美忘録

羅列です

映画レビュー〜ちくちく編〜

これはひどい!と思った映画のレビューをいくつか紹介します。

こんなに悪口を言うことは、稀です。

 

1.『アタック・オブ・ザ・キラートマト』

クソ映画にも流儀というものがある。クソであることに自覚がないまま徹底的に本気でやるか、確かな自覚を持ったうえで徹底的にクソを演じ切るか。前者はやろうと思ってもできるものではなく、それこそエド・ウッドのようなごく一部の天才クソ映画監督のみが成しうる所業だ。一方で後者もまた至難の業。クソ映画を作ろうと意気込んだところで、途中で怖気付いて少しでもブレーキを踏んでしまうと途端にただの駄作へと落ちぶれてしまう。S・キングの『地獄のデビル・トラック』や石井輝男の『恐怖奇形人間』なんかは最初から最後まで少したりとも速度を緩めなかったがゆえにクソ映画として大勝利を収めていたように思う。

 

で、本作だが、クソ映画としてはすこぶる出来が悪い部類に入ると思う。自身がクソであることに強く自覚があるくせに、そこに徹底性が込められていない。クソ映画を貫徹することに対して中途半端に恥じらいがあるのか、言い訳がましい冷笑が作品のほとんど全体を覆い尽くしている。みなさんこれはクソですよ〜真に受けないでくださいね〜とでも言わんばかりの生温い目配せシーンが延々と続く。

 

これは他の立派なクソ映画に対して失礼きわまりない。クソ映画など小手先の技巧だけでじゅうぶん再現可能だろうという監督の傲慢さと浅薄さが滲み出ている。そんな熱量も勢いも欠いたおためごかしの擬似クソ映画に愛すべき点など一つもない。

 

本当にクソ映画がやりたいのならくだらない自尊心は捨ててひたすらクソ映画作りだけに集中してほしい。そういう徹底性があってこそ歴史に名を残す偉大なクソ映画が生まれる。

 

2.『電光空手打ち』

知る人ぞ知る高倉健のデビュー作(&主演作)。不殺・受け身を題目とする沖縄空手の名人に惚れ込んだ高倉健が一所懸命修行に励む。

 

大作の付け合わせ&新人俳優のお披露目映画ということもあり作りが雑なのは仕方がないと思うが、それにしたって高倉健が短気すぎる。不殺・受け身の題目はどこへやら、師匠の叱責もいざ知らず迫り来る悪漢たちを次から次へとめった打ち。そらまあ破門もむべなるかなと得心せざるを得ない。元同門生のライバルとサシで戦うラストシーンも消化不良のまま呆気なく終幕してしまった。不殺・受け身とはなんだったのか、この不自然きわまる終わり方はなんなのか、そして電光空手打ちとはなんだったのか。あまりの不可解に雷に打たれたかのごとく唖然と口を開けるほかない我々観客こそがその秘儀のターゲットに他ならなかったのではないかと今になって思う。

 

それにしても高倉健はこの頃から紛うことなく「高倉健」だったんだな、というか本当にこういう演技しかできないんだな、と改めて知ることができるいい機会ではあった。あまりにも朴訥であまりにも飾り気のない演技は確かに「フレッシュな新人俳優」とはお世辞にも言い難い。そもそも本作については本人も全く乗り気じゃなかったらしいし。だから彼が極道映画という活路を見出すことができて本当によかった。でなきゃド三流の大根役者として映画史の闇に葬り去られていても不思議ではなかったと思う。

 

3.『生きものの記録』

見事なショットやセリフに溢れた作品ではあるのだが、全体を俯瞰してみると物語が反核という強いテーマ性を抱えきれていない、というのが正直な感想。

 

反核というテーマを、『ゴジラ』のような明らかに非現実的な暗喩世界ではなく、我々の実生活の延長線上に存在する現実世界に定立させることで、確かに反核のリアリティや切迫性は増すだろう。しかしまさにそのことによって、喜一の「ブラジル移住」という途方もない計画の滑稽さばかりがいやに強調されてしまっていたように感じた。

 

作品のアイレベルが現実世界に準拠している以上、受け手としては、水爆を恐れる喜一の気持ちもある程度理解できる一方で、喜一の奇行に煩わされる家族たちの気持ちも同じくらい理解できてしまう。

 

結果、喜一の主張と家族の主張は同等の説得力を有したものとして対消滅してしまい、その焼け跡には反核というテーマだけが実体のない漠とした概念のまま漂っていた…そんな感じ。

 

そう考えると、徹底的な虚構世界を作り上げ、そこに恐怖の絶対的対象としてのーーまた同時に核戦争の暗喩としてのーー「ゴジラ」を配置することで受け手の感情の方向をある程度一定化させ、そこを土台に反核論を打ち出していた『ゴジラ』はやっぱりすごかったんだな、と。

 

4.『プール』

自分のやりたいことをやった結果、娘を捨てることになった母親。当然娘はそれについて疑義を呈するが、母親は「あなたを信じていたから」ときっぱり言い放つ。それで娘も得心がいったようだ。

 

しかしいち視聴者として意見するならば、やはりどうしても娘の心境のほうに同情が傾斜してしまうし、母親の言葉に重みを感じにくい。そしてそれになんだかんだ説き伏せられている娘にも疑問符が浮かぶ。

 

もちろん、このような再生のしかたがあるのはわかる。互いの心にわだかまる不平不満を一切合切解消することだけが素晴らしい人間関係ではない。ときおり表面に波が立つことはあっても概して穏やかな、言うなればプールのような人間関係のほうがむしろリアリティという点では優れている。

 

とはいえ娘を捨ててまで異国に旅立った理由が描画されないせいで、母親の言葉のすべてが軽薄な自己弁護の様相を呈してしまっている。

 

全編を通して説明的な会話シーンが山ほどあるというのに、ここだけは「視聴者の良心的想像力にお任せします」という曖昧主義に逃げるのはどうかと思う。一番重要なシーンなのに。

 

そうそう、ゆったりとした長回しによって安穏な時空間を生成しているにもかかわらず、それによって生じた時間的遅延を埋め合わせるように性急かつ説明的な会話シーンが逐一挿入されるのも嫌だった。これらの積み重ねによって母親の言葉がエクスキューズの傾向をさらに強めてしまっているともいえる。

 

邦画の悪いとこだけを純粋培養するとこうなるという良い範型。

 

5.『ウィーアーリトルゾンビーズ

さまざまな映画技法を次から次へと繰り出すエネルギッシュさに一瞬気圧されそうになるものの、それらが文脈的必然性を持たないコケオドシであることがわかってしまうと途端に冷めてしまう。それと、矢崎仁司『三月のライオン』でも思ったことだが、こういう冷笑的な作風の映画で赤ん坊の泣き声を問題解消のメタファーに用いるやり方はかなり強引だし安直だと思う。ジャンプスケアで観客を無理やりビビらせる粗悪なホラー映画と大差がない。

 

もはやオリジナルというものが成立しない現代にあっては、使い古された主題をどう切り出し、どう編集するのかが創作における最重要項目だと思う。しかし本作は「己の無感情に苦悩する若者」という使い古しもいいところな主題をさも新規で奇特なもののように捉えている節があった。そんなことをいくら饒舌に語られたところで「だから何?」という素朴な疑問符しか浮かんでこない。

 

6.『セシルB ザ・シネマ・ウォーズ』

皮肉というのは怒りを笑いによって完全制圧するからこそ成り立つのであって、怒りが前面化しすぎていては政治的ステートメントと変わりがない。迸る激情をスクリーンサイズに凝縮させることによって異様に緊張感のある露悪コメディを立ち上げていたあのジョン・ウォーターズが、こんな野放図で直情的な映画を撮ってしまったというのが悲しい。いまさら60〜70年代の古びた手つきでハリウッド批判論を開陳されたところで何も響いてこない。というか演者に対して過度に非人道的だったり制作体制があまりにも杜撰だったりするアンダーグラウンド映画のほうがハリウッド映画よりよっぽど酷いんじゃないか…?とすら思えてしまう。

 

これを見たうえでアンダーグラウンド映画を作りたい!ハリウッド映画を打破したい!と思える人間はおそらくいないだろう。そういう観客のシラケすらも勘案のうえだというのなら天晴れジョン・ウォーターズと万雷の拍手を送りたいところだが、残念ながら本作にそこまでの知的作為性を感じることはできなかった。黒人女の腕に「尊敬する映画監督」として「スパイク・リー」の名前が彫られてるくらい余裕のない映画なのだから。かつてのジョン・ウォーターズならここで容赦なく「D・W・グリフィス」の名を刻み込んでいたはずだと思うとただただ無念でならない。

 

いくらアンダーグラウンド映画の旗振り役といえども寄る年波にはかなわなかったということなのかもしれない😢

 

7.『さらば夏の光』

ポーランドの美しい風景がさまざまな画角から切り取られている。しかしそれは絵はがきのようなものでしかない。綺麗な夕陽です、煉瓦の街を走る電車です、憂愁を湛えた砂浜です、終わり。しかもそのほとんどがうんざりするような長回しで撮られているのだから退屈で仕方ない。そしてその緩慢な映像の上を、登場人物たちのモノローグが冷たい風のように通り過ぎていく。映像と言葉はほとんど干渉し合わない。まるでカラオケの背景映像と歌詞のようだ。物語それ自体もあんまりパッとしない浮気話だったし、そういやATGってこういうハズレ枠もいっぱいあるよな…と再認させられた。

 

8.『アイアンマン』

これだけ言いたい。

 

死ね

 

9.『SR サイタマノラッパー

ラスト7分の魂のぶつけ合いと唐突な終幕はかなりグッときた。あと市民会館で曲を披露してる時のカメラワーク。カメラはIKKUたちのやぶれかぶれの勇姿を遠巻きに映し出すが、そこには市のお偉方の後頭部も映り込む。しかし顔は見えない。俺たちの声は届くんだろうか、というIKKUたちの不安がカメラワークを通じてうまく表現されていたと思う。

 

しかしこんなことを言うのもアレなんだけど、埼玉県深谷市をまるで文明社会の末端かのように描くのはどうなんだと思う。私自身が『楢山節考』のごとき山中の寒村生まれなので、登場人物たちがしきりに開陳する「でも埼玉だし…」的なシニシズムにいまいち寄り添えなかった。いや、言うて駅あんじゃん、河川敷あんじゃん、みたいな。

 

と、このように「(物理的であれ精神的であれ)俺は世界で一番不幸だ!」という地点に登場人物を追い込むことで物語に緩急をつけようとすると、画面の外側にいるそれより「ひどい」人々がワーワーと文句をつけてくる。私だってできればつけたくないけど。だからやるやらもっと徹底的にやる(あるいは登場人物の自我そのものに強力な磁力を纏わせる)必要がある。「埼玉県深谷市」という土地はやっぱりちょっと徹底性に欠けるんじゃないかなというのが正直なところ。

 

10.『ゾンビデオ』

乾坤一擲のワンアイデアで2時間弱を乗り切ろう的な、よくある低予算映画ではあるのだけど、何がタチ悪いかってアイデアそのものが割と面白いところ。ゾンビ映画が積み上げてきた膨大なアーカイブそれ自体を武器にゾンビを撃破していく、というのは私の浅薄なゾンビ映画からしてみれば斬新なものだった。そのうえ、いかようにも面白く調理できそうだ。

 

にもかかわらず本作は過去作の固有名詞を無意味に羅列するばかりで、肝心の「ゾンビ学入門」ビデオにはそれらへの参照点などはほとんど見当たらない。こっちとしては本作が露悪的なパロディ映画ということは百も承知なのだから、もっとこう、歴史の深みでブン殴る、的な蘊蓄パワーが欲しかった。ただ、ゾンビ映画から脈絡なくカルトSFへとシフトチェンジする終盤の展開はルチオ・フルチっぽくてよかったと思う。

 

撮影が絶望的に地味というのも残念ポイントの一つかもしれない。深夜ドラマ的なコンパクトで基本的にバストアップしか映さないような画角が多すぎて、ゾンビ映画にあるべき臨場感がまったくない。いくら恐怖要素抑えめのゾンビ・コメディといえど緩急の振れ幅が小さすぎると見るのが苦痛になってくる。『ロンドンゾンビ紀行』とかを見習ってほしい。

 

何にせよ、面白そうなアイデアが他のさまざまな要素によって無残にも窒息させられていることに悲しみを通り越して怒りさえ覚える。頼むから同じアイデアでもう一度撮り直してくれ、と切に願う。