの光(カルロス・レイガダス、2012)

たとえばアピチャッポン・ウィーラセータクンの映画においては、現実と非現実が自然の静謐の中で心地よく融け合っており、受け手はそこに身を横たえることで自らも陶酔の世界に没入することができる。一方本作もまた自然を媒介に現実と非現実が混じり合っているのだが、そこにアピチャッポン映画のような安らぎはない。本作では、自然という特異点において現実はおぞましい非現実の侵犯を受ける。暗い廊下に現われた真っ赤な怪物、アポカリプティックな色彩に染め上げられた海、窓外に覗く無窮の闇夜。あまりにも居心地の悪い静謐が作品全体に立ち込めている。強引に形容するならば、マジックリアリズムと古典ホラーを経由したハーモニー・コリン作品、みたいな。伝わんねー!『ガンモ』か『ジュリアン』を見てください。

 

40.炎628(エレム・クリモフ、1987)

純度100%の戦争映画というものがあるとすれば、それは間違いなく本作。ただ殴られ、撃たれ、焼かれ、破壊される。フリョーラ少年の瞳はカメラ以上の権能を持たず、彼もまた戦争の生み出した暴虐の渦中でひたすら受動態的な死の恐怖を味わう。反戦映画でありながらもベトナム戦争を題材にした作品によくある極端な心理映画に落ち込んでおらず、それによって戦争が本質的にアンコントローラブルであることが強調される。なおかつ火薬・爆薬がド派手に爆ぜるだけの下品なアクションエンタメとも一線を画す。作中で幾度となく巻き起こる銃撃や爆撃は「画面越しのスペクタクル」ではなく「今ここにある危機」そのものであり、その圧倒的な暴力性の前に我々は縮こまって身震いするほかない。フリョーラ少年が川に浮かんだヒトラーの絵を執拗に撃ち抜くラストシーンは圧巻としか言いようがない。

 

41.映画 山田孝之 3D(松江哲明山下敦弘、2017)

画面外から投げかけられる質問群を亜空間に座した山田孝之が淡々と答えていくというただそれだけの映画。素朴な個人的質問に始まり、やがて彼の隠された過去へと焦点を絞っていく、といういかにもドキュメンタリー的な手続きを踏みながら山田孝之という人間の内面に迫っていくのだが、最後の最後で巨大な空転が待ち構えている。それを軽率な梯子外しと捉えるか、あるいはドキュメンタリーとフィクションの境界不安定性に対するある種の挑戦と捉えるかは受け手次第だが、個人的にはかなり面白い試みだったのではないと思う。とはいえ冒頭から芦田愛菜による間の抜けた映画アナウンスがあったりシュールきわまる場面演出が挿入されたりと、今思えば兆しのようなものは予め示されていたし、ここばかりは素直にやられた~と頭を抱えるべきだろう。や、やられた~。

 

42.マインド・ゲーム湯浅政明、2004)

湯浅政明初監督作品。性感帯が筆を走らせたかのような放埓で豪壮なタッチのハイテンポコメディ。時系列の推移に比例してキャラデザインがどんどん崩れていくのが気持ちいい。コーエン兄弟『未来は今』の一部を完全にパクったと公言している例のシーンも面白いし、ラストのフラッシュカット演出には『8 1/2』『アマルコルド』あたりの頃のフェデリコ・フェリーニめいた祝祭性すら感じる。芸術性と大衆性の狭間で不器用に懊悩している最近の湯浅作品に比べるとやっぱりこっちのほうが面白い。『ケモノヅメ』とか『カイバ』とか『四畳半神話大系』とかやってた頃にたまには戻ってきてほしい。『犬王』の演出技法はかなりそういった初期の作品群に寄せられていたのでよかった。

 

43.荒野のストレンジャークリント・イーストウッド、1973)

古典的西部劇のフォーマットで織り上げられたホラー映画といって差し支えないと思う。孤独なガンマンが寂れた街の用心棒を務めるというメインストーリーが進行する一方で、とある保安官が街の中心で暴漢たちの襲撃を受けるという挿話が不気味に明滅する。ガンマンの物語と保安官の物語は繋がりそうでなかなか繋がらない。この宙吊りのもどかしさが画面的静謐と結託して形容しがたい恐怖空間を醸成する。街の人々に見放された保安官が孤軍奮闘する、という展開は『真昼の決闘』を彷彿とさせるが、『真昼』では最終的に保安官の妻が彼を窮地から救い出した。しかし本作の保安官は最後まで孤立無援のままだ。さて、彼の晴らされぬ怨恨が向かう先はどこか・・・?

 

44.いつかギラギラする日深作欣二、1992)

全編を通してここまでボルテージの高い映画はそうそう拝めるものではない。『スピード』のテンポとスケールに『俺たちに明日はない』のピカレスク的ロマンティシズムと『仁義なき戦い』の恍惚的会話劇を混ぜ込んだ爆薬のような映画。強盗を犯した三悪人が報酬の分け前を巡って命がけの追走劇を繰り広げるのだが、そこへ落ち目の高利貸しヤクザだの気の狂った愛人だの売れっ子バンドマンだの北海道県警だのが入り混じってきて物語はいよいよお祭り騒ぎの様相を呈す。国内にこれほどまで活気のあるカーアクション映画が存在していたという事実に驚く。それでいて適度に節制の利いた詩的情緒がふと顔を覗かせるものだから痺れる。「死ぬまでにあと1、2分ある。24でくたばるんだ、好きな歌の一つでも歌って死ね」。

 

45.男はつらいよ ぼくの伯父さん(山田洋次、1989)

渥美清の病状が悪化の一途を辿っていたこともあり、本作以降の『男はつらいよ』シリーズにおいては寅次郎の甥っ子である満男の動向が物語の中心に据えられている。それゆえ『相合い傘』『夕焼け小焼け』『ハイビスカスの花』といった初期の傑作群に比べていくぶんか物足りない印象を受けるのも無理はない。しかし個人的にはこの満男編においてこそ車寅次郎の魅力は極致に達するものであると思う。寅次郎は自分の背中に無邪気な憧憬を寄せる満男の眼差しに、自分と同じような瘋癲と零落の将来を感じ取る。自分の身勝手な生き様が大切な誰かの人生を破滅に導いてしまうのではないかという自覚が生じたとき、寅次郎の言葉は真実の重みを獲得する。交際相手の父親に心ない冷笑を浴びせかけられた満男を守るべく「満男のやったことは何も間違っていなかったと思います」と食ってかかる寅次郎の姿に思わずグッとくる。根無し草の風来坊だったはずの彼は、本作を境に、「ぼく(満男)」という他者の人生を抱えた「伯父さん」へと変わっていく。

 

46.ユリシーズの瞳テオ・アンゲロプロス、1995)

ある映画監督の男が、失われたフィルムを求めて東奔西走するロードムービー。神話めいたロングショットは時間の制約を解体し、そこに幾百年もの歴史の蓄積を吐き出させてしまう。男は地理という横軸と歴史という縦軸を縦横無尽に往還するなかで、失われたフィルム=自己存在の本質に漸近していく。時空を跨いだ大いなる知の旅を続ける彼が、最終的にボスニア・ヘルツェゴビナ紛争という現代史に辿り着いてしまったことは悲惨な必然と形容するほかない。あの荒廃しきった撮影現場は、セットではなく本物の交戦地帯だったという。テオ・アンゲロプロスの映画はだいたいギリシャを中心としたヨーロッパ史への深い知識が前提となるため、そのあたりに明るくないとあんまり入り込んでいけないんだけど、本作はかなり見やすい部類だと思う。上映時間3時間だけど。

 

47.有りがたうさん(清水宏、1936)

「有りがたうさん」の名で知られる心優しい長距離バス運転手とその乗客たちが織り成す人情ドラマ。物語がバスという局限的空間に固定されているにもかかわらず、そこを通過していく人間の一人一人に鮮やかな精彩が感じられる。わずか一言、二言を残して降車していった者たちにさえ人間的立体感と奥行きがある。総勢数十人が入り乱れるカオスな群像劇にもかからず、嫌な圧迫感がないのは、「狂言回し」たる有りがたうさんの優しく淡々とした性格が程よい緩衝材になっているからに他ならない。まるで川島雄三小津安二郎をいいとこ取りしたような映画が太平洋戦争の直前に撮られていたという事実に驚嘆する。またバスの動きに合わせて上下左右に揺れるカメラアングルも見事なものだ。蓮實御大が「清水宏を見ずして日本映画を語るな」などという過激思想を喧伝している理由がほんの少しだけ理解できた気がする。

 

48.パリ、テキサスヴィム・ヴェンダース1984

ヴィム・ヴェンダースはやっぱりこれが一番いい。『ベルリン・天使の詩』『ことの次第』みたいな頭でっかちな作風も嫌いじゃないけど。とにかくロードムービーとしてもヒューマンドラマとしても至高の出来。家族再建を夢見る男が大事に持っているテキサス州パリスの写真は「限界」のメタファーであり、彼の奮闘努力の行き先が不毛な砂漠地帯であることを暗示している。テレクラのマジックミラー越しに元妻と言葉を交わし合うシーンでは、どれだけ感情を込めようと二人の目線が決して交わらないというのが痛切きわまりない。不気味なくらい真っ赤に染め上げられたテキサスの夕空があまりにも印象的だった。中盤で主人公の男が息子と道路越しに並んで歩くシーンがあるのだが、是枝裕和そして父になる』にも確か同様のシーンがあった。

 

49.JSAパク・チャヌク、2001)

韓国と北朝鮮の境目にある共同警備区域に配置された南北軍人たちの交流を描いた作品。国家の枠を超えた民族的連帯が描き出されているという点において反戦映画と言えなくもないが、それよりは既に失われてしまったものへの哀愁や追悼としての意味合いが強い。兵士たちはお互いが国を超えて信じ合うことができると確信する一方で、それが永遠にかなわない望みだということを痛いほど理解している。したがって彼らは夜な夜な北朝鮮の兵舎で他愛のない児戯に興じる。戦争という揺るがぬ現実からひとときの解放を得るために。しかしそうした空想的な人間関係は脆く儚い。ほんの少し現実が闖入してくるだけでいとも簡単に瓦解してしまう。にもかかわらず最後まで身を挺して空想を守り抜こうとしたソン・ガンホを祝福してくれる者がもはやこの世に誰もいないというのがなんとも切ない。ラストシーンの4人が集まった写真は、4人の共有した空想が現実に穿ったほんの小さな穴だといえる。しかしそれは空想であることを強調するかのように、遠い日の思い出のように淡く霞んでいる。

 

50.僕らのミライへ逆回転ミシェル・ゴンドリー、2008)

原題は”Be Kind, Rewind”。邦題がカスすぎるせいでミシェル・ゴンドリー作品の中でも軽視されがちな一作。レンタルビデオ店の店番を任されたものの店中のVHSをダメにしてしまった青年たちが、客の要望に応じて即興の同名映画(彼ら曰く「スウェーデン版」)を撮影&レンタルする話。『ヒューマン・ネイチュア』『エターナル・サンシャイン』で組んだチャーリー・カウフマンの奇形性を継承しつつも普遍的なヒューマンドラマを紡ぐことに成功している。これを見た後でリファレンス元の映画を見てみると意外にもやってること自体には大差がないのが面白い。『ゴーストバスターズ』だけは先に見ておいた方がいいかも。廃れゆくVHSとますます市場を席巻するDVDの対比構造の先に、青年たちの住む古風な街とそれを買収せんとするモダニゼーションの対立が描き出されているのが美しい。ちなみに本作公開後にインターネットの有志らが各々で好きな映画のスウェーデン版を撮ってYouTubeなどにアップするブームが起きた。そこまで含めて最高の映画。

 

おわり。