美忘録

羅列です

今年印象に残った映画10本

押井守は最も映画に心酔していたころ、年間で1000本もの映画を見ていたらしい。とにかく本数をこなすことでレヴィ=ストロースよろしくそこに遍在する「構造」を看取し、それを自身の作劇にも生かしていたという。中でも氏は吸血鬼やフランケンシュタインが霧の中を怪しげに徘徊するような古き良きホラー映画が大のお気に入りで、そういえば『ぶらどらぶ』では『マタンゴ』とか『吸血鬼ゴケミドロ』みたいなカルトホラーを礼節も節操もなくパロディしまくっていた覚えがある。

 

さて、俺も氏の顰に倣って今年見た映画の本数を数えてみたわけだが、結果は約450本。・・・やっぱ押井守って異常じゃないすか?確かに俺はテレンス・フィッシャーの『吸血鬼ドラキュラ』なんかを見てもちっとも面白いと思えなかったし、それはつまりまだまだ俺は映画を見る素養が出来上がっとらんということなのかもしれない。とはいえ俺は何の因果か通算で1400本ほどの映画を見てきてしまったわけだし、語りへの欲望は日に日に蓄積していくばかりなので、今年見たオモシロ映画を発表するくらいの越権は許されるんじゃないか、許してほしい、許してください、という気持ちでこの1年で見た映画の中から印象に残った作品を10本ほどを感想付きで発表します。年末年始が暇で暇でたまらないという方は参考にしてみてください。たぶんだいたいU-NEXTにあります。なかったら渋谷のTSUTAYAにGO!

 

 

①阪元裕吾『ベイビーわるきゅーれ』

脱力系バイオレンスというジャンルはコーエン兄弟『ファーゴ』やタランティーノパルプ・フィクション』という偉大な先達が多く意外にも難関なのだが、それらに引けを取らない傑作だった。「殺し屋の女子高生」などといういかにもタランティーノ的な2人組(ちさと、まひろ)がこの映画の主人公なのだが、「女子高生」という表象が持つお決まりのイメージを押し返すパワーがあった。

 

彼女たちの標的はおしなべて屈強な男たちだが、彼女たちはまるでタイムカードを切るように易々と引き金を引く。男たちの必死の命乞いもガン無視。その横で他愛もない雑談に花を咲かせる。彼女たちにとって人を殺すことはその程度の意味しか持たない。後半になると本物のヤクザや喧嘩のプロといった錚々たるメンツがこぞって彼女たちの前に立ちはだかるのだが、昭和から連綿と続く仁義の魂も平成の内閉的なストイシズムがもたらす生々しい暴力性も、彼女たちの前では等しく価値がない。お前らの時代は終わったんだよ!とでも言わんばかりに二つの銃口が景気よく火を噴く。

 

幕間に挟まる雑談もまた素晴らしい。「野原ひろしの格言で説教してくる奴ウザい」「ジョジョ知らないのにいちいちジョジョのセリフで返事すんな」「バイト落ちた」「香水つけすぎ」等々。この他愛のなさ、まさにファミレスで耳に入ってくる女子高生の会話そのものだ。『デス・プルーフ』の前半部の会話劇みたいな。しかし彼女たちが死ぬか生きるかの危険な稼業に身を置いていることを踏まえれば、これらの雑談が彼女たちにとっていかに痛切でかけがえのないものであるかが伺える。

 

それにつけても巧いのは彼女たちの言葉遣いの塩梅だ。シニシズムアレゴリーを基調とした冷めた物言いはまさにZ世代そのものといった感じだが、それが単なる形態模写に留まっていない。たとえばちょっとでも時代遅れな言い回しを誰かがすれば「それまだ使う人いるんだ笑」という彼女たちの容赦ないツッコミが入る。要するに彼女たちは自分が時代の最先端なのだという堂々たる自信を持ったうえで発話をしている。現代/現在の言葉遣いを取り入れようとしておかしな空転が生じている作品が山ほどある中で、最先端の心づもりをかなり精密に汲んでいる作品だなと感心した。

 

二人の服装に関しても文句ナシだ。外交性の高いちさとはショート丈の英字スウェット、オーバーサイズカーディガン、ベロアワイドパンツ、キルティングジャケット、converseといったTHE・現代JKといったスタイルで、一方内向的なまひろは「忘れらんねえよ」のスウェット、ゴシックなバンドT、暗色系デニム、絵文字の総柄ロンT、ジップアップパーカー、スポーツ系ナイロンジャケット、VANSといった所謂ボーイッシュオタクスタイル。両者ともにTikTokからそのまま飛び出してきたかのような出立ちだ。何がいいって出てくる服がみんなQoo10やらSHEINやらで揃いそうなところだ。一式予算5000円。

 

中盤にはメイド喫茶でバイトを始めたちさとが、奨学金で大学に通うメイドの先輩をしきりに「貧乏」と形容するシーンがある。しかし2人の関係は悪化するどころかむしろ親密なものとなる。Z世代にとってもはや貧困は隠すべきスティグマなどではなく、一定の確率で付与されるバッドステータス程度の認識になってしまっていることの証左だろう。序盤のちさととまひろの雑談シーンでも「増税が悪い」「社会が悪い」というやりとりがあったが、実のところここはけっこう本質的なシーンなのではないかと思う。「失われた30年」を全身に浴び続けてきたZ世代にとって、社会とは基本的に憎むべき敵なのだ。敵、という表現は大袈裟かもしれないが、少なくとも味方ではない、とはいえる。

 

事実、ちさともまひろも近縁の人間関係については深く頭を悩ませることはあるものの、それ以外のものに関してはほとんど関心さえ寄せない。内輪には徹底的に優しく、外部には徹底的に冷たく、という極端な情緒配分。

 

そもそもちさととまひろはどうして殺し屋などという危険な仕事をしているのだろうか。まひろは自分のことを「社会不適合者」と嘲ったが、裏を返せばそれは、彼女のような人間を受け入れる素地が日本に存在しないということなのではないか。落伍者たちの最後のセーフティネットとしての「殺し屋」。もし「殺し屋」という設定が何かのアレゴリーだとすれば、それはキャバクラやソープといった風俗業のことを指すのかもしれない。風俗業もまた、高給と自由の代わりに自身の身体的安全を差し出すという点では殺し屋と大差がない。

 

最終決戦前、ちさととまひろは食べようとしていたショートケーキを冷蔵庫の中にしまう。「この戦いが終わったら…」というお決まりの約束を交わして決戦に繰り出すのだ。生きるか死ぬかの戦いを乗り越えるための願掛けアイテムがたかだか数百円のショートケーキというのはあまりにも物悲しい。思えばちさととまひろは殺し屋稼業で潤沢な資金を得ているはずなのに、彼女たちの食べるものは軒並み貧相だ。具の少ないおでん、硬そうなフランスパン、300円の団子、何かの煮物など…バブル以降少しずつ日本を蝕み続けている貧困は、今や精神の領域にまで入り込んでいるのかもしれない。したがって二人はたかだか数百円のショートケーキに自分のたちの命運を賭けてしまえるのだ。

 

そうして彼女たちは欺瞞と不条理に満ちた戦地に向かう。まあなんとかなるだろ、という持ち前の軽いメンタルをママチャリのカゴに搭載して。そこにはオプティミズムというよりはむしろ諦観のようなものを感じる。そうでも思い込んでいなければやっていられないような不安が彼女たちの目の前にあるかのようだ。

 

殺し屋稼業は確かに割がいい。しかしそれがいつまで続くかはわからない。任務途中で死ぬかもしれないし、会社が倒産するかもしれない。そうなったらいよいよおしまいだ。だから彼女たちは笑う、軽視する、冗談を飛ばす。正気でい続けるために。

 

現代社会の下層に生じた歪みを、怒りと悲しみによって直接抉り出すのではなく、あくまでシニカルな笑いによって逆説的に提示しているという点では中島哲也嫌われ松子の一生』を彷彿とさせる。私はこういう作品がとても好きだ。ひとしきり笑ったあとでじわじわと滲み出してくるシリアスはすごい効く。

 

木下惠介『破れ太鼓』

家族の不条理を戯画的に描いた映画といえば川島雄三『しとやかな獣』や森田芳光家族ゲーム』などが挙げられるが、本作はそれらの先駆け的な作品だ。…などと目算を立てながら見ていたのだが、それにしてはどうにも話が軽い。家父長制主義的な成金オヤジとそれに隷属する家族と、西洋的な男女平等のもとで誰もが自由を謳歌する清貧家族の鮮やかすぎる対比。モノクロじゃなければ胸焼け必至なくらいわかりやすい二項対立に一時は失笑が浮かびかけもした。しかし終盤数十分の展開は凄まじかった。

 

家族みんなに愛想を尽かされたオヤジが唯一家に残った息子に向かって愚痴をこぼす。すると息子は「人間はどこまでも孤独なものです」と言う。それじゃあ家族に意味はないのかとオヤジが問うと、息子は「だけどやっぱり家族は家族。だからこそ一番自由な関係じゃなきゃ」とオヤジを諭す。

 

血縁は単に医学的なものであり、家族などという単位はしょせん共同幻想に過ぎない(思えば小津安二郎も自作で近代日本の家族形態に内在する温かみと限界性を同時に指摘していた)。言ってしまえば誰も彼もが等しく他人なのだ。けれどそういうニヒリズムの行き着き先は断絶だ。

 

このニヒリズムは実のところ家族神話への盲目的執着とも紙一重だ。オヤジは北海道の未開拓地で誰の力も借りることなく一財を成したという過去を持つがゆえに、つまり人間が本来的に孤独であることを誰よりも強く知っているがゆえに、妻子が自分のもとを去っていくことを過度に恐れる。そこで家父長制主義や暴力を振りかざすことで家族の結合を維持しようと躍起になってしまう。

 

しかし息子はオヤジのそうした極端な生き方に疑義を唱える。彼は全き孤独とも暴力的結合とも異なる中間域が、曖昧で両義的な領域があるのだと言う。そしてそこにこそ家族のありうべき姿があるのではないのかと。

 

面白いのはここでオヤジが「ハッ」と反省するにもかかわらず、行動は以前のままなところ。彼は出奔を謝罪する女中に対して「そうだ。悪いことをしたらすぐ改めなさい」と諭すのだけど、いや、それお前完全にブーメランじゃん!!!

 

でもそこにはある種の不器用な愛おしさ、憎めなさがある。今はダメでもいつかこの人は立ち直れるだろうという予感がある。「反省」を描くことにおいて重要なのは、その場でドラスティックに思想を転換させることではない。再生の可能性を予示することだ。

 

ラストのオルゴールのシーンはとりわけ印象深い。妻子との和解が成立し、長男坊の興したオルゴール製造所には、福音のように数多のオルゴールの音が鳴り響く。それは家族が再び一つになったことを示すようだ。しかしその音色は美しいというよりはむしろ不協和音に近い。

 

家族離散→家族再生という戯画にも程がある戯画は、オルゴールの不気味な音色によってほんのりと憂いを帯びる。オヤジの親子愛は本物なのか?はたまたしょせんその場限りの気まぐれに過ぎないのか?一抹の疑念を孕んだオルゴールの旋律は「完」の一文字によってあえなく封印される。

 

木下惠介作品はやっぱり終盤で一挙に畳みかけてくるから油断ならない。たとえば戦意高揚映画として製作された『陸軍』では、ラストシーンで出征する息子を「バンザイ」も唱和しないで一心不乱に追いかける母親の姿が描かれる。また『二十四の瞳』では、平和から戦争への激動の18年間を過ごした女教師を、18年前と同じスタート地点に再配置することで疑似的ループを演出することで、平和への希望を謳い上げると同時に、再び戦争の惨禍が訪れるかもしれないという懸念をも同時に暗示した。

 

黒澤や小津や溝口の海外評価が高い一方で木下がその名前さえ知られていないというのは嘆くべきことだと思う。山中貞雄清水宏川島雄三あたりと一緒にぜひとも再評価の波が来てほしい。

 

テオ・アンゲロプロスこうのとり、たちずさんで

大きな川が映し出され、カメラが静止する。永遠のような間があり、向こう岸の土手の稜線から無数の黒点が湧いてくる。黒装束に身を包んだ村人と花婿だ。すると此岸からも人々が。こちらには白装束の花嫁がいる。彼らは川越しに結婚式を執り行う。川=国境を隔てた危険な儀式。花婿と花嫁は今にも越境の禁忌に手を触れそうになる。しかし一発の銃声が鳴り響き、それまで結婚を祝賀していた人々は蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていく。カメラはまだじっと川を捉えている。しばらくして花婿と花嫁が恐る恐る現れ、土手から川べりへと降りていく。それから川を隔てて向かい合い、互いの愛を確かめ合うように同じ動きをする。すると花嫁はふと踵を返し、泣き暮れながら走り去る。

 

何かを誰かが撮るという行為には多かれ少なかれ恣意性が伴う。撮るべき対象ははじめからそこにあったのではなく、誰かがそこに意図的に配置したものである。それゆえ映像には作り手個人の好悪やイデオロギーが否応なしに反映される。そしてその出力が一定のラインを超過したとき、作品はプロパガンダに堕する。しかし、かといって偶然を無作為に羅列してみたところで、そこに現代アート的な批評性はあるかもしれないが、結局のところ不意打ちにしかなりえない。

 

アンゲロプロスもまた何かをカメラに収める映像作家である以上、恣意性の呪いから完全に脱却することはできない(というか世界中のどこを見渡してもそんな作家はいない)。しかし彼の場合、限界まで判断を留保する。カメラを固定したまま、あるいは動いているのかいないのかわからない速度で微動させながら、沈黙を貫き、貫き、なお貫く。そして終いには映し出された人物や風景のほうにその歴史の蓄積や矛盾を吐き出させてしまう。

 

土手の向こうから黒い群衆が現れるシーンはその好例だ。彼は旧ユーゴ圏とギリシャに跨がる移民の問題について、自分(本作でいえば彼の分身たるギリシャ人のテレビディレクター、次作『ユリシーズの瞳』でいえば映画監督のA)の口から何事かを語ろうとはしない。彼らはひたすら待ち続ける。待ち続けることによって映像に語らせる。そういう撮り方・見せ方が非常に上手い。語るのではなく、語らせる。寓話的で超自然的な演出が多いにもかかわらず、そこにプロパガンダじみた政治性を感じないのは、彼の徹底して他動的な撮影スタイルゆえだろう。

 

本作が製作された1991年といえば、セルビアクロアチアの民族対立を主旋律としたユーゴスラビア紛争が幕を開けた年だ。「民族自決」を錦の御旗に血で血を洗う凄惨な戦闘が連邦各地で巻き起こっていた。本作の舞台となるギリシャの小さな町(通称「待合室」)はユーゴスラビアの諸共和国とも北端を接しており、イラン人やクルド人といった中東人のみならず、ユーゴ圏からの難民も多く暮らしていた。それゆえ「待合室」にはただならぬ民族的緊張が漂っている。それだけではない。東欧諸国の不安定な情勢は国境線を侵犯不可の壁に変え、それによって人々は分断を余儀なくされることさえままある。あの花嫁と花婿のように。

 

ここに立ち現れてくるのは「一歩踏み出せば異国か死」しかない「国境」の不条理だ。すぐ近くに戦争や死の恐怖が迫ってきているというのに、あるいは川を挟んだ向こう側に最愛の人が待っているというのに、なぜ彼らはそこで立ち止まっていなければならないのか。思えば前作『シテール島への船出』においても、国籍を持たぬがゆえに上陸を許されず、ロシア行きの船が来るまでの間を川に浮かんだ橋の上で過ごす老人の姿が描かれていた。

 

さて、国境とは何であるのか。ナショナリズムの輪郭線である、とひとまずは言っておく。殊に互いの民族主義が激しくぶつかり合っていた東欧周辺においては、国境の持つ意味はなおさら大きい。それは「我々」と「敵」を分かつ絶対的審級なのだ。他国とじかに領土を接していない日本のそれとは比較にならない。またこの強固な「我々」と「敵」の意識は、国家のみならず、共同体、友人、パートナーといった具合に下層へ下層へと浸透していき、終いには自分自身が「敵」であるという倒錯に辿り着いてしまう。本作の元大物政治家がその好例だ。しかしアンゲロプロスは「国境」がもたらすそうした悲劇を乗り超える術を懸命に模索し続ける。

 

ラストの電柱工事シーンはその一つの実践だ。電柱とそれに登る工事夫を捉えたカメラは徐々にズームアウトしていくが、電線はどこまでも果てしなく伸びている。おそらくそれは画面を越え、視界を越え、国境を越え、どこまでも伸びていって世界を一つに接続するのだろう…

 

本作に込めた意図をそのように語りながら「まあ、一人のロマンチストの戯言だよ」とはにかむアンゲロプロスを見て、マジでいい監督だな、と改めて思った。

 

東欧から遠く離れた島国において彼の作品が見られるというのは僥倖というほかない。蓮實重彦も「まさか入ってくるとは・・・」ってビビってたし。マジでありがとう、池澤夏樹池澤夏樹=個人編集シリーズいっぱい買います!!

 

④ディミアン・チャゼル『ラ・ラ・ランド

冒頭6分にもわたる息継ぎなしのロングショット、茶目っ気あるアイリスアウト、『カサブランカ』、『理由なき反抗』、しつこいくらいデカい"THE END"の文字、そして陳腐なサクセスストーリー。すべてはハリウッドという空間に蓄積した栄華の遺骸だ。

 

かつて『雨に唄えば』はサイレントとトーキーの相剋をテクニカラーのギラギラした色彩の中で高らかに歌い上げた。そこへは無声から有声へ、さらに無色から有色へと飛躍的に進歩を遂げる映画芸術と、それらを次から次へと世に送り出す「夢の工場」ハリウッドへの絶大な信頼と期待があった。それは赤狩り事件やベトナム戦争を経ていくぶんか色褪せかけたこともあったが、90年代を迎える頃には元のように夢と希望の溢れるハリウッド映画が復権し、全世界の映画館を笑いと興奮と感動で満たした。

 

しかしそんなものは所詮くだらないまやかしにすぎない、と正面切ってハリウッドに唾を吐きつけたのがアメリカ映画の異端児ロバート・アルトマンだ。彼の『ザ・プレイヤー』にはハリウッドという空間そのものへの辛辣な呪詛が込められていた。オーソン・ウェルズ黒い罠』やヒッチコック『ロープ』を明らかな参照項とした冒頭の長回しシーンは、そうした無害で再利用可能な撮影技法や物語に終始することで目先のカネや名声を得ようとするハリウッドの浅ましさに対する自己言及的な非難だ。ハリウッドなどというものはもうとっくに死んでいて、今じゃ資本主義に汚染された巨大なガラクタをコピー&ペーストで増産する虚無空間に成り果てているのだとアルトマンは苦笑する。

 

さて、ようやく『ラ・ラ・ランド』。本作もまた『ザ・プレイヤー』同様、6分にもわたる冗長な長回しで幕を開ける。この時点で本作は自分自身がハリウッド映画であると、すなわち既に息絶えた文芸であるという自覚を備えている。そもそもミュージカルという語りの手法からして懐古趣味もいいところだし、セブのジャズ趣味や数々の名作古典映画のくだりも、本作が既に亡きハリウッドへの郷愁と憧憬に彩られていることを示している。思えばマジックアワーの空と海を背景にセブとミアがタップダンスを舞う一連のシーンもやけに背景とのCG合成が杜撰だったが、あれもひょっとするとCG黎明期(それこそヒッチコックの時代)の映画に捧げたささやかなオマージュだったのかもしれない。

 

こうして懐古モードに浸りながら、物語もまた古き良きハリウッド映画の顰に倣って陳腐なサクセスストーリーへと突き進んでいく。セブもミアも、長きにわたる苦節を経て(しかし具体的な経緯は描かれない)、最終的には自分たちの夢を叶える。セブはジャズバーの経営者に、ミアはハリウッドスターに。

 

しかしロバート・アルトマンが20年も前に指摘したように、また今では誰もが気づいているように、そういう「アメリカン・ドリーム」なハリウッドのモードは完全に死んでしまった。フランク・キャプラのバカみたいな喜劇映画みたいに、キス一つですべてが清算され、誰もがハッピーエンドを迎えることはもうできない。何かを手に入れるなら、その代わりに何かを手放す必要がある。それがポスト・ハリウッド時代の映画的定石だ。ゆえに本作は愛を捨てざるを得なかった。陳腐なサクセスストーリーの代償として、セブとミアの愛は必然的に失われた。

 

ジャズバーで偶然再会したセブとミアが空想するifの世界線は、そのままハリウッドへの追悼と見做すことができる。美しかったハリウッド。かつてハンフリー・ボガート紫煙をくゆらせ、ジェームズ・ディーンが感傷的な涙を浮かべたあのハリウッド。それらはハリボテめいた幻燈の中に浮かび上がるものの、やがて儚く消えていく。全てが消え去ったあとで画面上に現れる"THE END"の文字はことさら悲痛さを帯びている。こんなふうにしてどれだけ忠実にあの日のハリウッドをなぞったところで、あの頃のような興奮と感動は既に失われてしまっている。いや、あるいはそんなものははじめからなかったのかもしれない。何にせよ今更どうしようもない。

 

しかし、果たしてハリウッドはいったい何度殺されれば本当に死ぬのだろう。アメリカン・ニューシネマが殺し、ロバート・アルトマンが殺し、ディミアン・チャゼルが殺したハリウッドは、その内実を決定的に失いながらも、今なおゾンビのように映画市場の上辺を彷徨い続けている。ただ最近ではアメリカ国内でもA24とかブラムハウスあたりの独立系スタジオが頑張っているので、彼らには是非とも「最後の一押し」を頑張ってもらいたい。さよなら、さよならハリウッド

 

宇田鋼之介ONE PIECE THE MOVIE デッドエンドの冒険』

ワンピース映画というと『STRONG WORLD』から連なる本編補完的な大作シリーズばかりが持て囃されがちではあるけれど、個人的には本作が一番面白いと思う。大冒険の裏でいくつもの人間関係やサスペンスが胎動し、それらがルフィと怨敵の最後の大一番において一挙にカタルシスを迎えるという原作のダイナミズムを余すことなく映像に落とし込めていた。しかもこれでオリジナル脚本なのだから驚く。

 

オリジナルキャラクターであるシュライヤの服装が『死亡遊戯』のブルース・リーそのものすぎて笑う。戦闘スタイルは言うまでもなくジャッキー・チェンの軽快なカンフーアクションが範型だし。イスを使ったりチェーンをよじ登ったりと、とにかくものすごい作画コストがかかっていた。ただ、そういったスタイルが彼のパーソナリティのどこに生かされているのかは最後までよくわからなかったが。

 

さて、本作もそれまでのワンピース映画と同じように仲間の重要さや命のかけがえのなさなどが説かれるのだが、本作以前(『ONE PIECE』『ねじまき島の冒険』『珍獣島のチョッパー王国』)までのような子供騙しの単純な勧善懲悪劇とは一味違う。

 

ルフィは上述のような「仲間・命を大切にしろ!」というヒューマニズムをしばしば開陳するものの、そこには常に適度な余地がある。言い換えれば教条性がない。ルフィは仲間や命の大切さを説く一方で人を殴るし暴言を吐く。要するに自分のやりたいようにやっているだけ。しかしだからこそルフィの説くヒューマニズムには妙な真正さがある。こいつはルールとか法律とかいった厳密で厳格な審級に基づいてそういうことを言ってるんじゃなくて、マジでそう思ってるから言ってるんだな、という納得。

 

しかしルフィの「やりたいようにやる」という奔放さは、時として悪しき方向に舵を切ることもある。本作のラスボスであるガスパーデは邪悪なやり方で「やりたいようにやる」を実践し続けてきた、ある意味でルフィの鏡像的な人物だ。ルフィの「自由主義」を手放しに全肯定しない本作の脚本のバランス感覚は見事なものだ。しかもガスパーデはそれまでの歴代ラスボスの負の側面を煮詰めたような男でもある。クロコダイルのような能力(アメアメの実)、アーロンのような狡猾さ(か弱い老爺に労働を強いる)、そして首領クリークのような卑劣さ。それらがガスパーデという単一の悪意と化してルフィを襲撃する。麦わら帽子を破くところなんかはバギーそのものだったし。

 

本作ではルフィ以外の船員にさしたる戦闘シーンがない。しかしルフィとガスパーデの一騎打ちをつぶさに見ていくと、そこには船員たちの手助けの痕跡がちらほらと窺える。ガスパーデを倒すことができたのも、どう考えたってサンジの料理人知識とアシストのおかげだ。

 

ルフィはアーロンパーク編で「おれは(仲間に)助けてもらわないと生きていけない自信がある」と言ったが、まさにこの「仲間がいることに対する意識の有無」こそが同じ「自由主義」者のルフィとガスパーデを大きく分かつ。ルフィは基本的に自分のやりたいようにやるけれど、その根底には少しだけ他者への考慮がある。そのあたりの曖昧さがルフィのいいところですよねやっぱり。

 

北野武TAKESHIS’

北野武という監督は、監督である前にビートたけしというお笑い芸人である。お笑い芸人は社会や大衆の固定観念を基点にズレや反転といった差異を生み出す。そしてそれが笑いという現象に結実する。要するにお笑い芸人は常に社会や大衆を裏切り続けなければいけない。社会や大衆を常に裏切り続けたいという熱意が人をお笑い芸人という職種へと向かわせる、と言い換えてもいいかもしれない。

 

だからたとえそいつが何かの弾みで映画を撮ることになったとしても、さらに金獅子賞を受賞することになったとしても、はたまた興行収入30億を叩き出すことになったとしても、そうした地位や評価に安住することは許されないし当の本人が許さない。安住は笑いから最も遠い概念だから。

 

北野は演芸場やテレビの雛壇のみならず、映画というフィールドにおいても常に観客を裏切り続けることに腐心した。『その男、凶暴につき。』では深作欣二が血気盛んな雰囲気で撮り上げるはずだった脚本を内面の欠落した人間同士が無意味な殺戮を繰り広げるサイコホラーに仕立て上げた。『みんな〜やってるか!』ではそれまで築き上げてきたアート志向を一切合切かなぐり捨て、露悪と下ネタにまみれたナンセンスコメディを好き勝手展開した。そして本作の直前に撮られた『座頭市』では、「座頭市勝新太郎」あるいは「映画監督・北野武=金獅子賞を獲った芸術映画家」という定式を破壊すべく、北野本人が金髪の盲目剣士となって派手なアクション活劇を演じた。

 

この『座頭市』は思いのほか大衆に受け、北野作品で最も興行収入の高い作品となった。北野がかつて批評家筋に向かって「ちったぁ興行収入に影響するようなこと言えねーのか!」と苦言を呈していたことからもわかるように、本作のヒットは本来であれば喜ばしいことである…はずなのだが、ヘソ曲がりの北野はこんなわかりやすいアクション活劇がわかりやすく流行ってしまう日本の映画シーンに辟易する。

 

そこから3作にわたって北野の作家的自意識をめぐる難解で奇矯な芸術3部作が幕を開けるわけだが、本作はその第1作目にあたる。

 

物語らしい物語はなく、売れない役者志望の北野(以後金髪たけし)が現実と虚妄の境界線を幾度となく切り裂きながら自意識の無限回廊をあてどなく突き進んでいく。本作では各登場人物がそれぞれもう一人別の役を演じており、しっかり見ていないと誰が誰なのかわからなくなる。

 

ゆえに当然、本作を見た多くの人間が困惑したし、それまでは一貫して北野作品を称賛してきたヨーロッパの映画シーンもこれには閉口せざるを得なかった。いちいちエビデンスを挙げるまでもなく、このサイトでの本作の評価の低さが端的にそれを示している。カンヌでこれが上映され終えた瞬間なんか面白おかしくてたまらなかったに違いない。

 

とはいえ北野がたったそれだけのためにわざわざこんな妙ちくりんな構造の映画を撮ったとは思えない。じゃあ結局この映画は何なんだ?というと、それは北野武のきわめて個人的な戦いの軌跡なのではないかと思う。

 

北野武は東京の薄汚い下町に生まれ、父親はしがないペンキ職人だったという。しかし高校〜大学時代に新宿界隈に出入りしていたところ、ひょんなことからお笑い芸人になり、あれよあれよという間にお茶の間の顔、あるいは日本を代表する大富豪へとのし上がっていった。さながらアメリカン・ドリーム。

 

しかし北野はそこに実力以外の要素が多分に混入していたことを虚心に認める。もしあのとき新宿界隈にいなかったら、もしあのときお笑い芸人にならなかったら、そうした無数の偶然が重ならなかったなら、もともとが貧乏暮らしの自分に光明が差し込んでくることは未来永劫なかったかもしれない、という。当時既に売れっ子だったにもかかわらず「夢は捨てたと言わないで 他にあてなき二人なのに」などと売れない芸人の哀愁と感傷をアクチュアルに歌い上げる「浅草キッド」を作詞したことからもそのことは窺える。

 

ゆえに本作の金髪たけしは、ありうべき世界線の北野本人であるといえる。金髪たけしとは、もしかしたら50や60になっても小汚い和室のワンルームで孤独に生活を送る社会的弱者に落ちぶれていたかもしれない、という北野のオブセッション受肉体なのだ。

 

天運によってたまたま成功できただけかもしれない、という北野の疑念は、金髪たけしのような反-自分的な存在を生み出すのみならず、現在の自分自身をも侵犯する。本作には金髪たけしとは別に、現実世界の北野本人として劇中に売れっ子タレントの黒髪たけしが登場するのだが、彼の存在は映画の進行とともに次第に希薄になっていき、最後には金髪たけしと見分けがつかなくなる。

 

ここへきて「天運によってたまたま成功できただけかもしれない」という疑念は、より実存的な深みに落ち込んでいる。要するに、金持ちとか貧乏とか運が良いとか悪いとか、そんなのは結局のところ周縁的なものでしかなく、本当に重要なのは、それらを全て捨象したときに析出する「自分」がいかなるものであるのか?あるいはそもそも「自分」などというものが本当に自分の中にあるのか?という素朴だが実存的な不安だ。

 

そして北野は先述の通り、現在の自分(黒髪たけし)と可能世界の自分(金髪たけし)を対消滅させることによって何らかの化学反応をカメラの前に現出させようと試みた。思えば過去作への自己言及の多さも、過去の栄光を等しく無価値なものとして放り出す作業だったのかもしれない。序盤の米兵との睨み合いは初主演作『戦場のメリークリスマス』に酷似しているし、金髪たけしの部屋に貼ってある架空の映画ポスター『灼熱』は、もともと北野監督が『その男、凶暴につき。』につけるはずだったタイトルだし、どこかのスタジオに造られた沖縄式家屋は『ソナチネ』を彷彿とさせる(しかし主人公の男は『ソナチネ』の村川のように潔く引き金を引けない)し、冗長なタップダンスシーンは『菊次郎の夏』の後半部や『座頭市』の再演だ。

 

とはいえ結局のところ彼の戦いに明確な決着がついたとは思えない。序盤シーンとラストシーンを円環化させることで実存の問題を無理やり脇へどけたといった感じだ。北野自身も本作を失敗作であると明言してしまっている。しかし私としては、自身のあらゆるキャリアを放り捨ててでも実存の問題へ切り込もうとする北野の狂気を評価したい。また「キャリアの放り捨て」という社会や大衆に対するある種の裏切りに彼のお笑い芸人としての欲望が重なったことで、演出や編集に今まで以上の熱気と外連味がこもっていたようにも感じた。意味不明でも普通に映像として、あるいは運動として面白いから最後まで見れてしまうのが北野映画の素晴らしいところだ。

 

さて、彼のこの実存への問いは以降『監督、ばんざい!』『アキレスの亀』にわたって吟味されていくことになるわけだが、その辺の詳細はちょっと見直してみないとわかんないっすね…(燃え尽き)

 

⑦ジャファール・パナヒ『ある女優の不在』

曲がりくねった一本道を歩いていく大女優ジャファリ。そしてそれを追いかけていく少女マルズィエ。あるいは森の中で絵を描く元女優のシャールザード。パナヒはそれぞれ世代の異なる3人の女性に眼差しを向けるが、そこにはひび割れたフロントガラスや背の高い鉄網といった物理的な障壁がある。これらはそのまま男性と女性を分かつ断絶のアレゴリーといって差し支えない。

 

イスラム圏農村部に今なお巣食う強烈な男尊女卑思想は、大都市テヘランの心地よい匿名性によっておそらく忘れかけていたであろう性差問題への意識をパナヒに再認させる。パナヒは言葉や物理や暴力によって女性を家庭に押し込めようとする村人たちを目の当たりにし、自らの「男性」という属性に対する疑問を募らせていく。ゆえにジャファリがシャールザードの家に泊まったとき、彼は一人だけ車中泊という選択を取る。あるいはマルズィエを自宅に送り届ける際も、自分ではなくジャファリを同行させた。彼は男と女の懸隔におののき、そこから意図的に距離を取る。

 

しかし彼のこうした「何もしない」というのは結局のところ傍観を決め込んでいるという点において村の性差別主義者たちと大差ないんじゃないの、という批判はごもっともだ。それにパナヒ自身がそのことを一番よく自覚している。シャールザードがかつて映画監督に酷い仕打ちを受けたという話をジャファリから聞かされたとき、パナヒは少しも弁明せず、イランの映画業界にそういう暗部があったことを素直に認める。彼の苦々しい表情には、自身もまたそのような業界に属する人間の一人であることへの苦悩と罪悪感が滲んでいる。映画の中でさえ3世代にわたって続いてきた男尊女卑の罪禍が、一人の男の反省によって贖えるはずがない。だからこそパナヒは物語に、あるいは自分自身に安易な解答を提示しない。「さあ男も女も手を取り合ってみんなで踊りましょう!」みたいな欺瞞に決して陥らない。夜中、シャールザードの家で3人の女たちが楽しそうに舞踊する様子を、車中泊のパナヒが遠巻きに眺めるシーンは印象的だ。しかし、パナヒは本当に何もしていないわけではない。現に自らの作家生命も顧みることなくかくもControversialな映画を発表してみせたのだから。それが彼なりの「戦法」なのだ。

 

ジャファリとマルズィエが街へ出るための一本道を二人でずんずんと歩いていくラストシーンはやはり素晴らしい。二人が向かう先が希望であるのか絶望であるのか、それはまだわからない。しかし進んでいるということに意味がある。一方でパナヒはそれを停まった車の中から呆然と眺めている。フロントガラスには大きなヒビが入っている。マルズィエの奔放に怒り狂った彼女の弟が腹いせでそれをやったのだ。暴力によって女性を常に抑圧し続けてきた男たち。彼らは彼女たちがいなくなったとき、ようやく自分たちが全き停滞の中にあることを知る。暴力による支配をすり抜け未来へと向かっていく彼女らの背中を、彼らはフェンスやフロントガラスの手前からただ呆然と見送るほかない。

 

パナヒの作家的キャリアからして、本作における農村の差別的因習がイランの国家的不寛容に重ね合わせられていることは自明である。しかしそれだけのために知もなく財力もない農村を悪として描くこと(=都会の文化人である自分たちを正義として描くこと)はある種のエリート主義といえるのではないか?という疑問は当然ながらある。ではここで各位相におけるパナヒ自身の立ち位置を確認したい。まずは芸術家-イラン政府という対立位相。ここにおいてパナヒの立ち位置は芸術家である。両者の関係において圧倒的な権力を保持しているのはイラン政府であり、芸術家は常にその抑圧に喘いでいる。次に男性-女性という位相。ここではパナヒは男性であり、女性を抑圧する側に回っている。したがって二つの位相が重なり合う本作において、パナヒは一方では被抑圧者、一方では抑圧者というアンビバレントな存在として立ち現れる。「芸術家-イラン政府」というレイヤーに「男性-女性」という別レイヤーを並行させることで社会批判を行いつつも芸術を過度に高潔化しないという離れ業を実現してみせたパナヒ監督の手腕に脱帽する。

 

とにかく今年度はイラン映画に心酔した一年だった。アッバス・キアロスタミ桜桃の味』に始まり、アスガー・ファルハーディー、モフセン・マフマルバフ、マジッド・マジディといった名監督に巡り合うことができた。厳格なイスラム教国家のイランにおいては文芸作品への検閲もことのほか厳しい。しかしイランの作家たちはその網目を欺くような語りや演出を錬磨することで、真摯な受け手のみが感知することのできる表現空間を映像の向こう側に立ち上げる。抑圧があればあるほど文芸の芸術的価値も研ぎ澄まされていく、などと言うつもりはないが、そうした状況の中で独特な洗練を遂げていった彼らの語りや演出にはやはり瞠目すべきものがある。思えば先に上げた木下惠介テオ・アンゲロプロスも、彼らのような抑圧状況の中から自身の制作スタイルを確立していった作家だ。木下惠介は日本軍の監視下で数々の迂遠な反戦映画を撮り続けたし、戦後ギリシャの軍事政権下で近代ギリシャ史の批判的総括たる『旅芸人の記録』を撮ってみせた。俺もそういう真剣なニヒリストに早くなりてえ、と心から思う。

 

ジャン=リュック・ゴダール『はなればなれに』

もし物語的カタルシスだけが価値のある映画の条件なら、映画はとうの昔に文学によって駆逐されているに違いない。エクリチュールの饒舌に比してパロールはあまりにもたどたどしく拙い。しかし映画は言葉とは別に運動を有している。人間や動物や乗り物やあるいはカメラによる、言葉を超越した動きのダイナミズムがある。それこそが映画だ、と言い切ってしまってもいいかもしれない。一瞬で生成消滅する「運動」を逃すことなくカメラに収め、それを一流料理人のように流麗かつ大胆な手捌きでカッティングできる自信があるというのなら。

 

ゴダール映画の中では言葉が嵐のごとく乱れ舞う。それらは時に詩のように受け手の心に突き刺さり、時に無意味で難解なレトリックとして思考の稜線を滑り落ちていく。おそらく多くの受け手にとって、こうした言葉の、つまり物語のどっちつかずで不安定な手応えが「ゴダールはとっつきにくい」という苦手意識を生み出している。

 

だってわけわかんねーだろ、ふとした日常の話の中にランボーだのパウル・クレーだの毛沢東主義だのが唐突に混入して、しかも特に何も説明ないし、そういう物語的脱臼が延々と続いて、そんでこれがヌーヴェル・ヴァーグだとか開き直られたらハイそうですか死ねボケインテリがよ俺がバカやったわ殺してくださいと回れ右せざるを得ない。

 

しかし実のところ(いや、こんなことは蓮實重彦センセが何万何億回と繰り返し述べていることだろうけど)ゴダールは運動の人なのだ。彼の映画において言葉は、物語は、言ってしまえば添え物に過ぎない。小説でいえば、それまで一言一句を丹念に追っていた目線がスーッと滑っていくような、そういう他愛のない箇所。それゆえ彼の映画を見る際、はじめに着目すべきは言葉ではなく運動なのだ。目を見開き、スクリーンの上で何が起きているかを見る。

 

犯罪小説に憧れて強盗を企む3人組。彼らは唐突に夜のカフェで踊り出す。BGMに合わせ、軽妙なステップで延々と踊り続ける3人。しかし周囲の客はそれを歯牙にもかけない。すると突然音楽が止まる。カフェの環境音が戻り、3人の靴音がカンカンと鳴り響く。するとまた音楽が始まる。3人は踊り続ける。また音楽が止まる。始まる。延々と続く。

 

あるいはルーブル美術館での疾走。3人は9分40秒ほどでルーブルを一周したアメリカ人の記録を打ち破るべく、全速力で美術館を駆ける。おそらく撮影の許可などは取っていないのだろう、他の客は何事かと彼らを瞠目し、警備員は全力で彼らを止めにかかる。

 

あるいは隘路をグルグルと回る小さな車。庭先をあちこち野放図に駆け回る子犬のように。

 

あるいはオディールを柱越しにやんわりと抱くフランツ。

 

あるいは「キスの仕方がわかるか?」と問われてベッと舌を出すオディール。

 

それらの鮮烈な運動のフラグメントは、物語からも演出からも隔絶したところで営まれる断続的なモンタージュによってより一層輝きを増す。石井聰亙『爆裂都市』が「暴動の映画ではなく映画の暴動」であるとするならば、本作はさしずめ「映画のフリージャズ」といったところか。そこでは言葉や物語といった旧弊なコードは後退し、運動の身体的な享楽と解放感がいきいきと現前する。

 

思えばヌーヴェル・ヴァーグとは、メロドラマ的な物語と壮大な音響によって受け手を催眠術的に陶酔状態へと陥れるような旧来の映画作品に対する反感をその推進力としていた。そして本作は、それまでのクラシックな「映画」の要件を抜きにしても映画が成立することを、男や女や車や街やカメラやカッティングの荒唐無稽で自由闊達な運動によって示した。

 

要するに、ゴダール映画の物語に馴染めずに途中で寝落ちても、それをシネフィル的怠慢と気負って落ち込む必要などはそもそもなかったということだ。うつらうつらとわけのわからぬまま見終わって、それでもあそこのショットはよかったな、と一つでも心に刻まれる一瞬の運動があれば、それでもう十分なのかもしれない。てか映画って本来そういうモンですよね。リュミエール兄弟もそう思ってると思うよたぶん。

 

というわけでここへきてようやくゴダール映画の見方がわかった気がする。ちょっとだけ。マジでちょっとだけ。でも『イメージの本』とか何だったんですかね。愚かな俺に教えてくれ、ゴダール、おい、安楽死なんかしとる場合ちゃうぞ、さっさと蘇ってゾンビ映画撮れ。

 

ルイ・グエッラエレンディラ

マジックリアリズム」という用語が示す通り、ラテンアメリカの文芸では現実と夢想が厳格に区別されない。言ってしまえばナラティブが紡ぎ出すリアリティにこそ至上の価値が置かれている。ラテンアメリカ文学はある時期に世界的なムーブメントをみせたが、その中でもガルシア=マルケスほど存在感のある作家はいないだろう。マルケスの小説はとにかく長い。『百年の孤独』も『コレラの時代の愛』も読むのにかなり苦戦した覚えがある。にもかかわらず最後まで読ませてしまう求心力がある。言うなれば親戚のオッサンが酒の席で語る四方山話という感じ。ハイハイそうだったんですね、と話半分に聞いていたはずがいつの間にかのめり込んでいる。そこには誇張がある。ウソか本当かわからない話が混じっている。魔法を使うジプシーとか、50年もの間一人の女に貞操を捧げ続けた男とか。しかしそれらのエピソードが形作るナラティブには事実を超越した真実性がある。

 

マジックリアリズムは単なる一つの文学的方法論とみなされることも多いが、その根底には文学的な問題意識というよりは、もっと素朴で普遍的な、「語る」という行為に対する欲求があるように思う。何かを語りたい、そしてそれを誰かに聞いてもらいたい、という欲求。ラテンアメリカ文学において現実と夢想が混同されるのも、現実のみ(あるいは夢想のみ)を語るのでは立ち現れ得ないリアリティを描き出すためなのかもしれない。

 

さて、本作はマルケスの中編『無垢なエレンディラと無情な祖母の信じがたい悲惨な物語』を原作としている。ガルシア=マルケスの、ひいてはラテンアメリカ文学の心づもりをきわめて精緻に汲み取った素晴らしい映像化作品だったと感じた。蝶が壁のシミになったり、恋に落ちた青年がガラスの色を変える力を会得したり、ミカンを割るとダイヤモンドが現れたり、毒を盛っても爆破しても死なない老婆が出てきたり、マジックリアリズム的な摩訶不思議世界がとめどもなく展開されていく。しかし美麗な画面構成・演出ゆえ、それらが不毛なシュールレアリスムに陥っている感じがまったくない。これはかなり重要なことだ。

 

確かに、現実と夢想をごちゃ混ぜにすればそこには道理を外れた何らかの差異が生じる。普通であればそれは自然にシュールな笑いへと転化するのだけれど、ラテンアメリカカルチャーにおける「語り」はそういう小手先の笑いであってはならない。現実だろうが夢想だろうが語られるできごとはすべてがシリアスな真実なのだから。

 

さて、本作の物語の主題は何か。かなりシンプルではあるものの、それは「親子という呪い」だろう。不注意から火事を起こした孫娘エレンディラと、彼女に売春による贖罪を強要する祖母、という構図はまさしく不健康な毒親家庭と呼ぶに相応しい。エレンディラははじめ、愛によってこの呪いを逃れ出ようとする。彼女は自分を連れ出しにきた青年(彼もまた毒親に悩んでいる)と共に家を飛び出すが、その途中で芸術家の男に「あんたは死と愛を取り違えてるよ」と忠告される。男の忠告通り、逃避行は失敗に終わる。おそらく彼女はもはや自分がどうなろうと構わないと考えていたのだろう。逃避は彼女の緩やかな自殺行為だった。しかし祖母の呪いは希死念慮をも貫通して彼女を引き戻してしまう。

 

やがて祖母の過去が明かされる。彼女は愛した男にこっぴどく裏切られたことがあったのだという。それ以来心を閉ざし、自分を無底的に肯定してくれるエレンディラに依存するようになったのだ。おそらく冒頭でエレンディラが引き起こしてしまった火事もまた、マジックリアリズム的に解釈すれば、祖母の激烈な依存心の物理的現出なのではないかと思う。

 

いよいよ祖母の重圧に耐えきれなくなったエレンディラは青年と結託して祖母を殺そうとする(殺す、という選択肢を採択できるあたりがラテンアメリカ圏の倫理観だなあ…と思う)。しかし祖母は毒を盛ろうが爆破しようがなかなか死なない。このとき祖母は「親の呪い」そのものの象徴であったといっていい。したがってエレンディラも青年も彼女を殺せない限り、永遠に家族の呪いから抜け出せない。最後は青年の執拗な刺突によってようやく祖母は事切れるのだが、その血液はおぞましいほどに真っ青だった。愛こそが人間の条件であり、それを失ったものは化物に成り果てる他ない。

 

喜びも束の間、エレンディラはうろたえる青年を突き飛ばすとそのまま砂漠の彼方へと走り去っていく。かつては己の「死」によって呪いの円環から脱しようとしていた彼女だったが、今やその正反対である「生」に向かって一心不乱に駆けていくのだった。なぜ彼女が青年を見捨てる必要があったかといえば、愛を実現するためにはまずは自分が生きなければいけないからだ。森羅万象の根源に「生」が規定されているさまは正しくラテンアメリカという感じがする。亜熱帯の重密な空気に育まれるパッショネイトな生命神秘。そういうものが息づいている。ドイツの名匠ヴェルナー・ヘルツォークが『アギーレ/神の怒り』『フィツカラルド』を通じて南米の密林に執心していた理由が、その一方で高度経済成長に湧く日本の摩天楼を無価値としていた理由がなんとな~くわかった気がした。半分くらいはオリエンタリズムなんだろうけど。

 

現実と夢想の織り成すカオス、そして生の躍動。フィルムを通してラテンアメリカカルチャーの熱気をじかに感じることができる一本だった。

 

⑩スチュアート・ローゼンバーグ『暴力脱獄』

ハリウッド黄金期のアメリカ映画には「世界の正義を牽引する民主主義国家」というアメリカの国家的自意識が反映されており、それゆえに力強くわかりやすい物語を湛えた作品が数えきれないほど生み出された。しかしベトナム戦争アメリカの自意識が根底から揺らいだとき、それと軌を一するようにアメリカの文芸にも大きな揺らぎが生じた。映画の場合、それはアメリカン・ニューシネマというムーブメントとして表出した。そこではもっぱら「苦悩する若者」という表象においてアメリカが掲げる「正義」なるものの暴力性や空虚さが暴き立てられた。

 

ただその中には、名作と呼ばれているものの、実のところ国家や権力に対する異議申し立て以上の射程を持たない作品が少なからず存在していた。しかしそれだけでは当時のアメリカを覆い尽くしていた不安の本髄に触れたことにはならないのではないかと私は思う。ではこの不安の正体とはつまるところ何であるのか?その疑問に真っ向から対峙したのが本作だ。

 

主人公のルークはパーキングメーターを破壊した罪でフロリダの刑務所に収監される。ルークはその超然とした佇まいで囚人たちに気に入られ、看守たちともそこそこ円滑な関係を構築していく。しかし刑期満了目前のある日、彼は突如として刑務所を脱走してしまう。彼は刑務所に連れ戻され、それなりの処罰を受けるが、性懲りもなく二度目の脱走に及ぶ。彼がなぜ脱走するのか、その理由はまったくといっていいほど語られない。ただ一つわかることは、ルークが「自由」の求道者であるということだけだ。

 

ルークが去ってからしばらく後、獄中の囚人たちにルークから便りが届く。同封されていた写真には両腕に美女を抱いた彼の姿があった。囚人たちは彼の「自由」な生き様に惜しみない称賛を送る。直後、ルークが再び刑務所に連れ戻されてくる。彼は看守から度重なる拷問を受け続け、ついに心が折れてしまう。情けなく看守の足に縋りつき「改心します」と泣き喚く彼を見て、つまり「自由」を手放してしまった彼を見て、囚人たちは深く失望する。しかし彼は作業用トラックで三度目の脱走を果たす。囚人仲間であるドラグラインも一緒だった。意表を突かれた看守たちは総出になって彼らを追い詰める。逃走ルートを発見したドラグラインはルークに一緒に来るよう持ち掛けるが、ルークは悟りきったような表情で首を横に振る。このとき彼は「内側も外側も同じなんだ」というようなことを言う。

 

どれだけ「自由」を求め彷徨っても、そんなものはどこにもない。刑務所とシャバという二項対立を仮想し、それぞれを「内側」「外側」と区切ってみたところで意味がない。それは言うなれば「どこへ行っても同じである」という虚無的真実を隠蔽するための言葉遊びに過ぎない。彼は「反権力」「反国家」といったお題目のさらに先にある、絶対無の地平を見てしまったのだ。「諦めんなよ!」としつこく食い下がるドラグラインに「俺だって頑張ってみたさ」と弁明するルークの笑顔はまるで能面のように生気が抜けている。

 

いよいよ追い詰められたルークが最後に辿り着いたのは田舎の古びた教会の中だった。無神論者であるはずの彼は、最後の望みを賭けるように、そこにいるはずの神に語りかける。この世界が内側も外側も存在しない地続きの虚無であることを知ってしまった彼にとって、宗教は最終最後の拠り所だった。しかし神は何も答えない。そして一発の銃弾が彼の心臓を貫いた。

 

エピローグで刑務所に送還されたドラグラインがルークの武勇伝を他の囚人に語って聞かせるシーンはことさら印象深い。彼らはルークを権力に対する勝利者であると称えるが、これは冒頭で述べたような、作品の射程が「反国家」「反権力」の表明で止まっている一部のアメリカン・ニューシネマと同等の位相にある。

 

しかしルークは、あるいは本作はそこが最終地点ではないことを知っている。彼の諦観めいた双眸の先には、国家も権力も戦争も自由も宗教も何もかもが等しく効力を持ちえない絶対無の地平が、ただただ広漠と広がっているばかりだ。思えばあれだけ隆盛を極めたアメリカン・ニューシネマが、10年もしないうちにスティーブン・スピルバーグジョーズ』のような大作主義に呑み込まれ、消えてしまったというのは、本作以降のアメリカン・ニューシネマがポスト国家・ポスト権力時代の具体的な地図を描き出せなかったことに原因があるのではないかと私は思っている。

 

~おわり~

 

来年もいっぱい映画を見るぞ!オー。