美忘録

羅列です

映画レビュー自選10本

こんちわ因果だよ!某感想投稿サイトに映画のレビューをポツポツ上げてるのでその中からイイ感じのやつを10本くらい転載しちゃいます!

 

1.高畑勲おもひでぽろぽろ』(1991)

「マジに田舎でやってけんの?」星2.5/5

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タエ子はトレンド最前線の姉たちにやや気圧され気味ではあるものの、根っからの東京生まれ東京育ち。そんなシティーガールが「田舎はいいなあ」みたいなうっすらとした憧憬を片手に山形の農村へ出向けば、そこに元々住んでいる人々との根本的ギャップが露呈してくる。

タエ子は農村の風景を小学5年生の頃の周囲の空気と重ね合わせる。すべてが曖昧に滲んでいて、いいことであれ悪いことであれ心の琴線に触れるようなできごとだけが存在する美しきノスタルジーの世界。

だけどこんなアレゴリーは田舎ネイティブの人々からすればたまったものじゃない。それは要するに田舎の都合のいい神聖化だ。田舎には都会のようなせせこましさも退屈さもなくて、野や花に囲まれた美しい生活だけがある、という。

トシオをはじめとする農村の人々は、タエ子を手厚く歓迎しはするものの、彼女の浅薄なノスタルジー消費にうっすら勘付いている。トシオは山や畑を指差して「これは全部人間が作ったものだ」と言ったが、ここにはタエ子の幻想に対する反感が込められている。

さらに追い打ちをかけるかのように、本家の親戚たちが「トシオに嫁入りしないか」と打診してくる。ありありと突きつけられたムラ社会の論理に、タエ子はたまらず家を飛び出す。村外れまで逃げおおせたところで結局偶然通りかかったトシオの車に拾われてしまうあたり「逃れられなさ」が強調されていてつらかった。

車中では小5のときの隣の席の「あべくん」という男の子の話が出てくるのだが、これまた田舎のアレゴリーとしてはこの上なく酷い。あべくんは貧乏で性格がひねくれており、クラス中が彼のことを嫌っていた。そんな中タエ子だけは嫌悪感をできるだけ露わにしないよう努めていた。しかし彼が転校することになってみんなに一人ずつ握手をしようという段になると、彼はタエ子にだけ握手をしてやらなかった。

タエ子はこれについて「私が誰よりもあべくんのことを嫌っていたからだ」と懺悔し、それをトシオが「男は好きな女にこそそういう意地悪をしてしまうものだ」とフォローする。それはそうとこの期に及んで「貧乏で性格の悪いあべくん」を田舎の人々のアレゴリーに用いてしまうタエ子はやっぱり根本的に都会人であるし、田舎暮らしには向いていないように思う。

しかし彼女は駅でトシオたちと別れたあと、東京に向かう電車を途中で折り返して彼らの元へ戻る。つまり田舎に嫁ぐことを決意したわけだ。その決断の是非についてとやかく言うつもりはないが、今までさんざっぱら家父長制的な圧力に自由を阻害されてきたはずの彼女が、より強大で旧態的な差別構造を根本に持つであろう田舎暮らしのリアリズムをサバイブすることができるのかと思うと少し不安になってしまう。

 

2.フランク・キャプラ素晴らしき哉、人生!』(1954)

「魔法であって何が悪い?」星3.5/5

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クリスマスイブの夜。自社の終焉を悟り絶望の淵に沈みかけていた主人公ジョージだったが、普段の善行が幸いし、彼は周囲からの資金的あるいは精神的援助によって奇跡的な再生を遂げた。友人知人の喝采を受け、フェリーニ8 1/2』のラストシークエンスを彷彿とさせるような大団円でこの映画は幕を閉じる。反面、ジョージを欺いた悪徳長者のポッターに関しては、その後の破滅や転落はおろかそもそもいかなる描写さえされないという重罰を受ける。施す者と施さざる者の鮮やかすぎる二項対立、信賞必罰。いい奴はいい奴、悪い奴は悪い奴。

私はあまりにもストレートすぎるヒューマンドラマが正直言って少し苦手だ。常に見る側の倫理が試されている感じで、そこから零落することがあたかも非人間の証明となるかのような心苦しい緊張感がある。そういう意味では深い教養やら知性やらが試される「芸術映画」のほうがよっぽどマシな気がする。教養や知性は人生をさらに高質な何かへと昇華させるスパイスに過ぎないが、倫理は人生そのものといっても過言ではない。そんな倫理がもし自分に備わっていないと知ってしまったら、我々に生きる意味があるのだろうか、などと考えてしまう。

とはいえジョージたちの人物像があまりにもステレオタイプに過ぎる、という批判を加えることによってこの映画に描き出されているものが倫理のふりをしたおざなりの二極化主義に過ぎないことを強引に喝破することも可能かもしれないが、そんなことにあまり意味はない。彼らはいかにも平板で、お調子者で、ご都合主義的なステレオタイプの有象無象かもしれない。しかし無機的な人工物であるようにも思えない妙なリアリティがある。

たとえばジョージの行動を見ていると、私はまるで自分の鏡像を眺めているかのような錯覚に陥った。根はそんなに悪くない奴で、普段から愛想を振りまいていて、時には中途半端に啖呵を切って弱者の味方なんかをしたりするけど、不意の挫折が訪れると途端に取り乱して、つい周囲の人やモノに棘のある接し方をしてしまう。そうそう、こうなっちゃうことあるんだよ、いやほんと、単純すぎて自分でも嫌になるんだけど。

おそらくこのように登場人物について「これは俺だ」と思い込んでしまった瞬間が我々の敗北であり、あとは有無を言わさず終幕まで引っ張り込まれてしまう。「倫理に乗るか反るか」などという入り組んだ議論はそもそもすっ飛ばし、最短経路でこちらの襟首を掴んで倫理の世界に引き込む圧倒的な求心力こそがこの映画の正体だといっていいかもしれない。いい奴はいい奴で、悪い奴は悪い奴だというこの映画の安易な倫理に乗るつもりはないが、少なくともこれを見ている間だけは、私はそれに乗っていた。言うなれば「映画の魔法」的なものにかけられていたように思う。

今これを書いていて、改めてジョージたち登場人物に本当にリアリティなるものがあったか考えてみると、不思議なことにそんな気はあまりしない。ジョージも少しずつ私のパーソナリティから遠ざかっていく。やはりこれはある種の魔法だったのだな、と思う。しかし魔法であって何がいけない?人道を踏み越えない限りにおいて、それはフィクションという媒体のきわめて重要な意味だ。

 

3.伊丹十三タンポポ』(1985)

「コメディの裏側で・・・」星4.5/5

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斜陽のラーメン屋を女手一つで切り盛りするタンポポの生き様に惚れ込んだタンクローリー運転手のゴローが、美食家の浮浪者や名家お抱えの料理人を味方に引き込みながらなんとか彼女のラーメン屋を再興させようと奮闘するさまをスラップスティックに描いたコメディ映画だ。

伊丹十三といえば処女作『お葬式』を尊敬する蓮實重彦に「ダメです」と一蹴されてしまったエピソードが有名だが、本作はそんな『お葬式』に続く2作目にあたる。それを踏まえたうえで本作に臨むと、女店主タンポポの姿が伊丹十三本人に重なるような気がしてなんとも切ない。

ラーメンという食べ物はおそらく庶民性や大衆性の暗喩である。全力でコミットする女店主タンポポは芸術のコードを降りてエンタメへと没入していく伊丹十三そのものだ。

途中、心ない同業者に「この素人め!」とケチをつけられたタンポポが「ラーメンっていうのは素人が食べるものでしょうが」と反論するシーンがあるが、ここにも『お葬式』のような蓮實重彦のような評論家の審級を主眼に置いて制作したある種の芸術映画から『タンポポ』という大衆に開かれたコメディ映画に伊丹の作風が転向したことが示されているといっていいかもしれない。

また、タンポポとゴローらによる復興譚が語られる一方で、幕間に官能的でアバンギャルドな色にまつわる挿話が挟まれるのだが、ここには芸術映画を完全には捨てきれない伊丹十三の未練が垣間見える。おそらく蓮實重彦に『お葬式』を棄却されなかったならば、こちらの挿話こそがこの映画の本流となっていたように思う。

これらの挿話は突然始まったかと思えば突然終わり、何事もなかったかのようにタンポポの物語へと戻っていくが、このとき挿話は間の抜けたアイリスアウト(画面を丸く閉じながら暗転させる手法)によって遮断される。「ハイハイ芸術主義はここまでですよ(笑)」と無理やり冷笑している伊丹十三の姿が目に浮かぶようで切ない。

現実/非現実を自由自在に往還するスラップスティックコメディとして完成度がきわめて高い一方、その裏側に伊丹十三の個人的な挫折と再生が伺えるメルクマール的な一作といっていいだろう。

途中で出てきた海女の女の子がやけに綺麗だなあと思ったら黒沢清ドレミファ娘の血は騒ぐ』の洞口依子だったらしい。好き…

 

4.内田吐夢『血槍富士』(1955)

「血染めの長槍」星4.5/5

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山中貞雄『人情紙風船(1937)』と川島雄三幕末太陽傳(1957)』を彷彿とさせる「時代劇×群像劇」の隠れた名作。とにかくどこに行ってもDVDがないのではるばる渋谷のTSUTAYAまで出かける羽目になった。

本作が(というか上記の3作が)単なる出来合いのヒューマンドラマよりもよっぽどメモラブルなのは、喜劇の中に悲劇を織り込む試みを違和感なく成功させているからだろう。

本作では槍持ちの権八を中心にめいめいの人間模様が群像劇として展開されていくが、それらの基調を成すのは性善説的なヒューマニズムだ。

身寄りのない少年の動向を絶えず気にかける権八、泥棒を発見したという子供の話を疑いなく受け入れて捕物に協力する周囲の大人たち、身銭を切って他人の娘を女衒から買い戻す藤三郎、侍社会の差別的な主従関係の有り様に疑義を呈する権八の主君。

それらはモノクロの映像の中に温かな血液を感じさせてくれるようなヒューマニスティックな人間として描かれている。

しかしながら一方で『血槍富士』などという物騒なタイトルからもわかるように、この映画はただのヒューマンドラマに終始しない。

終盤、権八の主君はもう一人の家来である源太を酒屋に連れ出す。主君は差し向かいで日本酒を傾けながら先の主従関係論を開陳する。

するとそこにいかにもガラの悪い侍たちが三々五々連れ立ってやってくる。侍の一人が源太に向かって「下僕の分際で主君と酒を交わすなど」と悪意を吐き散らす。案の定喧嘩が勃発し、2人は侍たちに切り捨てられてしまう。

川辺にいた権八は主君の窮地に急いで馳せ参じるも、時すでに遅し。彼は復讐の鬼となり5〜6人の侍たちを長槍一本で圧倒する。

結局、権八の行為は主君の敵討ちという名目で処罰を免れたが、彼の表情には以前のような人情味はもうなかった。坂道の稜線に向かって一度たりとも振り返ることなく、一人ぼっちで歩いていく彼の背中。それを冷酷な俯瞰構図で捉え続けるカメラ。このとき、我々は喜劇の内側に徐々に織り込まれていた悲劇をアクチュアルに体感する。

喜劇というとっつきやすい間口から針のように細く鋭い悲劇へのシームレスな転換。しかしそれはジャンプスケアのように唐突なものではなく、むしろ初めから埋め込まれていたものだ。

我々はとりとめもない喜劇に乗っていたつもりで、実はシリアスな社会問題や人間哲学を踏んづけていたのだ。それは「起きた」のではなく「あった」のだ。それに気がついたとき、笑いは実感覚を伴った深い反省へと変わっていく。それも、笑ったぶんだけ。(これは言わずもがな、上述の『人情紙風船』と『幕末太陽傳』にも共通している)。

そういえばコッポラ『地獄の黙示録』もTHE・ハリウッド!といった感じのド派手なアクションスリラーに始まるものの、ベトナムの川を遡上していくにつれて問題意識が徐々に内向的・思弁的な領域へと沈み込んでいく、という不思議な転換を遂げる映画だった。

とはいえ『血槍富士』は『黙示録』ほど受け手を置き去りにはしない。ラストシーン、浮浪児の少年は槍持ちの権八に「ぼくも連れてってよ」と懇願する。しかし権八は「槍持ちなんかになっちゃいかん」と少年を峻厳に諭す。

少年は去りゆく権八の背中に向かって棒切れ(=少年にとっての「長槍」)を投げ捨て「バカヤロー!」と叫び、泣き散らす。

少年には権八の胸中に巻き起こったカタストロフィが、ひいてはこの映画が喜劇であることをやめ、明確な悲劇へと転換してしまったことをうまく理解できない。だからそのような態度に出ざるを得なかったのではないか。

我々は少年の「裏切られた」という素朴な悲しみにまず共鳴する。そこから画面に大写しにされた道を目で辿り、その稜線に消え去った権八の背中に、そしてその胸中にも想いを巡らせる。このように「段階を踏ませてあげる」的な優しさが本作にはある。そこがいい。

また、終盤の殺陣シーンは所々チープな箇所はあれど、きわめて迫力に溢れている。黒澤明七人の侍』やペキンパー『ワイルドバンチ』のような、恐怖と躊躇と覚悟がグチャグチャに混じり合った泥臭さ。まあ、公開年次を鑑みるにおそらく『七人の侍』からインスピレーションを得たのだとは思う。

 

5.エドワード・ヤン台北ストーリー』(1985)

「台湾、日本、アメリカ」星4/5

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アリョンは大いなる外部としてのアメリカに憧憬を抱いている。無機質で陰鬱とした台湾を抜け出すことが、自身の人生に何らかの好転をもたらすのではないかと考えたのだ。

一方で主人公のガールフレンドであるアジンは台湾から離れようとしない。経済成長の真っ只中にある当時の台湾においてはまだまだプリミティブな差別意識も根強く、彼女もまたその犠牲者の一人だった。しかし彼女は地理的な横移動に解決を求めようとせず、あくまで内部からの変革を目指し続けた。

とはいえアリョンとアジンの関係は単純な二項対立に終始しない。というのも、アリョンの心境には大きな揺らぎがあるからだ。

彼は国外逃亡を画策する一方で、友人や親族といった土着的価値を完全に捨て去ることができない。貧乏な友人にお金を渡したり、アジンの父親に多額の融資をしたり、内輪的なものに対してはやけに寛容な態度をみせる(そしてそのせいで経済的に破綻する)。

アリョンにとってアメリカとは、おそらく理想の終着駅である。そこではすべてが思い通りになる。彼の義兄が白人専用居住地に一軒家を構えたように。

しかしそこへ辿り着くためには、非アメリカ的なものは一切合切放棄する必要がある。けれど彼にはそれができない。どっちつかずな彼の態度は、彷徨の果てに日本へと不時着する。

80年代といえば、日本が世界で最も存在感を誇示できていた時代だ。アメリカの次に勢力のある国はどこかと問われれば、おおかた「日本」という答えが返ってきたことだろう。

アメリカに次ぐものとしての日本。このとき台湾は日本よりさらに下位に置かれることとなる。そして台湾がアメリカに肉薄しようと思えば、日本を超越しなければならない。土着的価値を捨てきれないアリョンは、したがってアメリカまでは手が届かず、日本で行き詰まる。

富士フイルムの巨大な電光掲示板、テレビに映る日本のCM、演歌の流れるカラオケボックス。それらの光の彼方にはアメリカの影が投射されている。アリョンはそれを追い求める。しかしそれはしょせん幻だ。日本はどこまでもアメリカの未完成形であり、経由地点に過ぎないのだ。

話は逸れるが、台湾・香港は自国がサイバーパンク的なある種のオリエンタリズムによって消費されていることにきわめて自覚的な国だと思う。日本の『AKIRA』『Ghost in the shell』はアジア=サイバーパンクのイメージを全世界に根付かせた元凶であるし、アメリカがそういった単純なイメージを消費・再生産する側であることは『ブラック・レイン』『オンリー・ゴッド』などからも明白だ。

一方でエドワード・ヤン『恐怖分子』、あるいはウォン・カーウァイ恋する惑星』『天使の涙』、ツァイ・ミンリャン『楽日』あたりは自分たちが世界からどう消費されているのかを自覚したうえでサイバーパンク的文脈を展開している感じがある。

殊に本作はその傾向が強く、なおかつそれが作品の主張とも繋がる。アリョンが夢見るアメリカが幻想であるようにアメリカが夢見るサイバーパンク都市「アジア」もまた幻想に過ぎないのである、ということを、本作は台北の過度なサイバーパンク的描画によってアイロニカルに暗示しているのだ。

話が逸れてごめんなさい。

そういえばアリョンが少年期に野球チームのエースだったという設定も、アメリカ→日本→台湾というヒエラルキー如実に喩えている。野球というスポーツにおける最終地点もまたアメリカのメジャーリーグだ。

結局、アメリカに辿り着くことが経済的にも精神的にも不可能であると悟ったアリョン。浮気相手と日本で落ち合うくらいが関の山だと悟ってしまったアリョン。彼が誰もいない路上で恋敵に刺され、そのまま命を落としたことは物語的必然といえるだろう。

一方でガールフレンドのアジンは、当時の台湾に内在的な諸問題(差別、リストラ等)に悩まされつつも、最終的には女上司と共に新たな会社を興す。台湾という土地に絶望しながらも、最後まで逃避という選択肢を選ばなかった彼女の粘り勝ち、といったところか。(そういえばソン・インシン『幸福路のチー』も同様のテーマだったことを思い出した。)

ただ、アジンのこれから先の人生に明るい展望が拓けているかといえば、そうとは言い切れない気がする。アジンが曇天の摩天楼から眼下の道路を見下ろすラストシーンに、私は強烈な不安のイメージを感じた。そしてその道路はたぶん、アリョンが事切れたあの峠道にも続いているはずだ。

 

6.藤田陽一『劇場版銀魂 完結編 万事屋よ永遠なれ』(2013)

「概して心地良い混線」星4/5

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「新訳 紅桜篇」に次ぐ『銀魂』2度目のアニメ映画。今回は原作者である空知英秋の監修したオリジナル脚本が展開される。

小噺チックなメタ描写(映画泥棒のくだり)がシームレスに物語の本流(時空渡航SFサスペンス)へと接続されていくという突飛な物語展開を何の説明や留保もなくすんなり受け入れられるのは、やはりこの映画が「銀魂」だからなのだと思う。

銀魂はメタ描写こそ多いが、それを決して特権化させない。物語世界の天井に穿たれたメタ位相は、眼下の物語を冷静に分析したり批評したりしない。いや、それどころかメタ位相のほうがかえって物語位相に飲み込まれてしまうことだって多々ある。この映画の冒頭のように。銀魂におけるメタ描写とは、下ネタや天丼ネタと同様に、素朴なコメディの手段の一つに過ぎない。

いや、もっと言えばコメディすら手段の一つなのだ。銀魂においてコメディとシリアスは厳格に弁別されていない。しょうもない話題から死人が出たり、殺伐とした剣戟の最中に間の抜けた笑いがあったり、要するにすべてが緩やかに繋がっている。何か一つが特権を有することがない。全力の脱力、それが銀魂だ。

このトーンは本作でもしっかり踏襲されており、心地よいメタと下ネタと涙と剣戟の応酬が展開される。時空渡航というコテコテのSFサスペンスをも問答無用で私物化してしまう「銀魂」文脈の力強さを改めて実感できるだろう。

とはいえ真選組から吉原から攘夷志士までメインないしサブメインキャラクターたちがこれでもかというほど登場するのでややカロリー過多であることは否めない。ラスボスも単なる悪のイデアとしてしか機能しておらず、その点においてカタルシスも薄い。

コメディとシリアスの混線こそが銀魂の妙味ではあるのだが、それにしたってもう少しコメディに振ってしまってよかったんじゃないかと思う。ラスボスにボケさせるとか。

ラストでは世界線是正の影響で登場人物たちが一人一人消えていくのだが、いくら元の世界で再会できるとはいえ、ここでしんみりした雰囲気に全く陥らないのは本当にすごい。その程度の物語的暴力では俺たちゃ痛くも痒くもならねェぞ、という登場人物たちの剛気を感じた。

 

7.イ・チャンドンペパーミント・キャンディー』(1999)

「見事な逆転」星4.5/5

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物語はヨンホという男が陸橋を走る電車に身を投げるところから始まり、過去に向かって少しずつ後退していく。これがクリストファー・ノーランメメント』より1年前の作品だというから驚きだ。

物語序盤、つまりヨンホの人生の末期において、彼の性格はとても歪んでいる。憔悴している。苛立っている。すべてを失っている。そしてそれらの集大成として自殺がある。なぜヨンホはこのようになってしまったのだろうか?というプロセスへの疑問がこの映画のサスペンスとなって「過去」という名の未来を切り開いていく。

物語が列車のアレゴリーとともに過去へと進んでいくにつれ、ヨンホの性格は少しずつ精彩を取り戻していく。しかしどの時代区分においても彼の性格を歪ませる原因となるようなできごとが彼を襲う。その大抵が、彼本人の力ではどうしようもないようなスケールのものばかりだ。裏切り、仕事、兵役。

またそういったものに憔悴させられすぎたあまり、彼は取りこぼさずに済んだかもしれないものまで取りこぼしてしまう。些細な悪意から初恋相手のスニムとの関係に終止符を打ってしまったシーンなどはこちらまでやるせのない気持ちになる。

総じて見れば彼の性格は徐々に回復の一途を辿っているにもかかわらず、物語には常に暗澹たるトーンが漂っている。囚われた鳥がケージから飛び立とうとしたまさにその瞬間、振りかざされた網に捕らえられてしまうかのような歯痒い絶望感。

このように我々は時代を遡行するごとにヨンホの性格を歪ませてしまった原因を一粒一粒拾い集めていくこととなるのだが、これはヨンホの精神状態の推移とまるきり逆行している。ラストカットの清純たる彼の若い姿を見つめながら、我々はそのギャップにひたすら途方に暮れるしかない。

とはいえ最も印象深いのは、終盤で川べりの景色を眺めながらヨンホが放ったセリフだ。「この景色は前にどこかで見たことがある」。

この川べりの景色とは言わずもがな、映画の冒頭でヨンホが投身自殺を図ったあの陸橋と同じ場所だ。若きヨンホはそこで不可解な既視感に襲われる。彼がこのような感慨に至った理由は何だろうか?

身勝手な憶測とは承知の上だが、私はこれを現在と過去の位相転換であるように思う。

この物語は、現在のヨンホが走馬灯的に辿った追憶の軌跡だということができる。つまりそこで開陳される彼の過去というのは、あくまで現在の彼が思い浮かべる幻影に過ぎない。しかし過去の最後の一コマである若き日のヨンホは、一度も訪れたことのないはずの川べりで既視感に襲われる。あまつさえ意味深な涙さえ流す。まるで来たる未来における自分の死を予感したかのように。

回想される客体でしかなかった過去が、回想する主体である未来(つまり現在)を思い浮かべている、という逆転現象。いつの間にか物語の主導権が現在から過去へと移譲されている。

これによって出口のないこの物語の暗雲に一縷の光が差し込む。「救いようのない末路を辿る現在のヨンホ」が「過去のヨンホがなんとなく感じた幻肢痛」へと後退したことで、現在のヨンホのほうが非現実の存在となるのだ。そして記憶の中の、つまり過去のヨンホが現実の存在となる。平たく言えば「夢オチ」というやつだが、ここまで見せかたが上手いと肩透かしの感は微塵もない。よしんば夢オチだとして何が悪い?これは虚構なのだ。

見始めたときこそ「現在→過去という進行形式に必然性はあるのか?」と訝しげな私だったが、これでは否が応でも平伏せざるを得ない。韓国社会のリアルを抉り出す社会派映画であると同時に、物語位相を自由自在にコントロールする巧みなトリック映画でもあるといえるだろう。

 

8.小林啓一『ももいろそらを』(2013)

「いづみ人間宣言」星4.5/5

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いづみは車寅次郎を彷彿とさせるべらんめえ口調の女子高生で、何事につけても茶々を入れずには気が済まないというタチだが、それはそうとホンモノのシニシズムをやるにはちょっと優しすぎる。彼女の皮肉や冷笑にはどことなく余地があって、そこに誰かが噛みついてくれるのを待っているかのよう。というかそもそも人情一本の江戸カルチャーと冷酷無慈悲のシニシズムが折り合えるわけもない。

たとえば、光輝が同性愛者だったことが発覚した際に、いづみが彼に罵詈雑言を浴びせかけようとするシーンがあるのだが、ここで彼女は「ゲッ…」と言いかけて押し黙る。乱暴な言葉遣いの裏面にある優しさがうっかり転げ出てしまっている素敵なシーンだ。

一方で蓮実や薫はかなり実直というか、ホンネとタテマエの使い分けというものがない。蓮実は光輝への好意から、どんなに理不尽なことを言われても二つ返事でニコニコする。薫は金にがめつく、何事にもナアナアの事なかれ主義者だ。そして2人ともそういう自分の浅ましい本性を隠そうともしない。嘘でその場をやり過ごしがちないづみと2人の間になんとなく距離感があるのもよくわかる。

浅ましい生き方しかできない2人のことも、臆面なく恋人を本気で愛している光輝のことも、いづみはなんとなく下に見ている。本作が巧いのは、ここで我々がちゃんといづみに肩入れできるような演出がなされていること。蓮実と薫はバカでがめつくて性格が悪く、光輝もつっけんどんでブルジョア趣味のいけ好かないボンボンとして描かれている。我々もいづみと一緒になって3人を「ウゼー笑」と笑えるようになっている。

私が知らぬ間にいづみになってしまっていたことを自覚したのは光輝の同性愛がいづみにバレるシーン。それまでの不義理を同性愛というある種の弱者性によって打ち消そうというのはちょっとあざとすぎるんじゃないの、と私はややシラけてしまった。

しかし光輝は同性愛がバレてしまったことをちっとも恥じないばかりか、いづみに誇示するように交際相手の手を握り締める。あざといとかあざとくないとか浅ましいとか浅ましくないとかいった俯瞰的な審美は、ここで大いなる愛によって跡形もなく打ち砕かれるのだ。

ラストの超ロングショットでは、葬儀場の前でいづみが光輝に向かって懺悔する。「私が一番バカだった」と。皮肉や冷笑の行き着く先は、すべての拒絶、すなわち人間であることの放棄だ。この懺悔はつまり彼女の人間宣言なのだ。

こういうある意味反省会みたいなオチはドラマチックすぎるとかえって興が冷めるものなので、フワフワと画角の揺れるロングショットの中でそれをやるというのはかなりセンスがいいな〜と思った。

和製ジャームッシュとでも形容できそうな不思議な空気感がある映画だった。小林監督の他の作品もぜひ見てみようと思う。

 

9.ジェフ・トレメイン『ジャッカス・ザ・ムービー』(2004)

「迷惑系YouTuberの先駆け」星4/5

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粗雑で野蛮で危なっかしいバラエティ映像が次から次へと乱れ舞うオムニバス映画。映画とは言ってみたもののその内容は今でいう「迷惑系YouTuber」の動画に限りなく近い。レンタカーをメチャクチャに破壊してから返却したり、渋谷のど真ん中でスケボーしたり、実家のリビングにワニを放ったり。個人的にはゴルフ場でホーンを鳴らしまくるやつとレモネードアイスのやつが好きだったな。

資本にものを言わせたナンセンスというものは往々にして下品で醜悪なんだけど、それはそうとプリミティブな面白さがあるのでついつい笑ってしまう。ホームセンターの展示品のトイレで用を足すとか尻の穴にミニカーを突っ込むとか、もうほんとに始めから終わりまで一切意味がないのがいい。すべてが笑いというただ一点に向かって全速力で突っ込んでいく。

演技めいたドッキリみたいなわりかし行儀の良い映像もあれば、用を足している父親のシャツをビリビリに破く、みたいなパワー全振りみたいな映像もある。もちろんそこに整合性への配慮なんてものは微塵も感じられない。衝撃的なできごとがいくら起きようとその顛末が語られることはなく、気がつけば次のトピックに移行している。

油っこい映像が多いので途中で食傷気味になってしまうかとも思ったが、意外にもそんなことはない。編集が凝っているからだと思う。デカめの中編映像の間に、ポツポツと数秒足らずの意味不明な掌編(笑おうにも笑う暇すらない)を挟むことで、受け手を半ば強制的にchillさせているのだ。凝っているとはいっても小綺麗な感じじゃなくて、むしろ原映像のナンセンスを加速させるようになっているのが巧い。

こんなガラクタの寄せ集めを映画と呼んでいいのか?という意見がちらほら見受けられるけど、編集の凝りように目を向けると、これはれっきとした映画だよ!と擁護したくなってしまう。

 

10.ピーター・ブルック『注目すべき人々との出会い』(1982)

「トランスできるか否かがキモ」星3/5

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日本人が宗教にあまり興味を持てないのは、そもそも神とか超越性とかいったものに実感が湧かないからというのも確かにあるけど、それ以上に、神や超越性に至るためのプロセス(教義)が胡散臭かったり露骨に権威主義的だったりするからだと思う。女を抱いてはいけないとか◯◯万円以上の上納金を納めなければいけないとか。

本作の主人公も既存の宗教とその教義にはかなり懐疑的で、ゆえにそういう夾雑物を排したナチュラルな宗教を探し求めて長い旅に出る。興味深いのは主人公に「信心溢れる若者」感が全然ないところ。彼は自力で解けなかった難問を職員室へ質問しにいくくらいのメンタルで人生の真理を探究する。このくらいの興味なら私でも持てるんじゃないかと希望が湧いてくる。

主人公が最終的に辿り着いた山岳密教では、踊りを舞うことこそが神へとアクセスするための回路だった。聖典であれ教説であれ言葉が使用されている限りそれは結局のところ人間理性の範疇を出ない。したがって言葉の介在しない舞踊だけが、人間が人間のまま神へと至ることのできる唯一の方法なのだ。

とはいえ上述の意図を登場人物に言葉で語らせてしまうのではまったく意味がない。なので本作は作品そのものが一つの舞踊のような様相を呈している。セリフは極力排され、ミニマルなBGMとロングショットが延々と続く。見ているうちになんだかこっちまでトランス的な陶酔に誘い込まれていく。ただ、さすがに間延びしすぎなんじゃない?という箇所も多く、それゆえ私は完全に入り込むことができなかった。入り込めたら本当にすごいんだろうなあ、これ。

ラストシーンで主人公は教団の長に「教えを学んだら元の場所に帰って生活しなさい」と諭すんだけど、これって本当に大事なことだと思う。密教的宗教が現実世界から乖離すればするほどカルトの度合いを強めていくことはオウム真理教が既に示している。現実を真っ向から否定するのではなく、現実の中に安寧の場を確保する術を教えること。それこそが宗教の誠実な在り方だと私は考える。

私の好きなカンフー映画に『少林寺三十六房』という作品があるのだが、これも本作と構造が似ている。少林寺は人里離れた山奥にあり、俗世間でいかなる災禍があっても決して干渉してはならないという厳しい掟があった。けれど主人公は掟を破り、少林寺で得た力を用いて俗世間の悪者たちを打ち砕いた。

「この世界はクソだ」と諦めてみたところで我々は他でもない「この世界」に両足を立てて生きているのだから、何はともあれそこで戦うしかない。とはいえ人間離れしたカンフーの妙技で武装することは難しいから、とりあえずは宗教にもたれかかってみるくらいがちょうどいいのかも。