美忘録

羅列です

摩天楼とセックス、漕がれるべきペダル

 夜とはつまり予感である。それは不吉な重力を持った雲霧となって街全体をすっぽり覆っている。東口に出れば馬鹿騒ぎが、路地を曲がれば暴力が、グラスを傾ければセックスが自明的に存在していると誰もが思い込んでいる。しかし予感はあくまで予感であり結果ではない。馬鹿騒ぎも暴力もセックスもすべては霧の中に映し出されたホログラムに過ぎない。彼らは永久にどこにも辿り着くことができないのだ。

 

 夜霧の中を自転車であてもなく突き進むぼくもまた彼らと何も変わらない。予感の蠕動を肌で感じていても、ぼくにできるのは平坦な軌道を描きながら環状線の始点と終点を結ぶことだけなのだ。干上がった運河のような幹線道路や、獣の遠吠えのように膨らみのあるハイウェイの走行音や、街路灯の均質な明かりによって個物性を剥奪された雑居ビルは、ぼくが噛み付くことのできるだけの余地を思わせぶりにひらつかせるが、それに噛み付いたところで、あとに残るのは「噛み付いた」という主語のない間抜けな結果だけである。

 

 環状六号線の車道から望むスカイスクレイパーは、頭部に赤い暗視スコープをはめ込まれた巨兵の群れのように見え、ある種の緊迫した荘厳性を湛えている。彼らが突如として立ち上がり、東京の街を焼き尽くしたとしても、ぼくはそれほど驚かないだろう。TOHOシネマズのゴジラ像は歌舞伎町の若者をゴキブリでも殺すみたいに放射線で焼き尽くし、ドコモタワーは文字盤付近からミサイルを連射して新宿御苑を火の海に変え、コクーンタワーから羽化した斑模様のぶ厚い翅をもった蛾は毒性の鱗粉を西新宿じゅうにまき散らすのだ。ぼくは巨大機動に変形した新宿都庁に自転車ごと踏み潰されて餃子の皮みたいな死を迎える。その次の日には練馬や小岩あたりまでロードローラーで転がしたみたいに起伏のない焦土が広がっていることだろうーーー

 

 はるか向こうのその街は、ボールペンの先でつつけばそのまますべてが崩壊してしまいそうな不安定さを抱えていた。途方もないカタストロフィーを仮託するにはじゅうぶんすぎる街だったのだ。

 

 ぼくは真夜中に自転車を漕ぎながら、街やそれを取り巻くオブジェクトについて、こうやってあれこれ思索を巡らせる。しかしそれは言うなればオーガズムを迎えないセックスのようなものである。行為開始から絶頂寸前までのシークエンスがフィルムのように切り取られ、夜というまな板の上で無限に切り刻まれ続ける。切断面が増えるごとにシークエンスのディテールは少しずつ鮮明性を増すが、だからといって何か特別なことが起きるわけではない。たとえセックスの間にカーティス・フラーの『ファイブ・スポット・アフター・ダーク』が流れていたことや、彼女の左わき腹に3つの連なった小さなホクロがあったことを思い出したとして、それらの事実がぼくをどこかへ連れ出してくれるわけではない。あの摩天楼が街を焼こうが踏み潰そうがぼくにできることは何ひとつないし、だいいちそれは予感が見せる幻影に過ぎないのだ。

 

 ぼくはきっと何事もなく落合を越え、池袋を越え、そのまま中山道に合流する。本郷あたりで脚の血液が全て鉛に変化したような鈍痛がやってきて、松屋かどこかで軽く腹を満たしたあと、大久保通り伝いに中野の自宅へ戻る。それ以外は何も起きないのだ。火の海の中を死に物狂いで逃げ惑う必要も、もう来ない明日を涙ながらに憂う必要もない。しかしそれでもぼくはひたすらにペダルを漕ぎ続ける。さまざまな街を回転軸に、無意味な円を描き続ける。

 

 ぼくは予感が予感であることを知っていてもなお、予感が予感であることをうまく自分の中に落とし込むことができないままでいるような気がする。理論としては理解していても、そこに感情が付随しないのだ。思うに、輪郭的な自覚に中身を注いでくれるものは、時間か、あるいは圧倒的な実感覚だけなのだろう。ぼくはまだ夜を知らなすぎるのだ。時間的にも空間的にも。だからぼくはペダルに足をかける。そこに漕がれるべきペダルがある限り、ぼくはそれを漕がなければならないのだ。

 

 両足がバターになるまでペダルを漕ぎ、あらゆる予感を予感として殺し尽くしたとき、ぼくは誰かとセックスをするだろう。カーティス・フラーの『ファイブ・スポット・アフター・ダーク』が流れる暗い密室で、ホクロの数を数えながら、互いの汗をぬぐうのだ。

 

 もちろんそこにはオーガズムが存在している。