美忘録

羅列です

必然性なきVOCALOIDはVOCALOIDたりえない

映画、文学、音楽。それがどのような形態をとるにせよ、作品にはすべからく必然性が込められるべきだと私は考えています。というのも、そもそも作品という概念の定立根拠として、必然性は不可避的に存在するからです。必然性がなければ作品でないといっても過言ではないでしょう。

 

藪から棒に「必然性」なんて言われても・・・という指摘もごもっともなのではじめに例え話。ここにとある私立探偵がとある怪奇事件に挑み、順当に解決の糸口を見つけていくサスペンス小説があるとします。現場に残されたわずかな情報を頼りに、私立探偵は持ち前の智慧と正義感を用いて少しずつ犯人に近づいていく、みたいなよくある小説です。

 

しかし、もしその合間に無意味な(=必然性のない)シークエンスが挟まれていたら皆さんはどうしますか?(それはたとえば、私立探偵の好きなAV女優について何千文字ぶんもの紙幅が割かれているとか、本筋とは何のかかわりもない中年男性の生き様が仔細に考察されているとか、そういうものです)

 

たぶん多くの方がそこに何らかの意義を見出そうとするでしょう。そしてどう思索を練っても意義が見出されないことがわかればひどく当惑することでしょう。

 

レトリカルな言い方にはなりますが、投げられたボールは必ずどこかでグローブに収まらなければなりません。あるいは物語というグラウンドの内側においてはどこにも着地しないにしても、その外側に存在する誰か/何かにいつか必ず直撃しなければなりません。そうしなければ作品というゲームは成立しないからです。私立探偵の性的嗜好は事件解決の方法論に結びつかなければならないし、中年男性は何らかの形で事件に介入しなければならないのです。

 

つまり我々受け手は作品という構造物に対して、(それがアプリオリであるかアポステリオリであるかは本題から外れるため今回は言及しませんが、)無意識のうちに意義、つまり必然性を要求しているのです。(もし必然性がなければ受け手の方でそれを生み出そうとさえします。)これはあらゆる作品にパラフレーズが可能な定式でしょう。この定式の外にあり、なおかつある程度広範なコンセンサスをもって立派に作品と名指されるものなどたぶん存在しないと思います。それは意味の欠落した無意味の集積でしかありません。

 

さて、以上を踏まえたうえで、今回はVOCALOIDに対して私が抱いているある危惧についてお話ししたいと思います。

 

それはつまり上述したような必然性にかかわる問題です。「VOCALOIDである必然性」という問題です。

 

VOCALOIDというコンテンツは依然として劇的な変化を続けています。コンテンツが興隆する場としての地位を占めていたニコニコ動画は今では諸動画サイトの中のワンオブゼムに落ち着き、単なる傍流であったはずのYouTubeやビリビリ動画が日に日にドミナンスを強めています。ニコニコ動画では数万再生にとどまっている楽曲がYouTubeやビリビリ動画では何百万回も再生されるというようないわゆる露骨な逆転現象も起きています。

 

これと並行して、技巧的な面においてもVOCALOIDはめざましい進化を遂げ続けているといえます。2019年現在も定期的なライブラリアップデートが続いていることがそれを端的に示していますし、また、VOICEROID実況、「無限にホメてくれる桜乃そら」や「アカリがやってきたぞっ!」といったGYARIによるポエトリーリーディング的楽曲、あるいは傘村トータの流行なども調声技術の向上によってリリックが聞き取りやすくなったことによるところが大きいでしょう。

 

また、ポストVOCALOIDアーティストの出現も無視できない側面です。14年ごろ以降、米津玄師(彼自身はそこまで「ポストVOCALOID的」ではないと思いますが)を嚆矢に、VOCALOID的文脈をもったさまざまなアーティストがポップシーンに出現しました。ヨルシカ、ずっと真夜中でいいのに、神様、僕は気づいてしまったなんかがその好例でしょう。ハイテンポでキッチュサウンド、過度にアブストラクトあるいは過度にエモーショナルなリリックはもともとVOCALOIDに特有だった要素です。ニコニコ動画という箱庭の中で完結していたガラパゴス的コンテンツが今やメジャーシーンとインタラクティブに関わりあうまでに巨大化したのです。彼らポストVOCALOIDアーティストはいわばそのメルクマールというわけです。

 

さて、上述の通りさまざまな形態でさまざまな局面へと開かれつつあるVOCALOIDですが、果たしてこの前進が行き着く先はどこなのでしょうか。

 

活動領域が拡大し、声がクリアになり、ポップ音楽との境界が消えていく……確かにこれは不断なる変化、つまり前進です。

 

しかしよくよく考えてみてください。いつかVOCALOIDと人間の聞き分けがつかない臨界に達したとき、つまりVOCALOIDと人間の間に完全な互換性が確立されたとき、そこには果たして「VOCALOIDである意味」は存在するのでしょうか。もしそれがないのなら、それはもうVOCALOIDであるとさえいえないのではないでしょうか。必然性なきVOCALOIDVOCALOIDたりえないのではないでしょうか。そんなことを考えます。

 

VOCALOIDが好きではない知人にこう聞かれたことがあります。「それ、人間が歌うんじゃダメなの?」。

 

これは単純明快でありながら問題の中核を抉る非常に鋭い指摘だと思います。我々はこれに対して明確な理論武装をしなければいけません。そうでなければVOCALOIDが歩んできたこの10余年の軌跡は無意味の荒野で惨めに朽ち果てるのみです。VOCALOIDはいま、死という彼岸に向かって必死にオールを漕ぎ続けているのかもしれません。

 

少しだけ歴史を回顧してみましょう。

 

07年ごろの黎明期においてはVOCALOIDは萌えでパッケージされた物珍しいギークアイテムに過ぎませんでした。しかしまさにこの珍品性こそが、必然性の問題を先送りにしつつVOCALOIDというカルチャーを周知させるという芸当を可能にせしめたのです。

 

(しかし、今になって振り返ってみれば、この頃に流行した「恋するVOC@LOID」や「えれくとりっく・えんじぇぅ」といったキャラソン的楽曲は初音ミクという存在そのものに言及していたという点において後の主流的楽曲よりもむしろ「VOCALOIDである必然性」に肉薄していたかもしれません。)

 

その後、萌えキャラクター「初音ミク」を主題としない「メルト」や「celluloid」といった楽曲を通じて萌えによって糊塗された偽りの仮面が剥がされ、いよいよVOCALOIDである必然性についての問題が取り沙汰されるようになるかと思いきや、今度はVOCALOIDがインターネットを取り巻く一大ムーブメントにまで膨張し、VOCALOIDである必然性などという入り組んだ存在論に向き合わずとも、言うなれば「VOCALOIDを起用していることそのものがVOCALOIDである意義である」という詭弁的/刹那的トートロジーさえあれば十分になってしまったのです。事実、この時期はEXIT TUNESをはじめとした各種レーベルがVOCALOIDの楽曲だけを収録したアルバムを次から次へと世に送り出していました。07年発表のくちばしP「私の時間」において初音ミクが自己言及的に歌い上げた「オリコン1位も遠くないかもね」が実際にリアライズしたほどです。こういう言説が手放しに受け入れられるくらいに当時のVOCALOIDには勢いがあったわけです。

 

しかし往々にしてバブルは弾けるもの。不動産価値が急落するように、14年ごろを境にVOCALOIDの勢いはぱたりと止んでしまいました。この時期において、VOCALOIDの起用がVOCALOIDである必然性とそのままイコールで結びつくという構図が幻想であったことが白日の下に晒されてしまったという感じがあります。

 

それを如実に示すのが上述したようなポストVOCALOID的アーティストのメジャー進出でしょう。ハチ、ナブナ、バルーンetc...

 

彼らは、そう明言はしなくとも、自身が音楽という営為を続けるにあたって、VOCALOID以外の選択肢を見つけたのだと言えます。(和田たけあきや平田義久はこれを「踏み台」と呼んでいます。以下リンク)

togetter.com

natalie.mu

 

この現象はつまり、「VOCALOIDは代替可能なものである」という言明であり、VOCALOIDが当初より本源的に抱えていた「VOCALOIDである必然性」に対するひとつのアンサーなのではないかと私は考えます。彼らにとっては、VOCALOIDとは、言い方は悪いですが、数あるものの中のひとつなのです。簡単に言えば、「VOCALOIDである必然性などそもそも不要なのだ」ということです。

 

私はこの趨勢を、VOCALOIDが不断の変貌を遂げている証拠として誇らしく思う反面、「VOCALOID”を”聴くリスナー」としては何としても反駁していかなければならないと考えます。具体的に言えば、我々はVOCALOIDに対してVOCALOIDである意味をもっと付与していかなければなりません。「作り手は往々にしてVOCALOIDである必然性が必要不可欠であると考えている」と思い込むことをやめ、我々受け手の方がその必然性を創出していなければなりません。そうでなければ、日々人間の音楽との互換性を強めていく、つまり同化しつつあるVOCALOIDという音楽カルチャーを、ゆくゆくは人間の音楽と峻別できなくなります。その地平において発せられる「僕/私はVOCALOIDが好きです」という言葉は、果たして誰かを強く引きつけるだけの訴求力があるでしょうか。

 

私はこれからも胸を張って「VOCALOIDが好き」と言い続けたいです。そのためにはVOCALOIDである必然性が振り出されなければならないのです。

 

それをやるのは、他の誰でもない、そうであってほしいと願う我々一人ひとりなのではないでしょうか。

摩天楼とセックス、漕がれるべきペダル

 夜とはつまり予感である。それは不吉な重力を持った雲霧となって街全体をすっぽり覆っている。東口に出れば馬鹿騒ぎが、路地を曲がれば暴力が、グラスを傾ければセックスが自明的に存在していると誰もが思い込んでいる。しかし予感はあくまで予感であり結果ではない。馬鹿騒ぎも暴力もセックスもすべては霧の中に映し出されたホログラムに過ぎない。彼らは永久にどこにも辿り着くことができないのだ。

 

 夜霧の中を自転車であてもなく突き進むぼくもまた彼らと何も変わらない。予感の蠕動を肌で感じていても、ぼくにできるのは平坦な軌道を描きながら環状線の始点と終点を結ぶことだけなのだ。干上がった運河のような幹線道路や、獣の遠吠えのように膨らみのあるハイウェイの走行音や、街路灯の均質な明かりによって個物性を剥奪された雑居ビルは、ぼくが噛み付くことのできるだけの余地を思わせぶりにひらつかせるが、それに噛み付いたところで、あとに残るのは「噛み付いた」という主語のない間抜けな結果だけである。

 

 環状六号線の車道から望むスカイスクレイパーは、頭部に赤い暗視スコープをはめ込まれた巨兵の群れのように見え、ある種の緊迫した荘厳性を湛えている。彼らが突如として立ち上がり、東京の街を焼き尽くしたとしても、ぼくはそれほど驚かないだろう。TOHOシネマズのゴジラ像は歌舞伎町の若者をゴキブリでも殺すみたいに放射線で焼き尽くし、ドコモタワーは文字盤付近からミサイルを連射して新宿御苑を火の海に変え、コクーンタワーから羽化した斑模様のぶ厚い翅をもった蛾は毒性の鱗粉を西新宿じゅうにまき散らすのだ。ぼくは巨大機動に変形した新宿都庁に自転車ごと踏み潰されて餃子の皮みたいな死を迎える。その次の日には練馬や小岩あたりまでロードローラーで転がしたみたいに起伏のない焦土が広がっていることだろうーーー

 

 はるか向こうのその街は、ボールペンの先でつつけばそのまますべてが崩壊してしまいそうな不安定さを抱えていた。途方もないカタストロフィーを仮託するにはじゅうぶんすぎる街だったのだ。

 

 ぼくは真夜中に自転車を漕ぎながら、街やそれを取り巻くオブジェクトについて、こうやってあれこれ思索を巡らせる。しかしそれは言うなればオーガズムを迎えないセックスのようなものである。行為開始から絶頂寸前までのシークエンスがフィルムのように切り取られ、夜というまな板の上で無限に切り刻まれ続ける。切断面が増えるごとにシークエンスのディテールは少しずつ鮮明性を増すが、だからといって何か特別なことが起きるわけではない。たとえセックスの間にカーティス・フラーの『ファイブ・スポット・アフター・ダーク』が流れていたことや、彼女の左わき腹に3つの連なった小さなホクロがあったことを思い出したとして、それらの事実がぼくをどこかへ連れ出してくれるわけではない。あの摩天楼が街を焼こうが踏み潰そうがぼくにできることは何ひとつないし、だいいちそれは予感が見せる幻影に過ぎないのだ。

 

 ぼくはきっと何事もなく落合を越え、池袋を越え、そのまま中山道に合流する。本郷あたりで脚の血液が全て鉛に変化したような鈍痛がやってきて、松屋かどこかで軽く腹を満たしたあと、大久保通り伝いに中野の自宅へ戻る。それ以外は何も起きないのだ。火の海の中を死に物狂いで逃げ惑う必要も、もう来ない明日を涙ながらに憂う必要もない。しかしそれでもぼくはひたすらにペダルを漕ぎ続ける。さまざまな街を回転軸に、無意味な円を描き続ける。

 

 ぼくは予感が予感であることを知っていてもなお、予感が予感であることをうまく自分の中に落とし込むことができないままでいるような気がする。理論としては理解していても、そこに感情が付随しないのだ。思うに、輪郭的な自覚に中身を注いでくれるものは、時間か、あるいは圧倒的な実感覚だけなのだろう。ぼくはまだ夜を知らなすぎるのだ。時間的にも空間的にも。だからぼくはペダルに足をかける。そこに漕がれるべきペダルがある限り、ぼくはそれを漕がなければならないのだ。

 

 両足がバターになるまでペダルを漕ぎ、あらゆる予感を予感として殺し尽くしたとき、ぼくは誰かとセックスをするだろう。カーティス・フラーの『ファイブ・スポット・アフター・ダーク』が流れる暗い密室で、ホクロの数を数えながら、互いの汗をぬぐうのだ。

 

 もちろんそこにはオーガズムが存在している。

都心で撮れたヘンな写真まとめ

「金はないが活力だけはある」。そんな都内在住の貧乏大学生御用達の趣味といえばやはり「散歩」だろう。この日本国において散歩は全国民に付与された平等の権利だ。いくら歩こうが区境を跨ごうが一銭たりとも徴収されることはない。

 

ゆりかもめは高い」?「北総線はボッタクリ」?

 

だまれ。歩け。チャリを漕げ。

 

そんなわけで花より団子より無料という言葉に目がない私はすっかり徒歩とチャリによる「散歩」の魔性に取り憑かれてしまった。暇さえあれば東奔西走、都内のあらゆる場所に特に用もなく足を運んだ。最近では主要道路の交差点に対してセンシュアルな興奮を覚えはじめ、いよいよキモオタク的本性が現前しつつある。はやく殺してくれ。

 

さて、あらゆる多様性が「東京だから」という大義名分のもとで容認されているこの街においては、散歩を幾度となく続けていると時折不可思議な現象・物体に遭遇することがある。また、幾度となくシャッターを切っているといい感じにシュールな写真が撮れたりする。

 

今回のブログでは、そんなイイ感じにヘンな写真を手元にあるだけ紹介していこうと思う。まとめブログとか「#SHIBUYAMELTDOWN」を見るようなメンタリティで読んで欲しい。

 

 

 

1.東京メトロ銀座線浅草駅の地下にある猥雑空間

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さすが下町(笑)といったところか。自分が観光名所であるという自負など微塵も感じない嫌悪施設が立ち並ぶ(写真上)。中でも中華系露店の目の前にアダルトビデオコーナーが堂々と構える様子は都内屈指と言っても過言ではない治安の悪さだ(写真下)。

 

ちなみにこの色の狂った中華そばは300円程度で食べられる。隅田川みたいな味がするのでチャキチャキの江戸っ子の皆様は是非ご賞味あれ、と言いたいところだが、先日同所を訪れてみたら、この露店は跡形もなく消えてしまっていた。栄枯盛衰という感じでよろしいですね。

 

2.燃えるセンター街

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2017年。年末くらいクラブにでも行って鬱屈とした日常を忘れようと渋谷を訪れたときのことである。衆目の先にごうごうと燃えていたのはセンター街雑居ビルの2階に入っていた鉄板焼き店だった。

 

この店は生来より肉を客の前でダイナミックに焼き上げるパフォーマンスを行っていたというが、だったら内装を木造にするなよと思う。渋谷らしくていいが。

 

3.足立区の本当に気持ち悪い公園

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こんなところで遊びたいか?と正気を疑いたくなる公園。正式名称は「下河原公園」らしい。写真左の気持ち悪い緑色の生き物は夏場になると口から水をゲロゲロと吐瀉するらしい。勘弁してくれよ。

 

こういうSAN値ガリガリ削ってくるモニュメントが平然と存在できるのが足立区クオリティである。ちなみに最寄駅は「女子高生コンクリ事件」の舞台となった綾瀬駅。くわばらくわばら。

 

4.オタクの軽犯罪in秋葉原

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コミケの時期になるたびに渋谷ハロウィンとコミケの治安を比較しては溜飲を下げているオタクだが、秋葉原のカードショップを散策しているとこういう写真が頻繁に撮れる。「オタクはマナーがいい」というのは幻想だったわけである。

 

どうでもいいがカードショップ以外のフロアが軒並みいかがわしいリフレ店なのが面白い。「私たちはたとえどんなに汚い汗まみれの肉団子でも分け隔てなく受け入れて差し上げますわ」というリフレ店の涙ぐましい平等精神を感じる。

 

5.西新宿に現れたバンクシーの作品

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都庁に描かれたバンクシーの作品と思わしき落書きが、東京を統べるタヌキおばさんの手によって保護された事件が記憶に新しいが、私が思うに本当のバンクシー作品は西新宿一丁目の新都心歩道橋に描かれたこの「ちんちん」なのではないかと思う。

 

ちんちん」という言葉の力強さ、アナーキズム、反骨精神、皮肉性はまさに往年のバンクシー作品にも通底する。小池百合子はあんな小汚いネズミの絵より早くこっちを保護しろ

 

6.スミダリバー・ファイアーワークス核戦争

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私の絶望的な撮影センスが生み出した2017年夏の東京大空襲の様子。粋とか風情といった感情がここまで喚起されない写真も少ないのではないか。

 

普段は「下町」とか「傾奇者」などといって文京区のボケ老人の嘲笑の的となっている墨田区民もこの日ばかりは鼻が高い。軒先でバーベキューしたりベランダでワイングラスを傾けたりと、花火目当てにやってきた余所者に対し墨田区民アピールを欠かさない。

 

7.市ヶ谷の謎空間

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市ヶ谷の住宅街を歩いていると突如現れる虚無空間。こういうのを見ているとワンルームごときに月々何万も払っているのがバカらしくなってよくない。しかもご丁寧に鉄柵を巡らせてホームレス対策までバッチリである。有事の際は汎用人型決戦兵器とか出てくるんだろうか。

 

8.三ノ輪橋商店街の虚しい看板

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なぜこういう全く意味のない看板を置くのか理解に苦しむが、南千住という場所が場所なだけ仕方がない気もする。色々苦慮してるんでしょうね、住民も。

 

余談だがこの商店街は都内屈指の臭さを誇る。「くっさ(笑)」みたいな比喩ではなく本当に臭い。この商店街では日常的に馬糞を投擲する祭りでも開催されているのかと疑いたくなる臭さだ。原因が特定できないのがさらに恐ろしい。

 

9.正しいストリートカルチャー

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サブカル大学生タウンこと下北沢にほど近い大原に位置する電柱とそれに張り付けられたSupremeのステッカー。メルカリにでも出せば1000円近く稼げるシロモノをわざわざこんな微妙なところに貼ってしまうストリートキッズの心意気に脱帽。

 

電柱付近のログハウス風の店舗で髭をたたえた中年男性数人が酒盛りしていたが、十中八九奴らの犯行だろう。街を汚すんじゃない

 

10.西新井駅アシンメトリー金玉像f:id:nikoniko390831:20190502061425j:plain

またもや足立区による凶行である。どう見ても奇形の金玉にしか見えない銅像を駅前に堂々と展示してしまうあたりに足立区民のモラルの低さが如実に表れている。こんなものを見て育ったらロクな大人にならない。

 

極めつけは金玉の境目にうち捨てられたマクドナルドのゴミ。きっとこの辺の若者がポイっと捨てていったんでしょうね。こんな街に育てられてしまった若者のささやかな反逆なのかもしれない。

 

11.大森駅前の標語看板

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俺は嫌いだから壊すねという気持ちしかない。それが嫌なら抵抗しな。拳で。

 

12.谷中霊園前の人権剥奪トイレ

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いや、花壇置く前にやることあるだろ

 

谷中霊園と言えば都内でもそこそこ大きめの霊園。日中はそこそこ人通りもあるというのに何だこの淫乱仕様は。「人間いつかは墓の下なんだから少しばかりの恥は気にしなくてもいいんだぜ」というポジティブなメッセージ性すら感じる。

 

12.川崎駅前でいともたやすく行われるえげつない行為

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衝撃の価格破壊が断行されているらしいが具体的に何が価格破壊されているのかは判然としない。3つ並んだ「自転車の押し歩きにご協力ください」という看板が何とも言えないアトモスフィアを現前させている。で結局ここは何屋なんだよ

 

やはり川崎という土地には破壊の2文字がよく似合う。特に京急線沿いなんかは一触即発のデンジャラスな緊張感が常に張りつめている。そういう危険を未然に回避するためにも自転車は押し歩くべきなんだろう。

 

13.欺瞞だらけの南新宿駅

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え・・・廃駅・・・?

 

新宿と名の付く駅はたくさんある。新宿駅西新宿駅西武新宿駅新宿三丁目駅・・・どれも新宿の名を背負うにふさわしい巨大駅ばかりだが、そんな中に一人だけ落ちこぼれがいる。それこそがこの南新宿駅だ。

 

小田急の各駅停車しか停車しないうえに数分歩けば新宿駅や代々木駅があるためわざわざこの駅を利用する者はいない。都外のマイナー駅を抑え小田急線の乗降者数ワーストランキングで常に首位をキープし続ける最弱駅である

 

さらに恐ろしいのが「南新宿」という名前を関していながら住所が渋谷区である点だ。新宿と渋谷という巨大都市に対し同時に汚名を着せるアクロバティックさには感服せざるを得ない。

 

14.八王子螺旋階段

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螺旋階段があること自体は全然構わない。ないよりはあった方が便利だから。

 

しかしこの階段の行き着く先はどう見てもただの草むらである。何のエンジョイメントもない、マジの草むらである。八王子の子供はこういう剥き出しの自然の中でも何らかの享楽を見出すのだろうか。人間、前世でどんな悪行を重ねても八王子にだけは転生したくないものだ。

 

15.クソ警官

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日暮里付近で執拗に追いかけ回してきた悪徳警官。はやく天罰が下りますように

 

16.白鳥公園に興奮する後輩の白鳥くん

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自分と同じ名前を持つ公園を発見し思わず笑みをこぼす白鳥くん。石神井公園の高級住宅地に住んでいながら葛飾区の公園に親近感を覚えるとは何事だ。上級国民の風上にも置けない。辰巳団地を見て「俺はこんなとこに住んでる貧乏人とは違う」と豪語していた頃に戻ってくれ。

 

17.つげ義春っぽい安宿

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一泊1200円という値段に一瞬ひっくり返るも外装を見て納得。これが俺たちの荒川区だ!

 

写真左の鳥居は一体何なのか。全部くぐったら冥界に連れて行かれるのだろうか。冥界はいいとしても生前最後に訪れた場所が三ノ輪というのはあまりにも成仏できない。

 

この写真を撮影した数分後、冬場にもかかわらずサンダルを履いた臭いオッサンに「だァオラ殺すぞ!」とすごまれた。彼が一刻も早く成仏できますように

 

18.衛生管理のヤバい薬局

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あーらどなたのワンちゃんかしら?と思ったらこの店の番犬らしい。山谷はこういうローカルな温かさのある素敵な街ですね。衛生管理?そんなもん山谷の辞書にゃ載ってねぇっぺ!何より一番ヤバいのはここが「薬局」だということなんですよね。

 

店主曰く月一でトリマーを呼んでいるとのことだがそれにしてはあまりにも小汚くないか。そういう毛色か、アハハ。

 

19.港区の肩書きが欲しい貧乏人の皆様へ

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国道246号線青山通り外苑前駅から徒歩5分。港区最後のフロンティアはそこにあった。こんなボロっちい団地が依然として港区のど真ん中に構えている時代錯誤。内部は完全にアノニマス化されておりその全貌を窺い知ることはできない。そして向こうからは六本木の高層マンション群がこちらを嫌味っぽく睥睨している。

 

こんな極まった光景が見られるの場所は都内でもここを置いて他にない。私が撮影に向かった際は住人と思しき老爺が庭先で作物の違法栽培に勤しんでいた。上京してよかった。心からそう思えた瞬間であった。

 

20.#EBISUMELTDOWN

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夜が深まるにつれこういう全てがどうでもよくなっちゃったオジサマが増えていくわけだが、驚くべきは撮影時刻が20時だったということだ。20時でもデキあがっちゃう街、それがエビスビールのお膝元こと恵比寿なのだ。「足もと注意」という床の表示が何とも虚しい。

 

よほど楽しいことがあったのか、はたまた真逆か。そんな杞憂をわだかまらせたまま、山手線は品川を目指す。

 

21.中央区のキモいホテル

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正方形が歪に連なったようなレトロフューチャーも甚だしい中央区随一のメルクマールこと中銀カプセルタワービル。竣工は1972年。現在では老朽化やらアスベストやらの問題で取り壊すか否かの瀬戸際に立たされている。

 

正方形一つ一つがカプセルホテルになっているらしいが、正直出っ張っている区画にはあんまり泊まりたくない

 

22.誰も笑ってないニコニコ商店街

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やはり足立区というのは何かおぞましいものを自然と引き寄せる力みたいなものを有しているんじゃないか。

 

「ニコニコ」という擬態語の意味を疑いたくなるような寂寞とした商店街。夜中は散歩している人間すらいないため「ニコニコ」という動作の主体が消失し、圧倒的な虚無だけがそこに残るというかそもそも自販機くらいしかロクな購買施設がない状態で商店街を名乗ること自体狂っている

 

23.即落ち2コマ

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よし原安全安心な街」から「ひったくりに注意!!」への流れはもはや芸術の域。風俗街が安全安心を標榜することの難しさが端的に表れたいい写真だ。そもそも本当に安全安心な街は自分から声高に安全安心であることを主張する必要がない。悲しい逆説だ。

 

ちなみに奥の方に見える店は言わずもがな全て風俗店。ハイヒールにファーコートのイカニモなお姉さんと5回くらいすれ違った。お勤めご苦労様です。

 

24.大岡山カルト自販機

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家の壁や電柱が電波な落書きをされるパターンは見慣れても、自販機が同様の被害に遭っているところはそうそうお目にかかれないだろう。そんな可哀想な自販機が環七通りの大岡山交差点付近にあった。

 

しかし「いろはす90円」とか「大幅値下げ」とか、どの落書きもギリギリあり得そうな内容のため、どこまでがフェイクニュースなのか判別しがたい。

 

自身の胸中を吐露するでも、メチャクチャに破壊するでもなく、ただ単に利用者を疑心暗鬼に陥れるだけの悪質極まりないいたずらである。ちなみにコカコーラピーチ味を買いました。

 

 

 

散歩の醍醐味とはやはりこういった地図で確認できない面白さの発見にあると思う。これからももっとしょうもない写真を死ぬほど収めていきたい所存だ。それではまたどこかで。

10選+αで語る2018年ボカロシーン

あけましておめでとうございます、因果です。2019年は洗剤を切らさないよう頑張っていくことを目標にしました。あとはちゃんと単位を取る。

 

さて、2018年のボカロシーンも語るに尽きぬ激動の一年だったと言って過言ではないでしょう。そこで私の10選や話題曲を挙げながら2018年という一年を私の解釈の下で振り返ってみることにします。

 

あらゆる方面から色んなものを引用してくるスタイルは私が敬愛してやまないしろばなさん(@banaxie)氏リスペクトです。氏のブログを貼っておきますので当記事とも併せて是非読んで頂きたい。


shirobanasankaku.hatenablog.com

 

それ単体として存在しているように見える楽曲たちが体系的な知識というフィルターを通すことによって実は裏でつながっていたことが判明する、そういうカタルシスを心ゆくまで享受できる「気持ちイイ」ブログです。

 

さてそろそろ本題に入りましょう。

 

 

 

①頑張るしかないらしい/ぷにまる

ぷにまるの破壊的応援歌。はじめは軽快でポップな曲調だが、それがノイズやビープ音などによって徐々に歪められていき、終いには「だからファイト私!頑張るしかないらしい」という呪文めいた鼓舞をただ延々と繰り返す狂気空間が現前する一曲。

 

「行き過ぎた鼓舞がかえって自分を苦しめる」というのはアイロニーの手法としてはかなり使い古されたものであるが、ぷにまるはその先に潜む更なる社会の暗部を突く。

 

平成ももう終わるが、依然として息の詰まるような社会問題が日々取り沙汰されている。2020年東京オリンピックにおける人材の買い叩きや、先日発表された「ブラック企業大賞」で三菱電機が見事大賞を受賞したニュースなどは読者諸君の記憶にも新しいだろう。

 

このような大規模構造の中においては個人、つまり「私」はあまりにも無力である。独力では悪徳企業を崩壊に追い込むことも、男女平等を達成することもできないのだ。労働組合や#MeToo運動の存在こそがまさにそれを決定的に裏付けている。

 

だからこそこの無力で矮小な「私」は今日も社会の要請に従って仕方なく頑張らざるを得ない。そこに決して本心からの自発性はないのだ。「頑張りたくはないけど、でも頑張らないといけないから頑張っている」のである。そしてこの重層的にねじれた心理を、面従腹背の反骨精神を、うまく一言で言い表したものこそが「頑張るしかないらしい」というフレーズなのだ。

 

変わるべきは社会なのか、それとも「私」たちなのか。『頑張るしかないらしい』はそんなフェータルな問いかけをリスナーに迫る。

 

②堂島交差点/夜行梅

ボカロ界隈にも徐々にヒップホップカルチャーが根付いてきたことは動画投稿数の推移やしま(@shima_10shi)氏主催「Stripeless」発の『MIKUHOP』のシリーズ化等からも分かるだろう。

 

ヒップホップを体系的なカルチャーとして成立させるものとして「サンプリング」という文化が挙げられるが、ボカロにおいてはその参照点が外部、つまり「非ボカロ曲」にある場合が多く、「ミックホップ(ボカロにおけるヒップホップ楽曲の総称)」をシリアルに語ることはきわめて困難だった。

 

しかし遂に出た。参照点がボカロ曲に存在するボカロ曲が。それこそがこの『堂島交差点』。

 

参照曲はDixie Flatline黎明期の名曲『東雲スクランブル』。選曲が渋すぎる。

 

ちなみにDixieの投稿者コメント曰く「モデルは渋谷スクランブル交差点」、つまり東雲スクランブル=渋谷スクランブル交差点とのこと。次に『堂島交差点』について調べてみると、これはどうも大阪梅田にある同名の交差点のことらしい。東京渋谷と大阪梅田。オタクはこういうさりげない対比に弱いのである。

かなり大胆な大ネタで、初音ミクが「uhh baby」と思いきり歌唱しているサビ冒頭部分がほぼそのまま使用されている。聴けば分かるがマジでそのまんまである。

 

今年7月には4年ぶりのアップデートとなる「VOCALOID5」が発売されDTM界隈が大いに沸き上がったが、これによって初音ミク発売当初より幾度となく議論の俎上に上げられ続けてきた「初音ミクは楽器か?歌姫か?」論争も再興した。

mitchie-m.com

『堂島交差点』におけるこの大胆なサンプリングは、後者(初音ミクは歌姫である)を否定することなく、なおかつ前者(初音ミクは楽器である)の可能性を押し広げる宥和的アンサーであったと私は考える。

 

私は常々、音声合成技術の飛躍的な進歩がいつかボカロと人間の境界を完全に破壊し、その結果ボカロはかえって衰退するのではないか、という一抹の危惧を抱いている。そもそもこのサンプリングを面白いと感覚できるのも私がボカロの不完全性に魅せられているゆえのことだろうし。

 

ボカロはこれから果たしてどこへ向かっていくのか。これからもあくまでボカロとして振る舞い続けるのか、あるいは境界線を越えて人間になるのか、はたまたそれ以外か。この曲を聴きながらその行く末を見届けたい。

 

③ANIMAる/梅とら

音圧とセンシュアルなリリックに定評がある梅とらだが、今回はアレンジ、調声、MIXにギガPを迎えている。特に調声の面ではボカロの電子音的な特徴は残しつつも人間のようなブレス音を再現するなど、ギガPの「ボカロならでは」を追求する姿勢が多分に窺える。そしてそれは2か月後に投稿される『劣等上等』として結実する。

また、梅とらのリリックセンスも年々上昇の一途を見せており、はじめは露悪的だったエロスが豊穣な語彙と言い回しの中に沈潜するようになったため幾分耳触りのよいものとなった。内包するエロスの量そのものに変化はないが、これならお母さんの前で流してもギリギリ気まずくならずに済みそうだ。

 

思想家の九鬼周造は主著『「いき」の構造』において「媚態」とはゼノンの「アキレスと亀のパラドクス」にみられるような、「達せそうで達せない状態が開示する価値」のことであると述べているが、昨今の梅とらのリリックメイキングはまさに媚態的と称賛するに相応しいものなのではないか。

「いき」の構造 他二篇 (岩波文庫)

「いき」の構造 他二篇 (岩波文庫)

 

 昨今、世間ではあいみょん、ボカロ界隈に限ってはカンザキイオリなどの、シンガーソングライター的側面の強いアーティストが衆目を集めている。これらのアーティストに共通するのは、彼らが剥き出しの感情をそのまま歌に込めている、ということである。

 

剥き出しの感情というのは往々にして剥き出しの言葉、つまり「強い言葉」によって表現されるものだが、この「強い言葉」というのは、それ以外の「弱い言葉(便宜上こう表現する)」の存在との相対上にのみその価値が表れる(逆もまた然りだ)。つまり、「強い言葉」、あるいは「弱い言葉」というのは、それに対応する言葉の存在によって規定されている。

 

これは、例えば少年漫画で主人公が毎回最終奥義を使って敵を倒していたら次第にそれを最終奥義と感じなくなってくるのと同じだ。緩急がなさすぎると我々はどこにパンチラインがあるのか分からなくなってしまうのである。あいみょんでは『貴方解剖純愛歌』、カンザキイオリでは『命に嫌われている』がその好例だろう。

 

しかしあいみょんやカンザキイオリの人気ぶりからも窺えるように、こういった「剥き出しであること」を礼賛する層はむしろマジョリティーである。だからこそ私は、そういった流れに逆らい、ただ媚態の境地を目指し己を研鑽する梅とらの姿勢を全面的に支持していきたい。

 

④りんご/目赤くなる

ふつう、「夢」というと何か輪郭が欠如したアブストラクトな情景が連想されがちである。事実、「夢」でシソーラス検索をかけると案の定「幻覚」あるいは「まやかし」といった語句がヒットする。このことからも「夢」というものの漠然性はある程度人口に膾炙しているといえるだろう。

 

しかしこの等式は意外にも絶対ではない。というのも、「夢」というものは実際には部分的に薄気味の悪いほどのディテールを持つことがあるからである。精神科医カール・ユングは自著『宗教学辞典』において、「夢には意識的洞察よりも優れた知慧がある」のだと述べた。つまり、我々が普段はたらかせている意識の方が、意識が捉えた情景よりもむしろアブストラクトだというのだ。

 

確かに「その支離滅裂さから夢と判断することはできても細部にリアリティーがありすぎて現実と見紛ってしまいそうになった」、などという経験はいくらでもある。この前など夢の中で用を足したのを現実と勘違いし危うく人間としての尊厳を失うところだった。一見すると途方もなく思えるユングの主張だが、実経験に照らし合わせてみればそれなりの妥当性を持つのではないか。

 

氏の『りんご』もまさにユング的「夢」のような世界観を持つ不思議な一曲だ。音像は終始ぼやけ、初音ミクの声もふにゃふにゃとしているが、時折その微睡みを破壊するように歪んだ不協和音が差し込まれる。しかもそこに何の法則性・連続性もない。夢という現象の本義をここまでリアルに追体験できる音楽というのはそうそうお目にかかれるものではないだろう。

 

⑤キャンディーポイズン/RUBY-CATMAN

今年度で一番「騙された!」と舌を巻いた一曲。

 

イントロからBメロまではいわゆる「ボカロっぽい」と形容(あるいは揶揄!)されるようなハイテンポかつキッチュな歌詞のノせ方が続く。そのコテコテさといったらサビでも同様の流れが続くことを予期させるに十分なほどである。

 

しかし意外なことに、サビはそれに反し一切小手先のテクニックがない王道の4つ打ちテクノポップが展開される。予期を完全に裏切られ、ここでリスナーは初めて「やられた!」と気づくわけだ。「こういう曲は往々にしてこういう展開を辿る」といった具合に、VOCALOID楽曲の文脈をよく理解し、自身の中でそれを体系化している者であればあるほど、この「外し」はフェータルに刺さる。いわば「メタ・ヘヴィーリスナー」な一曲なのである。

 

さらに驚くべきはRUBY-CATMANがこれらを意図的にやっているかもしれないということである。それを裏付けるのがアウトロのスキャットパート。百聞は一聴にしかずということで実際に聴いて頂ければ理解いただけると思うが、メッッッチャクチャ『ネトゲ廃人シュプレヒコール』の間奏に似ている。

ネトゲ廃人シュプレヒコール』といえばボカロ黎明期〜全盛期(千本桜期)の時代の中で熱狂的な支持を受けた伝説入り(100万再生超え)楽曲のひとつであり、古参ファンにとってはこの曲が思い出深い者も多い。

 

それを半ばサンプリング的に2018年の自曲の中に組み込むというのは「私は過去の蓄積の上に自身を花開かせている」という氏の意思表明に他ならないのではないか。「メタ・ヘヴィーリスナー」などという芸当が可能なのも、過去の文脈への精密なリサーチがあってこそのものなのだと推測できる。ボカロ慣れしているからこそ聴きたい一曲だ。

 

⑥鬼/Jille.Starz

 例えば、有名な資産家が「世の中金じゃない」と言っていたら、高卒の労働者が「学歴なんか何の役にも立たない」と言っていたら、あなたはどう思うだろうか。私なら「お前が言うな」とでも罵言を飛ばすだろうが、こればかりは本当に人それぞれである。私のように立腹する者もあれば「あなたこそそれを言うことのできる立場だ!」と逆に感激する者もあるだろう。しかしどちらにせよ通底するのは「行為者のバックグラウンドが考慮される」という点である。そして受け手が「行為」と「行為者のバックグラウンド」があまりにも食い違うと認識した場合、その「行為」は受け手の生活の中において「耳障りなノイズ」でしかなくなってしまうのだ。当時中学生という若さで残忍な連続殺傷事件を起こした、通称「少年A」が出所後に自伝を出版した際に「犯罪者が偉そうに高説を垂れるな」という苛烈な世論に晒されたことなどが良い例だろう。

 

この無意識的なバイアスを自分の中から排除することは非常に困難であるが、これを軽減してくれる濾過装置はある程度存在する。音楽におけるそれが「ボーカロイド」だ。ボカロにはオタクが作り上げたかりそめの設定(例えば初音ミクならネギが好きとか一人称が「僕」とか)は点在するが、正史と呼ぶべき普遍的なバックグラウンドは存在しない。この無機質さこそがボカロを濾過装置たらしめる最大の要因である。バックグラウンドがないということは、上記したような「~~のくせに」という対人間的な感情が喚起されないということであり、つまり、人間が歌っていたらなんかムカつくリリックも、ボカロが歌えば何とも思わずに済む可能性があるということである。

 

『鬼』はボカロのこういった可能性がこの上なく有効活用されたヒップホップナンバーだ。「上を見るよりもまず鏡/それより大事なのは中身/真似じゃねえんだよ Not WANNABE/Jille.’s Wonder RAP 既に新たなる SCENE」などという歌詞は人間が歌おうものなら暑っ苦しくてかなわないが、バックグラウンドを持たないGUMIならその暑苦しさが幾分軽減される。Jille本人もそのシステムを理解しているからこそ、やや踏み込んだ過激な表現を敢えて曲中に取り入れているのではないか。

 

また、『鬼』はGUMIの輪郭あるハキハキとした発音も相まって、ライムが本当に気持ち良い。「LもRもギターギター/そんなサウンド飽きた飽きたー」あたりは殊に「i」の発音が際立つGUMIだからこそ映えるフレーズだろう。Taskの『キドアイラク』でもそうだったが、ラップ楽曲におけるGUMIの可能性は計り知れないと思う。2019年はJille.Starzを旗振り役にGUMI×ラップがもっと流行ってほしい。マジで。ガチで。

 

⑦サイコ/松傘

『エイリアン・エイリアン・エイリアン』や『ミックホップのはらわた』などで知られるボカロヒップホップシーンの雄こと松傘のTrapナンバー。曲名の元ネタはもちろん鬼才アルフレッド・ヒッチコックの代表作『サイコ(1960)』。

サイコ [Blu-ray]

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作中ではシャワーを浴びていたヒロインが突然何者かの襲撃に遭遇し命を落とすが、リリックはその際の彼女の心情を代弁するものだろう。「誰か来て」「殺さないで」というあまりにもなフレーズが事の切迫さを物語っている。

 

しかしリリックの緊迫性に反してトラックはトロピカルかつピースフル。よもやこの中で一人の女性の命が奪われていようとは微塵も想像もできない。「どれほど悪辣な事件が起きようとそんなことは差し置いて世界は回り続ける」という世の中の無情がアイロニカルに、かつセンス良く叙述された珠玉の一曲だ。

 

⑧Behind The Moon/イナバの楽団

Future Bassっぽいシンセサイザーの使い方がそこはかとない宇宙感・未来感を想起させる2STEP。とりあえずカッコだけつけて「2STEP」とはカテゴライズしたもののそれの仔細な理由が説明できないのでまだまだ勉強不足だなという気持ち。AviciiやZeddの楽曲に代表されるようなド派手な展開からは一歩引いたチルさがありながらも聴く者を自身のグルーヴの中に飲み込んでいくダイナミズムを持っており、気付いたらブログを執筆しながら首を縦に振っている始末である。クラブで舞ったらすごい楽しいんじゃないだろうか。

 

彼や春野や有機酸もそうだが、ここ数年で、いわゆる、メジャーシーンからは少し外れた傍流的な音楽を作るクリエイターを受け入れる素地が出来上がり、それが実際にニコニコ動画という土俵において再生数という形で表れているという事実に、私は驚愕しながらも満悦している。

 

いち動画サイトというクローズドな空間にもかかわらずこうも多様な価値観が支持されるということは、クリエイターやユーザーが多少なり外部に自身の価値基準の参照点を持っているということであると私は考える。つまりそういった無数の参照点が集うニコニコ動画のボカロカテゴリーというのは、言うなればカルチャーが持つ重厚な歴史を一挙に学ぶことができる最高の教材なのではないかということだ。

 

ボーカロイドというミクロを覗くだけで、同時に音楽全般というマクロをも獲得できうるのである。実際に私はボーカロイドを足掛かりに様々の音楽に触れるようになったし、ボーカロイドによってあらゆる音楽に対する許容力を高めた。もしかすると今現在ボカロネイティブと揶揄交じりに呼ばれている層の方がバイアスなく色々な音楽に向き合えるポテンシャルを秘めているかもしれない。

 

ただし「ボカロのみに安住する」という一見尊大な意思表明に見える怠慢を続けている限り、これはどこまでいっても「可能性」でしかない。何かを語るリスナーであろうとするならば、参照点そのものに肉薄するくらいの最低限の努力はしたいものである。自戒も込めて。

 

⑨00/Puhyuneco

正直Puhyunecoについては去年散々語ったのでもうこれ以上何も言いたくないんですが、それでも今年もやってくれやがったので取り上げざるを得なくなってしまった。

 

nikoniko390831.hatenablog.com

 言うなればPuhyunecoはボーカロイドにおける存在的危うさそのものである。「ボーカロイドとは何か」という根源的な命題に対して、誰しもが口ごもり、遠回りし、終いには何も言い得ずに飲み込んできたという無力感の歴史の集積が彼なのだ。しかしこれはむしろ僥倖でさえある。なぜなら、この無力感がなければこの才能は生まれてこなかっただろうから。これほどまでに皮肉な逆説が他にあるだろうか。ただ無味恬淡と、しかしそれは「感情がない」と形容するよりかは「何かに覆われていて感情が見えない」とするほうがしっくりくるような危うい様子でリリックをなぞるPuhyunecoの初音ミクは、他のどんなに調教された初音ミクよりもアクチュアルだ。宗教における根本体験のように、私はこの時はじめて、初音ミクに出会ったのである。

 

”死んだ後で きみが好きなんて

伝えても遅い だから

わたしは透明な 翼になろうか

翼になろうか”

 

⑩日暮らし/キツヅエ

2018年の個人的最優秀賞である。ボカロフォークはまだまだカルティベイトされていないジャンルだと思うのでこの曲を機に流行ってほしい。マジで。

 

夏場、窓の桟に座り込んで夕間暮れを眺めていると感傷のひとつやふたつ思い浮かんでしまうのが人間というものである。それは本当に瑣末なことなのだけれど、じわじわと西の空を焼くオレンジと、そこにぽつんと響くひぐらしの独唱に絆されて気付けば涙が頬を伝っている…。

 

キツヅエが秀逸なのはその言語感覚である。はっぴいえんど吉田拓郎台風クラブがそうだったように、キツヅエは日常のことばのみで情景を巧みに表現している。そこには回りくどいレトリックも晦渋難解な語句も一切ない。日常のことばによる暖かな原風景のみがある。

 

"笑えない言葉が ちいさな日々の隙間で

ずっと消えないでいて わざと埃を払ったよ

誰もいない街角に もういいよ がこだまして

かくれ場所は知っているような気がして"

 

また、実写のMVもこの曲の叙情性をさらに高めるものとして格別の価値を発揮している。場所は京都?らしい。行ってみたいな。

 

そういえば去年は実写MVもアツかった気がする。平田義久、cat nap、アメリカ民謡研究会、青屋夏生、Guiano、*Lunaといった名だたるボカロPの実写MVをランキングで幾度となく見かけた。2007年末ごろからボカロの萌えキャラクターという属性が薄れ、アイドルポップ以外の楽曲が流行るようになったのと同様に、2018年は「ボーカロイド」という記号さえ消すことで、「ボーカロイド」というある種のスティグマが閉ざしていた扉を開けようという試みがなされていたように感じる。

 

 

 

さて、これでやっと私の2018年は晴れて幕を閉じることができるわけです。とはいえもう既に2019年の幕が上がってしまっているので私も急いでその壇上へと駆け上がることにしましょう。

 

それでは皆様、今年度もよきボカロライフを!

ブログ書いてないブログ/ゲロ吐きました

全然ブログ書いてない。


恐ろしいくらい書いてない。


「nikoniko390831さん、そろそろ○○(記事名)を書いてから一年が経ちます」という通知がたくさん来て怖くなっちゃった。去年はいっぱい書いてたんだなと思った。


年末は今年度のボカロ10選についての記事とか書くので暇な人は読んでください。


今日は本当に書くことがないので一昨日すごいいっぱいゲロを吐いたことについていやらしいくらい詳しく書きます。


22時ごろ。バイトとサークルの作業を終え空腹に耐えかねた私はラーメン二郎新宿小滝橋通り店に行って小ラーメンのニンニクアブラを食べた。久しぶりに食べたがやはりここはブタがホロホロしており胃や舌への殺意が少ない。口が臭いと思ったのでミンティアの一番辛いやつを食べて帰宅。


23時ごろ。ラインで通話しながら溜まった作業を片付ける。このくらいから胃に違和感を覚えはじめる。通話相手に「大丈夫?」と心配されたので元気いっぱい「ちんぽ」と答える。


0時ごろ。寮の友人と一緒に共同風呂に向かう。廊下に揚げ物の匂いが充満しており入寮以来一番強い殺意を覚える。胃の重さに足をよろつかせながらもなんとか湯船に浸かる。熱湯に使っている間だけは痛みが和らいだ。しかし湯船を出ると途端に体調が悪くなったため友人に「金は払うから吐き気止めを買って来てほしい」とだけ伝言を残し即座に自室に戻る。


1時ごろ。死を覚悟。走馬灯が回り小学生の時にトイレを破壊した記憶や川べりの意思を全部川に落とした思い出が去来する。記憶の濁流をアレゴリーするかのように胃の最奥から汚物のストリームがノックアップしてくるのを感じ、トイレに走る。しかし走り過ぎると途中で吐きそうだったため数回立ち止まりながらトイレに駆け込む。


便器に顔を突っ込むと案の定喉のあたりで待機していた胃の内容物が一挙に溢れ出した。すげえ、これがゲロか。俺の好きな漫画は大体可愛い女の子がゲロを吐くが、ゲロってこんなに苦しいんだなと申し訳ない気持ちになった。吐き終わったゲロを見るとそこには数時間前私が注文したラーメンがその形のままで広がっており、この瞬間、3階トイレ2号室はラーメン二郎新宿小滝橋通り店になった。食べ物はもっとよく噛んで食べよう。


1時半ごろ。お使いを頼んでいた友人が吐き気止めを買ってくる。もうおせーよとは言えないので「ありがとう」とだけ返事をし、一応服用した。粉薬は苦いからやだね。


2時ごろ。苦しみながらも就寝。


3時ごろ。突然目が覚める。と同時に猛烈な吐き気。これだから粉薬はッ!即トイレ、&ゲロ。1日に2回も吐くのはすごい珍しい。思わず吐いたゲロを1分間くらい凝視しました。


4時ごろ。寝る。


翌朝。頭が痛い。


昼。無為に耐えきれずデヴィッドリンチのDUNE砂の惑星を見る。つまらなすぎるし体もだるいので寝る。


夜。ゼリーとバナナを食べた後でバファリンを飲む。全部治る。


〜おわり〜


みんなもゲロや食べ過ぎには気をつけよう。

"ダサくない"ボカロ曲15選

お久しぶりです。因果です。

 

突然だが、ボカロはダサい。

 

ちょっと言い過ぎたかもしれない。ニュアンスとしては「ボカロはダサい曲が多い」の方が近いかもしれない。

 

「ダサい」という言葉があまりにもバズワードすぎるのでここで本ブログにおける「ダサい」の定義を簡単にまとめておこう。以下の3点である。

 

・高速BPM

・音が雑多すぎる

・歌詞が現実離れしすぎているor直接的すぎる

 

俗に「人気曲」と呼ばれているボカロ曲には以上の3点を見事に全て網羅しきっているものが多い。「ボカロって同じような曲ばっかじゃん?」といった内容の揶揄がよくぶつけられる理由もここにおるのではないかと私は考える。

 

しかしかといって私は決してそれらの曲が劣っているのだと言いたいわけではない。

 

今回私がこのような苛烈な言い方をしてまで伝えたいのは、上記の条件を満たす音楽を好まない人々、つまり一般的なボカロファンとは価値基準が異なる人々が、それらの曲だけを聴いて「ボカロってダメなんだなぁ」と思ってしまうことは少々早計なんじゃないか?ということである。

 

そこで今回は「ダサくない(と私が感じた)ボカロ曲」をいくつか紹介させていただこうと思う。また、その曲を選んだ理由も付記するので暇だったらそちらも併せて読んで頂けると幸いである。

 

あ、あと初音ミク11周年おめでとうございます。

 

①つまらない葬式/マスターvation

アナクロに響くギターが彩るポップ・レクイエム。いつも思うけどP名が酷すぎる。

 

リリックメイキングの過程において最も困難を極める要因の一つに、独白と俯瞰の使い分けが挙げられる。これが両極端に振り切れていると、歌詞の向こうに強烈な自我を感じる、あるいは逆に全く感じないため、実感覚から乖離した歪な印象を受け、「なんかキモいな・・・」と感じてしまう。

 

一概に言えることではないかもしれないが、俗に「人気」とされるボカロ曲には特にこの傾向が多い気がする。前者に傾倒したものがカンザキイオリの『命に嫌われている』やNeruの『再教育』などで、後者に傾倒したものが日向電工の『ブリキノダンス』やトーマの『バビロン』などだろう。まぁ挙げれば枚挙に暇がない。

 

その点においてこの曲は非常に秀逸であるといえる。「葬式」という題材は人間固有のイニシエーションであるがゆえにエモーションの発露として機能しやすく、上述した「強烈な自我を感じる」状態に陥りやすのだが、このPはそこに俯瞰的ーつまり建前的なー視点を織り交ぜることで、バランスの取れた歌詞世界を構築することに成功している。だからこそ時折顔を見せる「本音」がリアリティを帯びて響く。

 

②あいのうた/haruna808

夜の中央線、70億分の1の日常。

 

だいたい①と理由同じ。俯瞰と独白の間をゆったりと反復するような、さながら帰りの電車の微睡みのような、輪郭のない歌詞が特徴。

 

haruna808はリリックもさることながらサウンドも一級品。夜を紡ぎ出す電子ピアノの優しい旋律、感情の起伏に合わせ転変するリズム。キック音はさながら電車のジョイント音のよう。リリックが内面についての描写に徹している一方でサウンドは外面についての描写に徹しているのだ。

 

そしてこの役割分化が総体としての「曲」に立体性を付与する。この曲を聴いていると感じる柔らかな没入感はまさにこの立体性によって生まれている。

 

ここでは省略させていただくが、これが気に入ったら氏の『Haruna』もぜひ聴いてほしい。スゲー良いので。

 

③sleepy dance/temporu

全編9分の超大作。広義ではハウステクノにカテゴライズされそうだが、それよりかは先鋭性が強い。

 

全ての音が終盤のカタルシスに奉仕していながら、奉仕している音それ単体にも一切の抜かりがないのだ。

 

この曲は、「ABメロ→サビ→ABメロ→サビ→Cメロ→サビ」のようなよくあるシーケンスではなく、完全に「静→動」という二項において2分割されているため、前者のような手っ取り早く消費(=カタルシスを享受)できる音楽以上に、技巧的な外連味が求められる。

 

しかし『sleepy dance』はこの課題を難なく突破している。映画の場面が切り替わるように二転三転するアトモスフィアは聴く者の意識をグッと自身の中に引き込んでいき、4拍子のトランス的なうねりの渦中へとゆっくり沈潜させていく。多分「トリップする」というのはこういうのを指すんだろう。

 

そしてうねりと自我が完全に同化しきった臨界点に達したまさにその時、静が動へと逆転し、微睡みの中に憩っていた自我は突如その外へと突き放され、ここにおいてマゾヒスティックな快楽の達成、つまりカタルシスが生じる。それも極上の。

 

映画かよ・・・(2回目)

 

しかもこれらの精神作用は全てtemporuの思惑の範疇内なのだから恐ろしい。

 

④L'azur/Treow(逆衝動P)

Treowの作る音楽は冷たい。それは「冷酷」とか「冷徹」といったものではなく、温度的な、「cold」の意味において冷たい。それはまるで永久凍土の氷柱のように一切の不純物を含まない冷たさである。

 

こう感じる理由は、やはり彼の音楽における「初音ミク」の存在態にあるだろう。彼においてはボーカルとしての「初音ミク」が存在しない。そこにはべ―スやドラムといった諸楽器と並列して「歌詞」という名の音素を紡ぎ出す、果てしなく楽器としての初音ミクがあるばかりなのだ。

 

つまり彼の音楽は、リリックがありながらインストゥルメンタルであるという捻れた構造を持っているのである。

 

この捻れた構造を成立させるべく、リリックも一切「人間」を感じさせないようになっている。かといって日向電工のように無意味に難解な単語をただひたすらに羅列するような露骨なダサさもなく、あくまで「私秘性の強い現代詩」くらいの体裁は整っている。歌詞のダサさに対してセンシティブな感性をお持ちの方々も、彼の曲を聴いて嫌な鳥肌が立つことはないだろう。

 

『L'azur』もその例に漏れない。キラリ輝く氷晶のような冷たい音楽を是非心ゆくまで楽しんでほしい。

 

⑤違います/目赤くなる

初音ミクは今まで様々なものと声を交えてきた。同じVOCALOIDである鏡音リン・レン巡音ルカをはじめ、softalk(ゆっくり)や歌い手など、その組み合わせは枚挙に暇がない。

 

本曲においてその相手役を務めるのは、iPhoneの音声ガイドツール「Siri」。イノセンス論を中心に初音ミク存在論が活発に論じられていた2017年当時のシーンにおいてこういうカップリングが登場するのはある意味必然と言えるかもしれない。(イノセンス論については私の過去のブログを参照していただきたい。暇な方は是非…)

 

この曲においては初音ミクとSiriの「会話的非会話」が延々と繰り返される。

 

会話的非会話とは、言うなれば文脈を共有しているようで全くしていないモノローグ同士のぶつかり合いのことである。

 

曲の初めこそは初音ミクがSiriに語りかけ、Siriがそれに応答するという対話の構図が展開されるが、次第に互いの問答の焦点はズレていき、最後には「語りかけ」「応答」だと思っていたものが単なる独言の連続だったという何とも滑稽なオチがつく。

 

それはまるで横溢する初音ミク存在論者たちに対して「お前ら本当に初音ミクについて知ってんの?」と疑問を投げかけているかのように痛切に響く。

 

諧謔味溢れる表層と皮肉に満ちた深層の二面性を持つ非常に「厚い」一曲だ。

 

⑥Mictronica/Kiichi(なんとかP)

Kiichiはエレクトロニカ、ポストロック系統の楽曲を得意とし、黎明期から投稿活動を続けている古参P。

 

サウンドに関しては先述のTreowに類似している部分もあるが、Treowのような冷たさはなく、むしろエモーショナルであると形容できよう。リバーブがかった初音ミクの歌声、無限に反復されるフレーズ、白昼夢の中を彷徨うようにぼやけた主観的なリリック。彼の音楽は、今ここにありながら、どこか遠くで寂寞と響いている。

 

ここでは『Mictronica』を紹介したが、この他にも『置いてけぼりの時間』、『プラスチック・ガール』なども非常に秀逸である。

 

⑦キーウィ/ATOLS

ボカロシーンにおいてはきくお、回転楕円体、ばぶちゃんと並んで「電ドラ四天王」と称されるATOLS。ノイズやビープのようなギミックを飛び道具的に多用するのではなく、知識や経験に裏打ちされた技術に基づいて理路整然とそれらを用いることによって質の高い電子ドラッグを作曲している。

 

『キーウィ』という曲名の通り、キーウィの歌。いや、本当にそれ以上でもそれ以下でもない。そこに何らかの寓意があるのかないのかいまいち分からない絶妙な歌詞がクセになる。ちなみに氏の『MIKU DET EP』収録のLONG VERSIONは7分くらいある。しかし完全版とかではなくあくまでロングバージョンなのでニコニコに投稿された2分半の原曲もれっきとした完成品である、ということだけは言っておこう。

 

フォッサマグナ/baboo

よれよれとした楽器隊にこれまたリバーブがかった初音ミクのふにゃふにゃした声が乗っかった脱力系ロック(?)ナンバー。やる気はないがやけに耳に残るイントロのギターリフが印象的。

 

二転三転とリズムが変化するが、気だるげな雰囲気だけは徹頭徹尾変化しない。まるでぐわんぐわんと左右に触れながらも決して転倒はしない、やじろべえを見ているような、何とも不思議な気分になる。

 

また、口語的な文体でありながらどこか少し日常生活の域を出た変な言い回しが出てくるリリックが大変クセになる。こういった感じの曲が気に入った方は是非「VOCALOIDよれよれ曲リンク」で検索してほしい。腐るほど出てくるから。

 

⑨日暮らし/キツヅエ

アコースティックギターの優しげな音色が夕刻の暗がりにこだまするようなフォークナンバー

 

平たく言えば「失恋ソング」なのだが、言葉選びのセンスが群を抜いている。「野良猫は笑っている」「ちいさな日々のすき間で」といった詩的な表現と「君に会いたい」「君とココアが飲みたい」といった直情的な表現が混じり合い、心内環境の不安定さが巧みに描き出されている。

 

そして感情が臨界点に達したところでふと外で鳴くヒグラシに気が付き、どんなに大きな悩みや葛藤も外から見れば些末な出来事に過ぎないのだなぁという諦観に辿り着く、という何とも切ないオチが付く。

 

また、曲の時間的な経過に伴って音素が増えていく点も大変にエモーショナルでよい。リリックという観点だけなら今回のブログで紹介した中でもずば抜けて素晴らしいといえよう。

 

⑩この夏のすべて/平田義久

ボカロ音楽がなんとなく疎遠なものに感じる原因はいくつもあるが、その中でも「実感覚から著しく乖離している」というのはその中でも大きなウェイトを占めるだろう。そしてこの実感覚を規定するのが「固有名詞」である。たとえば「二次元ドリームフィーバー」だとか「ダンスロボットダンス」といったものは、どんなにインパクトはあっても、それらが我々の日常生活に登場することはないため、自身の頭の中でそれを適切に想起することができない。聴いている途中で「ん?」という急ブレーキがかかってしまうのである。この不快なタイムラグ、つんのめるような感覚が精神的な疎遠さを生み出しているのだ。

 

その一方で平田義久の音楽はいつも日常のすぐ近くにある。「祭りばやし」「路面電車」「風鈴」「金魚」・・・。どれも全て我々の手が届くところに存在する固有名詞だ。これらはすんなりと頭の中で処理できるため上記のようなタイムラグが発生しない。

 

さらに、彼は固有名詞が連なりすぎるとかえって実感覚が消滅してしまうということも考慮しており、適宜意図的な曖昧さ(「あの海」、「この夏」といった指示語を含んだ表現など)を演出することでちょうどよいバランスを保たせている。このバランス感覚はひとえに氏の知識と経験に裏打ちされた構造的なものであり、その一見質素に思える歌詞の向こうには、深遠なる音楽史の平野がどこまでも無辺に広がっている。

 

あえて『この夏のすべて』を選んだのは、そりゃもう時期的にピッタリだからである。海か?山か?プールか?いやまずは平田。

 

⑪玉葱/ピノキオP

今もシーンの牽引役として絶大な人気を誇るピノキオPのアイロニックな初期ロックナンバー

 

アイロニーというのは表現の過激さがそのままアイロニーとしての完成度に直結するものでは決してない。たとえ表明したい立場は一緒でも、その過程において言葉選びを間違えればそれは途端に陳腐化する。これはもはやアイロニーですらない、言うなれば「中学生の屁理屈」みたいなものだ。

 

このようにアイロニーとは高度なセンスが要求される至極難儀なレトリックなのだが、ピノキオPは基本的にこの「言葉選び」が上手い。ギリギリ失笑を買わないラインを知っているし、そこに最大限肉薄していけるような豊富な語彙も備わっている。

 

その完成形ともいえる一曲がまさにこの『玉葱』なのである。

 

「涙は全部が玉葱のせい」から始まる数多の偏見が巡り巡って自分に突き刺さるさまを、面白おかしく、しかしどこかもの悲しく描いた傑作。

 

⑫スーパーワールド/江戸川の水

新進気鋭のボカロP、江戸川の水による脱力系テクノ。

 

ボカロの技術面における進化はめざましいものであり、その発声は人間それと遜色のないレベルにまでエンハンスされつつある。それに付随して新たなライブラリも続々登場し、まさにボカロダイバーシティ時代が現前しているが、この曲において何度も試行される「全く同じリリックを全く同じ発音で繰り返す」技法はVOCALOIDの機械性を殊更に強めるもので、「ライブラリや発声パターンの多様化」というボカロの技術的進化の流れに完全に逆行している。

 

だが、こうすることによってダイバーシティの生み出した複雑な構造の木々をかき分けていくことは、その深奥に眠る「初音ミクとは何か?」という根底的なアイデンティティ問題に立ち返る契機になるのではないかと私は考える。

 

コンテンツというものは、極端な二者の間を一定のスパンで往復する場合が非常に多い。近年、初音ミクについての根本的な存在論が方々で唱えられているのは、ボカロというコンテンツが多様化という一つの臨界点を迎えたからこそなのかもしれない。

 

⑬celluloid/baker

初音ミクというキャラクターコンテンツとしての側面が強かったボーカロイド音楽を、他の諸音楽に劣らぬ一カテゴリにまで押し上げる嚆矢となった黎明期の名曲。上述のharuna808といい彼といい、2007年のボカロ界隈は実直なアングラ感があってよい。

 

セルロイドとは加工が容易な合成樹脂のことで、20世紀にはこの素材を応用した玩具としてセルロイド人形が大量に生産された。しかし、セルロイドは燃えやすい、耐久性が低いといった理由から次第に使われなくなり、歴史の闇の中に静かに消えていった。

 

この曲のリリックもそんなセルロイドのように、か細く切ない。しかしそれでも朝を待ち続ける詩中の彼のひた向きさにホロリとした気分にさせられる。

 

アイドル一辺倒だった初音ミクというコンテンツの新たなる一面を開拓した珠玉の名曲だ。

 

⑭(spilled 4 mitutes from)Liquid Metal/ハイネケンP

黎明期からコンスタントに投稿を続けている古参Pの一人。水の中を揺蕩うような浮遊感のあるエレクトロニカを得意とする。よくyahyelっぽいというコメントをよく見かける。

 

上述したATOLSほどの毒はないが、こちらもまさに聴くドラッグと形容して相違ない。リリックも真夜中に見る夢のようにフレーズごとの相関性がなく、サウンドの波に乗ってあっちへこっちへゆらゆらと漂流している。クラブとかでユラユラするのが好きな方は多分気に入ると思う。

 

今回はLiquid Metalを紹介したが、彼の真髄はアルバムを通して聴くことによって発揮される。少しでもピンと来たなら是非『Electric&Sleeping』と『Flowers』を聴いてほしい。

 

nikoniko390831.hatenablog.com

 

 

⑮walk around/chet_brocker

chet_brockerはとにかくベースラインが気持ちよい。「気持ちよい」とはいってもそれはスラップが早いというような、刹那的な音の快楽を満たしてくれるという点によるものでは決してない。あくまでドラムと電子オルガンの音響を最大限有効化してくれるような、言うなれば寿司におけるワサビのような役割を果たしている。こういうさりげなさ、イイですよね・・・

 

リリックはほぼ聞き取れないが、多分彼は初音ミクを音素のひとつくらいにしか捉えていないのだろう。サブのオルガン程度の存在感しか主張してこないのである。しかしこれはまさに合成音声ソフトの特徴を最大限活かした「ボカロならでは」のテクニックである。インストゥルメンタルとして聴くのが一番おすすめである。

 

 

 

 

 

とまぁたくさん紹介したがこれでもメチャクチャ絞りに絞ったのでそこそこ洗練されたリストが完成したという自負がある。是非多くの方に聴いていただきたい。

 

それではまたどこかで。

バイト バイト バイト

高2の頃にコンビニバイトで精魂尽き果てるまで使役された過去から長らくバイトを控えていた俺。しかし、金を口座から下ろすたびに残高表示を見ないように目を瞑る日々がそれはもう惨めでたまらなかったのでそろそろ働くかと思い立ち、バイトを探すことにした。

 

バイトの募集などそれこそ星の数ほどあるが、しかしだからこそその中から宝玉を探し出すのはまさに至難の技といえよう。一歩間違えればマネジメント能力ゼロのクソ店長と共感能力ゼロのクソ客の地獄万力に挟まれて健全な精神が粉々のミンチになってしまう

 

そこで俺は過去の経験を生かし「こんなバイトは可及的速やかにやめよう!」リストを作成した。是非これからバイトを始める人も参考にしてほしい。

 

・店舗が繁華街、レジャー施設、ライブ会場、高速道路(PA)に面している

・アクティブの従業員が10人未満

・深夜も営業している

・週3が最低条件

・店長がクソ

・店長が全く仕事をしない

・店長が高偏差値高校→Fラン大学という経歴を持っている

・店長が12時出勤の18時退社

・店長が事務室に引きこもって艦隊これくしょんをしている

・店長が大学の序列に詳しい

・店長が高校模試のシステムに詳しい

・店長がデブ

・店長がバカ

・店長がバイトリーダーの買ってきた椅子を数日中に破壊する

 

以上の事項に抵触しないことが健全なバイト生活を送るための最低条件である。しかし、ここでこういった質問が噴出するかもしれない。「時給についての言及がないやん!」と。

 

うんまぁ・・・確かに時給もバイトを選ぶ上での重要な判断基準の一つかもしれない。しかしここだけを頼りにバイトを始めると思わぬ誤算に足を取られる可能性がある。

 

俺がなぜコンビニなんかで働いていたかというのも、ひとえにその時給の高さにあった。なんと850円/hという超高時給(長野県における850円は東京における1200~1300円に匹敵する)。私は850円という甘い響きにまんまとおびき寄せられ、見事地獄の一年間を過ごすこととなった。

 

コンビニというのはとにかく仕事が多い。レジ打ちだけではとてもではないが店を回せない。商品の陳列、フライヤーの調理、店内の清掃、つまみ食い、収支の確認、宅急便の引渡、クレーム処理、つまみ食い、ゴミ捨て、(ウチは無かったが)トイレ掃除、店外での呼び込み、つまみ食い、電話対応など、挙げれば枚挙に暇がない。

 

よく「コンビニバイトは慣れてくるとだんだん『シャッセ~』とか『ッエ~~~』とか言うようになる」みたいなネタコピペを見かけるが、あれは決して笑い事ではない。

 

あれは債務の蓄積や極悪非道な底辺客の襲来によって楽しかった日々の思い出や人との温かい関わりを忘れてしまった、いわばコンビニバイトたちの悲痛な叫び声なのである

 

もしこの声が聞こえたら、そっと何も買わずに店を出るか、買うとしてもいちいちレジ打ちについて文句を言わないであげよう。あとポイントカードは会計前に出さないと殺すからな。「あ~やっぱありました~」じゃねぇんだよ、陰毛毟るぞ。そこのお前も「トイレだけ使うのは申し訳ないから」とか言ってガム買ってくのやめろ。トイレだけ使ってさっさと出てけ。

 

このように、時給だけでバイトを選ぶとロクなことにならない。確かに中には高時給高優遇の超優良バイトもあるだろうが、それも全体からすればごく一部である。そもそも蓋を開けるまで職場の内実なんか分かんねーよバーカ

 

バイトを探すこと約半日。やっぱり俺には無職が一番かなと考えていたところに思わぬニュースが入ってきた。

 

私は寮に住んでいるのだが、なんとウチの寮生だけで回しているという中華屋が高円寺内にあるというのだ。しかも業務は配膳・洗い物・レジのみ。そのうえ17時~22時までというちょうどよいシフト。時給も約1000円で申し分ない。マジで天が味方したとしか思えない。

 

早速俺は研修に入ってみた。そこで俺は衝撃の光景を目の当たりにする・・・・・・!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

・・・・・・・客が来ない

 

 

 

客が来ないのだ。

 

 

 

いくら待てど客が来ない

 

 

 

携帯をいじってても友達と喋ってても、

 

 

 

全く客が来ない

 

 

 

え?ここマジで高円寺?とビビるくらい客が来ない

 

 

 

しかし俺は客という存在がこの世で一番面倒臭くて嫌いなのでこれ以上嬉しいことはない。

 

この店が一体月にいくら儲けているのか、店長が果たして本当に健康で文化的な最低限度の生活を営めているのか、色々気にかかることはあるが、それはそうとしてマジで快適な職場である。

 

この前は、あまりにも暇だったので店長と談話していたら、店長がおもむろにビンのようなものを取り出し、グビグビと飲み始めた

 

そのビンに刻まれていた文字はーーーーー

 

 

 

 

 

 

 

 

ーーーーージャイアン・・・・・・

 

 

 

 

 

そう・・・

 

 

 

 

 

・・・焼酎である・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ーーーーー俺はここで働くことを決めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

灯台下暗しということわざが示すように、素晴らしいバイトというのもまた案外自分の近くに転がっているものなのかもしれない。

 

よし働くぞ、俺はここで一生懸命働くぞ。

 

6月は2回もシフトに入ります。

 

俺はすごいんだ。

 

みんなもいいバイトを見つけていい人生を送ろう!おわり!